PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
十二支同盟のアジトから通じる地下通路を抜けると、学園都市の南側にある旧公共図書館に出た。
ヴァンケンは百年の眠りから目覚めて以降、此の図書館を頻繁に利用していた。アジトの資料室にも古い記録は揃っている。だが、同盟が保管していない分野――特に神話や伝承の民間資料は、此処の方が充実していた。百年の間に積み重なった書物の量は、彼にとって驚きに値した。過去の文学とは異なるジャンルが次々と生まれ、読者が変われば語り口も変わる。其の多様さは、彼にとって新鮮な発見の連続だった。
だが今日、彼が図書館を訪れた理由は文学ではない。
二階の閉架席に案内板がある。神話・伝承コーナー。其処へ向かう階段を上りながら、ヴァンケンの脳裏には昨夜の光景が焼き付いていた。
海沿いの道で異界に巻き込まれた人々。其の中で一人の女性が、家族を守るために力を呼び寄せた。銀色の殻に桜色の紋様。鷲の意匠を持つ卵。そして其の背後に現れた巨大な鳥。
ガルーダ。
其の名を、彼女は知らないと言った。ただ守らなきゃと思ったら名前が浮かんだ、と。其の言葉を聞いた時、ヴァンケンの胸の奥に小さな波紋が広がった。
(悪魔を呼ぶのとは違う)
十二支同盟の構成員として、彼は悪魔の力を行使してきた。ライドエグズを通じて悪魔と契約し、其の力を仮面として纏う。其れが同盟の戦い方だ。だが昨夜、あの女性が呼び出したものは、其の経路とは明らかに異なっていた。
閉架室は静かだった。窓から差し込む午後の日差しが、古い書架の背表紙を白く照らしている。潮風が換気口から微かに漏れ込み、紙の匂いに海の塩気が混じる。ヴァンケンは書架のラベルを確認しながら歩いた。インド神話。東南アジア伝承。鳥類の神話的象徴。指先が背表紙を滑り、一冊の古い洋書の前で止まった。
『Garuda in Asian Mythology』
表紙の端が擦れ、頁が少し茶色く変色している。だが文字は読める。ヴァンケンは其の本を書架から抜き出し、窓際の読書台へ置いた。頁をめくる。ヒンドゥー教におけるガルーダ。ヴィシュヌ神の乗り物とされる神鳥。蛇を食む者。翼は空を覆い、風は其の羽ばたきから生まれる。
頁を繰る手が止まった。一枚の挿絵。翼を広げた鷲の姿。金色の目。羽根は鋼のように重なり、其の輪郭は昨夜見た神鳥と酷似していた。
「ふむ」
ヴァンケンは其の挿絵を見つめた。指先で鷲の輪郭をなぞる。似ている。だが同じではない。此の本に描かれたガルーダは、伝承の中の存在だ。昨夜あの女性が呼び出したものは、伝承を模した何かではなく、彼女自身の心から発現した何かだった。
(同じ名前を持つが、同じ存在とは限らない)
頁をめくる手が、又一頁で止まった。ガルーダに関する記述の中に、一つの段落が目に留まった。
『ガルーダは、単なる神鳥ではない。彼は母を救うために力を得た存在である。其の力の源は、契約ではなく、意志にある』
意志。
其の言葉が、ヴァンケンの思考の一角を照らした。悪魔との契約は交換だ。力を与える代わりに、何かを差し出す。だがあの女性は何も差し出していない。ただ守りたいと考えた。其れだけだ。其の意志が力を呼び、力が形を成した。
(契約ではなく、意志。其れは悪魔の力とは根本から異なるのではないか)
其の時だった。
背後から、衣擦れる音がした。
「ケン様、何か捜し物ですか?」
柔らかい声。少し眠たげな、だが確かな親愛の色を含んだ声。ヴァンケンが振り返ると、其処にムトンが立っていた。
結んだ黒髪に、大正時代の令嬢を思わせる装い。淡い色の和服に、其の上から少し洋風の裁断が入った外套を羽織っている。所謂ハイカラコーデと呼ばれるものだ。百年前の日本で、西洋の要素を取り入れた女性の服装。其れを現代の図書館で着こなす姿は、異彩を放ちながらも妙に似合っていた。
ムトンの目が、読書台の上の本へ向けられた。其の瞳が、鷲の挿絵を捉えて少し細くなる。
「鳥の……本、ですか?」
「ああ。少し気になることがあってね」
ヴァンケンは本の頁を指で押さえながら答えた。ムトンは隣の椅子へ腰を下ろす。其の動作はゆっくりで、まるで睡りから覚めたばかりのような緩やかさだ。だが其の目は覚めている。ケン様が気になることを調べている、其の事実に反応しているのだ。
「ケン様が気になること……向こう側で、何かあったのですか?」
向こう側。異界のことだ。ムトンも同盟の構成員として、此の島で起きている異変を把握している。だが彼女は前線に出るタイプではない。情報の整理と、必要な時に同行する支援。其れがムトンの役割だ。
「向こう側で新たに力を覚醒するのを見た」
ヴァンケンは短く言った。ムトンの目が少し大きくなる。覚醒。新しい力の誕生。其れは同盟にとっても重要な情報だ。
「新しい……ライダー、ですか?」
「いや。ライダーかどうかは、まだ分からない。だが力を呼んだ。其れは確かだ」
「其れは、悪魔の力なのですか?」
ムトンの問いは素直だった。同盟の構成員が力を得る経路は、基本的に悪魔との契約だ。新たな覚醒と言えば、其れを想定するのが自然だ。
ヴァンケンは首を横に振った。其の動作はゆっくりで、否定と言うよりは、まだ判断がつかないという意味合いが強かった。
「分からない。だが、私が見た限りでは、悪魔を呼び出す時とは違っていた」
「違う、と?」
ムトンが首を傾げた。結んだ黒髪が肩の上で揺れる。
「我々が力を得る時、悪魔と契約する。其れは交換だ。力を授かる代わりに、何かを差し出す。だがあの女性は何も差し出していない。ただ守りたいと考えた。其の意志だけで、力が形を成した」
「意志だけで……」
ムトンが其の言葉を噛み締めた。其の目が、読書台の上の挿絵へ向けられる。鷲の翼。金色の目。
「其れは、ガルーダという名の悪魔ではないのですか?」
「名前は同じだ。だが、其れが同一の存在かは分からない」
ヴァンケンは頁をめくった。もう一つの段落。ガルーダの力の源に関する記述。
「此の本に書いてある。ガルーダは母を救うために力を得た存在だと。其の力の源は、契約ではなく意志にある。我々が悪魔と交わす契約とは、根本から構造が違う」
ムトンは黙って聞いていた。其の表情から眠たげな色が消え、真剣な瞳がヴァンケンの言葉を受け止めている。
「ケン様は、あの女性が呼んだものが……悪魔ではないと?」
「断定はできない。だが、可能性として考えている。我々はこれまで、ライドエグズと悪魔の力を同一のものと捉えてきた。不可思議やマカシキも、悪魔の力の変容形態だと。だが昨夜のあれは、其の枠に収まらないかもしれない」
「枠に収まらない……」
ムトンが其の言葉を繰り返した。其の声には、理解しようとする姿勢と同時に、不安の色が混じっていた。これまで信じてきた前提が揺らぐ可能性。其れは同盟の構成員にとって、簡単に受け入れられるものではない。
ヴァンケンは本を閉じた。表紙に残る擦れ痕を指でなぞりながら、窓の外を見た。図書館の窓から海が見える。青い。眩いほど青い。だが其の青さの裏に、異界の気配が潛んでいることを、彼は知っている。
「我々はこれまで、力を持つ者を悪魔と結びつけて考えてきた。だがもし、人の心の中に悪魔とは別の力が存在するなら。其れは我々の理解を超えることになる」
「人の心の中に……別の力」
ムトンが呟いた。其の声が少し震えた。ヴァンケンは其れに気づいた。気づいて、静かに本を置いた。
「恐れるな、ムトン。まだ仮説だ。確証はない」
「はい……ですがケン様、もし其れが本当なら、同盟の戦い方も変わるのですか?」
「かもしれない。だが今はまだ、其処までは考えない」
ヴァンケンは立ち上がった。椅子が床を擦る音が、静かな閉架室に響いた。本を読書台に置いたまま、書架へ向き直る。
「それで、ケン様はこれからどうするのです?」
ムトンが訊いた。其の声には、心配と信頼が同時に込められていた。ヴァンケンの考えを尊重しながらも、其の行動が無謀にならないかを見守る声だ。
「まだ、調べるしかないだろう」
ヴァンケンは短く答えた。其の声は静かだったが、其の中には明確な意志があった。答えが出ないなら探す。其れが彼のやり方だ。百年の眠りから目覚めた自分にできることは、記録を読み、現場を見て、考えること。其れを続けるしかない。
「ケン様」
ムトンが呼んだ。ヴァンケンが振り返ると、ムトンが少し躊躇うような顔をして、小さく口を開いた。
「あの……妾も、お手伝いします。ケン様が調べるなら、妾も本を探します」
「……すまない、ムトン」
「すまなくなんてないのです。妾はケン様と一緒にいる時に、一番役に立つのですから」
ムトンは少し微笑んだ。其の微笑みには、眠たげな柔らかさと、ヴァンケンへの想いが混じっていた。ヴァンケンは其の微笑みを見て、少しだけ目を細めた。
「では、頼む。インド神話の資料をもう少し探してくれ。ガルーダに関する記述で、契約ではなく意志に関わるものを探したい」
「承知しました」
ムトンが立ち上がり、書架の方へ歩き出した。結んだ黒髪が背中で揺れる。其の足取りは、先ほどまでの眠たげな動きとは違い、しっかりとしていた。
ヴァンケンは窓の外を見た。海が青く光っている。遠くで船の汽笛が鳴った。低く長い音。日常の音だ。だが其の音の裏に、人の心から生まれる力が潛んでいるかもしれない。悪魔とは別の、もう一つの力が。
(ガルーダ。あの女性が呼んだ存在。其れは何なのか)
答えはまだ出ない。だが探す意思がある限り、答えに近づくことはできる。
ヴァンケンは読書台の本を手に取り、頁をもう一度開いた。鷲の挿絵が、午後の日差しの中で静かに光っていた。