PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
黒い帯が伸びる。銀二さんの船に向かって、そしてまだ海中にいる漁師たちに向かって。
目が捉えた。水面を割るように走る影の軌跡。左から右へ、湾をまたぐように伸びる五本の帯。速い。
(間に合え)
俺は足場の岸壁を蹴った。マウスフレームの脚力が水面すれすれを滑るように躯体を押し出す。鼠の瞬発力。重力を無視するような跳躍が、俺の体を黒い帯の軌道上へと割り込ませた。
一本目が来る。
右腕を振り抜く。マイスエッジのスライサーモードで、伸びてくる帯の根元を断つ——つもりだった。だが刃が触れる前に、帯が俺の前腕に巻き付いた。
(痛っ)
締め付ける力が、骨を締め上げるように強い。だが構わない。俺の腕が帯を引き受けた分、銀二さんの船への追撃は一本減った。
二本目。
正面から。今度は避ける。体をひねって、帯が甲冑の表面を滑り抜ける感覚。ざらりとした摩擦が肘から肩へと走った。
三本目——。
下から。海面を這うように。
俺はマイステールを振って体勢を制御した。背中の姿勢制御装置が空中でバランスを取り直す。間一髪、帯が足首の装甲をかすめた。
(抜けた——)
だが四本目が来る。
右手を突き出し、マイスエッジの平らな側面で帯を受け止めた。刃で切るのではない。防ぐ。銀色の刃が盾代わりに黒い帯の進行を塞ぐ。
ズン。
衝撃が来た。
腕を通して、肩へ。肩から背中へ。マウスフレームの装甲が振動を伝える。手首のジョイントがきしむ音がする。足元の岸壁が濡れていて、制動が効かない。右足が滑った。左足で踏ん張るが、滑る。波飛沫で濡れた石の上に靴底が勝てない。
(全部受けきれない)
五本目。最後の一本が、俺の脇をすり抜けて海中の漁師へ伸びる。
「くそっ!」
間に合わなかった。一本だけ、俺の防線を抜けた。だが——銀二さんが届いた。船の上から棒で叩き返す。帯が一瞬退く。退いた隙に、銀二さんの手が漁師の襟首を掴んだ。
(助かった)
けれど安心する暇はない。引き潮のシャドウが尾を振ったのだ。
尾が水面を叩く。波が立ち上がる。ただの波じゃない。尾の薙ぎ払いが生んだ横波が、岸壁の縁を削った。
足場が揺れた。
俺は一歩下がった。岸壁の縁が崩れる。コンクリートの欠片が海へ落ちる音。足場が狭くなった。後ろはもう壁だ。
(前に出なきゃ)
分かっている。頭では分かっている。前に出て、距離を詰めて、本体を叩く。それしかない。影を切っても再生する。援護射撃も弾切れが近い。なら本体を——。
マイスエッジを構え直そうとした。
その瞬間だ。
背中に、焼けた。
(——あの時も)
音が蘇る。バーンゴクエンの爆音。紅い炎が視界を埋め尽くした時の、あの熱。全身を焼くような衝撃。倒れる時、地面に背中を打ちつけた痛み。肋骨が砕ける音。自分の声にならない声。
(いや、今は——)
今は炎じゃない。海だ。潮の匂い。波の音。現実だ。
分かっている。分かっているのに。
肘が曲がらない。
膝が動かない。
頭の中では命令が出ている。構えろ。踏み込め。距離を取れ。あらゆる指示が身体に届かない。まるで配線が途切れたように、意志と筋肉の間が遮断されている。
(動け。動けよ)
引き潮のシャドウが、長い尾をゆらりと揺らした。緩慢な動き。だがその緩慢さが逆に恐ろしい。あの敵は焦っていない。こっちが動けないのを知っているのかのように。
呼吸が整わない。
吸おうとしても、肋骨のあたりが強張って、空気が浅い。吸ったら吐けない。吐いたら吸えない。心臓がキリキリと音を立てている。
目が離せない。
敵から目を離せない。離したら来る。離した瞬間に、またあの炎が——。
(違う。炎じゃない。海だ)
頭の中で否定する。何度も否定する。けれど身体が信じない。身体が覚えている。あの時の熱さを。あの時の痛みを。あの時の無力さを。
俺は後ずさった。
一歩。二歩。岸壁の残った足場へ。壁を背にする。
マイスエッジを、握り直した。
両手で。
震えていた。
両手が、柄を握っているのに震えていた。ガタガタと、歯が鳴るような震えじゃない。もっと細かい。不断の、指先から手のひらへ伝うような震え。
(……俺は、怖いんだ)
それを自覚した瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
「おい、兄ちゃん!」
声が来た。銀二さんだ。
振り向くと、彼は船の甲板に膝をついていた。片手は海中の漁師の襟を掴んだまま、もう片手でロープを柱に巻き付けている。その手は止まっていない。濡れたロープがきしむ音がする。銀二さんの顔は汗で光っていたが、目はこっちを見ていた。
(見た。俺の手の、震えを)
見られた。いや、見抜かれた。さっきまであんなに動けていたのに急によろめいて、敵の攻撃を止めきれなかった。不調を隠せていない。銀二さんには分かっているはずだ。あの目は、海の状態を読む目と同じだった。潮が変わったのを察する目。今は俺の中で何かが変わったのを察している。
「すみません、俺――」
言いかけて、言葉が途切れた。何と言い訳すればいい。怖いです、と言うのか。足が出ません、と。今の状況で、言えるわけがない。海中にまだ人がいる。銀二さんは今もその片手で人を支えている。
「よせ」
銀二さんが短く言った。声は大きくない。だが波の音に負けなかった。
「何があったかは聞かん。こっちは俺がやる」
そう言いながら、銀二さんはロープをもう一巻きした。船が波で揺れる。漁師の体が少し持ち上がった。助かった。あと一人。
「あいつを近づけないでくれ。俺らが揚げるまで」
あいつ。引き潮のシャドウ。銀二さんにはそれが見えているのか。それとも、見えない何かが船を叩いているという事実から判断しているのか。分からない。だが銀二さんの指示は具体的だった。こっちは俺がやる。あいつを近づけないでくれ。役割が、分かれている。
(俺がやるのは、あいつを近づけないこと)
目線を動かした。
銀二さんの船。左。岸壁の縁に横付け。海中の漁師がもう一人、船の反対側にいる。ロープが伸びている。銀二さんの手が動いている。
引き潮のシャドウ。右前方。海面の窪みの中心。尾がゆらりと揺れている。さっきの薙ぎ払いで波が立った余韻がまだ水面に残っている。あの尾が振られると、足場が崩れる。あの帯が伸びると、人が引かれる。
(あいつが船に近づかなければ、銀二さんは揚げられる)
(あいつが俺の方を見ていれば、救助は止まらない)
柄を握り直す。指先の震えは止まらない。だが、握る場所は変えられた。両手ではなく利き手一本に持ち替えた。スライサーモードのまま。刃が青い光を走らせる。
銀二さんの船と、シャドウの間に、俺がいる。
「……分かった」
短く言った。声がまだ掠れている。だが、相手に届く距離ではあった。
「あいつは俺が見てる」
銀二さんが頷いた。手は止まらない。ロープが引かれる。漁師の肩が水面から上がった。
俺は前を向いた。
マイスエッジを構える。切っ先が引き潮のシャドウの方を向いている。敵の尾が動いたら踏み込む。帯が伸びたら斬る。あの炎がよぎっても、今はあいつの尾と帯だけを見る。
震えは、まだある。利き手の、柄の上で指がふにふに動いている。
(見てる。あいつだけを)
恐怖は消えない。だが、今見るべきものは、分かった。
* * *
**1章 引き潮に潛む牙**
* * *
港が騒がしいと聞いたのは、放課後の部室だった。
「結人くん、港で何かあったみたい。漁師の人が叫んでるって」
優菜がスマートフォンを片手に眉を寄せていた。地元の掲示板の書き込みが流れているらしい。『見えない力に足を取られた』という文字が見えた。
「見えない力に足を取られた……」
達臣が隣で呟いた。その声がいつもより硬い。一瞬だけ、十二支同盟のスパイとしての顔が覗いたような気がした。だが今は気のせいだと済ませる。達臣は友人だ。それ以上でも以下でもない。そう思っている。
「行ってみよう」
俺は立ち上がった。
* * *
港に着いた時、状況は最悪だった。
岸壁の下、数人の漁師が必死に何かを引き上げようとしていた。ロープが張られ、救命具が投げ込まれている。だが海面は不気味に静かだ。波がない。潮が引いたように、海面だけが不自然に窪んでいる。
「あの兄ちゃんだ!」
銀二さんの声だ。昨日の漁師だ。船の上から手を振っている。その隣でもう一人の漁師がロープを海に投げ入れていた。
「引くぞ! しっかり持ってろ!」
ロープの先、海面のすぐ下に人影があった。二人、いや三人。黒い帯のようなものが彼らの足に巻き付いているのが見えた。
(あれは……)
背筋に冷たいものが走った。あの黒い帯。感覚として知っている。
「結人くん!」
優菜の声で我に返る。
ライドエグズがポケットの中で熱を帯びていた。
「変身する。皆は下がっててくれ」
「でも——」
「大丈夫だ」
ライドエグズをマイスドライバーに装填した。カチリと音がして、力が回路を繋ぐ。
「変身!」
銀色の光が体を包む。マウスフレームの装甲が展開し、鼠の意匠を持つ仮面が顔を覆う。澄んだ青色の複眼に港の風景が映り込んだ。
仮面ライダーマイス。鼠の力が身体に馴染む。重心が低く、足取りが速い。
だが前回のマオウ戦の感覚がまだ残っている。あの炎の熱さが——。
「助けるぞ!」
岸壁を蹴って跳んだ。マイスエッジをスライサーモードで展開し、黒い帯に切りかかる。
ズン!
刃が黒い帯に触れた瞬間、衝撃が返ってきた。切れた。いや、切れたように見えた。だが黒い帯は切断面から再び伸びる。まるで最初から切れていなかったように。
(再生するのか)
厄介な敵だ。なら本体を——。
その時、海面が割れた。
ドォン!
巨大な影が飛び出した。怪魚のような頭部に広い鰭、長い尾。全身が濡れた鱗に覆われ、口から黒い帯を無数に吐き出している。牙不可思議。引き潮のシャドウだ。
「来た……!」
銀二さんが叫ぶ。漁師たちが慌てて船に戻ろうとする。だが黒い帯が船体にも巻き付き始めた。
敵の正面に回り込む。マイスエッジをシューターモードに切り替え、牽制射撃を放つ。
ババッ!
青い光弾が敵の鰭に当たる。致命傷ではない。敵は尾を振って海水を薙ぎ払った。波が壁となって襲う。
「ぐっ!」
海水の衝撃で体が流される。だがマウスフレームはバランスを取り直す。鼠の平衡感覚だ。足場の崩れた岸壁を蹴り、再び空中に跳ぶ。
(救助を優先しなきゃ)
ロープに巻かれた漁師の方へ向きを変えた。黒い帯がその足首に食い込んでいる。海中へ引き込もうとする力が強い。
「離せ!」
マイスエッジで帯を断つ。刃を押し当て、焼くように。青い光が黒い帯の再生を妨げるかもしれない。
(頼む、効いてくれ)
帯が緩んだ。漁師を引き上げる。銀二さんの船が横付けになり、引き上げた漁師を甲板に渡した。
「一人助かった!」
「まだいる!」
海中にまだ二人。黒い帯が水面下で蠢いている。
再び海面に向かって跳もうとした。その時だ。
引き潮のシャドウが尾を振り上げた。
(来る!)
避けなきゃ。分かっている。頭では分かっている。けれど——
あの炎が、また見えた。
マオウの炎。全身を包む紅い熱。倒れる前の記憶。力及ばなかった感覚。圧倒的な暴力の前に為す術もなかった——あの恐怖が、フラッシュバックのように全身を貫いた。
(動けない)
ビクビクと体が震えた。マウスフレームの装甲がガタガタと音を立てる。足が動かない。金縛りにあったように、身体が命令を拒否している。
その一瞬の隙を敵は見逃さなかった。
引き潮のシャドウが新たな黒い帯を伸ばす。狙ったのは俺じゃない。救助中の銀二さんの船、そしてまだ海中にいる漁師たちだ。
「しまっ——!」
声は出た。だが体が動かない。
* * *
黒い帯が伸びる。銀二さんの船に向かって、そしてまだ海中にいる漁師たちに向かって。
目が捉えた。水面を割るように走る影の軌跡。左から右へ、湾をまたぐように伸びる五本の帯。速い。
(間に合え)
岸壁を蹴った。マウスフレームの脚力が水面すれすれを滑るように躯体を押し出す。鼠の瞬発力。重力を無視するような跳躍が、俺の体を黒い帯の軌道上へ割り込ませた。
一本目が来る。
右腕を振り抜く。マイスエッジのスライサーモードで、伸びてくる帯の根元を断つつもりだった。だが刃が触れる前に、帯が俺の前腕に巻き付いた。
(痛っ)
締め付ける力が骨を締め上げるように強い。だが構わない。俺の腕が帯を引き受けた分、銀二さんの船への追撃は一本減った。
二本目。
正面から。今度は避ける。体をひねって帯が甲冑の表面を滑り抜ける感覚。ざらりとした摩擦が肘から肩へと走った。
三本目。
下から。海面を這うように。
マイステールを振って体勢を制御した。背中の姿勢制御装置が空中でバランスを取り直す。間一髪、帯が足首の装甲をかすめた。
(抜けた)
だが四本目が来る。
右手を突き出し、マイスエッジの平らな側面で帯を受け止めた。刃で切るのではない。防ぐ。銀色の刃が盾代わりに黒い帯の進行を塞ぐ。
ズン。
衝撃が来た。
腕を通して、肩へ。肩から背中へ。マウスフレームの装甲が振動を伝える。手首のジョイントがきしむ音がする。足元の岸壁が濡れていて、制動が効かない。右足が滑った。左足で踏ん張るが、滑る。波飛沫で濡れた石の上に靴底が勝てない。
(全部受けきれない)
五本目。最後の一本が俺の脇をすり抜けて海中の漁師へ伸びる。
「くそっ!」
間に合わなかった。一本だけ、俺の防線を抜けた。だが——銀二さんが届いた。船の上から棒で叩き返す。帯が一瞬退く。退いた隙に、銀二さんの手が漁師の襟首を掴んだ。
(助かった)
けれど安心する暇はない。引き潮のシャドウが尾を振ったのだ。
尾が水面を叩く。波が立ち上がる。尾の薙ぎ払いが生んだ横波が、岸壁の縁を削った。
足場が揺れた。
一歩下がった。岸壁の縁が崩れる。コンクリートの欠片が海へ落ちる音。足場が狭くなった。後ろはもう壁だ。
(前に出なきゃ)
分かっている。頭では分かっている。前に出て、距離を詰めて、本体を叩く。それしかない。影を切っても再生する。援護射撃も弾切れが近い。なら本体を——。
マイスエッジを構え直そうとした。
その瞬間だ。
背中に、焼けた。
(——あの時も)
音が蘇る。バーンゴクエンの爆音。紅い炎が視界を埋め尽くした時の、あの熱。全身を焼くような衝撃。倒れる時、地面に背中を打ちつけた痛み。肋骨が砕ける音。自分の声にならない声。
(いや今は——)
今は炎じゃない。海だ。潮の匂い。波の音。現実だ。
分かっている。分かっているのに。
肘が曲がらない。
膝が動かない。
頭の中では命令が出ている。構えろ。踏み込め。距離を取れ。あらゆる指示が身体に届かない。まるで配線が途切れたように、意志と筋肉の間が遮断されている。
(動け。動けよ)
引き潮のシャドウが、長い尾をゆらりと揺らした。緩慢な動き。だがその緩慢さが逆に恐ろしい。あの敵は焦っていない。こっちが動けないのを知っているのかのように。
呼吸が整わない。
吸おうとしても、肋骨のあたりが強張って、空気が浅い。吸いたら吐けない。吐いたら吸えない。心臓がキリキリと音を立てている。
目が離せない。
敵から目を離せない。離したら来る。離した瞬間に、またあの炎が——。
(違う。炎じゃない。海だ)
頭の中で否定する。何度も否定する。けれど身体が信じない。身体が覚えている。あの時の熱さを。あの時の痛みを。あの時の無力さを。
後ずさった。
一歩。二歩。岸壁の残った足場へ。壁を背にする。
マイスエッジを握り直した。
両手で。
震えていた。
両手が、柄を握っているのに震えていた。ガタガタと歯が鳴るような震えじゃない。もっと細かい。不断の、指先から手のひらへ伝うような震え。
(俺は、怖いんだ)
それを自覚した瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
「おい、兄ちゃん!」
声が来た。銀二さんだ。
振り向くと、彼は船の甲板に膝をついていた。片手は海中の漁師の襟を掴んだまま、もう片手でロープを柱に巻き付けている。その手は止まっていない。濡れたロープがきしむ音がする。銀二さんの顔は汗で光っていたが、目はこっちを見ていた。
(見た。俺の手の、震えを)
見抜かれた。さっきまであんなに動けていたのに急によろめいて、敵の攻撃を止めきれなかった。不調を隠せていない。銀二さんには分かっているはずだ。あの目は、海の状態を読む目と同じだった。潮が変わったのを察する目。今は俺の中で何かが変わったのを察している。
「すみません、俺——」
言いかけて、言葉が途切れた。何と言い訳すればいい。「怖いです」と言うのか。「足が出ません」と。今の状況で、言えるわけがない。海中にまだ人がいる。銀二さんは今もその片手で人を支えている。
「よせ」
銀二さんが短く言った。声は大きくない。だが波の音に負けなかった。
「何があったかは聞かん。こっちは俺がやる」
そう言いながら、銀二さんはロープをもう一巻きした。船が波で揺れる。漁師の体が少し持ち上がった。あと一人。
「あいつを近づけないでくれ。俺らが揚げるまで」
あいつ。引き潮のシャドウ。銀二さんにはそれが見えているのか。それとも、見えない何かが船を叩いているという事実から判断しているのか。分からない。だが銀二さんの指示は具体的だった。こっちは俺がやる。あいつを近づけないでくれ。役割が、分かれている。
(俺がやるのは、あいつを近づけないこと)
目線を動かした。
銀二さんの船。左。岸壁の縁に横付け。海中の漁師がもう一人、船の反対側にいる。ロープが伸びている。銀二さんの手が動いている。
引き潮のシャドウ。右前方。海面の窪みの中心。尾がゆらりと揺れている。さっきの薙ぎ払いで波が立った余韻がまだ水面に残っている。あの尾が振られると、足場が崩れる。あの帯が伸びると、人が引かれる。
(あいつが船に近づかなければ、銀二さんは揚げられる)
(あいつが俺の方を見ていれば、救助は止まらない)
柄を握り直す。指先の震えは止まらない。だが握る場所は変えられた。両手ではなく利き手一本に持ち替えた。スライサーモードのまま。刃が青い光を走らせる。
銀二さんの船と、シャドウの間に、俺がいる。
「……分かった」
短く言った。声がまだ掠れている。だが相手に届く距離ではあった。
「あいつは俺が見てる」
銀二さんが頷いた。手は止まらない。ロープが引かれる。漁師の肩が水面から上がった。
俺は前を向いた。
マイスエッジを構える。切っ先が引き潮のシャドウの方を向いている。敵の尾が動いたら踏み込む。帯が伸びたら斬る。あの炎がよぎっても、今はあいつの尾と帯だけを見る。
震えは、まだある。利き手の、柄の上で指がふにふに動いている。
(見てる。あいつだけを)
恐怖は消えない。だが、今見るべきものは、分かった。