PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
マイスエッジを構えている。切っ先は引き潮のシャドウの右斜め下を向いている。あそこから帯が張る。あそこを叩けば、あいつが俺を見る。
そう思った。
その時だ。
背中が、焼けた。
(——あ)
音が蘇る。バーンゴクエンの爆音。紅い炎が視界を埋め尽くした時の、あの熱。全身を焼くような衝撃。地面に背中を打ちつけた痛み。肋骨が砕ける音。自分の声にならない声。マオウの炎が——。
指が固まる。
マイスエッジの柄を握っている指が、関節ごと硬くなる。強張る。握っているつもりなのに感覚が遠い。指先の震えが止まらないどころか、今度は手首も固くなり始めている。
息が浅い。吸おうとしても肋骨が動かない。空気が胸の底まで落ちない。吐こうとしても残らない。浅い呼吸が細かい回数だけ繰り返される。
(逃げれば)
その考えが浮いた。
(逃げれば、攻撃を受けなくて済む)
理屈だ。正しい理屈だ。あいつから距離を取れば、炎は来ない。痛みは来ない。また倒れることはない。足が動けば、後ろに下がれば——。
「もうちょいだ! 掴まってろ!」
背後から銀二さんの声が来た。
振り向かない。振り向けない。けれど聞こえた。声が裏返っている。いつもの腹の底から響く声じゃない。喉の上で絞り出している声だ。
ロープがきしむ音が続いた。引く音だ。銀二さんがまだ引いている。海中の漁師の襟首を掴んだまま、もう一巻きもう一巻きとロープを回している音がする。
俺は目だけを動かした。
海中の人が見えた。
首だけ水面から出ている漁師。その顔が見えた。苦しそうに口を開けている。目が泳いでいる。何かを見ているのか、何も見えていないのか分からない目だ。
その顔が——俺が今感じているものと、同じだった。
怯えている。分かっている。海の中に何かがいる。見えない力に足を取られている。引き込まれる。怖い。怖くてたまらない。けれど自分の足では立てない。
(この人は)
俺はその目を見た。
(この人は今、俺と同じものを感じている)
俺が感じている恐怖。マオウの炎がよぎる時に身体が固まるあの感覚。動けない。逃げられない。怖くてたまらない。けれど自分ではどうしようもない。
あの漁師の目の中に、それがある。
俺が今、ここで感じているものと同じものが、あの人の目の中にある。
(置いていけるか)
足が動かない。指が固い。呼吸が浅い。逃げれば攻撃を受けなくて済む。それは正しい。けれど——。
あの人たちが今、海の中で感じているものを、俺は知っている。動けない怖さを、自分が今まさに知っている。
知っている人間が、背を向けて岸壁の上へ逃げる。
(できない)
それはできなかった。
マイスエッジの柄から、一度力を抜いた。
指が一本、外れた。薬指が離れた。その次に中指が。一本ずつ柄から離れていく。強張ったまま握り続けていると感覚が遠くなる。一度離して、感覚を取り戻す。
親指だけが柄に残った。
そこから、もう一度握り直した。
薬指から。中指から。一本ずつ、柄に巻き直していく。強張った指が動く時に、関節がきしむ感覚がある。痛い。けれど動く。動くから握れる。一本ずつ、確かめながら握り直す。
握った。握れた。
利き手の掌の中に、柄がある。震えはまだある。けれど柄は掴んでいる。
呼吸を一度吐いた。浅い。けれど吐けた。吸った。浅い。けれど吸えた。もう一度。吐いて、吸って。肋骨のあたりがまだ固い。けれど動いている。
視線を戻した。
引き潮のシャドウの胴体。長い尾がゆらりと揺れている。右斜め下。海面の窪みの縁。あそこから帯が張る。あそこを叩く。
(怖い)
まだ怖い。マオウの炎がよぎる。背中が熱い。いや熱くない。海だ。潮だ。けれど身体は覚えている。あの熱さを。あの痛みを。
(怖いよ。まだ、怖い)
俺は自分の中のそれを認めた。認めて、それでも切っ先を下げなかった。
(だからあの人たちを、このままにはできない)
怖さを知っているから、置いていけない。知ってしまったから。
胸の奥で何かが熱を持った。
震えがある。指がふにふに動いている。けれどその下に、別の何かが動き始めた。恐怖と同じ場所から、別の熱が立ち上がる。怖いけれど、それでもやる。怖いからこそ、あの人たちを置いていけない。その意志が——胸の奥で熱を持ち始めた。
その時だ。
胸元が、熱い。
マイスドライバーが熱い。装填したライドエグズが、内側から熱を放っている。
(え)
視線を落とした。いや視線を落とすまでもなかった。胸の上のマイスドライバー、その中央に嵌まったライドエグズが——光っていた。
赤い光だった。
内側から脈打つように、赤い光が明滅している。ドクン、ドクンと、心臓の鼓門と同じリズムで光が膨らみ、収縮する。
ライドエグズの表面に走る赤い光が、やがて揺らぎ始めた。揺らめきが、まるで炎のような形に変わっていく。マイスドライバーの金属の縁越しに、赤い揺らめきが俺の顔を照らしている。
(これ)
熱い。いまここにある熱は、マオウの炎の記憶とは違う。記憶の熱は背中を焼く。これは胸の正面から、俺の中から、外へ向かう熱だ。
俺の意志に応えるように。俺の意志が熱を持ったように。ライドエグズが同じ熱を持ち始めた。
手が動いた。
利き手が、マイスエッジの柄から離れて胸元へ向かっていた。自然と。思考よりも先に。
マイスドライバーの上に、ライドエグズが赤い炎を宿して揺れている。その揺らめきに、俺は手を添えた。
指先がライドエグズの表面に触れた。
熱い。けれど——痛くはない。
指先に触れた熱が、掌に広がる。
ライドエグズの表面が熱い。さっきまで青く光っていたのに、今は赤い揺らめきが表面を這っている。指先から伝わる振動が、俺の鼓動と重なった。
(あれと同じだ)
速い鼓動。恐怖で速くなった心拍。それがライドエグズの脈動と同じリズムで動いている。ドクン、ドクン、と。俺の心臓と、手の中の卵が、同じ速さで脷っている。
指がまだ震えている。ふにふにと、柄の上で指が動く。さっきから止まらない震え。だが——動かせる。
握り直した時と同じだ。一本ずつ確かめる。薬指が動く。中指が動く。親指が動く。俺の指だ。俺の意志で動く指だ。
(動ける)
胸元の熱が、指先から掌へ伝わる。熱いけれど——痛くない。マオウの炎の記憶とは違う。あれは外から来た熱だ。これは内側から外へ向かう熱だ。
俺は胸のマイスドライバーに手を添えた。
指がドライバーの縁に触れる。赤い光が指の隙間から漏れた。炎が揺らぐ。海風に煽られて、ライドエグズの表面の炎がゆらりと揺れた。
(俺の炎だ)
そう思った時、胸の奥で何かが決まった。
「変身」
声が出た。掠れていたけれど、短く言えた。
マイスドライバーの操作レバーを押し込む。カチリ。指先に触れる金属の感触。レバーが動く。ライドエグズがドライバーの中で展開し始める——その瞬間だ。
ドォン!
胸元から炎が噴き上がった。
熱が身体を包む。だが——さっきのマオウのフラッシュバックとは違う。焼く熱ではない。纏う熱だ。
炎が身体の輪郭をなぞり始めた。
胸のマイスドライバーを中心に、赤い炎が銀色の装甲の表面を流れていく。肩へ。左肩から右肩へ。炎が装甲の縁を走る。熱い。けれど——皮膚の下に熱があるのではない。装甲の上を炎が流れている。その熱が身体に伝わっている。
肩から背中へ。
炎が背中へ回った。マウスフレームの銀色の装甲が、炎の色に染まっていく。元の銀色が赤く、橙色に、揺らめきながら変わっていく。炎が背中を流れる感触がある。熱い。重い。だが——纏える重さだ。
頭部の輪郭を炎がなぞる。
鼠の耳を思わせる丸みのある頭部の意匠に、炎が走った。青い複眼の縁が赤い光に縁取られる。口元の細いひげ状の造形が、炎に照らされて影を落とす。基本装甲の曲線が、炎の揺らめきの中で輪郭を変えていく。元の銀色が燃えながら、新しい形を見せ始める。
(身体が——)
重心が変わる。
鼠の重心は低かった。地面に張り付くような低い重心。だが今、背中に炎が回ったことで、重心が上がる。背中に何かが乗っている。炎の重みが、姿勢の基準を変えていく。
背中の炎が広がった。
マイステールの先から、炎が広がっていく。ただの炎ではない。燃え盛る布のような、マントのような——衣が形を作り始める。炎が裾を作り、裾が広がり、海風に煽られて揺れる。
赤い炎の裾が、濡れた岸壁の上に光を落とした。
足元の濡れた石が、赤い光で照らされる。波飛沫が赤い光の中で跳ねる。影が揺れる。俺の影と、炎の影が、岸壁の上で重なっている。
炎が形を整えていく。背中の炎の衣が、一度大きく揺れて——収まった。形になった。
『マイス ファイヤーフレーム!』
ドライバーの音声が鳴った。マイス。ファイヤーフレーム。二つの言葉が、炎の熱と一緒に胸の上で響く。
(ファイヤーフレーム)
胸から手足へ、熱が行き渡る。熱い流れが腕を通って指先まで届く。足を通って足裏まで届く。さっきまで強張っていた肋骨のあたりが、熱に緩んでいく。関節が解ける。固くなっていた肘が、膝が——熱い流れの中で動くようになる。
足裏で足場を捉え直した。
右足の裏が岸壁の石に食い込む。濡れている。滑る。だが——踵に力が入る。足指に力が入る。踏ん張れる。左足も。半歩下がっていた左足を、もう一歩前に出す。岸壁の縁に近い方へ。滑るが、踏ん張れる。
背中の炎が重い。炎の衣が、背中に乗っている。揺れる。海風が裾を煽るたびに、背中が引かれる。だが——その重みが、重心を作っている。背中にある炎の衣が、俺を前に向けている。
(怖い)
まだ怖い。マオウの炎がよぎる。背中が熱い——いや、今の背中の熱はマイスの炎だ。マオウのものではない。けれど記憶は消えない。あの瞬間の痛みが、筋肉の奥にまだ残っている。
(けれど——)
目の前に引き潮のシャドウがいる。長い尾がゆらりと揺れている。右斜め下。海面の窪みの縁。あそこから帯が張る。あそこを叩けば、あいつが俺を見る。
俺はマイスエッジを構え直した。
柄を握り直す。指が動く。震えは——ある。けれど握れる。スライサーモード。銀色の刃に、今は赤い光が走っている。青だった光が、炎の色に変わっている。
背中の炎の衣が、大きく揺れた。海風が裾を煽る。赤い光が岸壁を走る。影が揺れる。
俺は背後の救助を感じた。銀二さんの声が聞こえる。ロープがきしむ音が聞こえる。海中の漁師の咳き込む声が聞こえる。背後に、助けを待つ人たちがいる。
俺は前に出た。
引き潮のシャドウと、銀二さんの船の間に、俺が立つ。炎の衣を背負った銀色の仮面ライダーが、そこにいる。鼠の耳を思わせる頭部に、赤い炎が揺れる。青かった複眼の縁が、炎の色に染まっている。胸のマイスドライバーに赤いライドエグズが嵌まり、背中に炎のマントが燃え盛り、濡れた岸壁に赤い光を落としている。
マイスエッジの切っ先が、引き潮のシャドウの右斜め下——海面の窪みの縁——を向いている。
俺はあいつを見据えた。