PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
引き潮のシャドウの尾が動いた。
水面を割って振り上がる。さっき岸壁を削ったのと同じ軌道だ。横薙ぎに振るわれる尾が波を起こし、俺の足場へ迫る。
(来る)
マイスエッジの柄を握る指がこわばった。
あの瞬間がよぎる。マオウの炎が――。
違う。今は海だ。迫っているのは尾と波だ。分かっているのに、柄の感触が遠のいていく。手首から肘にかけて、力が抜けない。
(動け)
足は動いた。
右足で濡れた石を蹴る。靴底が滑りかけたが、踵を踏み直して身体を送り出した。ファイヤーフレームの炎の衣が背中で揺れる。普段より重心が高い。それでも、鼠の瞬発力は失われていなかった。
膝を曲げ、腰を低く落とす。海風に煽られた衣の裾が翻り、濡れた石の上を赤い光が走った。
水面が弾ける。
尾に押し上げられた波が、壁のように岸壁の縁を薙いだ。兜のすぐ上を尾が掠め、風が抜けていく。あと数センチ、高ければまともに受けていた。
(抜けた)
滑った勢いが残っている。右足を引き寄せ、左足を突っ張って止めた。岸壁の縁まで、もう余裕がない。足元では波が石を叩き、白い飛沫を散らしていた。
背中の炎の衣が、大きく弧を描いて戻ってくる。その重みに腰が引かれ、海へ傾きかけた身体が戻った。
(この重さ、使える)
胸元のマイスドライバーから腕へ、熱が走った。肘を抜け、手首へ届く。こわばっていた関節が少しずつ動きだした。指先はまだ震えている。だが、握り直せる。
スライサーモードのマイスエッジを、横一文字に振った。
刃に炎を通す。銀色の縁を赤い火が走り、振り抜いた先へ火の粉が散った。尾が通り過ぎた方向とは逆へ、炎の弧が広がっていく。
引き潮のシャドウが退いた。
次の一撃に備えていた尾を引き、鰭を動かしてわずかに後退する。怪魚の頭部にある濁った瞳が、俺へ向いた。
(炎を嫌がってる)
切っ先を向けたまま、一歩横へ出る。銀二さんの船とシャドウの間を塞ぐ位置だ。船へ向かうにも、海中の人へ帯を伸ばすにも、俺の前を通らなければならない。
「結人くん、あいつ動いてない。見てるだけ」
耳元でシーサーの小さな声がした。
「分かってる」
尾を引いたまま、あいつは俺を観察している。
それでいい。船から注意を逸らせている間に、銀二さんが助けられる。
背後でロープがきしんだ。水面に浮かぶ漁師の肩が持ち上がる。残るのは、あと一人だ。
シャドウの尾が再び振り上がった。
今度は横薙ぎではない。尾の先を水面へ叩きつける。腹に響く音とともに波が岸壁へ押し寄せ、足元の石が震えた。
右足が滑る。踏ん張ろうとした左足も遅れ、背中の衣に引かれて重心が流れた。
(踏ん張れ)
左の踵を石の継ぎ目に引っかける。足裏を擦るざらつきとともに、ようやく滑りが止まった。
尾が水面を叩くたび、岸壁まで振動が伝わってくる。あいつは距離を詰めず、俺の足元を崩そうとしていた。
次を受ける前に、左手を脚部の収納へ伸ばす。
取り出したのは、卵型の小さな塊だった。硬い表面に節が密集し、指の腹に細かな凹凸が触れる。丸まった虫の背を思わせる殻。
ダンゴムシシードエグズ。
また水面が鳴った。波が岸壁へぶつかる。
左足を踏み直し、掌のシードエグズをマイスドライバーへ押し込んだ。
『ダンゴムシ!』
カチリと嵌まる音に続いて、胸元が震えた。ライドエグズの赤い脈動に、低く重い振動が重なる。
薄い装甲板が、マイスドライバーを中心に広がり始めた。
銀色の装甲へ、一枚ずつ重なっていく。それぞれの縁には節があり、板の間には細い隙間が残っている。ダンゴムシが丸まるときの背中に似ていた。
胸を覆った装甲板は、肩から右腕へ伸びてきた。上腕を包み、前腕まで届く。
試しに肘を曲げると、板同士が擦れ合って重なりを深くした。伸ばせば、隙間が開く。関節の動きを塞がず、その外側を覆い続けている。
(動ける)
左腕にも同じ装甲が広がった。手首の周りでは板が細かく分かれ、指を開いても引っかからない。マイスエッジを握る右手を軽く返すと、手首を外側から支えられる感触があった。
震えは残っている。それでも、さっきより柄を保ちやすい。
胴体を覆う装甲板が腰へ回り、骨盤の周りに密着した。硬い感触に、一瞬、腹へ力が入る。だが腰を沈めると、板が少しずつずれて動きについてきた。腹を押し潰されるような窮屈さはない。
そのまま太腿へ、膝へ、脛へと重なりが伸びていく。
右足を踏み出す。腰から踵まで、身体の外側を一本の支えが通ったようだった。靴底が濡れた石を捉える。滑りかけても足首が横へ倒れず、踏み込んだ力を地面へ伝えられる。
左足も踏み直した。
足場が変わったわけではない。石は濡れたまま、波も打ちつけている。それでも、足首から膝にかけての頼りなさが薄れていた。
(これなら踏ん張れる)
背中では炎の衣が揺れている。その重みに腰を持っていかれそうになると、装甲板が重なりをずらしながら支えた。鼠の足で動き、炎を刃に通す。その動きを、この装甲が守ってくれる。
引き潮のシャドウが尾を持ち上げた。
今度は岸壁の縁へ叩きつけてくる。水を弾く音に、石の砕ける音が混じった。
(来る)
指がまたこわばった。マオウの炎がよぎり、手首から肘まで固くなる。
目の前にあるのは尾だ。分かっている。
(動け)
右足を半歩引き、腰を落とす。装甲板の支えを確かめる間もなく、衝撃が届いた。
ズン、と足裏が突き上げられる。
脛から膝へ、太腿へ。骨に響く痛みに、奥歯が噛み合った。だが、一か所を突き抜けるような痛みではない。脚を覆う板が細かくずれ、衝撃を周囲へ逃がしていく。
腰が揺れた。装甲板が擦れ合い、背中へ圧が抜ける。炎の衣が大きく煽られたが、さっきのように重心をさらわれることはなかった。
右腕にも振動が届く。柄を握る指は震えている。それでも手首は流されず、切っ先はシャドウを向いたままだ。
(持った)
膝を曲げ、残った衝撃を逃がす。足裏が熱い。膝の裏も脈打っている。装甲を着けても、痛みまで消えるわけではなかった。
それでも、立っていられる。
尾を引いたシャドウが、濁った目を向けていた。こちらの様子を窺うように、鰭が小さく動く。
胸の装甲板が、呼吸に合わせてわずかに開いた。肋骨の周りへ入れていた力を少し緩める。深くは吸えないが、さっきより空気が入った。
マイスエッジを構え直し、尾の届く範囲を見定める。岸壁の縁からここまで。波が来る角度と、足元へ衝撃が届くまでの間。
その向こうで銀二さんの船が揺れていた。張り詰めたロープの先に、最後の漁師がいる。銀二さんの手が、ようやく襟首へ届こうとしていた。
(あと一人)
足裏で石の感触を確かめる。
濡れている。だが、踏ん張れる。
尾の先が水面を這った。
岸壁の縁を削りながら、低く横へ走ってくる。狙いは足首だ。
(来る――)
柄を握る指が強張る。膝を曲げようとしたのに、足が後ろへ出た。
一歩分、尾の軌道からは離れた。だが、その分だけ船への道が開く。
(下がるな)
踵を踏み直した。装甲板に支えられた足首へ力を込め、前へ戻る。
石の砕ける音が迫っていた。
左手で脚部の収納から次のシードエグズを抜き取り、マイスドライバーへ押し込む。
『バッタ!』
両脚の脛に、新たな脚具が展開した。
ダンゴムシの装甲板を覆うように、節のある細い枠が伸びていく。脛から足首へ、さらに踵へ。バッタの長い後脚を思わせる形が、左右の脚に沿って組み上がった。
膝を沈める。
腰を低く落とした途端、脚具の内側に圧が溜まった。膝を曲げるほど、押し戻そうとする力が強くなる。縮めたバネのようだった。
尾が足元へ迫る。石片が跳ね、靴の先を叩いた。
(今だ)
踏み切った。
溜め込んだ力が一気に弾ける。脛から足首を抜け、足先まで走った勢いに押されて、身体が伸び上がった。
足裏から石の感触が消える。
濡れた岸壁が遠ざかり、白い飛沫の向こうに海が広がった。海面の窪みに沈むシャドウを、上から見下ろしている。
長い尾が、さっきまで俺の足があった場所を横切った。岸壁の縁に、白い削り跡が残る。
(跳べた)
だが、まだ着地がある。
腰をひねると、背中の炎の衣が大きく翻った。マイステールが動き、傾きかけた身体を支える。
右手には銀二さんの船。あそこへ降りたら、引き上げている最中の船を揺らしてしまう。
左手には濡れた岸壁。足場はあるが、尾の軌道に近すぎた。
視線を正面へ戻す。岸壁の縁が、わずかに海へ突き出していた。狭いが、あそこなら船とシャドウの間を塞げる。
(そこだ)
マイステールで姿勢を整え、着地点へ足を向けた。
右足が石を捉える。靴底が滑りかけた瞬間、足首の装甲板に圧がかかった。膝を深く曲げる。板同士がずれながら、脚全体へ衝撃を逃がしていった。
続いて左足が着く。
足裏が熱く、膝の裏に鈍い痛みが残った。腰も重い。それでも両足は石を捉え、身体を支えている。
俺が跳び上がった場所を、尾が通り過ぎていった。
背中の衣が着地の勢いで揺れ、濡れた足場を赤く照らす。マイスエッジを構え直そうとした、そのときだった。
シャドウの目が、俺から横へ動いた。
背中の向こうへ。銀二さんの船と、まだ海にいる漁師へ。
尾が振り上がる。
(通さない)
踏み出そうとした身体が固まった。
マオウの炎。バーンゴクエンの爆音。肋骨が砕けたときの音まで、耳の奥に戻ってくる。熱と痛みに包まれ、何もできなかったあの瞬間が、目の前へ重なった。
指が動かない。膝も曲がらない。
その間にも、尾は水面を滑ってくる。俺の立つ場所の脇を抜け、そのまま船へ届く軌道だ。
左手が脚部の収納を探った。
考えるより先にシードエグズを掴み、胸元へ運ぶ。指先に引っかかった殻を、装填口へ押し込んだ。
『アルマジロ!』
左前腕へ装甲板が集まり始めた。
胴体や右腕を覆っていた板の一部が、胸を通って流れてくる。手首から肘へ、輪郭に沿って折り重なった。
一枚増すたび、左腕が下がる。
重い。肘を持ち上げようとして、肩にまで力が入った。薄かった板が五重に重なり、前腕の外側に楕円形の面を作っていく。
節のある表面が、緩やかな丸みを帯びた。
左腕に、盾ができていた。
(これなら――)
腕を前へ出す。左肩を押し出し、右足を半歩引いた。腰を落として、尾の軌道に盾を合わせる。
尾がぶつかった。
鈍い衝撃のあと、装甲板が擦れ合う音が耳まで響いた。盾の表面で鱗が削れ、尾の重みが左腕へ押しかかる。
肘が胸へ押し戻された。
盾の板が、外側から順にたわんでいる。一枚目から二枚目へ、その下へ。重なりを抜けてきた衝撃が前腕を打ち、骨の奥に痛みが走った。
(押される)
右足の踵が滑る。
腕から肩へ、腰へと圧が伝わり、身体ごと後ろへ押しやられた。船へ近づかせるわけにはいかない。
(下がるな)
右の踵を石の継ぎ目に押し込む。前に出した左足にも体重をかけ、腰を沈めた。
だが、さっきより支えが弱い。
盾へ装甲板を集めた分、胴体や脚の重なりが薄くなっていた。腰をひねると、残った板が強く擦れる。膝へかかる負担も大きい。
背中では炎の衣が揺れ、左腕の重みに引かれた身体が傾きそうになった。
足の指で靴底を押しつける。バッタの脚具が脛を支え、残った装甲板が足首の傾きを抑えた。
左腕が痛む。
尾はまだ盾に押しつけられている。板と板の隙間がわずかに開き、そこへ力が食い込んできた。腕の内側で、ぎしぎしと音が鳴る。
マイスエッジを握る右手まで強張った。左腕の痛みが背中へ抜け、肋骨の辺りがきりきりする。
(それでも)
足の滑りが止まった。
右の踵も、左足も、もう動いていない。膝は曲がっているが、潰されてはいなかった。薄く残った装甲板が、腰と脚を支えている。
息を詰め、盾を押し返す。
尾の圧力が、わずかに緩んだ。
表面に押しつけられていた鱗が離れる。シャドウが尾を引き始めていた。押し切れないと見たのか、次の攻撃へ移るつもりなのか。分からない。
ただ、止めた。
左の指先が痺れている。盾を支える前腕は、まだ脈打っていた。
縁の向こうから、濁った瞳がこちらを窺っている。尾を引き、鰭を動かし、今度は俺の盾を見ていた。
背後でロープがきしんだ。
「おい、掴まれ。もう少しだ」
銀二さんの声は、さっきのように裏返っていない。船の甲板を踏む音が続き、重いものが倒れ込む音と、激しく咳き込む声が重なった。
「全員上がった。兄ちゃん、お前も下がれ――」
「まだです」
盾を向けたまま答える。喉が乾き、声が掠れた。
「俺が下がったら、船に来ます」
銀二さんは何か言いかけ、口をつぐんだ。代わりに、エンジンが低く唸り始める。
船が岸壁から離れていく。だが、まだ尾の届く距離だった。
盾を持ち上げ直す。左腕へ重みが食い込み、痺れた指先がわずかに曲がった。
シャドウはこっちを見ている。
マイスエッジの柄を握る右手は、まだ震えていた。小指を締める。震えが残っていても、刃は向けられる。
(来い。俺はここにいる)
足裏で石を踏み直し、盾の縁越しにあいつの目を見据えた。
水面の下で尾が揺れた。
次が来る。いつ仕掛けてくるかは分からないが、このまま受け続けてはいられない。
(攻めないと)
右手の刃へ炎を通す。銀色の縁に赤い火が灯った。
あいつの本体は、海面の窪みに半ば沈んでいる。尾の間合いを抜けた先、胴体の右斜め下。帯を伸ばす前に、水面が膨らんだ場所だ。
そこまで、この刃で届くか。
切っ先と水面を見比べる。あと少し踏み込めば届くかもしれない。だが、濡れた岸壁の縁で、それ以上前へ出る余裕はなかった。
(もっと長ければ)
脚部の収納に、熱が灯った。
右の太腿の外側だ。左腕の盾を正面へ向けたまま、手首を動かそうとする。
盾を形作る板がずれた。手首の近くで一枚が横へ滑り、掌を開く余地ができる。
動くために残された隙間が、ここにもあった。
左手を収納へ伸ばす。指先に、卵型の殻と太い角が触れた。角の根元に節があり、そのざらつきが指の腹へ引っかかる。
カブトムシシードエグズ。
握った殻は硬く、角の根元には熱がある。収納から引き出すと、量子変換が解かれる感覚が掌を走った。赤い光が、指の隙間に漏れる。
右手にはマイスエッジを握ったままだ。その柄の根元へ左手を寄せ、装填口に角のある殻を合わせる。
カチリ、と指先が押し返された。
シードエグズが柄の中へ収まり、角の感触が掌から消える。
『カブトムシ!』
低く重い音声に、何かが突き抜けるような鈍い音が重なった。
柄が熱を持ち始める。
赤い光が指の間を抜け、銀色の刃へ流れていった。元の刃の両側から、新たな装甲刃が現れる。
右から一枚、左から一枚。
節のある縁が、元の刃へ噛み合った。カチリ、と小さく鳴る。その先に次の節が重なり、さらに剣先へ伸びていく。
(伸びてる)
元の刃を芯にして、装甲刃が両側から覆い始めた。
十センチ、二十センチ。先端が遠ざかるにつれ、柄を握る手首が引かれる。剣先へ加わった重みが、右腕を前へ倒そうとしていた。
掌の中で柄をわずかに回し、指を掛け直す。小指を締め、手首を立てた。腕を身体へ引き寄せると、切っ先の揺れが少し収まった。
だが、刃はまだ伸びている。
三十センチを越えても、噛み合う音は続いた。最後の節が三十五センチほど先で固定され、ようやく止まる。
スライサーモードの刃が、長剣に変わっていた。
銀色の芯を装甲刃が挟み込み、その節に赤い光が滲んでいる。長くなった分だけ重い。右腕には、構えているだけで張りが生まれた。
柄の上で指が震える。
手首に残ったダンゴムシの装甲板を頼りに、もう一度握りを確かめた。いきなり振り回せる重さではない。それでも、切っ先をあいつへ向けることはできる。
刃に炎を通した。
胸元から腕を抜けてきた熱が、柄へ注がれる。銀色の芯に赤い火が走り、噛み合った装甲刃の隙間を埋めていった。
節から節へ。炎が長い刀身を伝う。
やがて切っ先にまで火が届いた。海風に煽られて揺らめき、濡れた石を赤く照らす。
(この長さなら)
海面の窪みに沈む胴体まで、刃を届かせられる。
装填を終えた左手を引き、盾を構え直した。開いていた装甲板が戻り、手首の周りを覆う。可動域は狭くなったが、盾の面は崩れていなかった。
右手に長剣、左腕に盾。
右足を少し前へ出し、腰を落とす。前に移った剣の重心を、腕だけで支えようとせず、身体へ引きつけた。
切っ先の炎が、あいつの胴体を照らしている。
狙うのは右斜め下。帯を伸ばす前に水面が膨らんだ、あの場所だ。
尾が、水面を割った。
さっきまで窪みの中へ沈められていた先端が、一直線に迫る。槍のように尖った尾が、胴体を狙っていた。
(来る)
右手がこわばる。
マオウの炎がよぎった。柄を握り込んだまま、指が動かなくなる。迫る尾を見ているのに、膝が落とせない。
(動け)
左腕を押し出した。
尾の前へ盾を差し入れる。まともに受ければ、また押し込まれる。触れる直前に、面を斜めへ傾けた。
ズン、と腕に衝撃が食い込む。
だが、尾はそこで止まらなかった。傾いた面を滑り、俺の右脇へ抜けていく。装甲板を擦る音が、肩のそばを通り過ぎた。
(流せた)
左腕は痛む。それでも、正面から受け止めたときほどの重さは残らなかった。
尾を戻そうとして、シャドウの胴体がわずかに傾く。
その動きに合わせ、右へ踏み込んだ。
濡れた石を蹴る。バッタの脚具が脛を支え、足首の装甲板が横ぶれを抑えた。二歩、三歩。腰を低く保ち、振り抜かれた尾を追うように回り込む。
横腹が見えた。
長い尾は、まだ背後へ流れている。戻りきる前なら――。
鰭が動いた。
海面の窪みが揺れ、右斜め下が膨らむ。怪魚の口から一本の帯が伸びた。
向かうのは、俺の背後だ。横へ回った分、船への道が空いている。
(通さない)
両膝を折り、脚具へ力を溜めた。すぐに踏み切る。
身体が浮き、足元にシャドウの胴体が見えた。帯が船へ伸びようとする軌道まで、見下ろせる。
腰をひねった。
炎の衣が翻り、マイステールが姿勢を支える。右手の長剣を振り上げると、剣先の重みが手首へかかった。
その重みごと、振り下ろす。
赤い炎が尾を引いた。
刃がシャドウの横腹へ食い込む。鱗を削る硬い感触が柄を通じて腕へ戻り、続いて炎が傷口を走った。
焦げた匂いが、海風に混じる。
あいつの胴体に赤い線が刻まれた。声にならない音が口から漏れ、尾が水面を打つ。伸びかけていた帯は、途中で動きを止めていた。
(効いた)
岸壁に右足が着く。膝を曲げ、続けて左足を下ろした。装甲板がずれて衝撃を逃がし、背中の衣が遅れて揺れる。
シャドウの横腹から赤い煙が上がっていた。焦げた鱗が剥がれかけ、尾を振る動きも乱れている。
「結人くん!」
シーサーの声が届いた。
「船が離れてる! もう尾も届かないよ!」
振り向かずに耳を澄ます。背後のエンジン音が、少しずつ遠ざかっていた。
銀二さんも、漁師たちも、攻撃の届く範囲から出た。
目の前では、シャドウが尾で水面を叩き、体勢を立て直そうとしている。だが、その動きは揃っていない。俺の刃が刻んだ傷から、赤い煙が立ち続けていた。
(今なら)
長剣を構え直す。
指先が震え、切っ先の炎も小さく揺れた。何度も小指を締め直す。マオウの炎は、まだ瞼の裏から消えていない。
それでも、背後のエンジン音は遠ざかっている。
俺の間合いには、引き潮のシャドウだけが残っていた。
(決着をつける)
盾を身に寄せ、左手をマイスドライバーへ伸ばした。
装填されたライドエグズに触れる。胸元に満ちた熱が、指先へ伝わってきた。
操作レバーを押し込む。
カチリと音がして、ライドエグズがドライバーの中で展開し始めた。
「マウスセパレード」
掠れた声が喉を抜ける。
応えるように、胸元の赤い光がひときわ強く瞬いた。
膝から下へ熱が走る。バッタの脚具に覆われた脛の内側で、クォータムウィールが回り始めた。
最初はゆっくりと。
回転が速まるにつれて、装甲を伝う振動も細かくなっていく。脛から膝へ、太腿へ。低い唸りが脚の内側を満たし、関節の周りに圧が溜まった。
胸元から腰を抜け、両脚へ炎が流れ込む。
クォータムウィールの回転に、熱が巻き込まれた。赤い光が装甲の隙間から滲み、足元の石を照らす。脚の中で、炎の渦が大きくなっていくようだった。
膝を沈める。
バッタの脚具が縮み、押し戻そうとする力を溜め込んだ。さっき跳んだときよりも、ずっと強い。回転する振動と炎の熱が重なり、折り曲げた脚を内側から押している。
太腿まで熱い。
足裏へ体重を乗せると、踵の奥で力が膨らんだ。
視線を上げる。
引き潮のシャドウは、尾で水面を叩いていた。横腹から煙を上げながら、傾いた胴体を起こそうとしている。濁った瞳が、こっちを捉えた。
目を離さない。
腰を落としたまま、長剣を身体の脇へ引きつける。盾も胸の前から引いた。両腕の重みに振り回されないよう、肘を締める。
脚具が、さらに縮んだ。
(行く)
石を蹴った。
膝が伸び、溜めていた力が一気に解放される。バッタの跳躍力へ、クォータムウィールの回転と炎の勢いが加わった。
足元の石が、瞬く間に遠ざかる。
さっきより速い。風が兜を叩き、視界が一気に開けた。海面の窪みも、シャドウの背中も、もう下にある。暴れていた尾が跳ね、怪魚の頭が俺を追って持ち上がった。
背中の炎の衣が、大きく広がる。
海風に煽られた裾に身体を引かれかけたが、跳び上がった勢いは衰えない。マイステールで姿勢を整え、右膝を引きつけた。
踵へ、熱が集まる。
脚部を満たしていた炎が足裏へ流れ、右足を包んだ。クォータムウィールの唸りが高くなり、赤い火が渦を巻く。
蹴り脚を、斜め下へ向けた。
狙うのは胴体の右側。海面の窪みの縁に近い、あの場所だ。
濁った瞳が見上げている。
右脚を伸ばした。
踵にまとった炎が尾を引き、海へ向けて赤い軌跡を刻む。近づくにつれて鱗の一枚一枚が見えた。濡れた表面へ、足裏の炎が映り込む。
あと、わずか。
踵が、鱗を捉えた。
硬い抵抗が足裏を打つ。斬撃で焼いた横腹とは別の、まだ傷のない部分だ。ざらついた鱗に押し返され、足首が外へ流れかける。
(支えろ)
脛を覆うダンゴムシの装甲板に、強い圧がかかった。足首の傾きが止まり、膝を覆う板にも力が伝わる。
シャドウが胴体をひねった。鰭が水を掻き、こちらを押し戻そうとしている。
足裏から脛へ、さらに膝へ。反発が突き上げてきた。
歯を食いしばる。
バッタの脚具が脚を支え、その内側でクォータムウィールが唸り続けていた。回転音が、もう一段高くなる。踵を包んだ炎が強まり、鱗の縁を赤く染めた。
(まだ、いける)
押し戻されかけた踵が、わずかに進む。
足裏で、小さなものが割れた。
パキリと音がして、鱗に亀裂が入る。硬い殻の下へ、蹴りの力が届いた。さっきまで弾かれていた足が、少しずつ沈んでいく。
そこへ、炎が流れ込んだ。
踵に集めた赤い火が、亀裂の奥へ吸い込まれる。鱗の隙間から光が溢れ、その隣へ、さらに隣へと広がっていった。
胴体の表面を、赤い亀裂が走る。
枝分かれした光が鱗の間を伝い、海水まで赤く照らした。
シャドウの口から、聞いたことのない音が漏れた。
海の底で泡が弾けるような、くぐもった音だった。それが胴体の奥で膨らみ、亀裂からも溢れ出してくる。
鱗が剥がれ始めた。
内側から焼かれ、縁から浮き上がっていく。海水に落ちた鱗は形を失い、赤い泡へ変わった。
左右の鰭にも亀裂が届く。水を掻いていた先端が砕け、光の中へ溶けていった。
尾が止まる。
海面へ投げ出されたまま動かなくなり、その表面にも赤い線が走った。根元から先端へ、光が飲み込んでいく。
(終わりだ)
踵に残る力を、押し込んだ。
クォータムウィールの回転も、渦を巻く炎も、亀裂の奥へ送り込む。足裏にあった抵抗が崩れ、最後まで蹴り抜いた反動で、身体が岸壁側へ跳ね返った。
ドォン、と海面が膨れ上がる。
赤い光が爆ぜ、視界を覆った。
弾けた海水が脚を打つ。さっきまで熱を帯びていた足裏へ、冷たさが染みた。もう敵の硬さは伝わってこない。
蹴り脚を引き戻す。
光の向こうへ岸壁の縁が見えた。マイステールで身体を起こし、震える両脚を着地に備えて曲げる。
右足が石に触れた。
濡れた靴底が滑る。足首の装甲板に支えられながら膝を沈め、左足も下ろした。両足が揃っても、脛の震えは収まらなかった。
背中の炎の衣が、遅れて揺れる。
濡れた石を照らす赤い光は、さっきより弱くなっていた。衣の炎も少しずつ薄れ、海風に揺れる輪郭だけが残っていく。背中にかかる重みが軽くなった。
海へ目を向ける。
さっきまでシャドウがいた窪みに、赤い光の残滓が漂っていた。胴体も、尾も、鰭も見当たらない。浮かんだ泡が波に運ばれ、一つずつ消えていく。
『撃破確認。生体反応なし』
耳元でシーサーの声がした。
「……終わった」
マイスエッジを下ろす。
カブトムシの装甲刃で延長された刀身が、右腕を引いた。柄を握る指はまだ震えている。敵へ向ける必要がなくなっても、すぐには力を抜けなかった。
左腕の盾を見る。
五重の装甲板が、前腕を覆っていた。表面には尾に削られた傷が残っている。その溝へ海水が入り、赤い光を映した。
(守れた)
遠くでエンジンが鳴っている。
銀二さんの船が、岸壁から離れた場所に停まっていた。甲板に人影が見える。助け上げた漁師たちも、船の上にいる。
足裏は冷たかった。
岸壁も靴も濡れたままだ。だが、さっきまで足場を揺らしていた波は収まっている。
潮の匂いがした。風が兜を撫で、穏やかな波が石を叩く。
港の音が戻ってきていた。
炎の薄れたマントを揺らし、最後の赤い泡が消えるのを見届ける。
引き潮のシャドウは、もういなかった。