PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
不可思議事件研究会の部室は、放課後になると窓から西日が差し込んで、机の上の資料がオレンジ色に染まる。廊下からはバスケットボールが床を弾く音と、誰かの笑い声が聞こえてくる。いつもの放課後だ。
「これが昨日の分ね」
優菜が机の上に印刷された紙を並べる。地元の掲示板の書き込みを印刷したものや、新聞記事の切り抜き、手書きでメモを取った紙が混ざっている。並べる手は手際がいい。優菜は何度もこの作業をしているからだ。
「港で起きたこと、全部出した?」
「全部、とは言えないけど。見つけられる範囲ではね」
優菜が一枚の紙を指差した。地元掲示板のスクリーンショットだ。『見えない力に足を取られた』という文字が目に入る。
「これ、最初の書き込み。時間は夕方五時頃」
俺はその紙を受け取った。日付と時間を確かめる。昨日だ。俺が戦った日だ。机の上の他の資料と照らし合わせる。
「他にもあるな。『足が勝手に動いて海に向かった』『何かが足首に巻き付いた気がした』」
「うん。共通点は足首。それと、海に引き込まれる前に不自然な静けさがあったって証言がいくつかある」
優菜が別の紙を取り出した。手書きのメモだ。誰かに聞いた証言を書き取ったものらしい。
「これは現場にいた漁師さんに聞いたっていう掲示板の書き込みを書き写したもの。『波が急に静かになった。海面だけが窪んだように見えた』」
俺はそのメモを読んだ。優菜の字だ。丁寧な丸文字。俺が見た海面と同じだ。波がない。海面だけが不自然に窪んでいた。あれは引き潮のシャドウがいた場所だ。
「救助された人たちは?」
「病院に運ばれたけど、軽傷だって。一人だけ低体温症で点滴受けてるけど、命に別状はないって」
「そうか」
俺は安堵した。銀二さんが助けた人たちだ。全部助かった。それを聞いて、胸の奥の何かが少し緩んだ。
「漁師の人が救助に当たったって話もあるね」
「ああ。ロープと救命具を使って」
俺の口から自然と出た。銀二さんの手がロープを握り直す動作が、まだ目に焼き付いている。強張った指。濡れた手袋。震えていた手。
「結人くん、現場にいたんでしょ?」
優菜の声が少し柔らかくなった。俺は資料から目を上げる。
「……ああ。近くにいた」
「何か見た?」
俺は少し考えた。何を見たか。マイスとして戦ったこと。引き潮のシャドウと戦ったこと。それを全部話すわけにはいかない。けれど、嘘をつきたくもない。
「漁師の人が一生懸命にロープを引いてた。足場が崩れてても、船が揺れてても、手を離さないで引いてた」
「……すごいね」
優菜が小さく言った。そして、メモ用紙に何かを書き足した。『漁師による自主救助』と。
「記録としては、これくらいかな。詳しい状況は分からない部分が多いけど」
「分からない部分?」
「引き込まれた原因とか、何が足を取ったのかとか。目撃証言だけだからね。決定的なものはない」
優菜が資料を一枚ずつ重ね始めた。並べていた紙が、一つの束になる。
「でも、人々が海に引き込まれて、漁師の人たちが助けて、全員無事だった。それは事実として記録できる」
「そうだな」
俺も資料を手伝った。重ねた紙の端を整える。紙のざらつきが指先に伝わる。
「未確認の部分は、また何か分かったら追記しよう」
「うん」
優菜がファイルを開いた。資料を挟む。ファイルの表紙には『事件記録』と書かれている。今まで集めてきた事件の記録が、このファイルには詰まっている。
窓の外を見た。西日が少し傾いている。廊下の声も少しずつ減ってきた。部活動が終わりに近づいているのだろう。
「今日はここまでにしようか」
優菜がファイルを閉じた。パタン、という音が部室に響く。
「ああ」
俺は頷いた。机の上には何もなくなった。さっきまで並んでいた資料が消えて、ただの木の机に戻る。
「結人くん」
「ん?」
「お疲れさま」
優菜が微笑んだ。小さな笑み。いつもの笑みだ。
「……ああ。お疲れ」
俺は立ち上がった。椅子が軋む音がした。窓の外では、太陽が水平線に沈みかけている。赤い光が部室の床に長い影を作っている。
(あと一人。あと一人だけだった)
銀二さんの声が、まだ耳の奥に残っている。もう一人の漁師が海中にいた。俺が盾で尾を受け止めている間に、銀二さんが引き上げた。
(全部助かった)
それを確認して、俺は部室を出た。
部室を出ようとした時だった。扉が、控えめにノックされた。
コン、コン。
二回。小さく二回。扉の向こうから聞こえる音はそれだけだった。廊下の部活動の声はもうほとんど聞こえない。西日が床に長い影を作っている。俺は伸ばしかけた手を止めた。
優菜が顔を上げた。ファイルを閉じた手が机の上に置かれる。
「……はい」
優菜が声を上げた。穏やかな声。いつもの声だ。
扉の向こうで、足音が止まった。
(入ってこない)
俺は扉の前に立ったまま、ノックの残響が消えるのを待った。消えた。それでも扉は開かない。廊下に誰かが立っている気配はある。足音が止まっている。扉の前で。
俺は扉を開けた。
ゆっくりと。扉の隙間から廊下が見える。西日が廊下の床を橙色に染めている。その橙色の光の中に、人が立っていた。
女子生徒だった。うちの学校の制服だ。けれど見覚えがない。同じ学年かもしれないし違う学年かもしれない。俺の視線は自然と彼女の手に向いた。
手が動いていた。
右手で左手の袖口を掴んでいる。掴んで、離して。また掴んで、離して。落ち着かない手だ。唇も動いている。何かを言いかけて、止まっている。
「……あの」
彼女の声が小さかった。廊下の静けさの中に、かろうじて届くくらいの声。
「どうぞ」
優菜が椅子を立てた。隣の椅子を指差す。空いている椅子。いつも達臣が座る椅子だ。今日は達臣は来ていない。
「座って、大丈夫」
優菜の声が柔らかい。いつもの調子だ。けれどその中に、いつもより少しだけ丁寧な響きがある。俺はそれを聞いて、扉を少し広げた。
彼女が一歩踏み出した。
入り口で、足が止まった。扉の枠を跨ごうとして、跨がない。靴底が廊下の床に張り付いたみたいに止まっている。
(入るのをためらってる)
俺は何も言わなかった。無理に促さない。優菜も立ち上がらなかった。座ったまま、椅子を指差したまま、待っている。
数秒が過ぎた。廊下の向こうで、誰かが走り去る足音がした。遅くなった部活動の誰かだ。その足音が遠ざかると、また静かになった。
彼女が扉を跨いだ。
一歩。部室の中に入ってくる。西日が彼女の顔を照らした。表情が見える。眉が寄っている。唇が結ばれている。目が——俺と目が合って、逸れた。
「すみません、突然」
「いいよ。座って」
優菜がもう一度言った。彼女は頷いて、椅子に座った。カタン、と椅子が鳴る。座ってから、もう一度袖口を掴んだ。離した。また掴んだ。
(話しに来たんだ。けれどうまくまとまらない)
俺はその場に立っていた。座るべきか。優菜が俺の方を一瞬見た。目で椅子を示していた。俺は自分の椅子に座った。
「あの、こちらの、研究会、って」
「不可思議事件研究会、だよ」
優菜が補った。彼女が頷く。
「掲示板に、書いてあった、って。相談、できるって」
「うん。できるよ」
優菜の声が穏やかだ。ファイルを机の端に寄せた。相談のための空間ができた。
彼女の手が止まった。袖口を掴んだまま、指が固まった。
「友達が、」
言葉が途切れた。
俺は待った。優菜も待った。部室が静かだ。窓の外でカモメが鳴く声が聞こえた。遠い。波の音もする。港の方だ。
「友達が、戻ってこない、んです」
言い直した。
戻ってこない。その言葉が部室の空気に落ちた。優菜の手が机の上で止まったまま動かない。俺も動かなかった。
「今日、放課後。教室に、忘れ物を取りに戻って。それから、戻らない、んです」
「教室に戻って、それから戻ってこない」
優菜が繰り返した。ゆっくりと。確かめるように。彼女が頷く。
「教室にいた、はず、なのに。いなかった。で、連絡も、つかなくて」
「いつ頃の話?」
優菜が尋ねた。
「今日の、四時、頃。放課後、すぐ、くらい」
「四時頃。教室に忘れ物を取りに戻った。その後連絡がつかない」
「はい」
俺はそこで口を開かなかった。結論を挟まなかった。彼女の話が途切れている。途切れたまま、続きを待つ。彼女の手がまた動いた。袖口を掴む。離す。
「あの子、普段なら、すぐに、返事、する子、なのに」
「普段はすぐに返事が来る子」
「はい。LINEも、すぐ、読む、のに。既読も、つかない、まま、で」
声が震えていた。最後の「で」が空に溶けるように消えた。
俺は資料の束を見ていた。さっきまで並んでいた港の事件の記録。あれをまとめたのは数分前だ。けれどあの事件とは別の、別の話が今、この部室に入ってきている。
(友人が戻ってこない。教室から。放課後。四時頃)
日常の会話ではなかった。けれど、まだ事件とも言い切れない。連絡がつかないだけかもしれない。忘れ物を取りに行っただけかもしれない。けれどこの子はここに来た。掲示板の書き込みを見て。相談に来た。
優菜がファイルを引き寄せた。新しいページを開く。記録を書き始める準備だ。
「最後に、その子を見たのはいつ?」
優菜の声が少し変わった。日常の会話から、記録を取る声に。落ち着いている。けれど急がない。
俺はその声を聞いて、少しだけ背筋を伸ばした。隣の席で、優菜の横顔が見える。真剣な目だ。ペンを持つ手が止まっている。
彼女の手が、袖口を離した。初めてだ。離した手が膝の上に置かれる。握りしめられている。
「……最後に見たのは」
彼女が言いかけた。
優菜がペンを構えた。
俺は待った。窓の外でカモメがまた鳴いた。西日が少し傾いている。影が少し伸びた。部室が静かだ。
彼女が、口を開きかけた。
「最後に見たのは、今日の放課後、です」
彼女が膝の上で握りしめていた手が、少しだけ緩んだ。話し始めると手が動く。そういう人間もいる。
「一緒に、下校してたんです。いつもみたいに」
「うん」
優菜がペンを動かさずに頷く。
「校舎を出て、一緒に歩いてた。そこまでは、一緒だったんです」
「校舎を出てから、どっちへ?」
「渡り廊下を、渡って。向こうの校舎へ。あの、二号楼っていうんですけど」
「二号楼。渡り廊下を渡って。うん」
優菜がペン先で紙の端を叩いた。書き留めている。
「そこで、別れた、んですか」
俺が言った。彼女が俺の方を見た。少し目が泳いだ。それから膝の上の手を見た。
「別れた、っていうか。途中で、あの子が、忘れ物したって。教室に戻るって」
「忘れ物」
「教科書を。鞄に入ってなかったって。明日の授業の」
「それで教室に戻った。二号楼の教室に?」
「いえ。あの子の教室は、一号楼なんです」
俺はそこで少し考えた。一号楼と二号楼。渡り廊下で繋がっている。覚えている構造を思い出す。渡り廊下は二階にある。つまり——
「何階を歩いてた?」
「二階。渡り廊下は二階だから」
「二階の渡り廊下を、二号楼から一号楼へ。そこで別れた」
「別れた、っていうか。あの子が、一号楼の方へ戻った、んです。私は、そのまま、二号楼を下りて」
彼女の声が少し速くなった。言い直している。別れたという言葉が正しくないと思ったのだろう。別れたのではない。進む方向が違っただけだ。けれど結果的に——戻ってこない。
「あの子は一号楼の二階へ戻った。あなたは二号楼を下りた」
「はい。階段を下りて、玄関から出て。バス停に向かいました」
優菜がペンを止めた。紙の上に何か書きかけた手が、途中で止まっている。
「あの子の教室、何組?」
「一組、です」
「一号楼二階の一組」
優菜が書き留めた。俺はその文字をのぞき込んだ。優菜の丸文字。丁寧な字。イベントの企画書もこの字で書かれている。日常の字だ。けれど今書かれているのは、行方不明の友人の最後の目撃場所だ。
「一組の教室、どこにあるか分かる?」
「廊下の、一番奥、です。階段を上って、右に——いえ、左、だったかな」
彼女の手がまた動いた。袖口を掴む。離す。
「右か左か、覚えてない?」
「……ごめんなさい。普段、あそこに行かないから。あの子の教室、初めて行った時もあるし」
「行ったことがあるんだ」
俺が言った。彼女が頷く。
「一回だけ。去年の、文化祭の準備で。でも、暗い所だったから、よく覚えてなくて」
「暗い所」
「窗が、廊下側にしかない、んです。教室の、奥の方は——」
彼女の声が途切れた。俺は待った。優菜も待った。ペンが止まっている。
「……奥の方は、日が当たらない、って言ってた。あの子が」
「あの子が言ってた」
「はい。いつも、暗いなって。でも、あそこが好きだって」
彼女の声が少し細くなった。最後の「好きだって」が、部室の空気に溶けるように消えた。
優菜が何か書き足した。書き終えてから顔を上げた。
「ありがとう。覚えてる範囲で、もう少しだけ。あの子が戻っていった時、他に誰かいた?」
「他に?」
「廊下に。階段に。誰か見かけた」
「……分からない、です。私は、あの子と別れてから、二号楼を下りたから。一号楼の中は見てない」
「そうだね。見てないよね」
優菜が頷いた。無理に思い出させない。俺も何も言わなかった。彼女が見ていないものを、聞き出しても仕方がない。
部室が静かだった。窓の外はもう日が傾いている。西日が机の上を這っている。影が少し伸びた。
彼女が鞄を膝の上に引き寄せた。手で何かを探る。指先が震えている。けれど探す動作ははっきりしていた。
「あの、これ。見てもらいたい、のが」
彼女がスマートフォンを取り出した。画面をタップする。指が二回、三回止まった。動画を探している。
「今日、放課後の、部活の、動画。友達が、撮ってた。バスケ部の、試合の。私も、写ってる、はず」
「放課後の動画」
優菜が椅子を少しずらした。机に身を乗り出す。
「その動画に、あの子が映ってる?」
「バス停の、あたりが、映ってるから。私が、二号楼を出た、あたり。その、少し前——」
彼女の指が止まった。画面が暗くなる。画面の中の映像を探している。俺はその手元を見た。震えている。けれど画面を見る目は真剣だ。
「あった」
画面を、机の上に置いた。俺と優菜の間に。画面は横になっている。動画のサムネイルが見える。校舎とバス停が小さく映っている。
「これ、再生すれば。あの子が、映ってるかどうか」
「見てみようか」
優菜が言った。けれど手は出さなかった。スマートフォンは彼女の手の中にある。
「あの子が、一号楼に戻る、ところが。バス停の方から、一号楼の入り口が見えるから。もしかしたら」
彼女の声が震えていた。最後の「もしかしたら」が、希望と不安の間で揺れている。
俺は優菜を見た。優菜が頷いた。
「じゃあ、場所を確認しよう。校舎の図、ある?」
優菜が机の引き出しを開けた。中から一枚の紙を取り出す。校舎の平面図だ。文化祭の時に使ったものらしい。一号楼、二号楼、渡り廊下。印刷された線が西日に染まっている。
優菜がその図を机の上に広げた。彼女のスマートフォンの隣に。
「ここが、渡り廊下。ここが二号楼の階段。ここが——一号楼」
優菜の指が図の上を走る。一号楼の二階。廊下の奥。一組の教室があるあたり。そこに指が止まった。
「あの子が戻ったのは、ここ」
優菜の指が図の上に置かれている。彼女がその指を見た。自分の言葉が図の上で形になったのを見た。
「ここから、最後の目撃。になる」
優菜の声が少し静かになった。質問ではなく確認だった。彼女が頷く。
「ここ、から」
彼女の指が、スマートフォンの画面に触れた。再生ボタンに。けれど押していない。押す前に、俺の方を見た。
俺は頷いた。見る、と。
けれど彼女はまだボタンを押さなかった。指が画面の上で止まっている。西日がスマートフォンの画面を反射している。光が彼女の顔を照らしている。
優菜がペンを置いた。机の上の校舎図と、スマートフォンと、ペンと。三つが並んでいる。その中で、彼女の指だけが動かない。
「……見ます」
彼女が言った。自分に言い聞かせるように。