PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
放課後の一号館は静かだった。
昨日の今日だ。優菜と一緒に調べた場所を、もう一度見ておきたかった。動画の中の廊下と、現実の廊下。窓の位置が違う。扉があるといえばあった。けれど現実には壁だ。あの食い違いが何なのか、もう一度この場所に立って確かめたかった。
渡り廊下を渡る。掲示物が三枚並んでいる。角を曲がる。廊下の奥。突き当たり。
壁だ。
昨日と同じだ。灰色のコンクリート。何もない。扉も取っ手もない。
(やっぱり何もない)
俺は壁に手を触れた。ざらついたコンクリートの感触。冷たい。何の変化もない。ただの壁だ。
(動画の中には扉があった。けれど現実には——)
足音が聞こえた。
俺の手が止まった。壁に触れたまま、耳が動く。廊下の向こう。渡り廊下の方から。足音が近づいてくる。ゆっくりとした歩調。けれど迷いがない。どこかへ向かっている足音だ。
(誰だ)
振り返る前に、視線を動かした。渡り廊下との接続位置。掲示物の並ぶ廊下。そこに——
いた。
少女だった。
金の髪が短い。制服を着ている。けれどうちの学校の制服じゃない。デザインが違う。青い瞳が——こちらを見ていた。
(見ている。俺を)
俺は壁から手を離した。少女と目が合ったまま。彼女も動かない。立ったまま、こちらを見ている。
(何をしている。この場所を。見ている)
距離があった。廊下の長さの半分くらい。掲示物の並ぶ廊下の途中に彼女が立っていて、突き当たりに俺がいる。彼女の視線が俺の顔に向いている。それから——俺の背後の壁に一瞬だけ移って、また俺に戻った。
(あの壁を見た。俺が調べていた場所を、あの子も調べている)
俺は一歩踏み出した。少女は動かなかった。立ち止まったまま、俺を見ている。
「……何を、しているの」
声が来た。少女の声だ。澄んだ声。低くはない。けれど高いわけでもない。真っ直ぐな声だ。
「ちょっと、調べものを」
俺は答えた。声が掠れる。昨日の戦いの余韻がまだ喉にある。
「調べもの」
「うん。友達が、ここでいなくなって」
「いなくなった」
少女がその言葉を繰り返した。繰り返してから、廊下の奥——俺の背後の壁に目を移した。壁を見ている。
「あなたも、ここを調べているの」
俺が尋ねた。少女の目が俺に戻った。
「……ええ。私も、この場所を確認しに来ました」
「です、ます」
俺の思考に少し引っかかった。少女の口調が丁寧だ。同い年くらいに見えるけれど、話し方が——丁寧すぎる。きっちりとした言い方だ。
「何を調べてるんだ」
「……調査中です」
少女はそれだけ言った。それ以上は言わない。所属も、目的の詳細も。俺が友達がいなくなったと言ったのと同じように、詳しい理由は言わない。
(同じだ。こっちも詳しいことは言ってない。お互いに、理由は伏せている)
俺は廊下の壁に視線を戻した。少女も壁に目を移した。二人して、突き当たりの壁を見ている。
「……昨日までは、ここに扉があったように見えた」
俺は壁を見ながら言った。動画の中の扉。現実にはない扉。
「扉が」
少女が繰り返した。それから——壁に近づいた。俺の隣に来る。金の髪が西日に染まっている。けれどもう日が暮れかけている。廊下の蛍光灯が白い光を落としている。その光の中で、少女の髪が淡く光った。
「この壁に」
少女の手が壁に触れた。俺がさっき触れたのと同じ場所だ。コンクリートの表面を指が辿る。
「……何もありません」
「ああ。何もない。けれど動画の中には、ここに扉があった」
「動画」
「友達が撮った動画の中に。ここに扉があって、その中に入っていった。けれど現実には——」
俺は壁を拳で軽く叩いた。ドン。鈍い音が返ってくる。ただの壁だ。空洞じゃない。
「——ない」
少女が壁を見ていた。指が壁の表面を滑っている。何かを探すように。
「……この場所に、何か」
少女の声が途切れた。
俺は何かを言いかけて——止まった。
廊下の音が、変わった。
(何だ)
足元の床。コンクリートの床。廊下の床が——音が違う。俺の足音がさっきまでと違う。
カツ、ではなく——ドン、に近い。床の響きが変わった。
「……聞こえるか」
俺が言った。少女が顔を上げた。青い瞳が俺を見ている。それから床を見た。
「……音が」
「変わった。廊下の音が」
俺は足裏で床を確かめた。コンクリートの感触——ではない。もっと硬い。もっと——深い。
(深い)
廊下が深い。
突き当たりの壁が——遠い。
(え)
俺は壁を見た。壁があった場所。さっきまで壁があった場所。
壁が、ない。
突き当たりが——続いている。廊下が、壁の向こうへ続いている。暗い。奥が見えない。蛍光灯の光が届かない。闇が廊下の奥に口を開けている。
( doorway )
扉が——ある。
壁があった場所に。扉が。
動画の中の扉と同じだ。引き戸。取っ手。扉枠。暗い向こう。
「……これ」
俺の声が震えた。少女が壁を見ている。壁があった場所に。今は——扉がある。
「これが動画の中の——」
「……出現しました」
少女の声が低くなった。冷静だ。けれど目が動いている。青い瞳が廊下の奥を走っている。
「出現、したのか」
「ええ。この場所に。何かが」
少女が俺の方を一瞬見た。それから廊下の向こうを見た。
(廊下が変わっている。壁があった場所に扉がある。廊下が続いている。奥が見えない)
足音が聞こえた。
二人の足音ではない。三人目だ。
廊下の向こう。掲示物の並ぶ廊下。渡り廊下との接続位置。そこに——生徒がいた。
俺たちの学校の制服だ。男子生徒。鞄を持っている。下校する途中らしい。廊下を歩いている。
(まだ学校に残ってたのか)
俺は声をかけようとした。「そこ、危ない」と。
けれど——
足元が揺れた。
いや揺れていない。けれど揺れている。床の感触が揺れている。足裏の下で床が——波打っている。
(何だ)
生徒の足元が——俺の目には見えない。距離がある。けれど廊下の床が——波打っているのではない。床の継ぎ目がずれている。廊下の床と、渡り廊下の床の間が。継ぎ目が——揺れている。広がっている。
「……来ないで」
少女の声だった。廊下の向こうの生徒に向かって。声が大きい。いつもの丁寧な口調とは違う。切羽詰まった声だ。
「え?」
生徒が立ち止まった。少女の声が聞こえたのだ。立ち止まって——こっちを見た。
その足元で——
床が割れた。
いや割れていない。床が——開いている。廊下の床に亀裂が走っている。亀裂が広がっている。亀裂の中に——暗い。何もない。ただの闇。廊下の床の下が見えているのではない。廊下の床の下に——何かがある。
(何だあれ)
亀裂が広がる。生徒の足元に。生徒が立ち止まった場所に。亀裂が足元を囲むように広がって——
「おい」
俺は叫んだ。声が出た。
「そこをどけ」
生徒が顔を上げた。俺を見た。少女を見た。それから——足元を見た。自分の足元に広がった亀裂を見た。
(分かった。見えた。なら走れ)
けれど——遅かった。
亀裂が足の下を通った。床が消えた。廊下の床が——足元から消えた。コンクリートの床が抜けた。その向こうに——別の景色が見えた。水。波。水が光っている。太陽が水面に反射している。けれど廊下の中に。
(海)
廊下の床に海が見えた。足元に。生徒の足元に。
生徒の体が傾いた。バランスを崩した。床がなくなったから。足場がなくなった。傾いた体が——亀裂の向こうへ。廊下の床の向こうへ。
「——!」
俺は走った。
突き当たりから廊下を。少女の横を抜けて。掲示物の並ぶ廊下を。渡り廊下への接続位置へ。生徒の方へ。
(間に合え)
足が動いた。マイスとしての脚力が——いや今は変身していない。制服の中の足だ。マイスドライバーは胸元にある。ライドエグズはポケットの中にある。けれど変身する暇がない。生徒が落ちる。廊下の床の亀裂の中に。海の中に。
(間に合え)
廊下が長い。距離がある。生徒の手が見える。鞄を握ったままの手が空を探っている。落ちながら。体が傾きながら。手が——俺の方へ。
(届け)
俺は手を伸ばした。生徒の手に向かって。廊下の床の亀裂の向こうに落ちていく生徒の手に。
その時——
隣で少女が動いた。
金の髪が揺れた。青い瞳が生徒の手を見ている。少女の手が——伸びた。俺と同じ方向へ。生徒の手へ。
俺の手と、少女の手が、同時に——生徒に向かって伸びた。
生徒の手が空を切った。
指先が触れた。掴めた——いや、掴めていない。指が擦れるだけ。濡れた手だ。汗か、海水か。俺の手が滑る。生徒の体が傾いていく。亀裂の向こうへ。
「くそっ」
亀裂の向こうに海が見える。水。波。太陽。けれどここは廊下だ。廊下の床の下に海がある。生徒が落ちていく。背中から。
(落ちる)
足元の床が揺れた。いや揺れていない。揺れているのは亀裂だ。亀裂が広がっている。俺の足元にも。足元の床が——ずれた。コンクリートの床が揺れる。バランスが崩れる。膝が折れる。
(落ちる俺も)
生徒の手が離れた。離れて——
掴まれた。
少女の手だった。金の髪が揺れる。青い瞳が俺を見ている。少女の手が生徒の手を掴んでいる。引き上げている。生徒の体が持ち上がる。
(掴んだ)
少女が生徒を引き上げる。力が強い。片手で生徒の体を持ち上げている。女の子の手とは思えない力だ。機械のような——いやそんなことは後だ。
俺は立ち上がった。膝が震えている。足元の床がまだ揺れている。亀裂が広がっている。廊下の床に亀裂が走って、亀裂の向こうに海が見えている。波が打っている。太陽が眩しい。
(戻らなきゃ。境目まで戻らなきゃ)
境目が見えた。廊下の床と、亀裂のない床の間。そこに線がある。境目の線。あそこを越えれば戻れる。
「走って」
少女の声がした。生徒に向かって。
生徒が顔を上げた。真っ青な顔だ。怯えている。けれど足は動いている。少女の手に引かれて立ち上がり、走り出した。
俺も走った。境目へ向かって。少女と生徒の後ろを。
(間に合え)
足元の床が揺れる。亀裂が広がる。海の音が近くなる。波の音。潮の匂い。ここは廊下なのに。
その時。
海から何かが上がった。
水が跳ねた。波ではない。何かが海面から飛び出した。黒い影。長い影。蛇のような——いや違う。尾だ。魚の尾だ。長い尾。黒い。
(尾)
尾が宙を薙いだ。
生徒の方へ。
(来る)
俺は叫ぼうとした。声が出ない。喉が——熱い。マオウの炎がよぎる。バーンゴクエンの爆音。肋骨が砕ける音。あの熱。あの痛み。あの——。
(動け)
足が止まった。動かない。膝が固い。肘が曲がらない。尾が迫っている。生徒の背中へ。少女の手を振りほどいて。生徒の背中へ。
(動け俺)
マイスドライバーに手を伸ばした。胸元。装填されているライドエグズに触れる。熱い。青い光が指先に伝わる。鼠の力。
(変身)
「変身」
掠れた声が出た。マイスドライバーの操作レバーを押し込む。カチリ。ライドエグズがドライバーの中で展開する。
銀色の光が体を包む。
マウスフレームの装甲が展開する。鼠の意匠を持つ仮面が顔を覆う。澄んだ青色の複眼。鼠の耳を思わせる丸みのある頭部。胸のマイスドライバー。背中のマイステール。銀色の装甲が全身を覆う。
(マイス)
身体が軽くなる。鼠の瞬発力。低い重心。速い足。膝が曲がる。肘が動く。固まっていた身体が解ける。
少女がこちらを見た。一瞬だけ。青い瞳が俺の——マイスの姿を見た。驚きの色が一瞬走った。けれどすぐに消えた。目の前の状況に戻った。
「下がって」
少女の声が鋭くなった。生徒に向かって。
「え、でも」
「下がってください。危険です」
生徒が少女の手を離れた。下がった。廊下の奥へ。境目の方へ。
(助かった)
いや助かっていない。まだ尾が来ている。
尾が振り下ろされる。
俺は生徒の前に出た。生徒の体を盾で覆うように——いや盾はない。身体で覆う。背中を生徒の方へ向けて。尾が来る方向に顔を向ける。
尾が来た。
速い。黒い尾が空気を裂く音がする。ヒュッという音。それが俺の耳元をかすめる。
(避けろ)
避けられない。生徒の前に立っている。避けたら生徒に当たる。
(受けろ)
右腕を上げた。マイスエッジをスライサーモードで展開する。銀色の刃。青い光。その刃を尾の軌道に合わせる。
ズン。
衝撃が来た。
腕に食い込む。尾の質量が刃を通して伝わる。硬い。尾の鱗が刃を削る音がする。ギギという音。耳のすぐ近くで鳴る。
(重い)
腕が押される。右足が滑る。床が揺れている。足裏の感触が不安定だ。亀裂が広がっている。足元の床がずれる。重心が流れる。
(支えろ)
左足で踏ん張った。マウスフレームの低い重心。鼠のバランス感覚。踵が床に食い込む。滑る。けれど止まる。止まった。
尾が引っ込んだ。
一撃。それだけだった。引っ込んだ。また海面に戻った。
(一撃だけ)
俺は息を吐いた。肺の中の空気が熱い。心臓が早鐘を打っている。
背中の後ろで生徒の息遣いが聞こえる。怯えた呼吸。生きている。
「逃げて。あっちへ」
俺は振り返らずに言った。背中で生徒を見ていない。けれど廊下の奥へ行けという意味は伝わるはずだ。
「は、はい」
生徒の足音が遠ざかっていく。境目の方へ。境目を越えていく音。亀裂のない床の上に戻る音。
(無事か)
確認したい。けれど振り返れない。海面を見ている。尾がまた来るかもしれない。海の中に何かがいる。黒い影が動いている。
その時。
少女が動いた。
金の髪が揺れる。青い瞳が海面を見ている。少女の背中から——何かが現れ始めた。
光だ。
少女の背中に光が集まっている。白い光。金色の光。背中の空気が揺れている。空気の温度が変わる。熱くもなく冷たくもなく——ただ変わる。空気の密度が変わる。
(何だ)
光が形を取り始めた。
輪郭が見える。人の形。けれど人ではない。もっと大きい。盾を持っている。槍を持っている。黄金の——鎧。女神のような姿。長い髪。兜。盾と槍。
(ペルソナ)
その言葉が頭に浮かんだ。見たことがある。自分の力。自分の背中に現れる存在。けれどこれは——俺のじゃない。
少女の背中に現れた存在が、槍を構えた。
黄金の槍が海面を指す。海の中の影を指す。尾が動いている影を指す。
「アテナ」
少女が言った。その名前を呼んだ。存在の名前を。
アテナが動いた。
槍が突き出される。海面へ向かって。槍先が海面を貫く。水が跳ねる。波が立つ。海の中の影が——悲鳴を上げた。声にならない声。海の中から泡のような音が溢れる。
尾が暴れた。海面が揺れる。波が立つ。けれどアテナの槍が尾を押さえている。海の中の影を押さえ込んでいる。
(足止めしている)
少女がこちらを見た。青い瞳が俺を見ている。
「今です。彼を連れて戻ってください」
声が落ち着いている。戦闘中の声だ。報告するような声。けれど命令ではない。提案だ。役割の分担。
「分かった」
俺は頷いた。振り返った。生徒がいた。境目のすぐ手前で立ち止まっている。振り返ってこっちを見ている。
「来い」
俺は手を伸ばした。生徒の手を掴む。震えている手。冷たい手。けれど温かい。
「走るぞ」
生徒を引いた。境目へ向かって。境目の線を越える。亀裂のない床の上に戻る。
足裏の感触が変わった。揺れない。安定している。普通の廊下の床だ。
(戻った)
生徒を支えた。生徒が膝をつく。肩で息をしている。顔が真っ青だ。けれど生きている。
「大丈夫か」
俺はマイスの姿のまま尋ねた。仮面越しの声だ。生徒が顔を上げた。マイスの仮面を見て——目を丸くした。
「な、何だよこれ」
「説明は後だ。今は安全な場所へ行け。下駄箱の方へ」
「で、でも」
「早く」
生徒が頷いた。よろめきながら立ち上がる。支えて背中を押す。生徒が廊下を走り出す。下駄箱の方へ。足音が遠ざかっていく。
(助かった)
俺は息を吐いた。肩の力が抜ける。
背後で音がした。水の音。波の音。アテナの槍が海面を叩く音。少女の声。
「引き上げます」
少女の声が聞こえた。それから何かが引っ込む音。光が消える音。
振り返った。
境目の向こう。海が見えなくなっていた。亀裂が消えている。廊下の床が元に戻っている。ただのコンクリートの床。亀裂も海もない。
少女が立っていた。金の髪。青い瞳。制服。背中には何もいない。光も消えている。
(ペルソナが消えた)
少女がこちらを見た。俺を見ている。マイスの姿を見ている。青い瞳が俺の仮面を捉えている。
俺は少女に向き直った。
少女も俺に向き直った。
廊下の蛍光灯が buzz と鳴っている。境目が消えた後の廊下は、ただの放課後の校舎に戻っていた。床に亀裂はない。海もない。壁があるだけだ。さっきまで亀裂があった場所に、何もなかったかのように。
俺は少女と向き合っていた。
マイスの仮面越しに、少女の青い瞳が見える。少女も俺を見ている。金色の短い髪。うちの学校ではない制服。首元に赤いリボン。
(先ほどの——あれは)
聞きたいことがあった。少女の背中に現れた黄金の存在。槍と盾を持った——人の形をした何か。あれは何だと。聞きたかった。
けれど。
(あの子も、見た)
俺の変身を。俺がマイスになった瞬間を。少女は見ていた。俺が銀色の装甲に身を包んだ瞬間を。そして今、俺は仮面越しに少女を見ている。
少女の手が動いた。右手で左手の袖口を掴む。いや——袖口ではない。制服の袖の奥、手首のあたり。機械的な部品が見えかけた場所だ。そこを無意識に触っている。
(機械——いや、今はいい。今は)
何から話すか。廊下の突き当たりに視線を移した。壁がある。さっきまで扉があった場所。いや——扉があったのは動画の中だ。現実にはずっと壁だ。けれどさっき、この場所に亀裂が走って、海が見えて、あの尾が来た。
視線を戻す。少女も廊下の壁を見ていた。俺と同じ場所を。壁のあった場所を。そしてまた、俺に目を戻した。
「…さっきの、あれ」
俺が口を開いた。声が仮面越しに響く。マイスの声だ。真瀬結人の声とは少し違う。けれど言葉は同じだ。
「あれを追っているのか」
少女の青い瞳が、一瞬だけ俺の背後のマイステールに移った。それから戻った。
「追っています。シャドウを」
「シャドウ」
その言葉が、俺の胸の奥で響いた。シャドウ。俺が知っている言葉と同じだ。引き潮のシャドウ。港で戦った牙不可思議。不可思議事件研究会が調べている事件の名前でもある。けれど——今この少女の口から出た「シャドウ」は、俺が知っている意味と同じなのか。
「…あいつらのことか。人を襲う、あの」
「人を襲う影の存在。あなたも認識しているのですね」
少女の声が少し変わった。確認する声から、少し確信に近い声に。
「ああ。この前も港で」
言いかけて、止まった。港のことを話していいか。マイスとして戦ったことを。引き潮のシャドウと戦ったことを。初対面の相手に、どこまで話すか。
(…少しだけ)
「港で人を襲った。同じようなのがいた。俺はそれを追って、ここに来た」
「港で。同じ影が」
少女の目が動いた。俺の顔——仮面の上を、何か読み取るように動く。
「あなたも、シャドウと戦う力を持っている。そうですね」
問いだった。けれど確認に近い問いだった。さっきのマイスへの変身を見られている。それを隠す必要はない。
「ああ。持っている」
それだけ言った。それ以上は言わない。力がどういう仕組みか。マイスドライバーがどういうものか。ライドエグズが何か。それは——話さない。少女も、自分の力については「調査中です」としか言わなかった。同じだ。お互いに、力の仕組みまでは明かしていない。
(あの金色の存在も、俺の力と同じとは限らない)
少女の背中に現れた存在。槍と盾を持った、女神のような姿。あれは——俺のペルソナとは違うかもしれない。同じ「シャドウ」という言葉を知っていても、力の仕組みが同じとは限らない。
「あなたは、何を調べている」
俺が尋ねた。少女の視線が廊下の壁に一瞬移って、戻った。
「行方不明者の捜索です」
「行方不明者」
「ええ。この地域で、シャドウに関連すると見られる失踪事案が発生しています。その調査と制圧の為に派遣されました」
「派遣された」
「はい」
少女はそこで言葉を止めた。派遣された——組織がある。けれどその組織の名前は、まだ出ていない。俺も、不可思議事件研究会の名前は出していない。お互いに、所属までは明かしていない。
(行方不明者。失踪事案)
けれど——少女の言った言葉が、俺の胸に刺さった。失踪。行方不明。俺が調べているのも同じだ。友人が戻ってこない。教室に入っていったきり。図面にはない扉の中へ。
「…俺も同じだ」
俺は言った。
「友達が、ここでいなくなった。この廊下の先に、あるはずのない扉があって、その中に入っていった。それきり戻ってこない」
少女の目が、俺の目を捉えた。青い瞳が、マイスの複眼の奥にある俺の目を見ている。
「あるはずのない扉」
少女がその言葉を繰り返した。低い声で。何かを確認するように。
「この廊下の突き当たりに。図面には壁と書いてあるけれど、動画の中には扉があった。その中に友達が入っていった」
「…同じです」
少女が言った。声が少し変わった。低い。真剣な。
「私が追っている事案も、同じ構造です。存在しないはずの場所に、扉が現れる。人がその中に入る。そして戻らない」
廊下の蛍光灯が buzz と鳴った。静かな廊下にその音が響く。二人の間に沈黙が落ちた。けれど気まずい沈黙ではない。同じものを見ていると分かった上での、短い間。
少女が動いた。
右手を前に出した。握手の手ではない。掌を上に向けた手だ。何かを差し出すような、あるいは何かを承知していることを示すような手だ。
「アイギス」
少女が言った。
「私の名前は、アイギス。対シャドウ特別制圧部隊、シャドウワーカー所属です」
「シャドウワーカー」
聞いたことのない名前だった。対シャドウ特別制圧部隊。組織の名前。けれど俺には馴染みがない。不可思議事件研究会とも、達臣が関わっているかもしれない十二支同盟とも違う。聞いたことのない名前。
(シャドウワーカー。対シャドウ特別制圧部隊)
組織の全貌は分からない。けれど——少女は今、名前を出した。自分の名前を。所属を。それは、俺に情報を渡したということだ。
「…真瀬結人」
俺は言った。マイスの仮面越しに。けれど名前は本名だ。
「不可思議事件研究会の、部員だ。友達がいなくなった事件を調べている」
「真瀬結人さん」
アイギスがその名前を口にした。「さん」がついた。丁寧な口調。きっちりとした話し方。それがこの少女の普段の声なのだろう。
「不可思議事件研究会。その名前の通り、不可思議な事件を調査している組織、でありますか」
「組織って程のものじゃない。部活動だ。高校の」
「部活動」
アイギスの目が少し動いた。意外だという色が一瞬だけ浮かんで、消えた。
「…しかし、あなたはシャドウと戦う力を持っている。部活動の枠に収まるものではないはずです」
「…まあ、そうだな」
否定しない。けれど詳しくは話さない。マイスの力がどういうものか。ライドエグズが何か。それは——まだ話さない。
「力の仕組みは、今は話さない。あんたもそうだろ」
アイギスの目が俺を見た。一瞬の間。それから頷いた。
「…はい。私も、今は詳細を明かせません。けれど」
アイギスの手が、廊下の壁に向いた。突き当たりの壁。さっきまで扉があった場所。
「私たちが追っている事案に、共通点がある。それは確かです。真瀬結人さんが調べている失踪事案と、私が追っている行方不明者の事案。同じ場所に、同じように現れた扉。同じ影の関与」
アイギスの声が少し変わった。報告するような声から、提案する声に。
「情報を交換しませんか。私たちが持っている情報を照合すれば、この事案の全貌に近づけるかもしれません」
アイギスの青い瞳が、俺を見ていた。
俺は——アイギスを見ていた。