PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
怪人が動いた。
正面の三匹が同時に触手を振り上げる。さっきフェリー船内で見た光景と同じだ。だが今の俺は裸じゃない。黒と銀の装甲を纏っている。青い複眼が怪人の動きを捉えている。
(来る。三方向から同時。さっきは防げなかった。今は)
動こうとして、身体がついてこなかった。
(重い。いや重くない。軽い。軽すぎて感覚が掴めない)
装着した瞬間に身体が軽くなった。だがその軽さが逆に仇になっている。普段の自分の体重の感覚で筋肉を動かしているから、反応が全部半歩ずれる。右に避けようとして身体が右へ突っ込みすぎる。左にステップしようとして足が滑りすぎる。
(調整が狂ってる。俺の身体感覚と装甲の性能が噛み合ってない)
触手が迫る。一匹目を横に飛んで避けた。いや飛びすぎた。壁がない空間を転がって肩から床に叩きつけられた。銀色の円形フレームがガリッと床を擦る音がする。
(痛くない。装甲が衝撃を吸収してる。でも体勢が悪い)
二匹目の触手が転がった俺に向かって降ってきた。間に合わない。腕を顔の前に構える。ガギンッ。触手が腕の装甲に当たって弾けた。衝撃が肩に伝わる。痛くはない。だが腕が押し込まれる。力負けしている。
(力も足りない。いや違う。力の使い方が分かってない)
三匹目が回り込んできた。背後だ。尻尾が勝手に動いた。長い鼠の尻尾が背後の気配を察知して鞭のようにしなり、三匹目の触手を弾く。カキンッという音がして触手が逸れた。
(尻尾が勝手に。あの尾、感覚器官なのか? 後ろが見えなくても分かる)
起き上がった。膝をついた姿勢から立ち上がる。周囲を見回す。怪人は十匹以上いる。さっきより増えている。暗闇の向こうからまだ湧き出てくる。
(多勢に無勢なのは変わらねえか。でも今の俺には)
メリダルパクスが背後にいる。銀灰色の鼠の戦士が、変身した俺の後ろに重なっている。ペルソナとライダーが同時に存在している。二重の力。
「小さいからって舐めてんじゃねえぞ」
口から勝手に言葉が出た。自分でも何を言ってるか分からない。でも言わずにいられなかった。
正面の怪人が再び触手を振り上げる。今度は二匹同時だ。俺は右にステップした。今度は半歩だけ。感覚を掴み始めている。身体が軽い。その軽さを活かすには力を抜けばいい。力を抜いて、風に乗るみたいに足を流す。
二本の触手が空を切った。風圧が複眼の表面をかすめる。近い。だが当たっていない。
(見える。今の俺には見える)
青い複眼が、怪人の動きを細かく捉えている。触手が振り上げられる瞬間の筋肉の収縮。関節の角度。振りの軌道。全部が目に見える。
(一点集中。ゴーグルを下ろす時と同じ感覚だ。いや、ゴーグルは要らねえ。今の複眼がゴーグルの代わりになってる)
目の前の怪人の右腕、触手の付け根に、関節の隙間が見えた。不自然に曲がった関節の継ぎ目。そこが、硬い装甲の隙間が。
(そこだ)
右手が動いた。手甲の先の鼠の爪が怪人の関節を狙って伸びる。ガキンッ。爪が関節の隙間に入り込む。硬い手応え。だが爪が食い込んでいる。怪人がのけぞる。触手がだらりと下がった。関節を突かれて動けなくなったのだ。
(効く。関節を狙えば効く。力比べじゃなくて、構造の弱点を突く。いつもやってる機械の修理と同じだ。壊す方だけど)
二匹目が横から来た。今度は左。尻尾が先に反応して背中に警報を鳴らす。くるりと振り向いて、下から上へ掌を突き出す。手甲の円形フレームが触手の根元を弾いた。カキン。触手が上へ逸れて天井方向へ抜ける。その隙に身体を沈めて二匹目の腹に膝を叩き込む。
ズドン。
重い音がした。怪人が折り畳まれるみたいに崩れた。
(身体能力。これが俺の身体能力か。跳ぶ、走る、避ける。全部が今までの自分と段違いだ。慣れればもっと速く動ける)
三匹、四匹と倒した。だがまだまだ足りない。増える速度が俺が倒す速度より速い。包囲網が狭まっている。
(武器だ。何か武器が)
その時、ドライバーが微かに熱くなった。胸の中央の楕円形本体が脈動する。ドクン。何かを呼んでいる。俺の手が勝手にドライバーの縁に触れた。指先が橙金色の縁取りをなぞると、本体の右側面から何かが展開した。
銀色の刃だった。
折り畳まれていたものが伸びる。銀色の刃。柄があり、鍔があり、刃がある。だが刀剣というよりは工具に近い形状だ。サイズが手の中に収まる。振ると軽い。
(マイスエッジ。名前が分かる。ペルソナの時と同じだ。触ったら使い方が分かる)
マイスエッジの柄を握った。手に馴染む。自分の手の延長みたいだ。刃が微かに光る。銀色の刃に青い光が走る。
(二つの形がある。シューターモードとスライサーモード)
手首を返すと刃が折れ畳んで銃の形状になった。シューターモード。引き金がある。狙いをつけるサイトがある。弾丸が出るのか。いや光が出るのか。試す暇はない。
シューターモードのマイスエッジを正面の怪人に向けた。引き金を引く。
バシュッ。
青い光弾が飛んだ。速い。一直線に飛んで怪人の肩関節に当たる。カキン。関節が砕ける。触手が垂れ下がる。
(当たる。狙った場所に当たる。一発で関節を潰せる)
続けて三発。右肩、左肩、膝。三匹の怪人の関節を正確に撃ち抜く。倒れたところに駆け寄って、もう一発ずつ頭部に叩き込む。
(シューターモードで関節を潰して動きを止めて。とどめは)
手首を戻す。刃が展開する。スライサーモード。銀色の刃が青い光を帯びる。
スライサーモードのマイスエッジで倒れた怪人の中心を切り裂く。ザンッ。黒い泥が裂けて光が流れ込む。消滅する。
(切れる。触手も装甲の継ぎ目も、刃が滑るみたいに切れる。この刃、硬度じゃなくて構造の隙間を狙って切る設計なのか。工具みたいだ。解体する道具だ)
五匹目。六匹目。シューターで関節を潰してスライサーで裂く。繰り返す。リズムができてきた。身体の動きにも慣れてきた。最初は半歩ずれていたステップが、今は半歩の余裕を持って敵の死角へ入れる。
(慣れてきた。いや慣れてない。まだ手探りだ。でも、少しずつ、この身体の使い方が分かってきた)
左右から二匹同時に攻めてきた。右の触手をスライサーで斬り落とす。左の触手を尻尾で弾く。その間にシューターで正面の三匹の足を撃ち抜く。
(四匹同時に相手してる。メリダルパクス一人の時は三匹が限界だった。今は四匹いける。ペルソナとライダーが重なってるからか? 二人の力が合わさってる)
メリダルパクスの槍が背後から伸びた。俺が見落とした背後の怪人を、ペルソナの槍が貫く。ズドン。消滅。
(後ろは任せられる。俺が見てない死角を、メリダルパクスが埋める。だから俺は前に集中できる)
視野が狭くなる。集中モードだ。ゴーグルを下ろす時と同じ。青い複眼が正面の敵だけを捉え、周囲の情報が消えていく。背後はメリダルパクスに任せる。前端は俺が制する。
(一点集中。今の俺にちょうどいい)
七匹。八匹。九匹。倒す速度が上がっている。包囲網が逆に薄くなってきた。俺が包囲を削り取っているのだ。
(いける。このまま全部倒せる)
残り五匹になった時、怪人たちの動きが変わった。一斉に後退ったのだ。包囲を解いて逃げようとしている。
(逃がすかよ)
足を踏み出した。速い。一歩で三メートル近く跳んだ。鼠みたいに低く地面を滑るように。背中を丸めて重心を前に。この姿勢だと空気抵抗が少ない。加速する。銀色の円形フレームが空気を切る音がする。
(鼠の走りだ。猫のあいつとは違う。俺は地面を這って走る。低く、速く、隙間を縫って)
追いついた。最後尾の怪人の背中にマイスエッジを突き立てる。スライサーモードの刃が背中の中心を裂く。黒い泥が弾けて消える。
四匹。三匹。二匹。
残り一匹になった時、こいつは他の怪人より一回り大きかった。触手が太い。体躯が重い。関節の動きが他より滑らかだ。
(強い個体か。ボスクラスか)
デカい怪人が触手を振り回した。今までの触手とは違う。鞭じゃなくて鉄塊みたいに重い一撃。正面から受けるわけにはいかない。横に跳ぶ。だがこいつは次の動作が速かった。触手を振り回したまま回転して、避けた方向へ追撃してくる。
(速い。重いのに速い。今までの雑魚とは訳が違う)
触手が肩の装甲をかすめた。ガギン。衝撃で身体が斜めに流れる。今までの怪人とは手応えが違う。一発で装甲にヒビが入るかもしれない重さだ。
(正面からは無理だ。力勝負はしない。いつもそうだ。俺は正面からやらない)
下に潛った。しゃがみ込む。さっきの変身ポーズみたいに右膝に頬杖をつく体勢で、デカい怪人の懐に入る。触手は頭上を通過する。当たらない。懐に入った。
(見える。こいつの関節。今までの雑魚より硬い。でも継ぎ目はある)
シューターモードで右膝の関節を撃つ。バシュッ。青い光弾が膝に当たる。硬い。砕けない。だが少し弾けた。隙間ができた。
もう一発。同じ場所。バシュッ。関節の隙間が広がる。
三発目。バシュッ。膝が折れた。
デカい怪人が片膝をつく。その隙にスライサーモードに切り替えて、折れた膝の隙間に刃を滑り込ませる。ザンッ。脚が切り離された。黒い泥が噴き出す。
(落とした。体勢を崩した。今だ)
怪人が触手を振り上げる。片脚でバランスを崩しながら、それでも攻撃してくる。だが遅い。体勢が崩れている分、軌道が読める。
横にステップして触手を避ける。尻尾で床を蹴って安定させる。その間にマイスエッジをシューターモードに戻す。残った関節、肩、肘、手首。順番に撃っていく。
四肢の関節を次々と砕く。触手が垂れ下がる。動けなくなったデカい怪人が、黒い泥の塊になって崩れ落ちていく。
(とどめだ)
マイスエッジをスライサーモードに切り替える。刃を構える。青い光が刃に集まる。
その時、ドライバーが反応した。胸の楕円形本体がドクンと強く脈打つ。左右のレバーが微かに振動している。
(今だ。このタイミングで。分かる。使い方が分かる)
両手でドライバーの左右のレバーを掴んだ。内側へ閉じる。ギュッ。レバーが閉じてデカい怪人の中心を固定する。標準が定まる。
「小さいからって見落としてんじゃねえ――」
叫んだ。
両手でレバーを押し割る。
デカい怪人が崩れ落ちていく。四肢の関節を砕かれ黒い泥がだらりと垂れ下がった触手はもう動かない。だがまだ消滅していない。核が残っている。胸の奥でドライバーが脈打つ。まだだ。まだ足りない。
(とどめだ。こいつの核を砕く)
マイスエッジを腰のホルスターへ戻した。武器は要らない。この距離なら足の方が速い。身体がそう告げている。鼠の尻尾が床を叩いてリズムを取る。
デカい怪人の中心。泥の奥で光る目玉みたいな核がこちらを見ている。
「終わりだ」
胸元のマイスドライバーに手をかけた。
上下のレバーを掴む。さっき変身した時と同じように。力を込める。
バンッ!
レバーを押し割った。上下に展開する。銀色の節状装甲の隙間から青い光が溢れ出した。さっきまでとは比べ物にならないくらい強烈な光だ。視界が青く染まる。
爆発の余韻が消えた。
光が引いていく。青い残光が視界の端で揺らめいて、暗闇の粒子みたいに散っていく。熱い風が止まる。耳鳴りが遠のく。
静寂。
(終わった……のか?)
俺は立っていた。爆発を背に受けて。青い複眼で暗闇を見据えて。
だが、暗闇はもう暗闇じゃなかった。
輪郭が変わっている。床の質感が変わった。さっきまで音を吸い込んでいた無機質な地面が、いつの間にか馴染みのあるフローリングに戻っている。ミシミシと軋む木の床。船の床だ。
(戻った?)
天井を見上げた。ある。天井がある。暗闇が果てしなく続いていた空間に、白い天井と照明のカバーが戻っている。照明は落ちている。非常灯の青白い光だけが点滅している。だがそこにある。
壁もある。窓もある。席もある。
全部、フェリーの船内に戻っていた。
「……嘘だろ」
声が出た。俺の声だ。変身前の声だ。
下を見た。
黒と銀の装甲は消えていた。鼠の尻尾もない。胸元のドライバーもない。マイスエッジもない。俺のシャツ。俺のズボン。俺の靴。さっきまで纏っていた装甲が全部消えて、普通の高校生に戻っている。
(変身解除? いつの間に)
手を見た。爪がない。銀色の手甲がない。普通の手だ。指が震えている。さっきまでの震えとは違う。武者震いじゃなくて、寒気に近い。
(夢……なのか?)
周囲を見回す。
船内は静かだった。非常灯が点滅している以外は、いつものフェリーの船内だ。エンジンの低い振動が床から伝わってくる。窓の外を見る。黒い海。波の音。星明かり。
さっきまでの黒い泥。蠢く触手。不自然な関節。あの不気味な空間の歪み。全部消えていた。まるで何も起きなかったみたいに。
(いや。何も起きてないわけじゃない)
左腕を見た。シャツの袖が破けている。さっきシャドウの触手に掠られた場所だ。赤いミミズ腫れが腕に残っている。出血はない。だが痛い。鈍い痛みがまだ残っている。
(これは夢じゃない。痛い。本当に痛い。夢なら痛くない)
腰のポーチを探った。ゴーグルは首に掛かっている。キャップは……ない。どこかで飛んでいったままだ。油性ペンとメモ帳は残っている。
(やっぱり夢じゃない。帽子がねえ。あの帽子、気に入ってたのに)
ふらりとよろめいた。膝が笑っている。疲労が一気に押し寄せてきた。変身していた時は消えていた疲労が、変身が解けた瞬間にまとめて戻ってきたみたいだ。目の奥が痛い。頭痛がする。集中モードの後の頭痛だ。
「うっぷ……」
吐き気が込み上げた。胃が裏返るみたいな感覚。口を押さえて深呼吸する。三回。四回。落ち着いた。ギリギリセーフ。
(まずい。このまま吐いたら洒落にならない)
近くの席に座り込んだ。椅子の背に頭を預ける。天井を見上げる。非常灯が点滅している。規則的なリズム。催眠灯みたいだ。
(あの空間の渦。俺は吸い込まれて。白い装置があって。それを胸に巻いて。変身して。シャドウを倒して。爆発して。戻った)
順番に整理しようとした。だが頭が回らない。疲れすぎている。順番がぐちゃぐちゃになる。
(あの赤い猫。十三代目葛葉ライドウ。あいつはどこ行った)
船内を見回した。いない。もちろんいない。あの赤い影も、イゴールも、ウォルトンも、誰もいない。俺一人だ。
(他の乗客は?)
立ち上がって船内を歩いた。廊下へ出る。客室を見る。乗客がいた。座席で眠っている人。スマホを見ている人。窓にもたれて目を閉じている人。
普通だ。全員が普通だ。さっきの悲鳴もパニックもなかったみたいに。誰も怪我をしていない。誰も慌てていない。
(覚えてないのか? さっきのこと。俺だけが覚えてて、他の人は覚えてない?)
それとも、本当に俺の頭の中だけで起きたことなのか。
(いや。左腕の傷がある。シャツが破けてる。これが現実じゃないなら何が現実だ)
でも。
(でも、あの空間から戻ったら何もなかったことになってる。夢だったって言われたら否定できない。あの老人と水先人の言葉も、カードの絵柄も、赤い猫の名前も、全部夢の中の出来事だったって言われたら)
腹が立った。自分でも何に腹を立てているのか分からない。ただ、苛立ちが胸の奥でぐずぐずと燻っている。
「夢だったら、よかったのにな」
口に出た。小さな独り言。
夢なら。あの怖い怪物も、死にかけた恐怖も、全部忘れられる。朝起きて、学校へ行って、いつも通りの生活に戻れる。変身装置もペルソナも戦士も、全部夢の産物で済む。
(でも左腕が痛い。これだけは夢じゃない)
ため息をついた。窓の外を見る。夜の海。変わらない。ずっと変わらない。波の音だけが聞こえる。
(ああ、そういえば。俺、フェリーで移動してたんだった)
引っ越しだ。南星学園都市への転校。新しい学校。新しい寮。新しい生活。そのための移動だ。
(初日から何やってんだ俺。引っ越し初日に怪人と殴り合うなんて、案内パンフに書いとけ)
自嘲するしかなかった。笑えない。でも笑うしかない。
座席に戻って座った。身体を投げ出す。天井を睨む。非常灯が点滅している。疲れた。眠い。でも眠ったらまたあの船室に戻るかもしれない。イゴールの長い鼻。ウォルトンの金の瞳。あのカードと蝋燭の揺れるベルベットルーム。
(眠りたくない。でも眠らないと体力が回復しない。ジレンマだ)
その時だ。
『間もなく、環凪島に到着いたします。お降りの際は忘れ物にご注意ください——』
船内放送が響いた。
穏やかな女性の声。アナウンスだ。フェリーの到着案内。普通の。いつもの。何の変哲もない。
環凪島。
目的地だ。南星学園都市がある島。俺がこれから住む場所。
(着いたのか。もう)
窓の外を見た。暗い海の向こうに、街明かりが見え始めていた。橙色の光が点々と並んでいる。島の灯りだ。
(あそこが。俺の新しい場所か)
何もかもが噛み合わない。怪物と戦って、変身装置を手に入れて、異空間に落ちて、爆発の余韻の中で。その全部がまだ頭の中で整理できていない。
それなのに、もう着いてしまった。
(準備が何もできてない。心の準備も、身体の準備も、何もかも)
立ち上がった。足は震えている。でも動く。荷物を拾う。カバンを掴む。破れたシャツの袖をまくって、傷を隠す。
(誰にも見せちゃいけない。この傷を。さっきのことを聞かれても答えられない。自分でも分かってないから)
船がゆっくりと港へ近づいていく。エンジンの音が変わった。波の音が変わった。岸壁の灯台の光が窓を掠める。
(環凪島。南星学園都市。新しい学校。新しい寮。新しい生活)
下船のアナウンスが流れた。乗客たちが立ち上がる。荷物を持つ。列を作る。いつもの風景。誰も何も覚えていない。
俺も列に並んだ。カバンを持って。帽子のない頭を撫でながら。
(夢か現実か、ってのは後で考える。今はとりあえず降りる。降りて、寮に行って、寝る。明日は学校だ。転校初日だ。それだけを考えろ俺)
一歩を踏み出した。
タラップを降りる。足が地面を踏む。島の地面。湿った空気。潮の匂い。夜風が頬を撫でる。
(ここが。俺の新しい場所だ)
環凪島の夜は静かだった。
その時、俺の横を通り過ぎたのを気付かず。