イサラ・ギュンターの逆行奮闘記 作:ムール貝
ロージーさんが、笑っていた。ほんの少しだけ、不器用な笑い方だった。いつものように口の端を上げて、何か皮肉の一つでも言うような顔ではない。少し困ったような、照れたような、そんな笑顔だった。
だから私は、嬉しかった。たぶん、顔にも出ていたと思う。ここまで来るのに、ずいぶん長い時間がかかった。
ダルクス人
その言葉だけで、私は何度も人から遠ざけられてきた。何かをしたからではない。私が私として生まれた、そのことだけで。
子供の頃は、それが不思議だった。どうして嫌われるのか分からなかった。服が汚れているからだろうか。髪型がおかしいのだろうか。話し方が変なのだろうか。幼い私は、本当にそんなことを考えた。
けれど、そうではなかった。何を変えても駄目だった。私がダルクス人である限り、それだけで嫌う人はいる。そう知った時は、少しだけ悲しかった。
でも、お兄ちゃんは違った。だから私は大丈夫だった。お兄ちゃんは、私を見る時に余計なものを見ない。ダルクス人でも、技師でも、義勇兵でもない。ただのイサラとして見てくれる。妹として。家族として。
だから、きっと私はずっと恵まれていたのだ。そう思えるようになったのは、いつ頃からだっただろう。
ロージーさんと話している時、ふとそんなことを考えていた。もしかすると、これからは。この人とも普通に話ができるのかもしれない。好きな食べ物の話をして。歌の話をして。戦争が終わったら何をするのか、そんな他愛のない話をして。いつか、笑って。
そんな未来が少しだけ見えた。
――乾いた音がした。
ぱん、と。
驚くほど軽い音だった。それが銃声だと分かったのは、少し後だった。
身体が揺れた。誰かに強く押されたのかと思った。でも、後ろには誰もいない。変だな。そう思った。
足に力が入らなかった。世界が傾いた。地面が近づいてくる。ああ、転んじゃう。そんなことを考えていた。
「……?」
声を出したつもりだった。ちゃんと出たかは分からない。ロージーさんが目を見開いていた。どうしたんだろう。何か、怖いものでも見たみたいな顔をしている。私は気になって声を掛けようとした。
その瞬間だった。胸の奥が、焼けるように痛んだ。
「っ……」
息が止まった。
違う。止まったのではない。吸えない。胸が動いているのに、空気が入ってこない。どうして。何が。
視線を下げる。制服が濡れていた。赤い。赤いものが、じわじわと広がっていく。
血。
ああ。私の。
そこまで考えて、ようやく理解した。
撃たれたんだ。私は。撃たれた。
不思議なくらい、頭の中は静かだった。機械の故障を見つけた時みたいだった。
異音がする。振動がある。燃料が漏れている。原因を一つずつ確認していく。
銃創。出血。呼吸困難。急激な脱力。
危険。とても危険。
そこまで分かった。分かったのに、何もできなかった。
エーデルワイスなら、工具があれば直せる。部品が壊れていたら取り替えればいい。配線なら繋ぎ直せる。装甲板なら補修できる。どこが悪いのか分かれば、直し方を考えられる。
でも、身体は。自分の身体は。
どうやって直せばいいんだろう。
「イサラ!」
ロージーさんの声。近い。すぐ側にいるはずなのに、遠くから聞こえる。
肩を抱かれた。何かを傷口に押し当てられる。痛い。痛い。でも、それ以上に寒かった。さっきまで暑かったのに。海岸の空気は暖かかったはずなのに。どうしてこんなに寒いんだろう。
ロージーさんの手が震えている。私は、その手を見た。私に触れている。あのロージーさんが。
そう思うと、何だか嬉しかった。変なの。こんな時なのに。
「……ロージー、さん」
呼ぶ。彼女は顔を近づける。何か言っている。聞き取れない。でも、泣きそうな顔をしている。
泣かないでください。そう言いたかった。あなたは悪くありません。そう言いたかった。
私、本当に嬉しかったんです。さっき。あなたと少し近づけた気がして。これから、もっと話せると思って。だから、そんな顔をしないで。
そう言いたかったのに、口がうまく動かなかった。息が足りない。言葉を作るだけで疲れる。人間って、こんなにたくさん空気を使って話していたんだ。知らなかった。
もっと話しておけばよかった。ふと思った。
ロージーさんとも。アリシアさんとも。小隊のみんなとも。兄さんとも。もっと。もっと、たくさん。
いつでも話せると思っていた。明日もあると思っていた。戦争が終わった後も。そんなもの、誰にも約束されていなかったのに。
馬鹿だな。私。
足音が聞こえた。誰かが走ってくる。その音だけで分かった。
兄さんだ。
どうして分かったのか、自分でも分からない。でも、分かった。
「イサラ!」
聞き慣れた声。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に別の痛みが走った。
怖い。
初めて、そう思った。撃たれた時でもなかった。血を見た時でもなかった。自分が助からないかもしれないと気づいた時でもない。
兄さんの声を聞いて、初めて怖くなった。
私がいなくなったら、兄さんはどうなるんだろう。
目を開ける。顔が見えた。ひどい顔。兄さんらしくない。
いつもなら、どんな時でも少しぼんやりしていて。戦場なのに雲を眺めたり、草や虫の話をしたり。困った人。
でも、私はそんな兄さんが好きだった。昔から。
私たちは、本当の兄妹ではない。そんなことは知っている。血は繋がっていない。でも、それが何だというのだろう。
私が悲しい時、兄さんは側にいてくれた。私が困っている時、兄さんは助けてくれた。私が嬉しい時、兄さんも一緒に笑った。
それなら家族だ。血よりずっと分かりやすい。
兄さんの腕に抱かれる。暖かい。ああ、暖かい。少しだけ寒くなくなった。
昔もこうして抱いてもらったことがあっただろうか。よく覚えていない。
幼い頃。ブルール。家。食卓。工具の匂い。油のついた手。エーデルワイス。お父さん。
断片が浮かぶ。写真みたいに。一枚。また一枚。
記憶って不思議だ。思い出そうとしても出てこないことが、こんな時には勝手に出てくる。
お父さん。私は、ちゃんとできていましたか。あなたみたいな技師になれましたか。
エーデルワイスを守りました。兄さんを乗せて、たくさん走りました。故障もしました。何度も直しました。怒られたり、褒められたりもしました。
私。ちゃんと役に立てていましたか。
まだ聞きたいことがたくさんあった。まだ作りたいものもあった。
飛行機。
そうだ。飛行機。まだ完成していない。
頭の中に設計図が浮かぶ。翼。骨組み。重量。推力。計算。改善しなければいけない箇所がある。試したいこともある。
まだ。まだ途中なのに。
私は、兄さんを空へ連れていくつもりだった。ずっと前から。
地上では、たくさんの線がある。国境。民族。軍隊。敵。味方。ダルクス人。そうやって、人はたくさんの線を引く。
でも、空にはそんな線はない。きっと高いところから見れば、ガリアも帝国も、小さく見える。人が勝手に引いた境界なんて、見えなくなる。
だから、一度、兄さんと見たかった。空から。私たちが住んでいる世界を。
戦争が終わったら。飛行機が完成したら。最初に兄さんを乗せようと思っていた。
怖がるかな。いいえ、たぶん喜ぶ。兄さんはきっと生き物を見ている時のように目を輝かせるに違いない。風がどうだとか。鳥はどうやって飛んでいるとか。そんな話ばかりするんだ。
私は操縦しながら、また始まった、と思う。
そんな未来をずっと見ていたかった。
急に、涙が出そうになった。
死にたくない。
言葉が頭に浮かんだ。はっきりと。
私は、死にたくない。
まだ何も終わっていない。戦争の終わりも見ていない。ブルールにも帰っていない。飛行機も完成させていない。ロージーさんとも、まだ仲良くなったばかりなのに。兄さんにも、もっとたくさん言いたいことがある。
まだ。まだ。
私は生きたい。
その思いは、驚くほど強かった。
怖かった。消えるのが。私が私でなくなることが。目を閉じたら、そのまま二度と開けられないことが。
だから目を開けていようとした。でも、まぶたが重い。兄さんの顔がぼやける。声も遠くなっていく。
駄目。まだ。寝ちゃ駄目。起きていないと。
私は伝えなければ。
「……兄、さん」
自分の声なのに、小さかった。兄さんが顔を寄せる。聞いてくれる。
いつもそうだった。どんなに変な話でも。どんなに細かな機械の話でも。兄さんは聞いてくれた。
だから最後も。聞いてほしい。
飛行機のこと。空のこと。
私は一緒に行けないかもしれない。それが悔しい。本当に悔しい。
でも、兄さんには飛んでほしい。私が作りたかった空へ。私が見たかった景色を。見てほしい。
言葉にしようとした。全部は言えなかった。身体がもう言うことを聞いてくれない。
でも、兄さんは分かってくれた気がした。昔からそうだ。私が説明しきれなくても、兄さんは最後には分かってくれる。
だから、もう少しだけ安心した。
ロージーさんもいる。みんなもいる。兄さんは一人じゃない。
そう思うと、少しだけ怖くなくなった。
空が見えた。青い。戦場なのに、こんなにきれいなんだ。
不公平だと思った。人が撃たれて。人が死んで。たくさんの人が泣いているのに。空だけは何も知らないみたいに青い。
でも、それでいいのかもしれない。
いつか戦争が終わっても。私がいなくなっても。空はきっと同じようにそこにある。
兄さん。空を見て。私の代わりに。飛んで。
ロージーさん。歌ってください。私、あなたの歌をもっと聞きたかった。
みんな。生きて。できれば。どうか生きて帰って。
私は。私は――。
何かを考えようとした。けれど、言葉がほどけていく。
寒さも。痛みも。遠くなる。
兄さんの腕の暖かさだけが、最後まで残っていた。
ああ。家族だ。
そう思った。私はちゃんと、家族に抱かれている。
なら、少しだけ大丈夫。
空が滲む。青が白くなる。白が光になる。
その向こうを、飛行機が飛んでいる気がした。小さな機体。翼を広げて。雲を越えて。
そこには境界線なんてなかった。誰も私をダルクス人と呼ばない。誰も誰かを敵と呼ばない。ただ風が吹いている。
兄さんが笑っている。私は操縦桿を握っている。
そんなはずはないと分かっている。分かっているのに、もう、それでよかった。
私は最後に、ほんの少しだけ笑った。
まだ生きたかった。もっと生きたかった。悔しいこともたくさんあった。悲しいことも。腹が立ったことも。理不尽だと思ったことも。全部あった。
それでも、私の人生には、兄さんがいた。家族がいた。仲間がいた。そして最後には、手を伸ばしてくれた人もいた。
だから、全部が悲しかったわけじゃない。それだけは、ちゃんと分かった。
もう声は聞こえなかった。もう空も見えなかった。
最後に残ったのは、名前でも、国でも、戦争でもなく、ただ一つ。大切な人たちのことだった。
そして。
ある少女の世界は、戦場で静かに終わった。
アニメを見ましたが、第十七章が衝撃過ぎて突発的に書いたものです。
妙に心に響いてしまって、茫然自失です。
自分、声優は全く気にしないタイプだったので気付かなかったのですが、人によっては声優の方で察していた方もいたようで更に衝撃です。