魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
見知らぬひとよ、もし通りすがりにきみがわたしに会って、
わたしに話しかけたいのなら、どうしてきみがわたしに話しかけてはいけないのだ?
そして、どうしてわたしがきみに話しかけてはいけないのだ?
――ウォルト・ホイットマン「きみに」
これは記録である。
正確に言えば、記録の体裁を借りたものだ。わたし自身の網膜が受け取った光と、後になっていろはが集めてきた監視カメラの映像、生き残った黒羽根の証言、そして何よりも、わたし自身が幾度となく同じ十一日間を巻き戻して確かめた誤差の少ない断片――それらを継ぎ合わせて、ようやく一つの時系列らしきものに仕立て上げてある。だからこの文章のところどころに、わたしがまだ知らなかったはずのことが混じっていても、驚かないでほしい。マギアレコードは時間を隠さない。わたしはただ、その隠されなかったものを並べ直しているだけだ。
開演前のチューニング音というものは、厚みのある雲層に似ている。音の粒が空間に均一に垂れ込め、個々の楽器の輪郭を溶かしてしまう。三階のボックスシートで、里見那由他はその音を聞き流していた。
那由他の右隣には、彼女を招待した魔法少女が座っていた。長身、銀髪のサイドテール。その姿勢の作り方一つで、この人物が「見られること」に慣れていると分かる。背後の扉には、もう一人――黒髪のショートボブの、体格の小さな魔法少女が背をあずけていた。友人と呼ばれてはいたが、その立ち方は友人のそれではなく、監視者のそれだった。
那由他はこれから起こる何かの段取りを反芻し、この監視者をどうやり過ごすかを考えている様子だった。その思考は、三発の銃声によって物理的に中断された。
銃声というものは、閉じた空間では音というより圧力として身体に届く。鼓膜の前に、まず皮膚が反応する。那由他が悲鳴の意味を理解するより先に、ホールの秩序は崩壊していた。
侵入者たちは指揮者を撃ち、楽団員を殴打し、譜面台と弦楽器を踏み荒らした。彼らの首筋には一様に、魔女の口づけと呼ばれる紋様が浮かんでいた。あの紋様は感染や呪詛の類ではなく、単なる「契約の代替品」だった。魔女の力を借りず、暴力だけを外部から注入するための、ごく実務的な処理だ。
三階のボックスシートから見下ろす限り、その混乱は一枚の絵のように静止して見えた。那由他の背後で、監視者の少女が右目に眼帯をつけ、漆黒のジャケットへと姿を変えたのが視界の端に映った。銀髪の少女は、といえば――表情を変えなかった。まるで開演前の余興でも眺めるような顔だった。人がある種の暴力に対して微動だにしないとき、それは慣れか、あるいは既にその暴力の設計図を持っていることの証明だ。この場合は後者だった。
劇場の外、路肩に停めたワンボックスカーの車内には、四人の魔法少女が乗っていた。
「見滝原の奴を起こせ」
助手席の少女が後部座席に短く告げる。声に感情の起伏はほとんどない。命令は情報であって、説得ではない――この場にいる誰もがそう理解している口調だった。
暁美ほむらは手にしたグロックのスライドを引き、初弾装填を確認した。金属同士が噛み合う感触には、いつも同じ重さがある。何百回この手順を繰り返しても、身体はその重さを軽くしてはくれない。むしろ、繰り返すほどに、この重さこそが唯一確かなものだという感覚だけが増していく。
サイレンの音が近づいてくる。ほむらは窓の外を一瞥した。パトカーが次々と停車し、制服姿の人影が降りてくる。だがそれは、この街の一般人だけに許された解釈だった。実際の車体にはマギウスの翼を示す札が貼られ、降りてくる「警察官」の全員が黒いローブをまとった魔法少女――黒羽根だった。統治の形式と暴力の実体が、この街では最初から乖離している。
助手席の少女が同じ意匠の札をほむらたちに投げてよこす。ベルクロで肩に貼りつけ、黒羽根の一員として車を降りる。数十人の中に紛れることは、正体を隠すという以上に、責任の所在を薄めるという意味を持つ。誰も、誰が撃ったのかを問わない群衆の中では。
横を歩く白いローブの魔法少女――白羽根――が、「ウワサ」という名の噴霧装置を運んでいた。給気口に設置すれば、観客は数分で意識を失う。ほむらを含む全員がガスマスクを着けており、互いの人相は判別できない。潜入という行為にとって、これ以上の好条件はなかった。
那由他はボックスシートで、観客が波のように倒れていくのを見ていた。逃げ出す算段を組み立てかけたところで、隣の魔法少女が懐から白い宝石――彼女の武器の核――を取り出すのを見て、その算段を放棄した。逃走経路の計算は、選択肢が存在しないことが判明した時点で、単なる思考の浪費になる。
黒羽根がホールに雪崩れ込む。ほむらたちは三階へ向かい、区画された部屋を一つずつ検めていく。
那由他のいる部屋のドアが開いた瞬間、世界から音と色が失われた。
時間停止。厳密に言えば、これはほむらの周囲の時間が停止しているのではない。ほむらだけが、止まった世界の中を移動する権利を持っているにすぎない。銀髪の魔法少女の腰、ソウルジェムの位置に二発。黒髪の魔法少女の腕をつかんで解除――静止した世界に運動量が戻る瞬間、二発の銃弾が同時に着弾する。崩れ落ちる仲間の姿に一瞬視線を奪われた銀髪の魔法少女の顎に、拳を打ち込む。五秒に満たない。段取り通りだった。
那由他が振り返ると、黒髪の魔法少女が立ち、二人の魔法少女が床に横たわっていた。
「黄昏に生きる」
「黄昏に、生きる」
繰り返されたその言葉が、事前に伝えられていた合言葉であることに、那由他は遅れて気づく。合言葉というのは、正しく発音されて初めて意味を持つ。発音そのものより、それを覚えていたという事実のほうが重い。
「宵に友なし、ですの」
「正体がバレたわ。このテロも、魔女も、偽装よ」
外の廊下を、黒羽根の足音が近づいてくる。
「でも私……信用されているはずですの」
「時間がない。二分で決めなさい」
「荷物は」
「クロークですの」
ほむらは返事の代わりに窓を叩き割った。ロープを垂らし、悲鳴を上げる那由他を小脇に抱えて一般座席へ降下する。高度と滞空時間の計算は、既に窓を割る前に終わっていた。躊躇する時間があるとすれば、それは計算の後ではなく、計算そのものの中にしかない。
一般座席では、魔女の口づけを受けた男たちと黒羽根の銃撃戦が続いていた。跳弾は法則を持たない――弾道計算に組み込めるのは発射条件だけで、跳ね返った後の軌道は本質的に確率の問題になる。ほむらは那由他を空席に押し込み、通路を駆け上がった。
倒れた黒羽根のバッグから、別の黒羽根が何かを取り出し、座席の下に据えつける。ほむらを見咎めた黒羽根が叫んだ。
「お前もセットしろ!」
バッグの中身は爆弾だった。自作の時限装置を扱った経験なら、ほむらにもある。だが目の前のそれは精巧すぎた。精巧さというのは、しばしば解除の可否と反比例する。表示窓の数字が『4:06』『4:05』と減っていく。
なぜ味方であるはずの黒羽根がこんな装置を仕込んでいるのか――その疑問を検討する猶予はなかった。
「おい、何してる!」
白羽根がほむらの肩の識別票を剝ぎ取る。
「何者だ、貴様――」
言い終える前に、白羽根は崩れ落ちた。峰打ちだった。ただし、それを可能にした深紅の槍は、彼女自身のものではない。
「宵に友なしか?」
槍の主――佐倉杏子もまた、黒羽根のローブをまとっていた。
「助かった。クロークは私が引き受ける。彼女を安全な場所へ」
「分かった」
会話の短さは、信頼の証というより、時間の絶対量の証明だった。
クロークにたどり着いたほむらは、那由他の荷物の中に、下部が球形ではなく立方体の――機械部品にしか見えない――グリーフシードを見つけた。通常のグリーフシードが持つ形状の規則性から、これだけが逸脱している。逸脱とは、しばしば設計の痕跡だ。自然に発生したものではなく、誰かが目的を持って作ったものである、ということの痕跡。
「服を交換して。迎えが待ってる」
巴マミが、那由他と、那由他の制服をまとった美樹さやかに告げる。
「本当にこれがグリーフシードなの」
ほむらが立方体を掲げる。
「間違いなく本物ですの」
「逃げ道は」
「共同溝から下水道に抜けられますの」
「分かったわ。上のワンボックスは美樹さんと暁美さんで。私たちは共同溝から」
決定に要した時間は、口に出された言葉の量よりずっと短い。段取りは既に頭の中で組み上がっており、確認だけが音声化されている――五人のやり取りは、そういう性質のものだった。
「それより、この爆弾はどうする」
杏子が問う。
「中央同期型ね。暁美さん、解除は」
ほむらは首を振った。
「恐らく証拠隠滅が目的。一般座席だけを狙って設置されてる」
「他にもありそうね」
「私が全部集めて、客のいない場所で処理する」
「おい、そこまでしなくていいだろ」
「救出するわ」
「なら、あたしも付き合うよ」
さやかが即座に応じる。誰かがまだ死んでいない限り、それを見捨てるという選択肢が最初から存在しないかのように。
五人は二手に分かれた。
ホールに残されていたのは、倒れた男たちと、黒羽根と、動けなくなった観客だけだった。ほむらとさやかは座席の下を手分けして探り、爆弾を一つ、また一つと回収していく。七個目を見つけたときには、表示窓は『1:06』を切っていた。
八個目に手をかけた瞬間、背中に硬く冷たい感触が押し当てられた。
「消えろ」
白羽根の声。
「観客に罪はないわ」
ほむらは呟き、盾に手を伸ばそうとした――時間を止めるために。だがその手が止まったのは、白羽根に恐れをなしたからではない。壁に開いた穴の様子が、視界の端で「間違って」いたからだ。
穴というものは、開けば破片が外へ飛び散る。物理法則としてそう決まっている。ところがその穴では、散らばった破片が逆再生のように吸い戻されていく。壁が完全に元の形へ復元された次の瞬間、ピンク色の光が白羽根の肩を貫いた。光は、その場に立つ黒羽根の構えたクロスボウへと、まるで発射される前の状態へ戻るように吸い込まれていった。
振り返ったほむらが見たのは、通路を駆け去る黒羽根の後ろ姿だけだった。ローブの隙間から覗く髪は、長く、そしてピンク色をしていた。
「今のは誰」
追いついたさやかが尋ねる。
ほむらは答えず、時計に視線を落とした。答えを検討する余裕よりも先に、八個目の爆弾を回収する必要があった。順序をつけるとすれば、優先されるのは常に、いま解決可能な問題のほうだ。
残りの爆弾をバッグに詰め、三階のボックスシートへ投げ込む。
「急いで、爆発するわ」
通路を抜け、ホワイエを抜け、玄関を抜けて、ワンボックスカーに転がり込んだ直後、後方で爆発音が空気を叩いた。
車が急発進する。慣性でドアに押しつけられたほむらの視界に、助手席の少女がさやかの顔を鷲づかみにする光景が映った。
「こいつは違う」
短い宣告と同時に、ナイフがさやかの太腿に突き立てられた。
車内が悲鳴と血の匂いで満たされる。対処するための距離も時間も、ほむらには与えられなかった。喉元に、もう一本のナイフの切っ先が押し当てられていた。
廃工場の内部には、稼働を止めた設備の骨格だけが残っていた。潮風に錆びた鉄骨と、蜘蛛の巣状に張られた配管。灯りは一つ、剥き出しの電球だけだった。
拘束された姿勢のまま、ほむらは自分の身体が発している信号を淡々と数えていた。呼吸数、脈拍、視界の端で明滅する光――脳が酸素の不足を報告し始めているサインだ。訓練された人間の抵抗力には、おおよその相場がある。十八時間。それが、この稼業に従事する者たちの間で共有されている、経験則としての限界値だった。
「訓練した奴でも十八時間が限界だろうな」
助手席にいた少女――グリーフシードを狙う二木市の魔法少女――が呟く。値踏みするような口調だった。ほむらは思う。その数字は、おそらく正しい。ただし、その相場表は、同じ十一日間を何十回と巻き戻してきた人間を想定して作られてはいない。限界という概念そのものが、経験の総量に応じて摩耗し、意味を変えていく。それを誰かに説明する必要はなかったし、説明したところで理解されるとも思わなかった。
目の前に、目覚まし時計とソウルジェムが二つ、並べて置かれている。ほむらのものと、さやかのもの。硝子の表面はどちらも曇り、光を鈍く跳ね返すだけの色を帯びていた。透明度という尺度で言えば、それはもう危険水域を超えている。
「こいつは十八分で堕ちた。情報のない癖に手間かけさせやがって」
助手席の少女が足を振り、椅子ごとさやかを蹴り倒す。倒れる速度、床に打ちつけられる角度、そこから伝わる衝撃の分布――そのどれもが、ほむらの視界の中で一つの物理現象として処理されていく。感情がそこに介入する余地は、意図的に締め出されていた。介入させれば、次の一手を誤る。
「七時になれば仲間は助かるって寸法かい」
ナイフがほむらの襟元を裂く。刃の通った跡に沿って、布の下から銀色のカプセルが露出した。
「耐えるつもりかい。それともこれを飲んで死ぬか。見滝原らしいな」
少女がカプセルを摘み上げ、口に含み、唾棄するように吐き捨てた。侮蔑は言葉より先に、この一連の仕草の中に込められていた。
終焉の毒薬。巴マミが調達し、見滝原の四人に配った、魔女化を未然に断つための最後の手段。ソウルジェムの濁りが臨界に達する前に服用すれば、絶望に転じる前の意識のまま眠りにつける――そういう設計思想の薬だ。だがこの場では、その設計は意味を持たない。魔女に変わろうと変わるまいと、目の前の二人がソウルジェムを砕くという結末は変わらない。毒薬とは、選択肢を残すための装置であって、選択肢そのものを作り出す装置ではなかった。
「もう七時か。いや、早すぎたな」
助手席の少女が目覚まし時計を手に取り、指先で竜頭を回した。針が逆に戻っていく。単なる嗜虐の演出だ――そう結論づけようとした思考の途中で、ほむらの中の何かが小さく引っかかった。理由は言語化できなかった。ただ、その光景を見た瞬間の感覚だけが、後になっても消えずに残ることになる。
「一時間戻すか」
少女が時計の文字盤をほむらに向けて突きつける。ほむらはもう、時間の感覚そのものを失いかけていた。全身は乾いた血の膜に覆われ、精神とソウルジェムの双方が、同じ速度で限界へ近づいている。
その視界の隅で、さやかの手が動いた。
意識のほとんどを手放しかけながら、後ろ手に縛られた指が、力のない動きで何かを探っている。銀色のカプセル――さやか自身のものだ。爪の先が、それをかろうじて摘み上げていた。
考えるより先に、身体が動いていた。椅子ごと横に倒れ込み、拘束の角度が変わる一瞬の隙を使って、ほむらはさやかの指先に食らいついた。
二人の少女がその意図に気づき、ほむらを引き剥がそうと腕を伸ばす。だが動作の開始点と完了点の間には、常に埋めようのない遅延がある。彼女たちの手が届いたときには、既に遅かった。
カプセルは奥歯に挟まれ、砕けた。中身が口の中に広がる。杏を思わせる甘い匂いと、舌の上で弾ける微細な泡。それが何を意味するのか、味覚がすべてを説明し終える前に、ほむらの意識は理解していた。
これで終わる。
無数回巻き戻してきた十一日間が、まさにこの形で閉じようとしている。その事実に対して、ほむらの中に湧いたのは、恐怖でも後悔でもなかった。もっと質の悪いものだった。安堵だ。終わることそのものへの、静かで確かな安堵。同時に、それを安堵と感じてしまう自分自身への、名づけようのない絶望。二つの感情は打ち消し合うことなく、同じ重さのまま意識の底に並んで沈んでいった。
視界が暗くなる。最後にほむらが認識したのは、逆回転する針の残像だった。