魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
回転ドアに似た部屋には、さきほどまでの水の匂いが残っていた。津波のように押し寄せた水は跡形もなく消えていたが、濡れた床だけが現実として居座っている。
「どういうつもり! みことにバレたのはあなたがバラしたからでしょ!」
わたしは後から入ってきたいろはの襟元を掴んだ。掴む力の強さを、自分でも計算し損ねていた。
「
いろはの声は、責められることに慣れた者の声だった。あるいは、責められること自体が織り込み済みの反応だったのかもしれない。
「何?」
やちよの手が、わたしの肩を押さえる。掴む手を離させるためではなく、次の言葉を聞かせるための、事務的な圧力だった。
「挟み撃ちよ」
「挟み撃ち?」
「時間の前と後ろからの挟み撃ち。逆行するみことは未来の情報を、順行するみことは過去の情報を利用してる。誰かが話したわけじゃない」
「あなたたちは?」
「みたまさんが呼んだの」
いろはが答える。短い言葉のわりに、その一言は多くを説明していなかった。だが、この場でそれ以上を問う余裕はなかった。
「でも、グリーフシードの場所を話したのはマズいよ……」
「心配ない。あれは嘘よ」
いろはが小さく息を吐いた。安堵という感情の身体反応としては、教科書通りの反応だった。
「嘘とはね」
「このくらい普通よ。みことなら、どの道アリナを刺してた」
自分の声が思ったより平坦だったことに、わたしは少し驚いた。人を欺くことと、欺いたことを説明することのあいだには、感情の起伏を要する余地がほとんど残っていない。
いろはの言った「記録」という単語だけが、しばらく耳の奥に残った。マギアレコードは時間を隠さない――後になって、わたし自身がこの記録を編むときの姿勢そのものが、あの日いろはが口にした一言を、そっくりなぞっていることに気づく。だが、それに気づくのは、もっと先の話だ。
部屋には他にも数人の魔法少女がいて、回転ドアの機構と壁の弾痕を検めていた。その中の一人、緑色の髪をツインテールに結った小柄な少女が、床に横たえられたアリナの傍らに膝をつき、両手をかざしている。淡い光が彼女の掌からアリナの下腹部へと流れ込んでいた。治癒魔法特有の、粒子の粗い光だ。
「さな、アリナはどう?」
さなと呼ばれた少女が、顔を上げないまま答えた。
「もって……数時間です」
「いろは、治癒魔法で治せない?」
いろはが首を振る。
「多分無理。逆行攻撃だから、治癒しても逆に傷が広がっちゃう」
その理屈は、直感に反していながら、直感に反する分だけ正確だった。傷を治すという行為は、組織を「本来あるべき状態」へ引き戻す作業だ。だがみことの刃がアリナに刻んだ傷は、すでに一度、時間の逆側から作られている。逆行した傷に順行の治癒をかければ、傷はより深い側の「本来」へと引き戻される。治療という行為の方向性そのものが、この傷に対しては加害になる。
「このまま見捨てるしかないの……?」
回転ドアが視界に入った。
「逆行よ。逆行させれば、『数時間後』は永遠に来ない。命は助かるかも」
「それは無理ね」
やちよの声に、迷いはなかった。
「仮に逆行しても、順行に戻る方法がない。この回転ドアはさっきまで敵の支配下にあった」
「自由港にも同じものがあった。そこなら戻れるわ」
「そこも無理よ」
「いや」
わたしは自分の記憶を検めた。時系列の中を後ろ向きに歩くことには、少しだけ慣れている。
「先週は、違った」
いろはがわたしの顔を見て、考えを察する。彼女はいつも、説明の途中で結論に追いついてくる。
「先週、私たちが貨物機で自由港に突入した。あのタイミングなら、侵入して順行に戻れるかも」
やちよもまた、わたしの意図を理解した。
「分かった。全員集合! これから逆行する。さな、アリナをこちらに」
さながストレッチャーにアリナを移し、わたしたちの部屋へと運び込む。
ガラス越しに、隣の部屋へ後ろ歩きで入ってくる集団が見えた。逆行するわたしたちだ。時間差にして、おそらくほんの数分先の――いや、数分前の――自分自身。鏡像であることと、時間差の別人であることが、視覚的にはまったく区別がつかない。
順行するわたしたちが回転ドアに入り、世界が逆行を始める。ドアを抜けたガラスの向こうで、順行のわたしたちが遠ざかっていく。
「容態が安定してきました。ソウルジェムの濁りも逆行して、透き通り始めてます」
さながやちよに報告する。声に張りが戻っていた。
「私たちはこのまま過去に戻るわ」
「なら、私はグリーフシードをなんとかしてくる。いろは、過去の自由港までの移動手段を考えて」
「本気? 逆行中に外に出たら、命の保証はできないわよ」
やちよの声には、命令ではなく懸念があった。それが珍しいことのように、わたしには感じられた。
「起きたことは仕方ない。でも、やるしかない」
自分の口から出た言葉を、わたし自身がどこかで検分していた。諦観と決意が、同じ一文の中に矛盾なく同居している。この感覚には、覚えがあった。
「そうね……ももこ、彼女に教えてあげて」
やちよが、金髪をポニーテールにまとめた魔法少女に目配せする。腰に大ぶりの鉈を提げたその少女――ももこは、装備の重さを感じさせない身のこなしでわたしの前に立った。
「逆行中は、全てが逆行する。変身してる間は大丈夫かもしれないけど、変身解除に備えて酸素マスクをつけて」
「なぜ?」
「逆行した空気じゃないと、窒息する」
ももこが酸素マスクとボンベを差し出す。呼吸というのは、酸素を取り込み二酸化炭素を吐き出す一方向の化学反応だ。その反応が逆再生される空間に、順行のままの肺で立ち入れば、肺は空気を「吐く」代わりに「吸う」ことしかできない器官のまま、逆行した気圧と分子の流れに取り残される。窒息は、酸素の欠如ではなく、方向の不一致によって起こる。
「熱も風も全て逆行してる。摩擦もね。防護服を着た方がいい」
「必要ないわ」
「そうかい。一番大事なのは、過去の自分に絶対接触しないこと」
「なぜ?」
「同じ粒子同士が接触すると、対消滅する」
その説明は短すぎたが、わたしには理解できた。時間を逆行する電子は、外部から見れば正の電荷を持つ粒子――陽電子――として振る舞う。比喩ではなく、量子電磁力学がすでに一つの解釈として許容している事実だ。逆行するわたしは、順行するわたしから見れば、反物質としての性質を帯びている。同じ座標に同じ質量の順行体と逆行体が重なれば、そこで起こるのは対話でも遭遇でもない。消滅だ。
わたしは、この理屈が自分の時間遡行能力とどこか似て、どこか決定的に違うことを考えないわけにはいかなかった。わたしの遡行は、過去のわたしの精神に憑依するようなものだ。二人のわたしが同時に、この世界の同じ場所に存在したことは一度もない。だがこの逆行は違う。過去のわたしと、逆行するわたしが、同じ時間、同じ場所に、二つの実体として同時に在り得る。その二つが触れ合えば、片方どころか両方が消える。
自分がこれから、その禁則の上を歩こうとしていることに、わたしは奇妙なほど落ち着いていた。
ももこが酸素ボンベをわたしの腰に結びつける。
「世界は順行してる。逆行は君だけだ。準備はいい?」
頷くと、ももこが合図した。内側の扉が閉まり、わたしは外側の扉を開けた。
世界の全てが、逆行していた。
風が土埃を舞い上げるのではなく、地面へと押し戻していく。頭上を横切る鳥は、尾から先に空を切っていた。羽ばたきの向きも、羽毛の流れも、生物として在るべき運動の全てが裏返っている。それでいて、その動きに不自然さはほとんどなかった。逆行は破綻ではなく、もう一つの規則だった。
扉の先は、駅に隣接する貨物倉庫のプラットフォームだった。着発線を、後退するように貨物列車が走ってくる。速度も、車輪の回転も、すべて正しく物理法則に従っている――ただ、時間の符号だけが反転している。
線路に降り、走る列車に飛び乗った。逆行の風が顔を叩く。順風というものを知る身体には、その圧が奇妙に「間違って」感じられた。無蓋車を一両ずつ越え、最後尾――逆行する視点では先頭にあたる車両――へ近づく。
不意に、世界から色と音が消えた。時間停止。
見上げた先に、アリナを抱えた順行のわたし自身がいた。逆行する回送列車から、別の車両へ飛び移ろうとしている姿。無蓋車の上に立つ逆行のわたしと、順行のわたしの視線が交差した。一瞬だけ、互いの存在を認識し合う。順行のわたしが窓ガラスを破り、アリナの列車から回送列車へと戻っていく。世界が再び動き出す。
わたしはこれから起こることを、順を追って組み立て直した。時間を遡って行動するとき、思考の順序は現在から未来へではなく、既に知っている結末から、それを成立させるための手順へと逆算される。
アリナの乗る列車の外側に、別の列車が並走してくる。天井から、みことと手下が飛び移ってくる。
無蓋車の鉄屑の中に、銀色の立方体――グリーフシードが鈍く光っていた。
取り出そうとした瞬間、それが動いた。手を離すと、車内で跳ね、二度、三度と軌道を変える。ようやく掴んだそれは、こちらの意志とは無関係に、頭上へと持ち上がっていく。目の前を回送列車が通過する。この後に何が起こるかを、わたしは既に知っていた――なぜなら、それを見たのは自分自身だったからだ。
オレンジのケースが頭上を越え、回送列車の中へ吸い込まれていく。
順行のわたしと視線が合う。手の中のグリーフシードが、まるで最初からそこにあったかのように、順行のわたしの掌へと戻っていった。順行のわたしが、それをケースへ収める。
振り向くと、みことがこちらを凝視していた。
紫の光が視界を焼いた。
身体が宙に投げ出され、上下と左右の区別が意味を失った。気づいたときには、線路の砂利の上に倒れていた。視界の端で、貨物列車と回送列車が、二つとも遠ざかっていく。
「ずいぶんやってくれたわね」
みことがしゃがみ込み、わたしの顔を覗き込む。逆光で、表情までは見えなかった。身体は衝撃で動かなかった――動かないのではなく、動かせないという判断を、脳の一部がすでに下していた。
「でも、これで『アルゴリズム』が揃ったわ。帆奈?」
短い指示が飛ぶ。頭部から体幹にかけて、液体が浴びせられた。刺激臭が鼻腔を灼く。ガソリンだ。揮発性の炭化水素が皮膚を伝い、体温で蒸発しながら、周囲の空気の組成を作り変えていく。
みことが立ち上がり、線路を離れる。ライターの炎が、染みの端に落とされた。
炎の伝播に速度がある、ということを、わたしはこの時初めて身体で理解した。染みの広がり方に応じて、火は等速には進まない。皮膚が知覚する熱量は、痛みという情報に変換される前に、まず神経の伝達速度そのものを狂わせる。もがく身体の運動と、痛みの自覚とのあいだに、わずかな時差が生じる。その時差の中で、わたしはひどく静かだった。
やがて、痛みの信号すら追いつかなくなるほどの温度になったとき、皮膚感覚は「熱い」から「冷たい」へと符号を反転させる。凍える、という言葉が正しいのかどうか、わたしにはもう判断がつかなかった。
意識だけが、燃える身体の少し外側で、それを眺めていた。