魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
目覚めは、痛みの記憶から始まった。
正確には、痛みが「あった」という記憶ではない。痛みが「引いていく」感覚だった。皮膚の上を這っていた炎の輪郭が内側へ向かって収縮し、焼けた組織が失われる前の形へと戻っていく――そういう錯覚を伴う目覚めだった。アルミブランケットの遮熱膜が肌に張りつき、その下で体温は上昇と下降を同時に訴えていた。矛盾する二つの感覚は、どちらも嘘ではなかった。
「起きた? あの後、本当に大変だったよ」
声のする方へ視線を向けると、いろはがいた。
「まさか燃やされて凍死しかけるなんて」
いろはの言葉は軽い。だが軽さは無知の証ではなく、この現象を既に何度も目撃した者の口調だった。
「逆行中だからね。熱も冷たい状態から暖かい状態に逆戻りする。エントロピーの逆転ってところかな?」
説明は正確だ。だが、順序が違う――とほむらは思う。熱力学の第二法則が要求するのは、孤立系におけるエントロピーの単調増加だ。乱雑さは増える方向にしか進まない。それが自然界に許された唯一の一方通行の矢印であり、時間の「向き」そのものの定義でもある。ならば、いま自分の身体の内側で起きていることは、単なる回復ではない。局所的な一つの系が、熱力学的な矢印そのものを反転させて動いている、ということだ。炎に炙られた組織が自然に元へ戻るのではない。むしろ周囲の乱雑な熱運動のほうが、この身体を基準点として、秩序だった状態へと収束させられている。誰かが、あるいは何かが、この一角だけを世界の法則の外側に置いている。
その除外の代償が何であるかを、ほむらはまだ知らない。
体を起こす。ベッドが三つ、等間隔に並んでいる。一つはいろはのもの、もう一つにはアリナが横たわっている。窓はない。壁際の棚には、水、食料、包帯、着替えといった生活必需品が過不足なく揃っていた。過不足がない、という事実そのものが、この部屋が「待つため」だけに設計されていることを物語っていた。
「ここ、どこ?」
「今は逆行中。あの日の自由港に戻るまで、この結界で過ごすよ。時間が来たらドアが開くようになってる」
「アリナは?」
「超バッドなんですケド」
ベッドから、くぐもった声が答えた。
「そんな言葉が出るなら、だいぶ回復したみたいね」
軽口を叩ける、という事実そのものが診断だった。
ほむらはしばし俯く。移送、奪取、交渉、そして人質――順番に並べ直しても、結論は変わらなかった。
「結局……グリーフシードは渡したも同然ね」
「起きたことは仕方ないよ」
いろはの声に、非難の色はない。ただの事実確認だった。それが逆に、ほむらの内側にある何かを苛立たせる。
ほむらはいろはの横顔を見た。
「隠し事のある子の言い分は、素直に受け止められないわ」
「情報は慎重に扱わないと。知らないことが武器になることもあるよ」
その理屈は、ほむら自身がみたまから叩き込まれたものと、寸分違わぬ形をしていた。同じ思想が、敵側からも味方側からも、繰り返し差し出される。だとすれば、これは誰か特定の人物の発明ではなく、この時間戦争そのものが要求する、ある種の生存戦略の必然形なのかもしれない。情報の非対称性こそが、時間を操る者たちに残された最後の防具だ。
「まだ、私はいろはのこと何も知らないわ」
「これから知ればいいよ。私も、ほむらちゃんがここまで他人を助けられるって初めて知ったし」
「誰にでもするわけじゃない」
「でも、誰かはいるんでしょ?」
その問いに、ほむらは答えなかった。答えなかったこと自体が、既に答えだと知りながら。
沈黙の中で、ある名前が喉の奥まで上がってきて、そこで止まった。名前というものは、口に出した瞬間に他人の所有物になる。この部屋の壁に耳がないとしても、ほむらはまだその名前を、誰にも分け与えるつもりはなかった。
いろはは追及しなかった。
「魔法少女って二種類しかいないよね。誰かのために魔法少女になったか、自分のために魔法少女になったか」
「そうね……確かに私は誰かのためでもあるけど、自分のためでもある。いろははどう?」
「私は……もう忘れちゃったかな」
「それ、嘘ね」
顔を見合わせ、二人は笑った。この結界の中で許された、数少ない無防備の瞬間だった。
「アリナは全然笑えないんですケド?」
「どうして人質になってたの?」
「ちょっと言い争いしちゃって……アリナは滅びの先が見たかっただけなのに、みことは『絶望の先には何もない』って譲らなくて……わけわかんない。それで、気づいたら拘束されて電車の中」
「滅びとか絶望とか、一体何?」
「みことは自殺したがってる。アリナがみことに近づいたのも、それが理由。みことは自分の命と世界の行く末が一致してると思ってるみたい。あり得ないんですケド〜」
自殺志願者が世界の終わりを設計する。ほむらにとってそれは、倫理の問題である以前に、単純な工学的な疑念として引っかかった。一人の人間の絶望を、なぜ八十億人分の未来の関数に変換できると信じられるのか。だが同時に、自分自身の内側にも似た構造があることに、ほむらは気づいていた。一人の少女を救うためだけに、幾星霜の周回を積み重ねてきた自分。規模が違うだけで、論理の骨格は同じだった。
「絶望、ね……」
「あー、いちごミルク飲みたい! フールガールの……」
「ねえ、ちょっと静かにして? お姉ちゃん今やってるんだから…」
いろはが、たしなめる口調で言った。子供に向けるような、けれど場違いなほど自然な口調だった。
「お姉ちゃん?」
ほむらが繰り返す。
いろはの表情に、一瞬だけ空白が生じた。
「あー、なんか癖なんだよね……私に妹なんていないのに……」
いろはは照れ笑いでその空白を塗りつぶした。塗りつぶし方が、あまりにも手慣れていた。だが、それ以上は踏み込まなかった。踏み込まないこともまた、一種の武器だ。
「これが一段落したら、お互いの人生をもう少し語るのもいいわね」
「ところで、『アルゴリズム』って何? あの時、みことが言ってたけど」
「『アルゴリズム』は時間逆行の核心技術。あの立方体のグリーフシードがその一つで、全部で八個」
「それが揃うとどうなる?」
「世界全体の逆行が起きる。時間の矢が反転して、未来が消え、同時に過去も消える」
八個。ほむらはその数字を舌の上で転がした。分割には理由がある。一つの場所に完全な技術を集約しないのは、単なる隠蔽の作法ではないはずだ。むしろ、逆行という現象そのものが局所的にしか安定し得ないことの、間接的な証明ではないか。ネゲントロピーの塊を一箇所に集中させれば、その場に生じる秩序の勾配は、周囲の系から強制的にエネルギーを吸い上げる。世界全体を巻き込む逆行反応とは、つまり、局所的な秩序が臨界質量を超え、周囲の乱雑さを喰い尽くしながら伝播していく連鎖反応のことだ。核分裂が中性子の連鎖で自らを維持するように、この現象もまた、一度臨界点を超えれば止める手段を持たない。
「世界の終わりってことね」
言葉にすると、あまりにも単純だった。単純すぎる言葉は、たいてい、その裏に計算しきれない量の絶望を隠している。
「フールガールも……」
「さっきから言ってるフールガールって誰?」
アリナが寝返りを打ち、顔を背けた。
「……友達。アリナの」
それ以上、続きは語られなかった。ほむらもまた、それ以上を尋ねなかった。この部屋には、まだ開けてはいけない箱がいくつも積み上げられている。
ほむらはベッドに横たわり、窓のない天井を見上げた。天井があるという事実だけが、この空間が結界であることを主張していた。
「ねえ、いろは」
「何?」
「私たち、今、未来人よね。過去の私たちを殺したらどうなるの?」
「答えはないよ」
「答えがない?」
「パラドックスだよ。みことたちも同じ。過去に戻って自分や先祖を殺しても影響はないって信じてる」
祖父殺しのパラドックス。古典的な問いだ。だが古典的であることは、答えが出ていることを意味しない。むしろ逆だった。何世代にもわたって議論され尽くしてなお答えが出ないという事実こそが、この問いの構造的な致命傷を証明している。
「まだあるわ。今、私たちがこうして生きてるってことは、未来では何も起こらなかったってこと?」
「楽観的に見れば、そうだね」
「でも、みことたちもそれは分かってるんでしょう?」
「自分たちの行動で結末が変わると信じてるんだと思う。それが悲観的シナリオかも。パラレルワールドの理論なら、人の意識は多元軸の世界を認識できないからね」
「そうね……」
ほむらは自分の能力について考える。時間遡行によって過去を変えたことは、確かにある。だがその都度、記憶を保持するのは常にほむら一人だけだった。遡行とは、新しい世界線を分岐させる行為ではない。特定の時刻に存在した「ほむら」という一つの精神へ、未来の記憶を持った意識が上書きのように憑依する現象に近い。分岐した別のほむらが、どこか別の世界で今も生き続けているわけではない。上書きされた過去のほむらは、単に――消える。そしてその果てに、結末はまだ変わっていない。何百回上書きを重ねても、変わらなかった結末が一つだけある。
だとすれば、自分たちが今ここで生きているという事実は、本当に希望の証拠なのだろうか。それとも、まだ上書きが完了していないだけの、一時的な猶予に過ぎないのだろうか。
考えがまとまらない。まとまらないまま、思考は次の問いへと滑り落ちていく。
「世界は、あらかじめ決まってるのかしら……」
「それ、決定論?」
いろはが上体を起こす気配がした。
「確かに、運命に決められてるかもしれないけど……私たちは魔法少女。奇跡も魔法もあるんだから、自由に未来を決めてもいいよね。その方が私は好きかな」
「そうね……」
同意ではなく、保留だった。ほむらにとって、決定論と自由意志のどちらが正しいかは証明の対象ではなく、態度の選択に過ぎなかった。そしてその選択を、今この瞬間に下す必要はなかった。
「到着まで寝よっか? おやすみ」
いろはの声が、電灯の消える音と共に部屋に沈んだ。
数日『前』の自由港まで、時間は正しい向きに――少なくとも、この部屋の中でだけは――流れていた。ほむらは目を閉じ、身体と心を休めた。休めることもまた、次の暴力のための準備に過ぎないと知りながら。