魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
外殻が軋み、減速のGが後方から押し寄せた。逆行世界では、慣性の方向すら律儀に反転する。急制動のはずが、ほむらの身体には加速として届いた。
いろはがドアのスコープに目を当てる。
「空港に着いた。準備しよう」
いろはがアリナの口に酸素マスクを当てがう。ストレッチャーの上で、アリナの呼吸はまだ規則正しい。ほむらは壁際にかけられた黒い防護服に袖を通しかけ、そこで動きを止めた。左腕に、まだ受けてもいない痛みが走っていた。床に血が一滴、また一滴と落ちる。
傷の出処を、ほむらはすでに知っていた。あと数十分のうちに、この傷は「治る」ことになる。順序が違うだけだ。
「それ、どうしたの」
いろはの声に驚きが混じる。説明するには、まだ起きていない出来事を根拠にしなければならない。それは、いま最も渡したくない種類の情報だった。
「なんでもない。先に行くわ」
ガスマスクを装着し、扉を開ける。ストレッチャーを押すいろはが、黙って後に続いた。
自由港の裏手には、突き刺さったままの貨物機があった。主翼は折れ、破損したエンジンの一基が壁に食い込み、炎を上げている。消防車両が並び、消防士たちが後ろ向きに歩いている。放水されたはずの水は、ホースの先端に向かって空中で収束し、逆流していく。燃焼という現象が、この一角でだけ帳尻を合わせようとしているかのようだった。
黒い防護服の三人が、その中を突っ切る。数日前――順行時間で言えば「これから」――ほむら自身が侵入した扉の位置は、記憶の中の座標と寸分違わなかった。
扉の脇のシャッターは、爆発の衝撃で底が開いたまま、ジェットエンジンの吸気に合わせてガタガタと震えていた。
「ここで待ってて。合図したら入って」
言い終えた直後、震動が跳ね上がった。ジェットエンジンの音が耳を塞ぐ密度に達し、ほむらが背後のエンジンに目をやった瞬間、爆発が巻き戻った。
物理法則から言えば、爆発とは高圧のガスが拡散する現象であり、破片は常に発生源から遠ざかる。だが目の前で起きていたのは、その逆だった。飛散していたはずの破片が空中で速度を失い、発生源へと吸い戻される。爆風もまた、拡散ではなく収束の形をとって、ほむらの背中を叩いた。
身体がシャッターに叩きつけられ、開いた底の隙間から保管庫の中へ押し込まれる。
倒れた視界の先に、銃口があった。
「!たっ知をここてっやうど」
音の再生方向が逆になった声。子音と母音の並びが崩れ、意味を持つ手前で耳に届く。だが、その響きの奥にある感情までは、逆行させられない。怒りと恐怖は、時間の矢の向きに関係なく同じ形をしている。
「!だ誰は前お」
「!らかいなれしもかるてっ知か何」
声の主が誰であるかを、ほむらは記憶の中にすでに持っていた。数日前――彼女自身の主観時間で言えば「これから」経験する側――の自分と、いろはだった。
これから何が起きるか、ほむらの中では既に確定していた。未来を予知しているのではない。すでに一度、順行の側でこの十数分間を生きているからだ。知っていることと、その通りに動けることは、必ずしも同じではない。身体は台本通りに動いてくれるとは限らない。
順行のいろはが、部屋から後ろ向きに退出していく。
ほむらは床から身を起こし、木箱と棚を引き剝がした。もみ合いになり、足先で床のグロックを蹴り、通路へ跳ね出させる。
格闘における力の伝達は、通常、一方向にしか流れない。拳が的に届いた後に衝撃が生じる。ここでは、その因果の順序が保証されていなかった。ほむらが受けた衝撃が、相手の拳が届く前に来ることがある。読むべきなのは相手の動きではなく、これから自分の身体に生じるはずの結果の方だった。
順行の自分を棚に押し込み、背負い投げで床に叩きつける。だが順行の自分は起き上がり、背後に回り込んでくる。腕を取り、通路へ押し出す。
今度は順行の自分が拳を放ってくる。顔面、腹部。防御に回りながら、ほむらは全ての軌道を読み切り、拳を掴んだ。読み切れる理由は単純だった――この動きを、ほむらはもう一度、別の側から経験することになる。
不意に、世界から音と色が抜け落ちた。
時間停止。厳密には、これは世界の時間が止まったのではない。ほむらだけが、止まった世界の中で移動する権利を得たにすぎない。順行の自分の盾に手を伸ばす。時間停止の根幹に触れることは、いわば自分の武器の設計図を自分自身に晒すのと同じだった。
順行の自分がその手を掴み、勢いのままほむらを投げ倒す。時間停止が効かない相手が、目の前にいた。効かないのではなく、効かせる意味がなかった――彼女もまた、時間停止という技術の内側を知る、唯一もう一人の人間だったからだ。世界が動き出す。
床に倒れながら、ほむらは通路に転がったグロックへ腕を伸ばし、引き寄せた。
立ち上がり、順行の自分を引きずって回転ドアの部屋へ押し込む。
通路の先で跳ねたグロックが、手元に戻ってくる。順行の自分がカッターナイフをほむらの腕に突き立て、そして引き抜いた。
引き抜かれた瞬間、傷が塞がった。
刃物が肉を裂けば傷が生じ、抜けば血が止まらない――それが通常の因果だ。だが、この一連の出来事の順序を、ほむらは玄関を出る前からすでに知っていた。数十分前、防護服に袖を通しながら流れていたあの血は、まさにこの瞬間の「後始末」だったのだ。原因と結果は、どちらが先でも構わない。ただ、対になっていればいい。
順行の自分をガラスに押し倒し、グロックを構える。
乾いた発射音が響き、弾丸が順行の自分の頭をかすめた。
ガラスの向こう、いろはの側の部屋に、後ろ向きで回転ドアへ吸い込まれていく人影が見えた。誰であるかを確かめる時間は、与えられていなかった。
順行の自分がグロックを掴み取ろうとする。ほむらはマガジンを落とし、スライドを引き抜いて捨てた。銃という機構は、部品が一つ欠けるだけで、ただの金属の塊に戻る。
グロックの残骸を順行の自分の手に残し、回転ドアへ飛び込んだ。
世界が順行に戻る。
部屋の内側で、いろはを突き飛ばし、通路を走った。後方からいろはが追いつき、ガスマスクを剝ぎ取る。
床に転がりながら、いろはと目が合った。
いろはの顔から表情が抜け落ちた。何を見たのか、ほむらには分からなかった。いろははガスマスクを放り捨て、順行の自分の元へ走り去っていく。
通路を抜け、シャッターをくぐり、外で待つもう一人のいろは――この場面のいろは――に向かって合図した。
「行って!」
「!てっ行」
同じ言葉が、彼女の視点では逆から届いていた。彼女から見れば、ほむらは後ろ向きにシャッターをくぐって建物の中へ戻っていくところだった。
いろはがシャッターを開け、保管庫を抜け、通路を進み、回転ドアの部屋へ向かう。ガラスの向こうに、この場面のいろはとアリナのストレッチャーが見える。
回転ドアに入る。世界が、もう一度順行に戻った。
保管庫に戻ると、数日前の――順行時間ではこれから起きる――ほむらといろはの声が聞こえた。
「誰か……いる?」
「いや……」
ここで、時間の輪は閉じた。
いろはが外に出ると、ほむらはすでにパトロールカーの後部ドアを開け、手招きしていた。ストレッチャーを積み込み、いろはが助手席に座る。空港を抜ける間、周囲には散乱した金塊と、それに群がる職員たちの姿があった。彼らにとって、今夜の事件は貨物機のハイジャックと盗難未遂という、単純な因果の物語として処理されるだろう。
空港を離れてから、ほむらが口を開いた。
「どうして、もう一人の私のことを言わなかったの」
「対消滅寸前だったから」
「後で言えたんじゃない」
「言ったら、タイムパラドックスになってたかも」
「起きたことは仕方ない……ね」
ほむらは苦笑した。だが、その言葉の裏で、別の疑問が静かに形をなしていく。パラドックスが起きなかったということは、最初からいろはがその情報を隠すことも含めて、すでに一つの結末に組み込まれていたということではないか。選択の余地があったように見えて、実際には選びようがなかったのだとしたら――自由と呼べるものは、いったいどこにあったのか。
答えの出ない問いを抱えたまま、車は明け始めた空の下を走り続けた。