魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
森が結界を隠しているのか、結界が森を演じているのか、正確なところはわたし自身にも判別がつかない。神浜市北養区、針葉樹の密度がかなり高いはずの一角に、ホテルフェントホープは建っていた。「建っていた」という表現も厳密には誤りだ。この建物を包む結界は空間だけでなく時間の勾配そのものを歪めており、外部の時計の針は、内側にいる者にとってほとんど参照する価値を持たない。逆行する魔法少女たちの拠点――それが、この施設に与えられた唯一正確な定義だった。
廊下を歩きながら、わたしは酸素マスクの内側で自分の呼気を聞いていた。逆行中の大気は、呼吸器にとって毒に等しい。吸うべき場所で吐き、吐くべき場所で吸う空気は、肺胞のガス交換の向きそのものを狂わせる。だから仮面をつける。仮面とは、常に、世界と自分のあいだの向きの違いを調停するための装置だ。
窓の外に庭園とテニスコートが見えた。鳥が尾を先にして飛んでいる。羽ばたきの力学から言えば、これはあり得ない飛翔だ。推進力は本来、翼が空気を後方へ押し出すことで生まれる。だがこの庭では、空気のほうが鳥を前方へ押し返している。原因と結果の座標が入れ替わっているだけで、運動方程式そのものは破綻していない――そう説明されれば納得はできる。納得できることと、見て平静でいられることは、まったく別の能力に属している。
庭では多くの魔法少女が組になり、武器を構え――逆行の視点からは、武器を鞘や盾へ戻し――ながら、模擬戦を繰り返していた。順行と逆行が同じ地面の上で交差する。互いにとって、相手の動きは未来から解けていく方程式のように見えているはずだった。
わたしは部屋のドアを開けた。
スイートルームでは、アリナがソファに身を沈め、大画面のオーディオセットに向かい合っていた。ウーファーの重低音が、絨毯を通してわたしの足の裏にまで届く。低周波というものは、耳よりも先に骨に伝わる。感情を揺さぶる目的で設計された音というのは、大抵そういう性質を持っている。
歌詞は英語だった。わたしの語学力は、必要に迫られて習得した戦術用語の範囲を出ない。それでも耳に残った断片を、頭の中でどうにか継ぎ合わせてみる。
外で赤と青のライトがうるさい、逃げ場はもうない
地図を行き来して、道筋を整えた
波に乗るように走って、まるで列のよう――」
正確な翻訳だという自信はない。だが正確さより先に、この歌詞がアリナの内側にある何かと共振しているらしいという印象のほうが、はるかに鮮明にわたしの中に残った。
「なんか、この曲ってアリナたちみたい」
わたしがそう言うと、アリナは画面から視線を外さずに聞き返した。
「何が?」
画面には、この曲のミュージックビデオらしきものが流れていた。キッチンで殴り合う黒人の男。高速道路を逆走する車。逃走と衝突と接近を、編集の速度だけで繋いでいく映像だった。物語の因果を説明する台詞は一切なく、それでいて、見ている側には何が起きているかが正確に伝わる。伝達というものの本質は、案外そういう構造をしているのかもしれない。
ドアが開き、いろはが入ってきた。
「傷の具合はどう?」
アリナがシャツをまくり、下腹部に残る傷跡を見せる。皮膚の再生痕は、逆行治療特有の妙な滑らかさを持っていた。傷が塞がる過程を逆から辿った組織は、通常の瘢痕とは光の反射の仕方が違う。
「良くなってよかった」
「みことを倒しに行かないの?」
「それは無理だよ」
答えたのはいろはだった。
「デッドマンスイッチみたいなものがある。彼女の死が発動条件になってる」
わたしは補足した。
「ソウルジェムと連動してる。破壊されるか魔女化すれば、みことが隠したポストの位置が記録される。未来人がその記録を読み取って、封印されたアルゴリズムを掘り出し、発動させる。それでゲームセットよ」
「みことがスイッチを押すわけじゃないのネ」
「彼女は集めるだけ。でも、それは引き金を引いているのと変わらない」
アリナには理解できただろうか。デッドマンスイッチとは、本人の意志を必要としない暴力の形式だ。押す指ではなく、押さない状態そのものが装置として機能する。みことという存在は、自分の死を通貨として使う契約に、ずっと以前から署名させられている。生きているという事実だけが唯一の担保になっている契約――それは、周回を続けるわたしのソウルジェムの在り方と、どこか似ている気がした。似ているという直感を、これ以上詳しく言葉にする気にはなれなかった。
画面の中で、男が金髪の男と何かを言い交わし、はしご車から走行中の車へと跳び移っていた。
「そのポストの場所は?」
いろはが尋ねる。
わたしは答えなかった。
「まだ話さない。知らないことが、私たちの武器よ」
いろはが苦笑した。
「だいぶ慣れてきたね」
慣れた、という評価は正確ではない。情報を握ったまま黙っている行為には、握られた側が支払う不安の総量に対して、握る側が得る安全の総量が常に上回るという、単純な非対称性がある。慣れるべきものではなく、割に合うから続けているだけの計算だった。少なくとも、みたまから受け継いだこの思想を、わたしはそう理解している。
「アリナ、みことについて何か知らない?」
「――全ての生き物は滅びるようデザインされている」
「何それ」
「アリナのアイデア」
アリナが続けた。
「アリナは、人間が誰しも心の奥に飼ってるデストルドー――破壊衝動を、完璧な形で再現するのがベストアートだと思ってた。この世界そのものを終わらせることで、それを証明しようとしてた。みこともそれをしたいんだと思ってたケド、なんか違ったみたい」
「同じようなものだと思ってたけど」
「違う。みことがやろうとしてるのは、絶望から希望への相転移」
アリナが視線を遠くへ投げる。
「時間を逆行させて滅びを回避する――つまり、死という結果を逆転させるってことでしょ。不可逆的な死を尊ぶアリナの立場からしたら、はっきり言ってナンセンスなのよネ」
自嘲するように、アリナは小さく笑った。
「でも、みことに刺されて、こんなの全然ベストアートに届いてないって気づいたワケ」
相転移。かつて理科室で聞いた言葉が、記憶の底から浮き上がってくる。エントロピーは秩序から混沌へ進む。ソウルジェムは澄んだ状態から濁って砕ける。それがこの世界の勾配だと、あの逆行するペンを持つ少女は言った。
みことがやろうとしているのは、その勾配そのものを反転させることだ。相転移という言葉を使うなら、絶望は液体で、希望は固体なのだろうか。それとも逆か。液体が固体へ変わるとき、系全体のエントロピーは局所的に減少する。だがその代償として、周囲へ放出される熱量は必ず存在する。みことにとって、その放出される熱にあたるものが――わたしたちの世界そのものだった。
交換可能な代償として、わたしたちの時間軸ごと放出する。そう考えると、みことの計画は倒錯した善意にすら見えてくる。誰かを救うために誰かを犠牲にする、という構造自体は、わたしが周回を重ねてきた行為と、根のところで同じ形をしている。違うのは規模だけだ。この事実に安堵していいのか、絶望していいのか、わたしにはまだ判断がつかない。
「確かに、魔法少女は絶望に追い込まれやすいよね」
いろはが言葉を継いだ。
「仕組まれたシステムだけど、だからって全部を諦める理由にはならないよ」
システムに組み込まれた絶望と、それでも諦めない選択――この二つは矛盾しない。矛盾しないというより、矛盾したまま両立させることこそが、この職業に課せられた条件のように思えた。
「アリナ、みことが最後に向かいそうな場所、思い当たる?」
「大東団地の屋上」
アリナが即答した。
「みこと、前はそこに住んでたって。屋上から見える夕陽が綺麗だって、よくアリナに話してたネ」
「らしくないね」
いろはの反応に、わたしは頷いた。
「アリナ、大東団地に行って。できるだけみことの自殺を引き延ばして。さなを付けるわ。私たちはその間にアルゴリズムを確保して決着をつける」
画面の中では、黒人の男が金髪の男と会話して涙ぐんでいた。曲が終わりに近づいていることを、それが暗示しているようだった。