魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
ホテルフェントホープの庭は、二つの時間が同じ芝生を分け合う場所だった。
順行の魔法少女は前へ踏み込み、逆行の魔法少女は爪先から後退する。傍から見れば奇妙な鏡合わせの舞踏に過ぎないが、当人たちにとってそれは単なる稽古だった。腕を振り上げる動作と、振り上げた腕を下ろしていく動作――両者は物理的に同じ運動量を要求する。差があるとすれば、それを「始まり」と呼ぶか「終わり」と呼ぶかだけだ。
暁美ほむらは廊下の窓越しにその光景を眺めながら、酸素マスクの縁を指で押さえた。逆行に入って数日、この装置の重みにも慣れた。慣れというのは常にそうだ。最初は異物として拒絶反応を起こすものが、繰り返しの果てに身体の一部として黙認される。武器も、暴力も、そしておそらくこの任務そのものも。
やちよが隣に並ぶ。同じ酸素マスク、同じ逆行者としての緩慢な違和感を纏って。
「もうすぐ時間よ」
やちよの声はマスク越しにくぐもって届く。
「十四日前まで戻るけど、秘密のポストの情報がないと手出しできないわ」
情報とは、常に対価と引き換えに得るものだ。ほむらはその法則をこの数ヶ月で骨身に刻んでいた。だから今、自分の持つ情報の重みを誰にも悟られないよう、表情を凪がせたまま口を開く。
「情報ならある。十四日前、爆発があった。その爆発でアルゴリズムが封印されたはず」
「どこ」
「福浜市よ」
やちよが小さく頷く。頷きの角度に無駄がない。ベテランの相槌というのは、常に次の行動のための助走に過ぎない。
「つまり、爆発前にアルゴリズムを回収すればいいのね」
「どうやって向かうの」
「転移魔法を使える子がいる。ここから直行できるわ」
やちよが視線だけで庭の奥、回転ドアの列を示す。
「参加するなら、回転ドアをくぐって」
多くの魔法少女が一列に並んでいた。列というものは、本来は待つ人間の忍耐を測る装置だが、ここでは違う。列に並ぶこと自体が、これから己の時間の矢を逆向きにするという合意の表明だった。
ほむらも列の末尾に加わり、順番を待つ。回転ドアの内部でシリンダーが低く唸り、順行者を吸い込んでは逆行者を吐き出す。その音は、心臓の鼓動よりも規則正しく、そして無感情だった。
「こっちのチームなんだ」
振り向くと、いろはが立っていた。
「いろはは」
「私は逆行チーム。一時間先まで行って、ほむらちゃんたちとすれ違うよ」
「そう……できれば生きて戻りたいわね」
「そうだね」
二人は回転ドアを見据えたまま、しばらく言葉を継がなかった。沈黙は、次に何を話すかを選び損ねているときのそれではなく、話すべきことが多すぎて選別に時間がかかっているときのそれだった。
「この作戦が無事に終わったら……色々話しましょう。私の友達のこととか」
いろはは口を開きかけた。
「私、本当は――」
語尾が宙で途切れる。視線がほむらの顔から一瞬だけ逸れ、回転ドアの奥、まだ誰も踏み込んでいない暗がりに向けられた。何かを言いさし、そして自分でその何かを飲み込んだ人間の顔だった。数拍の沈黙の後、いろはは首を振り、いつもの表情を作り直す。
「ううん、なんでもない」
それから、少し声のトーンを上げて。
「うん。私もほむらちゃんに話したい事はいっぱいあるから。じゃ、私いくね」
ほむらはその一瞬の空白の意味を問い質す猶予も持たないまま、いろはと別れ、回転ドアに足を踏み入れた。世界が順行に戻る。
内臓が反転するような感覚はない。ただ、視界の隅で埃の舞い上がる向きが変わり、遠くの声が正しい順序で耳に届き始める。それだけのことだった。それだけのことに、身体は毎回律儀に順応する。
会議室には、既に大勢の魔法少女が集まっていた。全員が変身を済ませ、衣装の上から白いローブ付きのマントを羽織っている。統一された装いは、個人の識別を後回しにし、部隊としての機能を先に立てるという意思表示だった。
やちよが地図を広げる。壁際まで届く声には、説明の余地を最初から切り詰めた響きがあった。
「ここがこれから向かう街、福浜市よ。瓦礫と魔女、魔法少女が待ち構え、行く手を阻むわ」
地図の上を指がなぞる。
「作戦は十分。時計を十分にセットして。ゼロで爆発の時間になるように」
十分という数字に、ほむらは既視感を覚える。市立劇場の爆弾も、四分と何某かの表示窓を刻んでいた。時間というものは、この街ではいつも誰かの手によって輪切りにされ、締め切りとして配布される。
「部隊は二つ、順行と逆行で実施する。私たちは順行。識別用に赤い腕章をつけて」
赤い腕章が配られる。布地には、まだ誰の血も吸っていない清潔な赤があった。
「もう一つは青――十七夜が率いる逆行部隊よ。彼女たちは敵の排除、情報収集、出撃ポイントの確保を担当する」
地図に線が引かれる。
「まず、私たちは青部隊の帰還ポイントを確保。街を抜け、青部隊とすれ違い、青部隊の出撃ポイントへ向かう」
「敵も逆行してるんでしょ?」
水色の髪をツインテールにした魔法少女が、手を挙げるでもなく問う。この場では、疑問を発する前に許可を求める習慣そのものが失われていた。
「その通り。敵も回転ドアを使い、順行と逆行が入り乱れてる。注意して」
地図に丸が引かれる。
「ここが爆心地。私たちの部隊はここを越え、帰還ポイントまで移動。別ユニットが結界の入り口から爆心地に入り、アルゴリズムを確保する」
「別ユニット?」
赤い髪のサイドテールの少女が尋ねる。
「私たちには関係ない。他に質問は」
質問は出なかった。出ないということ自体が、この部隊の練度を示す唯一の指標だった。
「じゃあ、全員準備」
ガスマスクを装着する音が、会議室のあちこちで連続する。金具の噛み合う音は、劇場でグロックのスライドを引いたときの重さとよく似ていた。何百通りの装備であっても、装着の瞬間に生じる緊張の質は、いつも同じ場所に着地する。
「私は先行部隊を希望したけど」
ほむらはやちよの背に声をかける。
「先も後もないわ。これは時間挟撃作戦よ」
その一言に、ほむらは束の間、思考を止めた。先も後もない――言葉の上では単なる作戦上の注意に過ぎない。だが、その響きは彼女自身のこれまでの日々にそのまま重なった。何度目かも数えなくなった周回の中で、ほむらにとって「先」と「後」の区別はとうに意味を失っている。始まりと呼べる地点も、終わりと呼べる地点も、円環のどこかに恣意的に打たれた印に過ぎない。だとすれば、この作戦に志願することと、これまでの全ての選択との間に、本質的な違いはあるのだろうか。
「なら、別ユニットに加わるわ」
「いいの? 生きて戻れない任務よ」
生きて戻れない、という評価に、ほむらは特別な感慨を持たなかった。それは既に何度も通過した状態であり、今更目新しい響きを持たない言葉だった。
「構わない」
やちよはそれ以上、理由を尋ねなかった。この部隊で理由を尋ねないという判断もまた、練度の一部だった。
「なら決まり。私たち二人が別ユニットよ」