魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
福浜市への転移窓が開いた瞬間の感覚を、わたしはいまだに正確な言葉に変換できずにいる。空間の移動というより、座標の書き換えに近い。光をくぐり抜けるとき、身体の慣性だけが一瞬置き去りにされ、追いついてくるまでのコンマ数秒、内臓の位置が信用できなくなる。
開いた先は、瓦礫の街だった。
福浜市。十四日前――わたしの時間感覚で言えば、まだ起こっていない未来――に、この街は爆発によって無人になる。いまここにいる街並みは、その予定調和が始まる直前の姿をしていた。
隊列の脇を、後ろ歩きの一団が通り過ぎていく。青い腕章。逆行部隊だ。列の中に、いろはの姿はなかった。当然だ。彼女の逆行は一時間分先行している。わたしが目にしているのは、まだ彼女がここに到達していない時刻の光景に過ぎない。
光弾、火炎、氷、風――無数の攻撃がこちらへ殺到する。応戦は反射に近い動作で処理される。何百回と繰り返した動きは、もはや判断というより条件反射の領域に属していた。判断が介在しないということは、思考のリソースが別のことに割けるということでもある。わたしはその余剰を、瓦礫の挙動の観察に充てた。
崩れた壁の破片が、宙に浮いたまま逆再生のように吸い寄せられ、元の壁面へと収束していく。これは見慣れた現象のはずだった。だが見慣れることと、その現象が内包する暴力性に鈍感になることは、別の問題だ。壁が「直る」ということは、その壁を破壊した力がどこかに温存されている、ということでもある。エネルギーは消えない。方向が反転するだけだ。
「前進!」
やちよの号令で部隊が前へ出る。
左右を見渡すと、青い腕章の逆行部隊と赤い腕章の順行部隊が、同じ通りを別々の時間の向きで通過していた。二つの矢が同じ座標を、別の順序で貫いている。傍から見れば混沌そのものだが、当事者たちの間には、目に見えない優先順位の合意が存在する。
街のあちこちに設置された鏡から、人影が飛び出したり、後ろ向きに吸い込まれたりする。
「ミラーズよ! 注意!」
誰かが叫んだ。敵の魔法少女たちは、こちらの部隊と体格も戦い方もよく似ていたが、ガスマスクも白いマントも腕章もつけていない。識別は容易だった。容易であることが、かえってわたしを落ち着かなくさせた。装備の有無だけで敵味方を分けているという事実は、この装備さえ剥ぎ取られれば、わたし自身がミラーズと見分けのつかない何かになる、ということの裏返しでもある。
わたしたちは攻撃をいなしながら、爆心地へ進んだ。
いろはたちの逆行部隊も、街の別の区画で交戦しながら前進していた。
いろはは結界の入り口を見据えていた。トンネル状の入り口のはずが、いまはまだ土砂に埋まっている。周囲には鏡の破片が散らばっていた。
「あれが入り口……?」
「そうだ」
逆行部隊のリーダー、十七夜が短く答える。
「来るぞ!」
その言葉と同時に、無数の攻撃が降り注いだ。いろはは身をかわしながらも、視線だけは結界の入り口から離さなかった。
散らばっていた鏡の破片が、逆再生のように寄り集まり、一枚の鏡へと戻っていく。その鏡面から、後ろ向きに歩く紫色の魔法少女が現れた。順行の更紗帆奈だ。
いろはの動きに、迷いはなかった。十七夜の制止を振り切り、敵の回転ドアへ向けて駆け出す。
みことの手下たちが、後ろ向きに施設の回転ドアを潜って出ていく光景が見えた。いろはは順行側のガラス越しに、扉へ飛び込む自分自身の姿を確認した。躊躇う理由は、既に消えていた。
飛び込む。世界が順行に戻る。
回転ドアを抜け、爆心地近くの結界入口へと走った。このままではほむらとやちよが閉じ込められる。止めなければならない――その一点だけが、いろはの思考を占めていた。
大東団地E棟の屋上に、傾いた陽が差していた。
アリナとさなが、下から団地の輪郭を見上げていた。
「合図までは……何もしないでくださいね」
さなが念を押す。アリナは頷き、階段を上っていった。さなは一階に残る。
屋上では、喪服のような黒いドレスをまとった少女が、壊れかけたデッキチェアに腰かけていた。瀬奈みこと。
「今日は……呼んだっけ?」
「アイに来た」
「なら、こっちにおいで」
みことの声は柔らかかった。柔らかさというのは、しばしば譲歩の証ではなく、既に決着がついた者の余裕から来る。
みことはアリナを抱き寄せ、頬に触れ、髪をかき上げた。慈しみに満ちた仕草だった。それがこれから起こることへの償いなのか、それとも単なる惰性なのか、傍から見分ける方法はない。
「なんか嬉しそう。いいことあった?」
「そうね」
みことの指先に、銀色のカプセルがつままれていた。
「何それ?」
「――こんなふうに世界は終わる。爆発ではなく、すすり泣きで」
みことが呟く。誰かの詩の一節を借りているような口調だった。
「もうすぐ始まるわ。全ての魔法少女が死んで、そして始まる。もう二度と絶望なんかしない」
みことがスマートフォンを取り出し、通話を始めた。
わたしとやちよは、攻撃の合間を縫って爆心地近くの鏡――結界の入り口にたどり着いた。
「そこよ! 全員援護!」
やちよの指示で、部隊が反撃に転じる。生まれた陽動を利用し、わたしたちは鏡へ一直線に走った。
鏡面に飛び込む。結界のトンネルへ。
背後で、誰かの叫び声が聞こえた。
「待って! 待って!」
振り返ると、鏡にヒビが走り、入り口そのものが崩れていく。
「閉じ込められた」
「進むしかないわ」
やちよの声には迷いがなかった。迷いがないというより、選択肢の数を数え終えた者の口調だった。わたしたちはトンネルの奥へと走った。
いろはは、崩れゆく結界の入り口に飛び込もうとした。だが間に合わなかった。入り口は完全に砕け、通り抜ける先を失った。
思考を止めなかった。この先に起こることの座標を、頭の中で組み立て直す。
爆心地に開いた穴。その近くに停まった一台の車。
いろはは踵を返し、再び爆心地へと駆けた。
薄暗い通路の先に、鉄格子があった。その向こうに、円形に開けた空間が広がっている。「アルゴリズム」の核心が安置された場所だ。
天井から差し込む光が、岩の床に置かれた黒い箱――未来へ送るためのタイムカプセル――を照らしていた。箱の奥には、深く暗い穴が口を開けている。天井には爆薬が仕掛けられ、カウントダウンは既に進行していた。
時計を確認する。『4:06』、『4:05』。数字が減っていく速度は、いつだって思考の速度より正直だ。
やちよが鉄格子の電子ロックを調べにかかる。
鉄格子の向こう、円形の空間の端に、白いフード付きマントとガスマスクをまとった、青い腕章の魔法少女が倒れていた。わたしは手を伸ばし、脈を確かめようとして――止めた。
倒れた身体の下から、長いピンク色の髪が零れ出ていた。
「ほむら、ロックは開けられる?」
やちよの声が響く。
「そのロックは外せないよ」
答えた直後、雷が走り抜けた。やちよの身体に直撃し、崩れ落ちる。
鉄格子の向こうから、更紗帆奈が電撃を纏ったマンキャッチャーをこちらへ向けていた。もう一方の手で、通信機を鉄格子の隙間から差し入れてくる。スピーカーから、みことの声が反響した。
「私の全てが始まり、君の全てが終わる場所。気に入った?」
帆奈がわたしの銃を奪い、鉄格子越しにやちよの槍を押し出させる。二つの武器は、そのまま奥の穴へ投げ捨てられた。武装解除という行為には、しばしば会話の始まりという副次的な機能がある。帆奈は通信機を鉄格子の際に置き、後ろへ下がった。
「あなたの過ちを、世界に巻き込まないで」
わたしは言った。
「過ちじゃない。私は取引をした」
みことの声は静かだった。
「あなたはどう? 理解できない使命のために戦ってる。信頼できない仲間には何も話さず、情報も与えない。私が死ねば世界も死ぬ。あなたも、あなたの情報も死ぬ。これまでの全ての魔法少女と同じように、理を守るために世界に埋葬される」
理を守るために埋葬される――その言い回しが、わたしの内側の何かに触れた。わたしが幾度となく周回の中で選んできた沈黙、誰にも計画を明かさず一人で背負い続けてきた選択は、確かにみことが指摘する構造の内側にある。
情報を与えないことは、時に相手を守る形を取り、時に相手を道具として扱う形を取る。その二つを分ける境界線を、わたしはこれまで一度も明確に引けたためしがない。
それでも、と思う。境界線が引けないことと、境界線が存在しないことは、違う。
団地の屋上で、みことがスマートフォンに語り続けていた。赤く染まる陽が、彼女の輪郭だけを焼いていた。
「あなたはイかれた妄信者よ」
トンネルの奥から届く声に、みことが答える。
「世界を壊そうとする方がイカれてるわ」
「壊すんじゃない。新たな世界を創るの」
みことは夕陽を見つめたまま続けた。
「ある日、どこかで、魔法少女が魔女に孵化して世界の破滅を引き起こし、同時に回避する。エントロピーが逆転するのよ。磁極が過去百八十三回反転したように、時間そのものが方向を変える。二度と絶望は生まれない」
「今、私たちが生み出した絶望が、何世代も後の子孫の希望になるわ」
時計を確認する。『2:12』、『2:11』。
「どうして私たちの世界を壊す?」
「世界は絶望に染まってる。分からない? 私たち魔法少女に未来はない。だから戻るしかない。私たちがその原因よ。魔女も、ソウルジェムも、グリーフシードも。それを知っても、私を止めたい?」
止めたいか、と自問する時間はなかった。だが問われて即答できるということは、答えが既に用意されていたということでもある。
「どんな時でも、私たちは運命に抗って生き延びようとしてるわ」
「それがまさに彼らのやってることよ」
「でも、あなたは違う。自分の人生を終わらせるために、すべてを巻き添えにしようとしてるだけ」
「私が終われば、命は続く」
鉄格子の向こうで、帆奈が「アルゴリズム」を組み立て、黒い箱へ封印していく作業を続けていた。手つきに迷いはない。迷いのなさは、しばしば信念の証ではなく、選択の余地を最初から与えられなかった者の手つきだ。
「あなたは神も、新しい未来も信じてない。自分以外何も見ようとしない」
「くだらない。それが私の全て。それ以外の信念は持ち合わせてないわ」
信念、という単語がスピーカー越しに届いたとき、わたしの中で何かが軋んだ。同じ単語を、わたしたちは全く違う場所から発している。彼女にとってのそれは、世界を巻き添えにする免罪符だ。わたしにとってのそれは――まだ言葉になっていない。言葉にならないものを、言葉にならないまま持ち歩くことは可能だろうか。可能であってほしい、と思う自分がいた。
「信念がなければ人間じゃない。ただの狂人よ」
「それとも神? もしくは悪魔?」
「悪魔でしょうね」
即答した自分の声の平坦さに、遅れて気づいた。
倒れたやちよの手が、わずかに動くのが見えた。まだ意識はある。
帆奈が「アルゴリズム」の封印を終える。
「時間切れよ」
みことの声が、感情の起伏を欠いたまま響いた。
「やめなさい! 待って! やめて!」
帆奈が黒い箱を持ち上げ、天井から垂れたウィンチに繋いだ。足元で、光る砂のようなものが集まり始めていることに気づく。それは単なる粉塵の動きではなかった。破片へ向かって収束していく砂粒――爆発という不可逆の出来事が、可逆の方向へ巻き戻されようとしている予兆だ。この空間の時間律が、既にどちらの向きにも決めかねている。そのことが、わたしに一つの可能性を示唆した。
帆奈が箱を穴の上に吊り上げ、ウィンチのスイッチへ手をかける。
「帆奈?」
呼びかけると、帆奈の動きが止まった。振り返る目に、迷いらしきものが一瞬だけ見えた気がした。
置かれた通信機から、みことの声が答えた。
「終わらせて」
帆奈の身体は、その指示に従う形で動いた。マンキャッチャーが電撃を放ち、彼女自身がこちらへ突進してくる。
俯いた視界の端で、光る宝石のような破片が、倒れた青い腕章の魔法少女へと集まっていくのが見えた。
ソウルジェムが割れる音が、逆向きに響いた。硝子が集まって器を形作るときの音に似ていた。次の瞬間、倒れていた身体が「蘇る」――正確には、崩壊という出来事が巻き戻され、崩壊する前の状態へと押し戻される。彼女はわたしを庇うように立ち上がり、帆奈の電撃を全身で受け止めて横に飛び、鉄格子を内側から開けた。
開いた隙間から滑り込む。帆奈は背を向け、レバーへ走った。
追いつき、背中に組み付く。もみ合いの中で優先すべきは力の総量ではなく、相手の重心が次にどこへ移るかの予測だ。何百回と積み重ねてきた計算が、判断を待たずに身体を動かす。
昏倒していたやちよが身を起こす。時計に目をやった――『1:07』、『1:06』。鉄格子は開いている。
拳を打ち込み、レバーから引き剥がす。手が届く直前、蹴りが帆奈の体幹に突き刺さった。骨と筋肉の間で衝撃が分散しきらず、彼女はバランスを崩して倒れ込む。
首を掴み、穴へ投げ込んだ。身体が宙で一度反転し、奈落へ消えていく。悲鳴だけが、しばらく空間に残響した。
この一連の動作にかかった時間を、わたしは後になっても正確に数え直せない。数えられないということは、感情が介在した証拠だ、と誰かに言われたことがある。だとすれば、わたしはまだ、この暴力に完全には慣れきっていない。
やちよが横に駆け寄ろうとした瞬間、施錠の音が響いた。逆行する魔法少女が扉に鍵をかけ、後ろ向きに結界の奥へと去っていく。
「閉じ込められたわ」
「とにかく、アルゴリズムを」
わたしたちは、吊られた黒い箱を下ろした。
屋上に、通話の余韻だけが残っていた。
「もう終わり」
アリナがみことの手からスマートフォンを奪い取った。
「どうして」
「アンタの計画」
アリナは立ち上がり、みことから距離を取る。
「何のつもり?」
「前に言ったヨネ。絶望の先には何もないって。アンタ、そう言い切ってた」
みことの目が細くなる。
「でも、アリナ、分かっちゃった」
アリナはシャツの裾をたくし上げた。下腹部に残る傷跡――かつてみこと自身がそこを刺した痕――が夕陽に照らされる。
「絶望の先に、これがあった」
同じ言葉の裏返しだった。かつて否定として発された台詞が、いま生存の証拠として引用し直されている。みことの表情から、初めて余裕が消えた。
叫び声を上げ、みことが駆ける。アリナも駆ける。光線が交錯し、流れ弾がデッキチェアを砕いた。
二人がすれ違う。
アリナは背を反らしながら振り返った。
「アンタのその顔、最高の作品だよネ。サヨナラ」
ソウルジェムの割れる音が、屋上に響いた。逆行の粒子など、どこにもなかった。ただの、不可逆な音だった。
黒いドレスが大東学園の制服へと戻る。蒼く昏い瞳の瞳孔が、限界まで開ききる。
支えを失った身体が傾ぎ、屋上の縁を越えて落ちていった。瀬奈みことは絶命した。
一階で様子をうかがっていたさなが、その瞬間を確認し、スマートフォンでやちよへ連絡を入れた。
「やちよさん! 大変です! アリナが……みことを……」
「まずいわね」
やちよと視線を交わす。安堵と呼ぶには早すぎる報せだった。アルゴリズムは確保できた。だが、脱出の手段がない。天井の爆薬のカウントダウンは、ゼロへ向けて機械的に減り続けている。
突然、天井の穴からロープが垂れ落ちてきた。
「これは……?」
「いろはよ」
確信があったわけではない。だが、この座標にこの時刻、このタイミングでロープを垂らせる人間の候補は、限りなく少なかった。
自分とアルゴリズムをロープに結びつける。やちよも身体を固定した。
ロープが引かれ、二人と「アルゴリズム」が地上へと引き上げられていく。
背後でカウントダウンがゼロに達した。爆炎と衝撃波が、下から突き上げるように空間を満たす。
「アルゴリズム」を抱えたまま、穴の縁と衝撃波に揉まれ、そして――わたしは虚空へ放り出された。
地上だ。