魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
爆風に押し出された身体が空中でどんな軌跡を描くか、ほむらはすでに数えきれないほど知っていた。回転、失速、そして着地——受け身の姿勢を組み上げるのに要する時間は、体感で〇・四秒に満たない。地面を転がり、砂利と土埃の匂いを肺いっぱいに吸い込んで、ほむらは仰向けに止まった。
視界に映ったのは、一台の車と、そこから垂れたロープと、それを握るいろはの顔だった。安堵と、それだけでは片づけられない何かが、その表情の下に薄く透けて見えた。
「作戦、成功したみたいね」
いろはがガスマスクを外しながら言う。瞳は穏やかだったが、奥にあるのは凪いだ水面に似た静けさで——凪いだ水面というのは、たいてい底が見えないことの言い換えでもある。
「逆行したままかと思った」
「途中で順行に戻ったの。ほむらちゃん、ここで助けが必要だったから」
助けの必要な場所と時刻を正確に言い当てられる人間の存在は、偶然という語彙と相性が悪い。ほむらはその違和感を、まだ言葉にはしなかった。
「地下でも助けが必要だったわ」
やちよが身を起こし、砂を払う。
「どうやってあのロックを開けたの」
「私じゃない」
「そう……いろはのチームは大丈夫だった?」
「次の通過で合流するよ。ね、やちよさん」
やちよは息を整え、頷いた。
「そうね。少し休めば」
ほむらが手を伸ばすと、やちよが「アルゴリズム」を素早く引き寄せた。所有権の所在を確認するだけの、無駄のない動きだった。
「生きては戻れない任務、ね」
ほむらは呟いた。答えは求めなかった。答えを期待しない発言というのは、たいてい自分自身への確認作業に過ぎない。
やちよが立ち上がり、「アルゴリズム」を手に、視界を遮るもののない平原を見渡す。
「誰も見てない。ちょうどいい」
三つに分解された部品が、やちよの手からほむらといろはへ、それぞれ放り投げられる。物の受け渡しというより、責任の分配だった。
「これを見た者は、普通の世界には戻れない。隠して、私たちの命が終わるまで守る。それが確実な方法よ」
声は平坦だった。平坦さは、この結論に至るまでにやちよが幾つもの別解を検討し、そのすべてを棄却してきたことの証明でもある。
「でも、いつかは……自分で決めなさい」
「私たちを殺さないの」
いろはが問う。
「見つけたら殺すわ」
「でも、あんまり熱心には探さないよね」
「いや、絶対に探す」
いろはが小さく笑い、首を振った。矛盾する二つの発言のあいだに笑いが挟まるのは、その矛盾自体が、この世界における最も正直な約束の形だからだ。
やちよは平原の向こう、遠くに開いた転移の窓へ向けて歩き出す。ほむらといろははその背を見送った。
いろはが不意に呼び止める。
「やちよさん、待って」
自分の「アルゴリズム」の破片を取り出し、ほむらの持つ破片に接続する。
「本当に戻るつもり」
「あの扉を時間通りに開けられたのは私だけ、そうだよね」
やちよが振り返り、いろはを値踏みするように見つめる。沈黙——体感で三秒ほど——ののち、頷いた。
「あの扉は、いろはじゃないと開けられないわ」
いろはがほむらに向き直る。
「ほらね。やっぱり私の役目。だから戻って、また過去を作るの」
風がピンク色の髪を揺らした。その色が、ほむらの記憶の中で一本の線に繋がる——劇場の壁に開いた穴、逆再生する破片、白羽根を貫いた光、通路を駆け去った後ろ姿。そして砕け散ったソウルジェムと青い腕章の魔法少女。
すべてが一人の少女の軌跡だったという事実は、驚きというより、ようやく答え合わせが済んだという種類の感覚だった。
「いろは、待って」
「私たち、世界を救ったよ。これは偶然じゃない」
胸の内側で何かが軋む感覚があった。これから起きることを、ほむらはもう知っていた。知っているという事実が、何の役にも立たないことも。
「でも、変えられるんじゃない。違うやり方で」
いろはがほむらの表情——苦しみと呼んでいいものだった——を見て、静かに答えた。
「起きたことは仕方ない。この世界の理でも、何もしないことの理由にはならない」
「それは……運命なの」
「ほむらちゃんには」
「いろはにとっては」
「現実だよ。もう行かなきゃ」
いろはが背を向けて歩き出す。ほむらは、涙を堪えるという行為がどれほど無意味かを知りながら、それでも堪えようとした。
「ねえ」
いろはが振り返る。
「どうしていろはが魔法少女になったのか、教えてくれなかったよね」
いろはが微笑んだ。答えを引き延ばすための微笑みではなく、答えそのものとしての微笑みだった。
「もう分かったんじゃない? ほむらちゃんだよ。もっと先の話だけど、ほむらちゃんの未来は過去にある。私にとっては何年も前、ほむらちゃんには何年も後」
「ずっと……私を知ってた?」
言葉が、嗚咽の形をとって喉から出た。
いろはが頷く。
「ほむらちゃん、ありがとう。あなたはわたしの、最高の友達だったよ」
「私にはまだ、いろはと出会ったばかり……」
「これは時空を超えた壮大な挟撃作戦なの。絶対に気に入るよ」
「誰の作戦」
「ほむらちゃんだよ。今はその中間点。始まりの時にまた会おうね。それじゃ」
いろはは振り返り、やちよの後を追って歩き去った。ほむらはその背中が転移の窓の光に溶けるまで、動かずに見ていた。
「世界を破滅から救う……でも、誰も気づかない」
いろはの声が、まだ耳の奥に残っている。
「たとえ気付いても、誰も気にしない」
神浜の雑踏の中で、ほむらは声に出してその続きを言った。誰かに聞かせるためではなく、記録として、自分自身の耳に刻むための発語だった。
赤いリボンが風に揺れ、耳元で蜥蜴を模したイヤーカフが鈍く光を反射する。街頭ビジョンは見滝原市の豪雨災害を報じ、その音声は雑踏の底に溶けて、誰の耳にも届いていないようだった。
雑踏の中の一点に、ほむらの視線が吸い寄せられる。
ピンク色の髪をツインテールに結い、黄色いリボンを揺らした少女が、三歳ほどの男の子と手を繋いで歩いていた。捜し続けてきた少女。鹿目まどか。
弟の歩幅に合わせて速度を落とす、その足取りには、魔法少女の気配が欠片ほども含まれていなかった。含まれていないという事実こそが、ほむらがこれまで積み重ねてきたすべての周回の、唯一にして最大の成果だった。
「やあ、ほむら」
キュゥべえが横に現れる。声に驚きはない。驚きという感情機構自体が、この生物には実装されていない。
「君が見つめるあの少女、時間逆行やエントロピーの減少と何か関係があるのかい」
問いの形をしているが、これは問いではない。可能性の検証だった。ほむらは答えなかった。答えは、この生物にとって情報以上の価値を持たない。
懐からサプレッサー付きのグロックを取り出す。金属の重さは、劇場前のワンボックスカーで確かめたものと寸分違わなかった。何百回繰り返しても軽くならない重さ——それだけが、この十一日間と、その裏側の十四日間を通じて、唯一変わらなかったものだった。
「だとしたら、彼女も魔法少女にしなきゃいけないかもしれないね」
引き金にかけた指が、一瞬だけ止まった。
止まった一瞬のあいだに、ほむらは考える。この選択は本当に自分のものか。それとも、未来から誰かに割り当てられた台本の、決められた一行をなぞっているだけなのか。交換可能な部品の一つに過ぎないという自覚と、それでもこの役目を誰にも譲る気はないという感情は、結論を出さないまま同居していた。同居したまま、答えの出ないまま、指はふたたび動いた。
「いいえ」
くぐもった銃声が一つ。反動は想定の範囲内、着弾は額の中心からわずかに逸れて、それでも致命は致命だった。動かなくなった白い体を踏み、ほむらは足元を見下ろす。
「全ては私自身だったのよ。この作戦も、時間逆行も、この話の全部。私が『主役』。これが私の『TENET』」
言葉にしてみると、それは結論というより、ようやく見つけた言い訳に近かった。だが言い訳であっても、それを口にした人間は、その言い訳の分だけ前に進むことができる。
涙が視界を滲ませる中、まどかの背中——弟と手を繋ぎ、帰路を歩く後ろ姿——が遠ざかっていく。
「――
頬を一筋、涙が伝った。拭う手は、動かなかった。
見知らぬひとよ、もし通りすがりにきみがわたしに会って、
わたしに話しかけたいのなら、どうしてきみがわたしに話しかけてはいけないのだ?
そして、どうしてわたしがきみに話しかけてはいけないのだ?
――ウォルト・ホイットマン「きみに」