魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし   作:トマスアレポ

2 / 6
Day2

昔から、病院という場所を憎んでいた。

 

窓の外で遊ぶ子供たちを見るたびに、なぜ自分だけがこの清潔な檻に閉じ込められ、消毒液の匂いを吸って生きなければならないのかと、幾度となく自問してきた。答えは出なかった。健やかな子供の時間と病んだ子供の時間との間には、そもそも説明のための共通言語が存在しないのだと、いつからかほむらは結論するようになっていた。

 

だから、白すぎる天井の染みと消毒液の匂いを同時に認識したとき、ほむらの内側を満たしたのは嫌悪ではなく、安堵だった。この矛盾こそが、まず記録されるべき事実だ。安堵という感情は通常、既に知っているものに対して生じる。だが今回のそれは、「まだ何も知らないこと」に対する安堵だった。何も知らないという状態は、少なくとも、最悪が既に確定してしまった状態よりはましだ。

 

覚えているのは、廃工場の錆びた匂いと、さやかの指先に噛みついた瞬間、口の中に広がった杏に似た甘さだけだ。あの甘さの後に時間遡行が発動していたなら、目覚める場所は劇場の開演前のロビーでなければならない。だが天井の染みは見覚えのないものだった。腕には点滴の針が刺さり、モニターが単調な電子音で心拍を数えている。周回は起きていない――ほむらはその事実を、天井の染みの形という、いかにも頼りない根拠だけで確定させた。頼りなくとも、確定は確定だ。判断を保留している余裕はどこにもなかった。

 

隣のベッドの縁に、見知らぬ少女が腰掛けていた。

 

「来世にようこそ、ほむらちゃん」

 

その挨拶の選び方だけで、この人物が「死」という言葉を軽々に扱う側の人間だと分かった。ほむらは身構えたが、拘束具の類は付けられていない。少女は構わず言葉を継いだ。

 

「大変だったのよぉ。劇場から救出したけど、薬で昏睡状態だったから。ソウルジェムを『調整』しておいたから、他の子にやられた傷も回復してるはずよぉ」

 

言われて初めて、身体の内側を検分する。廃工場で刻まれたはずの裂傷の記憶に対して、皮膚の表面はあまりに滑らかだった。回復魔法とは異なる何か――既に完了した治癒を、後から辻褄合わせのように挿入されたような、時間の順序そのものへの違和感がある。

 

「じゃあ、あの薬は……」

 

昏睡の先に続く暗い現実が、遡行を経ずにそのまま地続きになっている。その事実に、ほむらは今更ながら気づいた。

 

「あれは私が用意したもの。全ては調整屋さんのテストってところかしらねぇ」

 

「テスト? 信じられないことをされたのに……それで見滝原の他の子たちは?」

 

少女は首を振った。

 

「残念だけど……ほむらちゃんが悪いわけじゃない。仲間のために死を選ぶほどなんだから」

 

肯定でも否定でもない、その言い回しだけで結論は出ていた。答えを言葉にさせるより先に、ほむらは自分の内側で処理を終えていた――杏子とマミとさやかは、もういない。少なくともこの世界線の彼女たちは。

 


 

「燃えるビルに飛び込んで人を助けようとしても、炎の熱さを知れば誰もが怖気づく。でも、ほむらちゃんならきっとできる」

 

病室を出て、少女――調整屋の八雲みたまが根城とする廃映画館「神浜ミレナ座」の屋上に立つ。都市の夜景を背に、みたまが話を切り出した。

 

「誰に対してもする訳じゃない。私はもう行くけど」

 

「まどかのため?」

 

みたまの問いに、ほむらは弾かれたように振り返った。今この街に来て以来、誰にもその名を明かした覚えはない。

 

「なぜ知ってるの?」

 

「調整屋さんは何でも知ってるわ。知らないこともね」

 

答えになっていない答えだった。だがその非対称性――全てを知る者が、同時に何も知らないと言う――こそが、この人物の権威の正体なのだろうと、ほむらは推測した。情報の非対称は、それ自体が武器になる。武器は使う側にのみ有利に働く。

 

内面を覗かれたことへの怒りが一瞬こみ上げたが、みたまは構わず続けた。

 

「でも、まどかちゃんのためにも、生き残るための任務をこなさないとダメよぉ。ほむらちゃんは一度死んだようなものだから」

 

「生き残る?」

 

「ほむらちゃんだけじゃない。私たち、ひいては人類全体の話よ」

 

「意図が分からない」

 

「過去と未来、希望と絶望、神と悪魔――これまで経験したことのない戦いよ。ほむらちゃんが『主役』に名乗り出なきゃ」

 

みたまはそう言って、両手の指を組み合わせて見せた。掌と掌を合わせ、指を交差させる、それ自体には意味のなさそうな形。だが意味のなさそうな形にわざわざ名前を与えるとき、そこには必ず取引の構造がある。

 

「このポーズと『TENET(信念)』。今教えられるのはこれだけ」

 

「それだけ?」

 

「そう。情報の取り扱いは慎重じゃないとね」

 

ほむらは沈黙した。沈黙の内側で、一つの計算だけが進んでいた――与えられる情報の量は、常に与える側の都合で決まる。知らないことを武器と呼ぶ人間は、大抵の場合、その武器を自分以外の誰かに向けて構えている。それを承知の上で、なお従う理由が自分にあるとすれば、それはただ一つしかない。まどかという固有名詞が、この会話の中に既に一度、他人の口から出てしまったという事実だ。一度出た名前は、取り消せない。取り消せない以上、この場を降りるという選択肢は、既に消えている。

 

「私以外に、テストをクリアした魔法少女は?」

 

「合格者はあなた一人よ」

 

その返答に安堵すべきなのか、恐怖すべきなのか、ほむらには判断がつかなかった。合格者が一人しかいないという事実は、選ばれたことの証明であると同時に、代わりがいないことの証明でもある。代わりがいないという状態は、この街に来てからのほむらにとって、既に何度も繰り返されてきた状態だった。

 


 

みたまに連れられた先は、神浜市沿岸に並ぶ風力発電所群だった。海上に整列した風車の群れが、規則正しい周期で回転している。規則正しさというものは、見ているだけで安心を誘発する性質を持つ――人間の神経系が、予測可能な反復を「安全」の代理指標として処理するようにできているからだ。だが規則正しいものほど、内部に隠された不規則を発見しにくくもする。

 

ボートがその一角に着けられ、ほむらを降ろすと、みたまはすぐに沿岸へ引き返していった。ほむらは一人、風車の内部に残された。

 

用意された部屋には、数日分の生活物資、スクールバッグ、そしてほむらのグロックが置かれていた。銃だけが、この静かな部屋の中で唯一、既知の文法で書かれた物体だった。

 

バッグの中身は白いセーラー服、教科書、ノート、筆箱、スマートフォン。畳まれたメモにはみたまの筆跡で、約束の日時とスマートフォンのパスコードが記されている。生徒手帳には「南凪自由学園」とあった。この制服に着替え、この学園に通う人間として振る舞う必要があるということだ。身元というものは、いつからか、こうして誰かに割り当てられるものに変わっていた。

 

ほむらは数日をかけて、心身の回復と魔力・体力の再調整に費やした。再調整、という言葉を選んだのは、単なる訓練とは性質が違うと感じたからだ。この身体は、何百回という死とその巻き戻しを通じて、暴力に対する反応速度だけを極端に最適化されてきた。だが最適化された反応は、平時の擬態には向かない。制服の下に、殺すための身体を隠す作業――それが今回の訓練の本質だった。拳を握る速度を意図的に遅らせる練習に、これほどの集中力を要するとは思っていなかった。

 

作業と作業の合間、ほむらの思考は繰り返し同じ場所に舞い戻った。この十一日間という周回は、これまで経験してきたどの巻き戻しとも似ていない。

 

探すべきまどかは、この見滝原に不在だった。杏子とマミとさやかは、ほむらの介在なしに、既に一つのコンビとして完成し、魔女狩りを生業にしている。魔女化の真実――ソウルジェムが魔女の卵にすぎないという、本来なら隠されているはずの構造――が、この世界では既に公然の秘密として流通していた。だからこそ、堕ちる前に自ら命を絶つための毒薬までもが、当たり前の装備として配布されていた。ほむら自身の周回の歴史の中で、これほど早い段階で全てが「共有された知識」になっている世界線は一つもなかった。

 

極めつけは、魔女の減少だった。ある日を境に魔女の出現数が急激に落ち込み、グリーフシードの備蓄が底を突いた。備蓄が尽きるということは、この街の魔法少女全員の余命が、同時に、機械的に切り詰められるということだ。そこへキュゥべえが神浜の噂を持ち込んだ。この街に魔女が集結し、グリーフシードが取引を通じて手に入るかもしれないという、藁にもすがるような情報だった。四人にそれを拒む選択肢はなかった。拒めば、残された道は毒薬だけだったからだ。

 

見滝原のリーダーだったマミが自身の伝手でこの話の裏を取り、神浜市立劇場でのグリーフシード奪取という具体案に行き着いた。結果は、罠だった。ほむらだけが生き残るという、この上なく不均衡な結末を迎えて。

 

杏子とマミとさやかの死を、ほむらは既に数え切れないほど見てきている。それぞれの周回で、それぞれの死に方で。だから死そのものへの感度は、とうに摩耗しているはずだった。それでも今回の異様さだけは、既存のどの記憶とも整合しなかった。今回死んだのは、ほむらの知る杏子でもマミでもさやかでもない。ほむらのために戦ったことのない、ほむらを知らない誰かたちだ。それでも痛みの質量に、ほむらの計測できる範囲で、差はなかった。この事実の扱い方を、ほむらはまだ持っていない。

 

神浜市という都市。マギウスの翼という組織。調整屋を名乗る八雲みたま。積み上がっていくのは謎ばかりで、そのどれ一つとして解決の糸口を示さなかった。問いは同じ場所を回り続け、風車の羽根のように、規則正しく、そして無意味に、同じ弧を描き続けた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。