魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし   作:トマスアレポ

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Day3

制服の襟は、思っていたより硬かった。

 

化学繊維特有の光沢を持つ生地が、慣れない摩擦係数で首筋を擦る。これまでの人生で袖を通したどの学生服とも裁断が違う。だが、違和感を分析することと、それを表情に出すことの間には、越えるべき距離がある。ほむらは南凪自由学園の廊下を歩きながら、その距離を保ち続けていた。

 

みたまのメモに記された日時と場所は、確認するまでもなく正確だった。あの女がよこす情報に、誤差はほとんど含まれない――それが今のほむらが持ちうる、数少ない信頼の形式だった。理科室のドアの取っ手に触れる。冷たい金属の感触が、これから起きることへの警戒を、意識の表層に呼び戻した。

 

ドアを開けると、実験机の一つに腰掛けた人影があった。

 

緑色のショートボブ。背丈も輪郭も、小学生と言われて疑わない幼さだった。制服の上に羽織った白衣は明らかにサイズが合っておらず、袖口が余って机の端に垂れている。子供が大人の道具を借りているという印象――だが、その机に並んだ器具の扱いに迷いがないことは、姿勢の据わり方だけで分かった。慣れとは、しばしば見た目の年齢と一致しない。

 

「その服なら、どこにでも紛れ込めるね」

 

少女――都ひなのが、値踏みするでも歓迎するでもない口調で言った。

 

ほむらは両手の指を組み合わせ、そのポーズを作る。合言葉というものは、発音の正確さより先に、これを覚えていたという事実そのものが担保になる。

 

「主義は『TENET(信念)』、そのはずよ」

 

ひなのが小さく頷き、机から降りて理科室の奥へ向かう。

 

「おしゃべりはなし。正体も目的もね」

 

軽い口調のまま、ひなのはビーカーに注いだコーヒーを差し出した。実験器具でコーヒーを淹れるという行為の意味を、ほむらは一瞬だけ秤にかけた――衛生観念の欠如か、あるいはこの部屋そのものが実験の延長線上にあることの誇示か。結論は出さず、黙って受け取る。室内を一瞥し、出口の位置と窓の開閉状態だけを記憶に刻んだ。逃走経路の計算は、状況が悪化してからでは遅い。

 

ひなのは微笑み、机の上のペンを取って立ち上がった。

 


 

開かれたノートには、すでに一匹の猫が描かれている。素朴な線画だった。ひなのがペンをその上に走らせると、線は逆再生の映像のようにするりと引き戻され、紙面から消えていった。数秒のうちに、ページは何も描かれていない白紙に戻る。

 

ほむらの目が細くなった。

 

「それは……何?」

 

「逆行するペン。未来から来たものだよ」

 

ひなのが軽く答える。

 

「握って書こうとすると、すでに書いてあった内容が『消える』。落とそうとすると、手に『戻る』。面白いだろ?」

 

差し出されたペンを、ほむらは一瞬迷ってから受け取った。躊躇の理由は恐怖ではない。未知の力学系に自分の身体を接触させる前の、単純な確認作業だった。別のページを開く。すでに試し書きらしい、意味のない曲線がいくつか引かれている。ペン先をその上に走らせると、線が逆になぞられるようにして消えていく。紙が白くなる。ほむらの指先に、抑えきれない震えが走った。

 

震えの正体は、すぐに言語化できた。恐怖ではない。作動している物理法則が、これまで信じてきたものと反転しているという事実に対する、純粋に生理的な拒絶反応だった。

 

通常、ペンは紙にインクを渡す。液体は圧力の高い側から低い側へ、密度の勾配に従って移動する――それは熱力学の最も初歩的な部分であり、ほむらが物心つく前から疑いもしなかった前提だった。だが、このペンは逆だった。紙の上のインクがペンへと戻っていく。原因が先にあり結果が後に続くという、時間そのものが持つ一方向の矢が、この一本の筒の中でだけ折れていた。

 

ひなのが机に二本の同じペンを並べる。

 

「普通、ペンからインクが出て紙に染み込む。でも、これは逆」

 

ひなのがペンの上に手をかざした。触れてもいないのに、ペンは重力に逆らい、逆再生のように掌へと吸い寄せられていく。

 

「やってみる?」

 

同じ動作を、ほむらも試した。ペンが掌に吸い寄せられる感触は、物を持ち上げる感触とは根本的に異なっていた。持ち上げるという動詞には、こちらの意志と筋肉の関与がある。だがこれには、ほむらの意志が介在する余地がなかった。

 

「触ってないのに……なぜ?」

 

ひなのがスマートフォンの録画画面を見せる。画面の中で、ペンが「引き寄せられる」瞬間と、それを逆再生した「落ちる」瞬間が、寸分違わぬ軌道を描いて重なっていた。

 

「君から見ればペンを『引き寄せた』。でも、ペンからすれば手から『落ちた』だけ」

 

ひなのが続ける。

 

「原因と結果が逆転してるんだ。理屈じゃなく、感覚の話だよ」

 

理屈じゃない、という言葉に、ほむらは異議を挟みたくなった。この現象は理屈そのものだ――ただし、ほむらの知る理屈を鏡に映しただけの姿にすぎない。鏡文字が読めないのは、文字自体が壊れているからではなく、読む側の脳がその反転に対応していないからだ。

 

「劇場で……同じ光景を見た」

 

自然と、そう漏れていた。

 

脳裏に蘇るのは、神浜市立劇場のホールで見た、あの一瞬だった。壁に開いた穴。外へ飛び散るはずの破片が、逆再生のように穴へ吸い戻されていく光景。そしてその先で結晶化したピンク色の光が、白羽根の肩を正確に貫いた瞬間。

 

「劇場? へえ、話してみてよ」

 

ひなのの声に、わずかな熱がこもった。この幼い外見をした人物にとって、自分がまだ知らない実例を提供する情報源としての価値が、ほむらに突如として発生した瞬間だった。

 

慎重に言葉を選びながら、ほむらは語った。事実だけを、余計な推測を混ぜずに。

 

「壁に穴が開いた。破片が逆に戻り、魔法少女の攻撃が白羽根を貫いた」

 

ひなのが目を細める。

 

「運がいいな。逆行の攻撃が当たっていたら、多分悲惨なことになっていた」

 

その言葉の軽さと、内容の重さの落差に、ほむらは一拍遅れて気がついた。悲惨、という言葉を、この少女は抽象ではなく具体的な光景として知っている口ぶりだった。

 


 

ひなのが机から降り、黒板の前に立つ。すでに描かれていたのは、右肩上がりに伸びるはずの曲線が、矢印ごと逆方向を向いたグラフだった。

 

「このペンや劇場の現象は、ネゲントロピー――エントロピーの減少を示してる」

 

ひなのがチョークで矢印をなぞる。

 

「通常、宇宙は秩序から混沌へ進む。ソウルジェムも同じ。透き通った状態から濁って壊れる。でも、これは逆。時間が未来から過去へ動いてるんだ」

 

エントロピーという単語を、ほむらは知識としては持っていた。魔法少女の身体を維持する代謝も、ソウルジェムの濁りが不可逆的に進行する過程も、結局は同じ法則――秩序が乱雑さへと崩れていく一方通行の坂道――の別の表現形にすぎない。だからこそ、その坂道を登り返す技術という発想そのものが、警報に似た反応をほむらの内側に引き起こした。

 

自分の時間遡行能力とは何なのか、ほむらは考える。あれは世界を巻き戻しているのではない。特定の瞬間の自分自身の精神へ、憑依のように帰還しているだけだ。世界の総エントロピーは、ほむらが何度周回しようと、律儀に増加し続けている。だが、いま目の前で示された現象は違う。物質そのものが、時間の矢に逆らって運動している。ほむらの能力が「観測者の再配置」だとすれば、これは「物理法則そのものの反転」だ。似た形をしていても、種としてはまるで異なる怪物だった。そして、交換可能な能力と、法則そのものを書き換える技術とでは、後者の方がはるかに危険であることに、疑いの余地はなかった。

 

キュゥべえの声が、記憶の底から浮かび上がる。エントロピーの減少に対する、あの生き物らしい打算的な関心――以前交わした会話の断片が、唐突に輪郭を持ち始めていた。

 

「未来から送り込まれたって、どういうこと?」

 

「時間を逆行することによって、過去も変えることができる」

 

ひなのの答えは短かった。短さは、事の重大さを隠すための手段にも、単に説明を面倒がっているだけの態度にも見えた。

 

「目的が分からないのに、なぜそんなものを?」

 

ひなのが肩をすくめる。

 

「あたしの推測だけど……核戦争級の危機じゃないかな。魔法少女が引き起こす、ソウルジェムや魔女の力を超えた何か。世界を終わらせるような力――たとえば、時間そのものを逆行させる技術とか」

 

心臓が、一拍だけ大きく跳ねた。生理的な反応であり、感情に名前をつけるより先に、身体の方が結論を出していた。

 

脳裏に浮かんだのは、里見那由他が抱えていたグリーフシード――下部が球形ではなく、立方体の機械部品にしか見えない、あの規格外の物体だった。規則からの逸脱は、しばしば設計の痕跡だ。自然に生まれた歪みでないのなら、誰かが、何らかの目的のために、意図してあの形に作ったことになる。

 

その誰かの目的が、いま黒板の前に立つ幼い顔をした人物の口から語られた「世界を終わらせるような力」と、同じ地平線上にあるのだとしたら。

 

ほむらは、白紙に戻ったノートのページへ、もう一度目を落とした。何も描かれていない紙面は、まだ何も起きていないことの証明であると同時に、すでに何かが消された痕跡でもあった。

 

 

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