魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
雑踏というものは、個々の足音を統計的に均してしまう。神浜の大通りを歩きながら、ほむらはその均された音の底で、自分の呼吸だけがわずかに乱れているのを感じていた。
逆行するペンの出処を洗う作業は、思ったより早く一つの結節点に行き着いた。マギウスの翼――この街に根を張る秘密結社。人口数百万を抱える神浜市には、見滝原とは比較にならない数の魔法少女が存在し、その大半が意識すらせずにこの組織の影響圏の中で息をしている。統治というものは、しばしば被統治者に自覚させないことによって完成する。見えない糸ほど、よく機能する。
調べを進めるうち、最高幹部の所在が里見メディカルセンターだと判明した。情報の出処を辿るという作業は、たいてい同じ場所に行き着く。誰かに聞くしかない、という場所に。
問題は、聞ける相手がほとんど残っていないことだった。見滝原の魔法少女は、もういない。杏子も、マミも、さやかも――この十一日足らずの間に、名前も知らない誰かの弾に倒れ、あるいは倒れる前に別の運命へ抜け落ちていった。伝手というのは本来、生きている人間の数だけ存在する資源だ。ほむらの伝手は、その大半が、すでに死者の記録としてしか機能していない。
それでも、一人だけ、生きている線が残っていた。
呼び出し音が三回鳴って、応答があった。
「黄昏に生きる」
短い沈黙のあと、声が返る。
「宵に友なし。死んだんじゃなかった?」
「死人にも仲間が必要よ。急ぎで里見メディカルセンターのマギウスのトップに会いたい」
「分かった。新西区の第一公園へ行きな。手配する」
通話が切れる。取引の言葉数と、取引の信頼度は反比例する。長い会話は、それだけ裏切りの余地を増やす。この街で生き延びている人間は、たいていそれを本能で知っている。
約束の時間、新西区第一公園のベンチに、ほむらは腰を下ろした。
「あの……マギウスの翼の幹部に会いたいって聞いてきたんだけど」
隣に少女が座った。神浜市立大附属の、白と赤のセーラー服。長いピンク色の髪をハーフアップにまとめている。その横顔の輪郭が、ほむらの記憶の底にある誰かの輪郭と一瞬だけ重なった。既視感というのは、たいてい脳が処理しきれなかった過去のデータが、無関係な現在の入力に誤って割り当てられる現象にすぎない。ほむらはその誤作動を意識の外へ押しやった。
「あっ、私、いろは。環いろは」
「そう……マギウスの幹部と話がしたい」
いろはの顔がわずかに硬くなる。
「それは無理だよ」
「十分でいい」
「問題は時間じゃない。生きて戻れないのが一番の問題」
いろはが缶コーヒーを差し出した。
「無糖でいいよね?」
差し出す仕草に迷いがない。好みを聞き出したのか、調べ上げたのか――どちらにせよ、初対面の相手の嗜好を事前に押さえておくという行為には、二つの読み方がある。職務上の周到さか、あるいは相手を「対象」として扱うことへの馴れか。この段階では、その二つを区別する材料が足りない。
「よく調べてるわね」
「こういう魔法少女なら、調べるのが当然だから」
「私はいつも美酢だけど」
「それ、嘘だね」
即答だった。見透かされたことへの微かな苛立ちと、それを上回る、名付けにくい安堵とが、ほむらの中で同時に発生し、どちらも表情には出なかった。感情の発生と、感情の表出は、別の回路を通る。ほむらにとってはもう長いこと、そうだった。
「ところで、穏便に済ませたいんだけど」
「センター内は黒羽根の警護や『ウワサ』の迎撃がいて、簡単じゃない。結界もある。ほむらちゃんの能力でも、行きはともかく帰りは突破が難しいよ」
「何かいい方法は? あなたなら知ってるって聞いた」
「私なら『バンジー飛び』かな」
「バンジージャンプじゃなくて?」
「『バンジー飛び』。唯一の侵入方法であり、脱出方法。あの里見メディカルセンターのことは詳しいから、私に任せて」
ほむらは渋々、その提案に付き合うことにした。選択肢の数が一つしかないとき、渋るという行為そのものが、すでに無意味な演算になる。
神浜の夜は、見滝原の夜より煌々としている。無数の摩天楼が、消灯を知らない体質を持つ生き物のように光を放ち続けているせいだろう。ほむらはそんなことを考えながら、いろはの指示通り『バンジー飛び』の準備を進めた。
原理は単純だ。スリングショットでワイヤーを対岸のバルコニーに引っ掛け、腰のハーネスに結ぶ。地上に設置した巻取機がゴムを限界まで引き絞り、解放された弾性エネルギーが二人分の質量を鉛直方向とは異なる角度へ叩き出す。跳躍のあと、加速度が失われる直前の一瞬だけ、魔法少女に強化された肉体が外壁のわずかな凹凸を捉え、次の跳躍のための足場に変える。落下と跳躍を交互に挟みながら数階ずつ壁を登っていく――理屈で説明すればそれだけのことだが、実際にそれを行っている最中の身体感覚は、理屈の外側にある。
「こっちは準備完了。始めようか」
いろはが巻取機のスイッチを押す。ゴムが引き絞られる音――カチリ、という乾いた金属音のあと、二人の身体は宙に投げ出された。
宵闇の中、重力に逆らって外壁を昇っていく二つの影は、地上から見れば、月面を歩く者の動きに似ていたかもしれない。ほむらにその余裕はなかった。加速のたびに肺の中の空気が圧迫され、着地のたびに膝から股関節にかけての衝撃を分散させる計算が、意識の一段下で自動的に走り続けていた。
いろはは幹部の部屋とは別の階に取りつき、警護の黒羽根を無力化する手筈へ向かう。ほむらは目的の階のバルコニーへたどり着くと、そこでスマートフォンを眺めていた白羽根の意識を一撃で刈り取った。頸部の一点、力を伝える角度と質量、必要最小限を超えない加減。人体を機能停止させる作業は、慣れるほどに手数が減っていく。減っていくことに、ほむらはもう驚かなくなっていた。
グロックにサプレッサーを装着し、窓の内側を覗く。車椅子の少女が視界に入る。背後にはパジャマ姿の少女。
ほむらは足音を殺して室内に踏み込み、車椅子の少女の頭にグロックの銃口を突きつけた。パジャマ姿の少女が息を呑む気配が、空気の密度の変化として伝わってくる。
「危うく殺されかけたわ。見たこともない逆行攻撃。あなたたちの仕業?」
「ぼくは柊ねむ。君は誰だい?」
車椅子の少女――柊ねむが、驚くほど平静な声で応じる。ほむらは無言で銃を構え続けた。沈黙は、質問の続きを相手に強制する最も安価な圧力だ。
パジャマ姿の少女の手が、手元のボタンへ動くのが視界の端に映る。
「呼んでも無駄。誰も来ないわ」
「どうしてぼくに聞くんだい?」
「逆行する物品をいくつか見た。出処を辿るとここにたどり着く」
「いい推理だね」
「推論よ」
「演繹法かな。ところで、その銃は有効な
「説得しに来たんじゃない。取引もしない。話してもらうだけ」
「無理だね」
「この引き金を引いても?」
パジャマ姿の少女が、こらえきれないというふうに小さく笑った。
「くふっ。もうその辺でいいんじゃないかにゃー? 取引の内幕を語るのは、ねむの
「じゃあ、あなたが話して」
「その前に銃を下ろして。ねむ、後は私が話すから」
パジャマ姿の少女は、ほむらを隣の病室へ招き入れた。招き入れる、という表現が正確かどうかは分からない。銃を突きつけている側が、招かれる側にまわっている――その事実に気づくのに、ほむらは一拍を要した。
「私は、マギウスの里見灯花」
病室の椅子に腰掛け、ベッドに座る灯花を見る。ダークブラウンの長髪に黒いリボン。幼い容貌は、この街の裏側を統べる最高幹部という肩書きとは、どこまでも釣り合わない。白い肌と細い手足には見覚えがあった。かつての自分と、同じ病室の窓の外を見ていた誰かたちの輪郭だ。人はときどき、権力の重さと身体の小ささを同じ場所に押し込む。押し込まれた側は、たいてい早くに壊れる。灯花がまだ壊れていないのだとすれば、それは別の理由による。
「逆行する物品はあなたたちが?」
「ううん、私たちはグリーフシードの対価として受け取っただけ。出処は瀬奈みことだよ」
「瀬奈みこと?」
「私たち以外にもグリーフシードの取引に関わる子。最近、頭角を現してる」
「ペンは?」
「もらった時からああだったよ。多分、彼女は現在と未来の仲介役なんじゃないかにゃー?」
「
自分の口から出た言葉の重さを、ほむらは半拍遅れて量った。時間遡行という現象なら、ほむらにも身に覚えがある。だが自分のそれは、まどかとの出会いをやり直すためだけに、特定の一点へ意識を送り返す、閉じた円環にすぎない。灯花が語っているのは、円環ではなく回線だ。過去と未来のあいだに、通信という名の穴を穿つ技術。もし本当にそんな回線が存在するなら、ほむらの幾星霜の周回は、ようやく一つの部品として、もっと大きな装置の中に位置づけられることになる。部品であることの軽さと、部品でしかなかったという苦さが、同時に胸の底へ落ちていった。どちらの感情も、結論を出す前に次の言葉に押し流された。
「くふっ。よく分かってるねー。未来との交信は珍しくないよ」
灯花が続ける。
「Eメールやクレジットカード、あらゆる
「問題は、未来が返事をするかどうかね」
「その通り」
灯花がほむらの瞳を見据える。人形めいた顔立ちの奥で、瞳孔だけが年齢不相応な演算をしているように見えた。
「瀬奈みことに近づくには新しい『主役』が必要、かな?」
「私に探れと?」
「あなたにしかできないと思うにゃー」
バルコニーから下界を見下ろすと、パトカーが数台、センターの敷地へ近づいてくるのが見えた。侵入が察知された。この街では、警察という記号もまた、誰かの都合で書き換えられる変数の一つにすぎない。
「くふっ。無事に脱出できるかにゃー?」
「気は進まないけど、やってみるわ」
「瀬奈みことを知る子を手配するから、会ってみて」
灯花の言葉を背に、ほむらはバルコニーの手すりを乗り越え、ビルの外壁を降下し始めた。いろはも別の階から降りてきて、地面でほむらに手を振る。
謎と疑問は答えを得るごとに数を増やしていく――そういう性質の情報を抱えたまま、ほむらは神浜の宵闇に紛れて消えた。