魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
常盤ななかについて、事前に渡されていた情報は「中立」の一語に尽きていた。神浜市を分割するどの陣営にも属さず、情報の売買だけで生計を立てている魔法少女――そういう存在は、この街では希少種に近い。中立を名乗る者の大半は、実際にはどこかの陣営に飼われている。ただ、飼い主の名を出さないという契約だけを律儀に守っているにすぎない。ななかが本物の中立者なのか、それとも単に沈黙の技術に長けているだけなのか、対面するまでほむらには判断がつかなかった。
指定されたカラオケボックスの扉を開けると、判断材料が一つ増えた。えんじ色のショートヘア、銀縁のアンダーリム眼鏡、参京院教育学園の制服。テーブルには食べかけのフライドポテト。護衛らしき人影はない。情報を扱う者が無防備でいられるとすれば、それは情報そのものが抑止力として機能しているか、背後により大きな抑止力を持っているか、そのどちらかだ。
「失礼、先に始めていました」
ほむらは正面のソファに腰を下ろした。ななかは顔を上げ、最短距離の言葉で用件に入った。
「ある魔法少女のことを知りたいと伺いました」
「今、神浜市にいるって聞いたわ」
「彼女は食わせ者です。何度か警告しましたが、聞き入れられませんでしたね」
忠告が退けられた事実を語るとき、ななかの声に恨みや失望の響きはなかった。単に、過去に起きた事象を時系列順に読み上げているだけだった。この温度のなさこそが、彼女の商品価値そのものなのだろう、とほむらは思った。
「彼女の情報は」
「福浜市をご存知ですか」
福浜市。神浜市から北へおよそ百六十キロ。数年前の事故で立入禁止区域に指定され、無人の街になった――ほむらの記憶にある情報は、そこまでだった。
「瀬奈みこと。福浜市の出身です。五日前、神浜市立劇場のテロと同じ時刻、無人のはずのその街で大規模な爆発が確認されました」
「爆発」
「原因は調査中ですが、恐らく魔法少女か魔女が絡んでいます。あの街が無人になった事故も、同種の原因だったと聞いています」
同じ時刻に、離れた二つの街で起きた二つの事件。偶然という言葉をあてがうには、間合いが正確すぎる。時間というものは、こういうとき、誰かの意図の輪郭を勝手に描き出してしまう。
ななかがグラスを傾けた。
「彼女は事故の影響で福浜市から神浜市に移住。おそらくその前後で魔法少女になり、福浜市で得たグリーフシードを元手に、神浜の取引に参画するようになりました」
「肉親や家族は」
「ほぼ関係は破綻しているようです。使えませんね」
使えない、という評価の下し方に、ほむらは一瞬だけ言葉を止めた。人間関係を交渉材料としての有用性でしか測らない視点は、ほむら自身も日常的に採用しているものだ。それを他人の口から聞かされると、鏡を見せられたときのような、名状しがたい後味が残った。
「どうすれば彼女に近づける」
「アリナ・グレイ。彼女が窓口です」
アリナ・グレイ――前衛芸術家として、それなりに知られた名だ。
「どうするの。まさか魅力で迫れと」
ななかが紙袋を差し出した。中には一枚の絵画が収められている。
「贋作ですが、アリナの作品には管理が不十分で散逸したものがあります。瀬奈みことはそうしたアリナの絵を集めているそうです」
「なぜ」
「共闘関係か、共犯関係か、あるいはデキているか。いずれにせよ執着があると見ています。使えるかと」
ほむらは紙袋を受け取った。重さのわりに、その中身は不釣り合いなほど大きな意味を持つことになりそうだった。
ななかがほむらの服装に視線を落とす。
「気を悪くしないでほしいのですが……水名の制服ですか」
淡い紫の上着、白いロング丈のブラウス、ボタン周りのフリル。出所を、ほむらは正直に言えば深く考えたことがなかった。
「水名の子に混ざるなら、吊るしではなく仕立て――オートクチュールでは」
指摘は的確だった。既製品と誂えの差は、着る人間の生活水準の差そのものを語る。潜入という行為において、服とは単なる外皮ではなく、経歴そのものの捏造だ。ほむらはその事実を、今この瞬間まで見落としていた。
「これは予算が」
「仕立て屋を紹介しましょうか」
「結構よ。神浜は面倒な街ね」
「色々ありますから」
ほむらはそう言い残し、個室を出た。ドアの向こうで、ななかが再びフライドポテトに手を伸ばす気配がした。取引の後始末に、彼女はいつも同じだけの関心しか払わない。
神浜市中央区、アリナ・グレイのアトリエは、外の喧噪から意図的に切り離された場所にあった。薄暗い室内で、蛍光塗料を塗り込めた絵画群だけが自ら発光しているように見える。足音の反響一つで、この部屋の設計思想が読み取れた。他人の気配を先んじて察知するための、静けさの装置だ。
ほむらは水名女学院の制服に着替え、三つ編みと眼鏡で輪郭を変えていた。変装とは、外見を偽ることではない。相手が期待する「無害さ」の型に、自分の存在をあらかじめ流し込んでおく作業だ。緊張した表情は演技ではなく、計算の結果として顔に貼りつけてある。手には贋作――アリナの初期作を模した抽象画。
作りかけの絵に囲まれたアリナは、緑髪を無造作に束ね、白いエプロンには絵の具の汚れが幾重にも重なっていた。汚れの重なりは、彼女がこの部屋にどれだけの時間を積んできたかを示す年輪のようなものだった。
「ハァ、またファンの子?」
「そうです。アリナさんに会いたくて……この絵、初期の『ナイン・フェーズ』ですよね」
ほむらは贋作を掲げた。声量、視線の落とし方、いずれも「見つけてもらいたいが、見透かされたくない」という矛盾した願望を演じる者の水準に調整してある。
アリナが絵に目をやり、興味を示して近づいてくる。
「へえ、よく知ってるじゃん。アリナの初期作品、なかなか見つからないのに」
「オークションで……偶然見つけて」
「ふーん。偶然ね。で、何? アリナに売る気?」
「いえ、ただ……瀬奈みことさんが集めてるって聞いて、持ってきました」
名前を出した瞬間、アリナの表情が一拍だけ凍りついた。感情の動きというより、演算が中断されたときの停止に近い。人間の顔は、予期しない入力に対してわずかに処理落ちする。その〇・数秒の遅延こそが、ほむらの求めていた反応だった。
「みことの名前、どこで知った? アンタ何者?」
アリナがほむらの腕を掴む。中指の指輪に視線が落ち、意図を察したのが分かった。
「ふーん、やっぱりその筋ってわけネ」
そのとき、背後に別の質量の気配が生じた。振り向く前に、それが敵意を持つ複数の存在だと分かった。水名女学院の制服を着た魔法少女――更紗帆奈と、彼女に付き従う数人。
「あんた誰」
「私はアリナさんの絵が好きで――」
「嘘だね。その制服、偽物。あたしも水名だから分かる」
見破られた理由は、恐らく縫製の癖か、あるいはリボンの結び方だ。偽装というものは、細部の一つが崩れただけで全体の信憑性を失う。冗長性を持たない情報構造と同じだった。
「アリナ、この子、怪しいよ。連れてくね」
手下がほむらの腕を掴む。抵抗を続ける演技の価値と、大人しく連行される価値を、ほむらは瞬時に比較した。答えは後者だった。連行先で得られる情報のほうが、今この場での見かけ上の自由よりも価値が高い。
「ちょっと、やめて」
演技としての抵抗だけを残し、ほむらはアトリエから連れ出された。
連れ出されていくほむらの背中を、アリナは窓際から見送った。
「アイツ、殺すの?」
「殺しはない。身の程を分からせるだけ」
帆奈が答えた。命令の執行に迷いはなく、むしろこの種の作業は、彼女にとって日課の延長でしかないように見えた。帆奈がアトリエの窓を指す。窓の外には、人通りの少ない裏路地と、ほむらを連行していく手下たちの姿があった。
「見ないとダメ?」
「見届けろ、と」
短い応酬だった。命令の出所については、二人とも触れなかった。触れる必要のない上下関係だけが、その簡潔さの中に透けて見えた。
連行先は、ビルの谷間に挟まれた裏路地だった。逃げ場になりうる出入口の数、天候による足場の摩擦係数、周囲の窓の有無――視界に入った瞬間、いくつかの数値がほむらの内側で自動的に処理された。この計算に「戦うかどうか」という選択肢は含まれていない。戦闘そのものは、既に確定した未来として演算の対象になっていた。
手下は八人。帆奈はこの場にいない。指揮官不在の実行部隊、練度は中の下。時間停止を使うまでもない相手だった。
拳が腹部へ向かって直進する。到達までおよそ〇・三秒。ほむらは体幹をわずかにひねり、拳の運動量を打撲部位から逃がした。衝撃そのものは殺しきれない。だから、殺す必要のない場所へ受け流す。崩れ落ち、嗚咽を演じながら眼鏡を落とす。眼鏡は、最初から演技上の消耗品として選んだものだった。
別の一人が眼鏡を踏み潰し、蹴りを顔面へ向ける。軌道は単純で、回避の予備動作を読み取るだけの時間的余裕があった。顔を逸らし、伸びきった足首を掴む。重心を支える基底面を失った身体は、意志とは無関係に転倒する。これは力学の問題であって、勝敗の問題ではない。立ち上がりざま、膝を相手の腹部に打ち込んだ。
止めに入る二人へ、手近なガラス瓶を投げつける。防御に割かれた注意力の空白へ、拳を差し込む。人間の注意資源は有限で、一つの脅威に割り当てられた分だけ、他の脅威への感度は下がる。基本的だが、常に有効な原則だった。
背後からバットを振るう腕を掴み、肘に二発。バタフライナイフを構えた一人には、腕をひねり上げてから背中越しに頭部を打ちつけ、意識を刈り取った。
残る数人が、形勢の不利を悟って裏路地から逃げ出していく。追う理由はなかった。逃げる者を追うコストは、逃げる者を放置するコストを上回る場面のほうが多い。
肩の埃を払い、崩れた襟を整える。この一連の動作のあいだ、心拍数はほとんど上昇していなかった。かつては、それを誇るべき冷静さだと思っていた。今は、それが何かを摩耗させた結果であることを、否定できずにいる。何を摩耗させたのか、正確な名前を、ほむらはまだ持っていなかった。
アトリエの窓から、その一部始終を見ていた二人の反応は対照的だった。
更紗帆奈は、余裕を含んだ笑みを最初の数秒で失った。逃げ出す部下たちの背中を認めた瞬間、舌打ちとともに変身し、躊躇なく窓から飛び降りる。判断の速さは感情の乱れとは別種のものだった。命令系統の崩壊を放置しないという、実行部隊の指揮官としての反射に近かった。
アリナ・グレイは、動かなかった。窓枠に片手をかけたまま、路地の光景を最後まで目で追い続けていた。その視線は暴力そのものではなく、暴力の設計――拳がどこへ向かい、どこへ逸れ、何が壊れずに残ったか――を追っているように見えた。
「身の程を分からせるだけ、ネ」
誰に向けたものでもない呟きが、こぼれ落ちた。数分前、帆奈に投げたのと同じ言葉を、アリナは今、まったく逆の意味で使っていた。声の温度は低く、そこに恐れの成分は含まれていない。あるとすれば、それは興味という名の、もう少し危険な成分だった。