魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
雑踏の密度には、統計的な癖がある。人間という生き物は互いに一定の距離を保ちながら流れていくもので、その距離感が局所的に乱れる場所には、決まって何か異物が紛れ込んでいる。神浜の目抜き通りを歩きながら、ほむらは半ば無意識のうちにその計算をしていた。
乱れは、右横から来た。
「やあ、ほむら」
歩調を変えないまま、声だけが横に並ぶ。この生き物の足音を、ほむらは一度も聞いたことがない。存在の重さというものが、根本的に欠落している。
「何」
「まだ神浜にいたとはね」
「あなたには関係ないわ」
「そうもいかないさ。この街は特殊だからね。色々警告もしておくべきだと思ったからさ」
「必要ない」
「そうかい」
キュゥべえの赤い瞳孔は、感情の代用としての収縮を持たない。何を見ても、常に同じ大きさで開いたままの目が、ほむらの横顔を捉えている。
「それより、君が調べている時間逆行、僕たちにとっても興味深いよ」
歩調はそのまま、話題だけが切り替わる。この生き物にとって会話とは常に情報の交換であって、共感の演技を差し挟む余地がない。だからこそ油断がならない。
「もしエントロピーの減少が魔法少女を介さずに実現できるなら、大きな進歩だ。僕らの技術でも時間の矢は逆回転できなかった。君にも思うところがあるはずだ」
「……そうね」
「否定しないんだね」
声に、驚きに似た響きが混じった。もっとも、それが本物の驚きなのか、驚きという反応の模倣にすぎないのか、判別する手立てをほむらは持たない。
「考えてみれば、魔女はネゲントロピーの塊とも言える。この性質を利用したのがあの回転ドアなら、僕らは魔法少女に頼る必要が少なくなる。ソウルジェムの浄化が必要な魔法少女のあり方も、一変するだろうね」
その一言が、ほむらの中で別の計算に接続した。
絶望を計量し、それを対価に力を引き出す――契約というこの仕組み自体が不要になる未来。そこでは誰かがソウルジェムの濁りと引き換えに絶望を溜め込む必要も、その果てに魔女となって死ぬ必要もなくなる。もし本当にそんな技術が実在するなら、鹿目まどかは、二度と魔法少女になる理由を持たずに済む。周回を重ねるたびに彼女から遠ざけ続けてきたあの運命が、原理そのものから消える。可能性は薄い。だが、薄い可能性を切り捨てるには、あまりに惜しい重さだった。その一点が、数分前まで最も合理的だったはずの結論を、静かに書き換えた。
人通りの少ない路地に視線を送り、消音のグロックでこの生き物を沈黙させる算段を、ほむらは一瞬だけ組み立てる。だが、算段は完成しないまま崩れた。キュゥべえの言葉のほうが、殺意より半歩速く踏み込んできたからだ。
「ところで、君はグリーフシードを持ってるかい?」
「それが何」
「君が劇場のテロで入手しようとしたグリーフシード。あれは近々移送されるらしい。マギウスという組織が動いているんだろう」
「なぜ分かるの」
「僕たちにはグリーフシードの位置を特定する能力があるからね」
あの立方体を手に入れられれば、この膠着した状況を動かせるかもしれない。打算が、警戒の一段下で静かに動き出す。
「君にとっても悪い話じゃないと思うよ」
「そうね……」
「よい返事を期待してるよ」
ほむらは背を向けた。振り返らずに人混みへ踏み込む。数歩進んでから一度だけ肩越しに確かめると、赤い双眸が、こちらの背中の一点を正確に刺すように光っていた。狙いを定める目というものが、生物の進化の過程で獲得した機能なのか、それとも単なる光学系の癖にすぎないのか――ほむらには、もう考える気力がなかった。
廃映画館ミレナ座の暗がりに、みたまが新聞を突き出した。
「これ、あなたがやったんでしょ?」
見出しにはこうある。
『神浜空港で貨物機ハイジャック/犯人の目的は金塊奪取と警察/貨物機が倉庫に激突し炎上』
紙面の文字は、事実の一部を正確に、そして残りの全部を誤って伝えている。これはこれで、一つの完成された記録だった。誰が書いたにせよ、その人物は自分が正しいことを書いたと信じているだろう。記録というものの信頼性は、その内容の正確さではなく、それを疑う者が存在するかどうかにかかっている。ほむらは黙って紙面を眺め、何も訂正しなかった。
ソウルジェムの「調整」を終えると、みたまが切り出した。
「空港で何があったの?」
「分からない」
「話してみて?」
記憶をたどり、自由港での奇妙な遭遇をほむらは言葉にした。
「回転ドアのような装置があって、そこから二人……おそらく魔法少女が出てきた。両方逃げられたけど」
「それは時間逆行によるものね」
「逆行? 逆行技術はまだ完成してないんじゃなかった?」
「みこと――瀬奈みことがその回転ドアを置いた。未来人から贈られた、逆行を生むマシンよ」
「やっぱり、瀬奈みことを調べるしかないわね」
「彼女に会った?」
「まだ会えてない」
「『まだ』ね……」
含みのある間だった。みたまの言葉は、常に発音されなかった続きのほうが長い。
「彼女の手下に命を狙われてる。アリナを介しても難しいわ」
「でも、もっと彼女に近づかないと。彼女の望むものをぶら下げて、未来人との関わりを探って」
「なぜそこまでしないといけないの」
「みんなのためよ。魔法少女や人類全体のためにも、ほむらちゃんに『主役』を張ってもらわないと」
ほむらは短くため息をついた。役割を割り当てられるという行為には、いつも二つの側面がある。選ばれたという事実と、選んだ側の都合という事実だ。どちらが先に立つのかを、ほむらはまだ判断しかねていた。判断がつかないまま、次の言葉を口にする。
「ところで、ここに来る前にキュゥべえが妙なことを言ってたんだけど」
「キュゥべえね。何か言ってた?」
「例の立方体のグリーフシードが移動されるって」
「私の情報と同じね」
みたまがタブレットを寄せる。遠距離から撮影された画像に、コンテナへ何かを積み込む白羽根の姿が粒子の粗い輪郭で映っていた。
「グリーフシードは五日後、神浜港の貨物ターミナルから貨物列車で移送される。手を出すなら移送中がいいわ」
「それも私の仕事?」
「元々、ほむらちゃんたち見滝原の子が回収しようとしたものだからね」
数日前の市立劇場のテロが蘇る。あの晩、奪おうとして奪えなかったものが、今また目の前に差し出されている。円環というものは、いつも同じ場所に戻ってくることで初めて円環だと分かる。
「グリーフシードをエサに瀬奈みことに接近して。でも、グリーフシードは奪われちゃダメ。状況を有利に活用しないと」
「危険すぎるわ」
「彼女があのグリーフシードを手に入れたら、もっと悲惨なことになる」
「何が起こるの」
「絶望よ」
みたまが立ち上がる。単語一つで済ませたその答えの奥に、まだ言葉にされていない計算式がある――ほむらにはそれが分かった。分かった上で、その先を問わなかった。知らないことが武器になる、という思想をこの女はまだ捨てていない。ならば今、無理に開けようとする扉ではない。
「私たちは、時間を行き来する希望と絶望の戦いに巻き込まれているの。未来人の時間は尽きかけている。だから、過去を使って時間を奪い、絶望から希望を生み出そうとしてる。瀬奈みことがその道標。ほむらには彼女を見つけて、その秘密を探ってほしい」
希望と絶望が交換可能な資源であるという発想そのものが、ほむらにはまだ実感を伴わない。だが、実感が追いつかないからといって、その仕組みが機能していないとは限らない。ソウルジェムの濁りだって、かつては誰も原理を説明できないまま、ただ機能し続けていた。
スマートフォンが振動した。画面にアリナからの通知。
「どうやら来たみたいね」
ほむらは立ち上がり、廃墟の出口へ向かった。まだ言葉にされていない計算式を一つ、鞄の奥にしまうように、意識の底に沈めたまま。