魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
スマートフォンの画面に、アリナからの一文が浮かぶ。
「絵の件、サンキュー。みことに会えるよ。まやかし町。今日の夕方ね」
短い文面だった。条件も注釈もなく、取引が成立したという事実だけが、絵文字の一つもなく置かれている。要求と応諾の間にある感情の起伏を、可能な限り削ぎ落とした文体――それがこの街の作法らしいと、ほむらは数日で学んでいた。
神浜市大東区、西町。通称まやかし町。この街に来て以来、幾つかの区画を踏んできたが、ここほど「放棄」という言葉が似合う場所はなかった。シャッターの下りた商店が両側に並び、錆びた看板の文字だけが、かつてここに生活があったことを主張している。人通りはない。人通りがないという事実そのものが、この街の治安を最も雄弁に語っていた。
指定された廃墟のレストランへ向かいながら、ほむらは会合の確率を計算していた。取引が成立する確率、罠である確率、その両方が同時に成立する確率。三つ目が最も高いというのが、これまでの経験則だった。彼女がここまで生き延びてこられたのは、確率の低い枝を切り捨てる速度が、他の誰よりも速かったからにすぎない。
2階に上がると、長いテーブルが一つ、部屋の中央を占めていた。一席にアリナが座り、他の席には人形が置かれている。皿とグラスには料理の代わりに、砂が盛られていた。誰かの晩餐を模した静物画――あるいは、晩餐そのものが既に終わった後の残骸を、意図的に演じている舞台装置。
壁際に更紗帆奈が寄りかかり、ほむらの動線を目だけで追っていた。
部屋の奥、窓辺に人影が立つ。逆光で顔は見えない。大東学院の黒い制服だけが輪郭として浮かんでいる。
帆奈が近づき、ほむらをテーブルの椅子に座らせる。手つきは丁寧だが、選択肢を与えていない点で、それは既に拘束の一種だった。
「なぜ私に近づく」
窓辺の少女が問う。声に抑揚はほとんどない。目の光だけが暗がりの中で強い。
「取引よ」
「取引もしない。説得もしない。死んでもらうだけ。どんな風に死にたい?」
死に方を選択肢として提示する口調に、ほむらは奇妙な既視感を覚えた。似たような台詞を口にしたことが、自分にもある気がした。何百回目かの周回のどこかで。
「そうね……できれば、歳をとって死にたいわ」
「なら、魔法少女になるべきではなかったわね」
少女が歩み寄る。光がその顔を照らし、銀色のウルフカットと、蒼く昏い瞳が現れる。瀬奈みこと。
「これから喉を掻き切って、穴にソウルジェムを詰める。さぞ見物でしょうね。自分のソウルジェムを、自分の喉から掻き出そうとして死ぬなんて」
淡々とした宣告だった。恫喝の熱量ではなく、手順の説明に近い温度。帆奈の手がほむらの肩に置かれる。
「オペラは好き?」
ほむらは呟いた。文脈のない質問には、文脈のない質問で応じるのが最も効率がいい。帆奈の手が止まる。
「オペラ? 何、急に」
帆奈が困惑する一方で、みことの目が細くなった。値踏みの表情だった。
「面白い子ね。オペラの話、聞かせて。帆奈、離してやりなさい」
帆奈が渋々ほむらを解放する。
「明日の十八時、大東団地E棟の屋上。魔女は狩れる?」
「それなりには」
みことがほむらを一瞥し、踵を返す。アリナと帆奈が続く。
「取引? いいわ。明日の魔女狩りで成果を上げたら、話してあげる」
去り際の声には、契約というより試験の響きがあった。ほむらは椅子に座ったまま、確率の再計算を始めた。
翌日、十八時。大東団地E棟の屋上。四人が魔法少女の姿で集まる。屋上のドアの向こうに、魔女の結界の入口が滲むように現れていた。
障子が開くのに似た抵抗のなさで、四人は結界に踏み込む。出来の悪いモンタージュのような、歪んだ映像の廊下を走り抜ける。空間の連続性が保証されていないという一点だけが、ここが結界であることの証明だった。
「オペラの何を知ってるの」
みことが走りながら問う。
「十日前、神浜市立劇場で魔女が絡んだテロがあった。あのグリーフシードを狙ってる」
「残念だけど、私とあなたは組めない」
上方から使い魔が降下する。
「特に、足跡のない人間とはね」
みことが鏡――彼女の武器の核だ――を掲げ、使い魔の一撃を受け流す。鏡面に映るのは攻撃の軌道そのものであり、反射というより、軌道の書き換えに近い挙動だった。
ほむらは盾からHK416アサルトライフルを取り出し、単射で使い魔を仕留めた。フルオートで掃射する選択肢もあったが、弾数の余剰は次の局面での不確実性を減らす。薬莢が一つ、足元に転がった。
「痕跡を残さないのは、取引に関わる人間なら当然よ」
「アハッ! やっぱりアンタ強いじゃん!」
アリナが楽しげにほむらを追い抜き、踊るような身のこなしで使い魔の攻撃をかき分ける。手にしたキューブから放たれる緑のレーザーが、結界と使い魔を等しく薙いだ。目標を選別しない攻撃を選ぶ者は、大抵の場合、自分の身の安全に対する計算を放棄している。それとも、計算した上で気にしていないのか。判別はつかなかった。
「帆奈! ブラストよ!」
みことが帆奈の手に触れる。触れられた瞬間、帆奈の手にしたマンキャッチャー型の杖に紫の電撃が走り、次の使い魔を直撃した。触れることが号令として機能する――この二人の間には、言葉を介さない伝達経路が既に存在している。
四人は各々の攻撃で使い魔を一掃し、結界の奥へ進んだ。
大穴が視界に開ける。底は水面のように絶えず波立ち、脚の生えた二隻のヨット型の魔女が、その上を徘徊していた。
「じゃ、アリナが先ね」
アリナが穴に飛び込み、落下しながらビームを乱射する。帆奈、みこと、ほむらが続いた。
落下中、アリナと帆奈が状態異常の魔法を魔女へ撃ち込み、注意を引きつける。ほむらとみことは、残る攻撃力を二隻へ集中させる算段だった。
みことが鏡を魔女に向けた瞬間、片方の魔女のマストが不自然な速度で伸びた。回避のための猶予は、恐らく零コンマ数秒に満たなかった。マストがみことを直撃し、結界の壁へ叩きつけ、そのまま底の水面へ落下させる。
「みこと!」
「ヤッバ!」
アリナと帆奈の声が重なる。ほむらは既に盾へ手をかけていた。
世界から音と色が失われる。時間停止。宙に浮いたみことの身体を抱き、盾からワイヤーガンを撃つ。結界の縁にワイヤーが固定されるのを確認し、時間停止を解除する。世界に運動量と色彩が戻る。
「あなた……なぜ」
腕の中で、みことが問う。
「説明は後。二隻同時にやる」
ほむらは片方の魔女を指す。みことが意図を読み取り、鏡を構え直した。言葉を最小限にできるということは、この場において最も信頼に足る性質だった。
「合図したら降りるわ」
合図とともにワイヤーを離し、魔女へ向けて降下する。みことが鏡から光線を照射する。ほむらは盾から対戦車ミサイルを取り出し、二度目の時間停止に備えた。
底では、アリナと帆奈が拘束と毒の魔法を絶え間なく撃ち込んでいる。
ほむらは再び時間を止めた。静止した空間を降下しながら、ミサイルを一発ずつ、狙点をずらして発射する。最後に手榴弾のピンを抜き、二隻の中間へ落とす。着弾の瞬間、自分自身が巻き込まれない着地点を逆算し、結界の壁を蹴って軌道を変える。時間停止を解除する。
爆炎が二隻の魔女を同時に包んだ。ミサイル、手榴弾、みことの光線――三つの攻撃が、寸分違わぬ間隔で着弾したわけではない。着弾のタイミングをずらすことにこそ意味があった。回避不能な時間差の連続。魔女が崩れ、結界がガラスのように透き通って消えていく。
四人は屋上に立っていた。空から落下してきたグリーフシードを、みことが片手で掴み取る。
「みんな、よくやった」
みことがアリナ、帆奈、ほむらを順に見る。
「少し彼女と話したい。外してくれる?」
アリナと帆奈は既に屋上を後にしていた。壊れたデッキチェアが一脚、風に押されて僅かに軋んでいる。
みことはそのデッキチェアを一瞥し、それ以上見なかった。フェンスに寄りかかり、グリーフシードをほむらへ投げる。
「さっきは助かった」
「その必要はないわ」
「私は借りを作りたくない」
貸し借りの精算に対するこの少女の潔癖さは、恐らく彼女の生存戦略そのものだった。誰にも借りを作らないということは、誰にも譲歩する理由を持たないということでもある。
「なら、私の取引を進めてくれない? マギウスの翼がグリーフシードを移送する」
「それで?」
「移送中に手を出すしかない。あれは特殊なグリーフシードだから――」
みことが笑った。声に侮蔑ではなく、純粋な興味の響きがあった。
「んふふっ。私にグリーフシードについて講釈を垂れる気? あなた、魔法少女になって何年目?」
「まだ、数ヶ月かしら」
みことの表情が、初めて崩れた。驚きという感情を、この少女が久しく使っていなかったことが、その崩れ方の不慣れさから分かった。
「私は五年。十歳で初めて魔女の結界に踏み入れた。福浜市――廃墟になった故郷でね」
みことは遠くを見た。視線の先には何もない。それでも彼女の目は、何かに焦点を合わせていた。
「魔女だけじゃなく、キモチも見つけた」
「キモチ?」
「魔女のカケラ。グリーフシードみたいなものよ」
みことが続ける。声の温度に変化はない。それが逆に、語られている内容の重さを際立たせていた。
「それまでは『理想的な家庭』だった。両親も仲が良くてね。私は普通の子だった。でも、爆発で街は住めない世界に変わった。表向きは事故。実際は魔女の仕業」
「家を失って、両親は仲違いした。私は家族を失って、キュゥべえと契約した。街に散らばった『キモチ』を集めるのが最初の仕事」
「仕事?」
「爆発で飛散したキモチを集めるには、人手が必要だった。福浜には私以外に七人の魔法少女がいたけど、誰も手を挙げなかった。命の危険しかない場所で、望んで死のうとする人間なんかいない」
福浜市。今から五年前。
低く垂れ込めた雲が、色を失った街の上に停滞していた。時間が止まったように放棄された通りを、魔女の瘴気が這い、使い魔が徘徊する。
瓦礫の下から、二人の魔法少女が黒い箱を掘り出した。蓋を開けると、大量のグリーフシードと、一枚のスリーブに納められた書類が滑り落ちる。
一人が書類を拾い上げる。土と血にまみれたスリーブの中で、宛名の部分だけが不自然なほどはっきりと読み取れた。
ワタシハ、魔ホウ少ジョヲ…… …… …… ナマエ:Puella Magi Mikoto Magica ドノ
誰かが死ぬということは、別の誰かが生き残るということに、そのままつながっている。この街の地面の下には、その等式だけが繰り返し埋まっている。
書類を読む魔法少女の背後で、もう一人が武器を振り上げた。スリーブが、新しい血に染まっていく。
「沢山の魔法少女の終わりを見たけど、今は私一人だけ」
みことの声が現在へ戻る。
「神浜に移った今も、あの街の魔女とグリーフシードの利権は、私が独占している」
「グリーフシードは三日後、神浜港の貨物ターミナルから貨物列車で移送される。力を貸してほしい」
「考えておくわ。今日は帰って」
みことが腕の時計を確認し、それだけ言って背を向けた。ほむらは交渉の続きを頭の中で組み立てながら、屋上を後にした。
深夜、まやかし町。
みことの手下たちが廃墟に集まっていく。監視を続けるほむらは、別の建物の陰から、その動きを目で追っていた。
手下たちがどこからか黒い箱を運び入れ、蓋を開ける。みことが中身を検め、掌をかざした。グリーフシードが、吸い寄せられるように掌へ集まっていく。
逆行物品だ。
その事実を確認した瞬間、後頭部に衝撃が走った。気配を殺した接近――それが更紗帆奈の攻撃だと理解するまでに、一秒に満たない空白があった。理解が遅れたということ自体が、この街での練度不足を意味していた。
「覗いてたよ、みこと」
拘束されたほむらが、みことの前まで引きずり出される。
「あなた、何者? なぜ市立劇場のテロを知ってる?」
「取引に参加するなら、知っておくべき情報よ。グリーフシードの取引は、マギウスの翼が仕切ってる」
「違うわ。マギウスは買うだけ。売ることはない。でも私たちは『黄昏に生きる……』」
「何それ。ホイットマンの詩?」
「首と胴に、永遠の別れを誓わせたい?」
「ソウルジェムを、首の穴に嵌めるんじゃなくて?」
言葉の応酬に、感情の起伏はほとんど乗っていない。互いの脅しが、互いにとって既に日常語彙の一部になっているからだ。
「あいにくだけど時間がないわ。マギウスのグリーフシードを取ってきなさい。帆奈を付けるわ」
帆奈がほむらの拘束を解く。
「その必要はないわ。グリーフシードは手に入れる。連絡手段は?」
「必要ない」
「前金は?」
みことがグリーフシードを投げてよこす。ほむらはそれを片手で受け止めた。
みことは既に興味を失ったように黒い箱へ向き直り、スリーブに納められた書類を検め始めていた。その横顔を視界の端に収めながら、ほむらは廃墟の外へ叩き出された。