魔法少女ほむら☆マギカ 黄昏に生きる/宵に友なし 作:トマスアレポ
正確に言えば、あの立方体はグリーフシードではない。それは、もう何日も前からほむらの中で確定していた。だが確信と呼称は別の階層に属する情報であり、当面その区別を誰かに明かすつもりはなかった。知らないことが武器になる――みたまの言葉を、皮肉にも今はほむら自身が実践している。
「それで、調べた?」
いろはが訊く。神浜市立大附属の屋上、フェンス際のベンチ。白と赤のセーラー服の裾が、絶え間ない風にかたちを変え続けている。ほむらは掌の上で立方体を傾け、陽にかざした。反射の質が違う。通常のグリーフシードが持つ、あの湿った有機的な光沢とは異なる、結晶に近い硬質な反射だった。
「該当する魔女は一通り洗った。どれも当てはまらない」
「でしょうね」
会話の短さは、二人が既に同じ結論へたどり着いていたことの証明でしかなかった。答え合わせという行為は、ここでは情報の伝達ではなく、時間の確認として機能する。
「ところで、前に話してた探してる子の件だけど」
「探してる子?」
いろはがスマートフォンをこちらへ向ける。画面を覗き込んだ瞬間、ほむらの心拍は律動の一拍を丸ごと踏み外した。
ピンク色の髪をツインテールに結った少女。黄色いリボン。三歳ほどの男の子と手をつなぎ、何でもない午後を歩いている。何百回、あるいは何千回、周回のたびに違う角度から確認してきた顔だった。だが今回は、確認ではなかった。ただ見つけただけだ。この差が、思考にどれほどの負荷をかけるか、ほむらは今更のように思い知らされる。
「この子……」
「数日前に海外から来たみたい。そろそろ神浜の中学に転入するらしいけど。知り合い?」
「そうね」
短い返答の裏側で、ほむらは自分の顔の筋肉を細かく点検していた。驚愕は許されるが、それ以上の感情の露出は、この場では余剰な情報漏洩でしかない。
「昔……同じ小学校で」
「それ、嘘だね」
いろはがほむらの顔を見て、はにかむように笑う。見抜かれることを前提とした嘘だった。嘘の目的は隠蔽ではなく、時間稼ぎだ。
「友達なら、後で紹介して? 私も会ってみたい」
「そうね……でも、今は目の前の課題に集中しましょう」
会話を打ち切る言葉としては、いささか性急すぎたかもしれない。だがいろはは追及せず、ただ頷いた。この街に来てから、いろはは一貫して、踏み込むべき場所と踏み込まざる場所の境界を正確に把握しているように見える。その正確さの出所を、ほむらはまだ知らない。
ほむらは鞄からタブレットを取り出し、話題を強制的に切り替えた。航空写真の上に、六本の線路と一本の歩道橋が浮かび上がる。
「路線図と時刻表は調べた。このポイントで貨物列車に乗り込み、グリーフシード――」正確には違うと知りながら、ほむらはあえてその呼称を使う「――を奪う。並走する回送列車に飛び移って、次の駅で離脱する」
「オッケー。回収はみたまさんが来るって」
「なら、早く終わらせましょう」
指定の時刻、二人は歩道橋のフェンスに腰を掛けた。眼下に六本の線路が平行に延び、時折、無関係な列車がその上を通過していく。標的の識別は容易だった。他のどの列車よりも遅く、重く、そして静かに、その貨物列車は近づいてきた。
「手は絶対離さないで」
ほむらはいろはの手を強く握った。掌の湿り気と体温は、この作戦において唯一、数値化できない変数だった。
中間車両が橋の直下を通過する瞬間、世界から音と色が失われた。
時間停止。厳密には、これは世界の時間が止まっているのではない。ほむらだけが、静止した世界の中で運動する権利を保持しているにすぎない。二人は橋から跳び、貨車の屋根に着地する。着地の衝撃を殺すための膝の角度、体重の分散――計算はすでに跳躍の前に完了しており、あとは身体がそれを実行するだけだった。
目標のコンテナを特定し、天井に爆薬を仕掛ける。いろはは屋根にしがみつき、並走する回送列車の速度と位置を目測で追い続けている。
時間停止を解除する。轟音と突風が同時に襲いかかり、世界に運動量が戻る。ほむらは起爆装置を押した。
小さな爆発音――正確には、開口部を作るためだけに調整された、最小限の爆発だった。破壊は目的ではなく、手段の一部にすぎない。穴からコンテナへ滑り込むと、内部にはオレンジ色のケースが一つ、緩衝材に囲まれて格納されていた。想定より軽量なグリーフシードの容器としては、過剰な梱包だ。過剰さは、しばしば内容物の重要性についての、意図せざる証言になる。
ケースを手に天井へよじ登り、いろはと手をつなぎ、再び時間停止。二人は並走する回送列車の窓をこじ開け、車内へ滑り込んだ。
回収列車の内部は、照明が落とされたまま放置されていた。薄暗さの中で、ほむらはケースの留め具をこじ開ける。
中には、市立劇場の夜に見たのと同じ、銀色の立方体が収まっていた。
「それが」
「間違いないわ」
その確信の短さには、十一日間の追跡が凝縮されていた。
異音が響いたのは、その直後だった。いろはが窓の外を見て叫ぶ。
「ほむらちゃん、あれ!」
一本先の線路を、並走する別の車両が滑っていた。開いた窓の奥、猿轡をされたアリナ・グレイが拘束されている。喉元には包丁の刃。刃を握るのは瀬奈みことだった。
思考が一瞬、処理能力の限界を超えた。優先順位づけのアルゴリズムが、複数の緊急事態のあいだで衝突を起こしている。
みことが右手の指を三本立て、そのうち一本を折った。残り二本。
「渡せってこと」
「渡しちゃダメ、絶対!」
「でも、このままじゃ」
「もっと酷いことになるよ!」
いろはの声が上ずる。みことがもう一本、指を折った。
ほむらは窓の外へ視線を走らせた。二つの列車のあいだに、無蓋車が一両、並走している。その荷台の空虚――積荷のない、ただの鉄の箱――を一瞥した瞬間、選択肢が一つ増えたことに気づいた。増えた選択肢が、必ずしも良い選択肢とは限らない。だが、ゼロよりはましだった。
「ごめん」
言葉と同時に、みことが最後の指を折った。
ほむらはグリーフシードを収めていたオレンジのケースを、みことの車両へ向けて投げた。放物線の計算に、迷いはなかった。
みことがケースを受け止め、手下とともに後ろ歩きで――その動作の奇妙さに、ほむらは一瞬だけ注意を引かれた――外側の車両へ飛び移る。残されたのは、アリナだけだった。
「助けるわ」
いろはが何か言いかけるのを、ほむらは最後まで聞かなかった。時間停止。みことの車両に飛び乗り、窓を破って突入する。アリナを抱え、いろはの車両へ戻る。眼下を、無蓋車の鉄の縁が流れていく。窓に滑り込み、時間を解除した。
「アリナちゃん、大丈夫?」
いろはが声をかけるのと同時に、列車が制動をかけ始めた。予定の停車駅が近い。
「前方を見てきて。私はこっちの拘束を解く」
いろはが頷き、先頭車両へ走る。ほむらはアリナの縄を解こうとした。その努力は、完遂に至らなかった。
窓が内側から破られ、紫の電撃が車内を走る。更紗帆奈と手下が突入してきた。拘束魔法が二重に重ねられ、ほむらとアリナは連行された。
連行された先は、自由港のそれと酷似した、回転ドアを備えた部屋だった。ガラス一枚を隔てて、鏡合わせのように同一の部屋がもう一つある。ほむらは椅子に縛られ、帆奈に監視されていた。
ガラスの向こうに、みことが現れる。歩き方が、逆だった。
後ろ歩きではない。歩行という運動そのものが、時間軸の逆側から再生されている。アリナを椅子に座らせる動作も、包丁を突きつける動作も、すべてが巻き戻しの映像として提示された。
逆行という現象について、ほむらはこれまで何度か理論的に検討してきた。運動の逆再生と、質量・エネルギーの逆再生は、似て非なる現象だ。単なる映像の巻き戻しなら、そこに実体を持つ攻撃は生じない。だが自由港で見た銃弾は、ガラスではなく銃身へ「戻って」いった。つまり、あちら側の世界では、因果そのものが反転している。原因が結果の後に来る。傷はまず癒え、そのあとで刃が引き抜かれる。ここで今から起きることは、その理論の、生々しい実演になるはずだった。
「?いなてし隠に中の車列をれあ」
ガラスの向こうから、逆再生の音声が漏れる。一拍おいて、スピーカーから同じ声が、正しい順序で再生された。
『あれを列車の中に隠してない?』
「知らない」
ほむらはガラスにこびりついた血に気づいた。みことの握る包丁の刃にも、同じ赤が滴っている。時系列上、その血がどちらの方向へ流れているのか、判別できなかった。
「す刺といなわ言」
『言わないと刺す』
「アリナを離して」
みことの唇が、数を数え始める。
「。―チイ、イニ、ンサ」
音が先に届き、意味が遅れて追いつく。
「サン、ニイ、イチ――」
みことがアリナをガラスの前に立たせる。腹部に、血が――逆再生の作法で――集まっていく。傷口が先に閉じ、そのあとで刃が皮膚から抜かれる、という順序を、ほむらは自分の網膜で確認した。理論として知っていることと、それを直接目撃することのあいだには、埋めがたい距離がある。
アリナの、声にならない悲鳴が反響した。
みことが包丁を引き抜く。刃には、もう血がついていない。
「わいなゃじし脅、ムェジルウソは次」
『次はソウルジェム、脅しじゃないわ』
「やめなさい!」
ほむらは叫んだ。感情の制御という点では、失敗だった。だが失敗が情報として機能する場合もある。焦りの演技と、本物の焦りを、みこと側が区別できるとは限らない。
「網棚よ……列車の網棚に隠した」
咄嗟の嘘だった。真偽の検証にかかる時間だけが、いま唯一稼げる資源だった。
「るめか確かうどか当本」
『本当かどうか確かめる』
ドアが開き、順行のみことが現れた。時間軸の正しい側から歩いてくる、もう一人のみこと。
「グリーフシード、どこにやった」
ほむらの思考は、処理能力の限界の、さらに先まで押し出されていた。
「たった今……話したわ」
順行のみことが、ガラス越しの自分自身を一瞥する。同一人物が、異なる時間の断面として、同じ部屋の二つの側に同時に存在している。この光景の異様さに慣れる日が来るのかどうか、ほむらには判断がつかなかった。
「なるほど……なら、アリナと仲良く魔女にでもなって」
その言葉が終わるより早く、足元に大量の水が流れ込んだ。ドアが内側から破られ、津波のような水がみこと、帆奈、ほむらを一様に呑む。
みことと帆奈が回転ドアへ逃げ込む。ガラス越しの逆行するみことも、後ろ向きのまま同じ装置へ吸い込まれていった。低い唸り音とともに円筒が回転し、内部は空になる。
水は、来たときと同じ唐突さで消え失せた。あとには、濡れた床と、静寂だけが残った。
数人の魔法少女が部屋になだれ込んでくる。先頭に立つ一人――ダークブルーのストレートヘア、青いドレス、手にはトライデント――に、ほむらは声をかけた。
「助かったわ。でも、みことたちはどこに」
七海やちよが、感情の起伏をほとんど含まない声で答えた。
「過去よ」