魔法先生ギルガメッシュ 作:長LAVA
5月も終わりに近付く頃には、帰宅してから机へ向かう時間も随分と短くなっていた。
翌日の教材を確認し、返す予定の小テストを揃える。授業で使う例文を幾つか書き足しても、テレビではまだ夕食時に始まった番組が続いている。
仕事に慣れたというのもあるが、相手の顔を覚えたことが大きい。どの説明なら通じ、どこで一度止まった方がよいか、教室へ入る前からある程度見当を付けられるようになってきた。
ひとまず片付いた紙束を鞄へ入れ、代わりに棚から魔法の教本を取る。
こちらも折に触れて読んではいる。赴任前夜に目を通した基礎や社会の仕組みだけでなく、当直で目にした術について調べたこともあった。
ただ、初歩の実習を扱った頁には、栞が挟まったままになっている。
「……そういえば、まだ試しておらんな」
使い方は読んだ。魔力の通り道も、術を組むための手順も理解している。
それでも、自分の手でこちらの魔法を発動させたことは一度もなかった。当直で悪魔を倒した際も、使ったのは財と剣、それからこの身体だけだ。
魔法先生として働き始めてから、魔法の練習をする。
並べてみると妙な順序だった。
「今から入門しても、給料を返せとは言われまい」
誰も聞いていない部屋で呟き、栞の挟まった頁を開く。
初等魔法という見出しの下には、光を灯し、風を起こすための説明が続いている。その字を眺めたところで、最初の人生で知っていた『Fate』の用語が、ふと頭を過ぎった。
あちらの現代では、魔術と魔法を厳密に区別していたはずだ。
もっとも、ウルクで暮らしていた時にまで、後世の区分をいちいち持ち出していた覚えはない。こちらでは、体系立てて学べる術も魔法と呼ぶ。それだけの話で、読み進めるのに困るほどのことでもなかった。
頁の下には、杖を使った練習の図がある。
説明と同じ条件で始めるなら、まずは道具を揃えればいい。
魔力を通し、術の発動を助けるための、ごく標準的な作り。特別な力を持つ杖ではなく、魔法を学び始めた者が最初に扱うようなものだ。
軽く持ち替えてみると、握り心地も悪くない。
「見られたら、子供の忘れ物を届けていると思われそうだな」
笑いながら机へ置く。
もっと上等な品もあるが、今回知りたいのは杖の性能ではない。どこまでを自分の力で行い、どこを道具に助けられているのか、分かりやすい方がよかった。
始動キーについても、今は練習用の共通のもので構わない。
自分用の言葉を考える楽しみは、実際に使ってからでも遅くないだろう。弐集院の顔が一瞬浮かんだが、あの男へ相談すれば、まず食い物を3つ挙げられそうだった。
教本と杖を並べ、翌日の予定を思い返す。
授業を終えた後には時間がある。
どれほどの出力になるかも確かめていない術を、寝床の横で試す必要はないので、明日は練習に使える場所を借りることにした。
◆
翌日の放課後、宿舎で着替えてから練習場へ向かった。
校舎から離れたその場所には人払いと防護の結界があり、的の並ぶ奥まで見渡しても、他の利用者はいない。借りた時間の間は、誰かに気を遣わず使えそうだった。
端の台へ教本を開き、杖を手に取る。
身に着けているものも、持っている財も、昨日までと変わらない。それでも初学者向けの頁を前に立つと、これから何をするのかが妙に可笑しくなってくる。
まずは、灯りから。
「プラクテ・ビギ・ナル、
杖へ流した魔力が、先端へ集まった。
小さな光が生まれ、指先から足元まで白く照らし出す。発動を阻むものはなく、術は唱えた通りの働きを見せていた。
ただ、照らす範囲に対して少々眩しい。
「灯りにするなら、もう少し大人しくてよいな」
一度消してから、流す量を減らして同じ手順を繰り返す。
今度は近くの文字を読むにも丁度よい明るさになった。杖を傾ければ光も動き、そのまま魔力を絞っていくと、最後には先端だけが淡く浮かんで見える程度に落ち着く。
量を増やせば明るくなる。その変化の幅が、最初に見積もったものより大きかったらしい。
少しずつ強め、戻し、また止める。
何度か繰り返してみれば、必要な加減も掴めてきた。魔力を用意することより、術がどの程度の量でどう働くかを覚える方が、今回の練習には向いている。
教本の次の項目へ目をやり、足元へ落ちていた葉を幾つか拾う。
台の上へ並べてから、今度は少し離れて杖を向けた。
「プラクテ・ビギ・ナル、
杖先から生まれた風が、葉を押す。
乾いた葉は滑るように台を渡り、そのうち1枚が端から落ちて、ひらひらと地面へ降りた。残ったものへ、今度は横から風を当ててみる。
向きと強さを変えれば、葉の動きも変わる。
狙いを絞り、1枚だけ動かすつもりで繰り返すと、最初は隣の葉まで巻き込んでいた風が、次には目当てのものだけを台の端へ追いやった。
「ほう」
光を出した時より、少し面白い。
力がどう現れるか見ているだけだったところから、何をさせるかへ意識が移る。葉を右へ寄せ、今度は戻し、端から落ちかけたところでもう一度押してやった。
つい続けていたが、葉を片付けるために借りた場所ではない。
最後に小さな火を灯す術も試す。
「プラクテ・ビギ・ナル、
こちらも問題なく発動した。
金属の受け皿の上で小さな炎が揺れ、差し出した細枝の先が黒くなる。火が移ったところで術を止めても、枝はそのまま燃えていた。
光を出すだけの術、風を起こす術、火を灯す術。
性質が違っても、魔力を術へ通すところで拒まれることはない。この身体でこちらの魔法を使える、という確認には十分だろう。
火を始末し、杖へ視線を戻す。
まだ試せることはある。
台の上へ杖を置き、今度は手だけを前へ出した。変えるのは道具の有無だけで、唱える言葉も、起こす現象も先ほどと同じにする。
指先へ光が灯った。
杖が引き受けていた部分を、自分で整えてやればいい。少し意識を変えるだけで光は安定し、手を動かしても消える様子はなかった。
続けて風も試す。
台に残していた葉が、先ほどと同じように動いた。
「こちらも通るか」
指先の光を消して、置いた杖を取り上げる。
使わずに済むからといって、役に立たない品ではない。初めて扱う者が、魔力の集まる先を意識しやすいように出来ている。教本の図も、その助けがあることを前提に組まれていた。
今夜くらいは、最後まで付き合ってもらうことにした。
◆
次に開いたのは、攻撃魔法の項目だった。
初歩に位置するものだが、呼ぶ精霊や組み方によって性質が変わり、数や扱い方にも幅がある。術者の腕が上がれば、それだけ使い道も増えるらしい。
まずは1本。
的のある方へ向き直り、杖を構える。
「プラクテ・ビギ・ナル、
生まれた光が前へ走った。
狙った的へ当たり、乾いた音を残して散る。近くに掛かっていた布が遅れて揺れ、着弾した箇所には小さな傷が残っていた。
届くまでの魔力の動きは追えている。
ただ光を放つのではなく、狙いを持たせて送り出す。その感覚を確かめるように、もう一度、今度は少し位置を変えて撃った。
2本目も、選んだ場所へ当たる。
そのまま3本へ増やした。
「プラクテ・ビギ・ナル、
正面へ揃った光を、それぞれ別の的へ向ける。
左右へ分かれた矢が、僅かに時差を付けて命中した。視界へ3つの軌道を置いても、どれか1つを追うために他を見失うようなことはない。
この辺りは、随分と馴染みがある。
武器と魔法の矢では扱い方が違うが、複数のものへ別々の狙いを与えること自体には慣れすぎていた。
次は、1組を飛ばしている間にもう1組。
先に出した3本が左右の的へ散るのと並行して、続く光をその間へ通す。ぶつからないようにするだけなら難しくないが、術を続けて組むところで、杖を少し動かしすぎた。
次はそこを省く。
さらに、1本を先行させ、残りを遅らせるように狙いを変えてみた。
的を叩く音が、同時から順番へ変わっていく。
「なるほど。そう動くのだな」
思わず、次の頁へ手が伸びた。
捕らえるための術もあれば、異なる属性で組むものもある。どれも一度は試したくなるが、ここで片端から始めれば、他に確かめるつもりだったことを後回しにしてしまいそうだ。
杖を置き、少しだけ手を開いて握り直す。
出来なかったことが、出来るようになる。
既に似た結果を出せる手段があっても、それとは別の面白さがあった。蔵から何を選ぶかではなく、自分で組んだものが思った通りに働くのだから、もう一度と手を伸ばしたくもなる。
教本を閉じかけて、結局、最後にもう1本だけ撃った。
今度は杖を使わず、指先から。
狙った場所へ当たったのを見てから、ようやく別の本へ持ち替える。
◆
魔法の次は、気だった。
こちらの存在も、既に見ている。
タカミチの身体で扱われていた力は、単に魔力の呼び名を変えただけのものではなかった。本人の生命力をもとに引き出すものであり、魔力とは別に、身体の内側から働き掛ける必要がある。
呼吸をゆっくり整える。
見つけること自体には、さほど時間は掛からなかった。
身体の内側へ意識を向ければ、力の在り処は分かる。これだけの肉体を動かしているのだから、元になるものが乏しいはずもない。
だが、それを望んだ形で動かすとなると、魔法の時とは少し勝手が違ってくる。
右腕へ寄せるつもりで意識を向ける。
腕だけでなく肩や背まで力が広がり、指を曲げた時には、手首にも余計な緊張が残った。
「集めたというより、力んだだけだな」
一度息を吐き、肩を下ろす。
殴るために身体を使うことなら分かる。どこを緩め、どこを繋ぎ、何を先に動かせばいいかも、考えるまでもなく染み付いている。
そこへ新しい力を加えようとして、身体ごと付き合いすぎたらしい。
今度は姿勢を変えず、呼吸も止めずに試す。
拳まで力が届くのを追い、要らぬところへ広がる前に流れを戻す。最初はすぐに薄れたが、同じ動きを何度か辿るうち、拳の周りへ留めておけるようになってきた。
そのまま指を開けば、保っていたものが崩れる。
握り直すと、また集まる。
何度か繰り返したところで、少し笑ってしまった。
「確かに、読むだけでは済まんな」
理屈は初めから分かっている。
それでも、力を感じることと、筋肉を動かすように自然に扱うことは同じではない。この身に余るほどの力があっても、初めて使う動きを覚える手間までは省けなかった。
打撃用に吊るされた標的の前へ立つ。
まずは気を引かせ、素の腕で軽く押すように打った。標的が後ろへ揺れ、戻ってくるところを手で止める。
次に、同じ動きへ気を乗せる。
鈍い音が響き、標的が先ほどより大きく跳ねた。吊っている鎖まで張り、支柱へ振動が伝わっていく。
手を伸ばして受け止め、そのまま暫く標的を支えた。
「……少し、乗りすぎたか」
勢いに任せたわけではない。
拳へ集めていた分だけでなく、打ち込む動きに伴って腕から追加の力まで流れた。その違いを見直し、今度は打つ直前まで量を抑えておく。
もう一度。
音は小さくなったが、素で打った時より強い。
その次は、最初と2度目の間くらいに収められた。
加える量と、力を通す瞬間。その2つを変えるだけでも、結果はかなり違う。拳へ纏わせたまま足を動かすと、そちらへも意識が引かれそうになるので、今は腕だけで確かめていった。
無意識に使うには、もう少し繰り返した方がいいだろう。
少なくとも、使えることは分かった。
標的を静めて手を離し、魔法を使っていた時の感覚と比べてみる。
どちらもこの身体で扱えるが、同時に流せばそのまま仲良く働くような力ではない。教本にあった相反の説明も、実際にそれぞれを動かしてみれば、ただの言葉ではなくなってくる。
その2つを合わせていたのが、タカミチの咸卦法だ。
思い返せば、あの男の身体では気も魔力も、それぞれの強さを保ちながら組み合わされていた。見る分には明瞭でも、今の自分が同じように動かすには、まだ手元の加減が揃っていない。
何より、今日は混ぜた時の結果を確かめに来たわけではなかった。
「そちらは、また今度だな」
足元へ置いた教本を拾う。
時計を見ると、思っていたより時間が過ぎていた。葉を並べていた台から杖を取り、使った場所を片付けていく。
初歩の魔法と、気のごく基本的な扱い。
試した種類は少ないが、帰ってから読みたい箇所は、来る前より増えてしまっていた。
◆
宿舎へ戻り、手を洗ってから机へ向かう。
杖は棚へ立て掛けず、教本の横へ寝かせておいた。しばらくは同じ条件で使うつもりなので、その方が取りやすい。
テレビをつけ、飲み物を持ってきてから本を開く。
実際に使ってみた後では、同じ説明でも目に留まる場所が違った。杖の持ち方よりも、その先で魔力がどう整えられるか。気を集める手順よりも、身体を動かした時に何故分布が変わるか。
もう少し先まで知りたくなって頁を捲ったが、そこから続いているのは反復練習の項目だった。
基礎を教える本としては、それでよいのだろう。
ただ、今気になっていることへの答えは、別の本に載っていそうだった。
王の財宝を開き、一冊の書物を取り出す。
綾瀬夕映が今後手に入れるアーティファクト、
知りたいことを定めて開けば、それに応じた記述が現れる。
まずは、今日使った光の術について。
頁へ目を通すと、先ほどの教本では省かれていた部分まで図と文章で示されていた。実際に自分の中で辿った魔力の動きと重ねていけば、杖の有無で負担が変わった理由も分かりやすい。
そこから風の術へ移り、射手の制御へ進む。
1つ分かれば、次に確かめたいことが増える。
光の矢を別々に狙わせた際、どこまでを発動時に決め、どこからを飛ばした後で変えられるのか。数を増やす時、単に同じ手順を重ねるのと、初めから一組として作るのでは何が違うのか。
読みながら、余った紙へ短く書き留めていく。
覚えるためではなく、次に試す順番を並べるためだった。放っておけば気になったところから手を出し、その前に比べるつもりだった条件まで変えてしまいそうだ。
テレビの音が少し大きくなる。
番組が変わったことに気付き、ようやく顔を上げた。手元の飲み物も随分減っている。
「もうこんな時間か」
読むものが増えたのだから、当然といえば当然だ。
気についても幾つか調べてから閉じるつもりだったが、その関連項目を辿っているうちに、今度は魔法使いの戦闘記録へ行き着いた。
そこで、見覚えのある名が目に入る。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
指を止めたまま、少し考える。
本人が何者かは分かっている。ただ、世間からどう記されているかまで、わざわざ読んだことはなかった。
以前、夜の公園で話した際も、彼女が語ったのはほんの一部だけだ。
ここにあるのは、他人が残した記録。本人が隠したい昔の記憶を覗き込むのとは違う。
少しだけ寄り道をすることにした。
◆
最初に現れたのは、かつて使われていた手配書を写した頁だった。
顔と名に続き、異名と賞金額が載っている。
闇の福音、人形使い、不死の魔法使い。
さらに読み進めると、目撃された地域や確認されていた能力、対処する際の注意まで、ずいぶん物々しい文章が並んでいた。
安易な接触を避けるべき相手として、丁寧に扱われているらしい。
当時の姿を描いた絵には、黒い衣服を纏った金髪の少女がいる。
背丈も顔も、今と大きくは変わらない。傍らには人形を従え、こちらを見返す目つきも、よく知っているものだった。
ただ、頭に浮かんだのは別の姿だ。
窓際の席で教科書を立て、その陰へ顔を隠している。こちらから名を呼べば、まず不機嫌そうに片目を開け、それから聞いていたと言い張る。
手配書へ視線を戻す。
また、教室の席が浮かぶ。
「……ふっ」
鼻から笑いが漏れた。
書かれている危険性に、嘘があるわけではない。能力も、実際に積んできた経験も、疑う余地などなかった。
それなのに今は、昼間の眠気へ負けかけながら、こちらに教科書を読まされている。
手配書を作った者へ見せたら、まず人違いを疑われそうだった。
別の記録を開いてみる。
こちらではさらに異名が増えていた。童姿の闇の魔王、悪しき音信。呼ぶ側が違えば、よほど言葉を尽くしたくなる相手だったのだろう。
その本人は今日、机に押し付けていた頬へ薄く跡を付けていた。
「よくもまあ、ここまで揃うものだな」
感心したのは肩書きの数なのか、今の姿との食い違いなのか、自分でも少し怪しい。
頁を閉じようとして、もう一度挿絵を眺めてしまう。
あの顔で教科書を開いていたら、それはそれで落ち着かない教室になりそうだった。
笑いながら本を閉じ、机の脇へ置く。
明日の練習に使うつもりの覚書には、まだ幾つも項目が残っている。十分に面白かったはずの魔法の検証が、最後に読んだ手配書のせいで少し霞んでしまった。
これを本人へ言えば、まず間違いなく怒る。
そう思うと、また口元が緩んだ。
◆
翌日、3年生の教室へ入った途端、窓際の顔がこちらへ向いた。
エヴァはいつものように頬杖をつき、教科書を机へ広げている。
昨日の絵と似ているのは、金色の髪と目つきくらいだった。傍らにいるのも人形ではなく、友人と話している普通の女子生徒で、机の上には筆箱と消しゴムまで並んでいた。
一度、顔を逸らす。
遅かったらしい。
「……何を笑っている」
低い声が飛んできた。
「いや。今日も元気そうだと思ってな」
「昨日も会っただろうが」
「そうだったな」
出席簿を教卓へ置くと、エヴァの目が細くなる。
近くの生徒たちは、いつものやり取りが始まったとでも思ったのか、少し笑ってそれぞれの席へ戻っていった。
「いいから、さっさと始めろ」
「急かすとは珍しい。よほど楽しみにしておったらしいな」
「その顔を見ている方が気になるだけだ」
「では、教科書を見ればよかろう」
言い返す前に黒板へ向き直る。
チョークを動かし始めると、背中へ刺さる視線が少し強くなった。何を見たのかまでは分かっていないが、何かを面白がっていることだけは伝わってしまったらしい。
授業を始めてからも、エヴァはなかなか目を逸らさなかった。
おかげで今日は、眠る気配がない。
指された箇所を読む声も普段よりはっきりしており、答え終えた後には、何か言ってみろとばかりにこちらを見返してくる。
「正解だ」
「……それだけか」
「他に何を言ってほしい」
「何でもない。次へ行け」
周囲がまた笑った。
こちらもそれ以上は続けず、別の生徒へ問題を振る。あの肩書きを教室で呼んでやるほど迂闊でもないし、本人が黙っていることを他の生徒へ教えるつもりもなかった。
少し機嫌の悪い顔が、いつもの席で起きている。
授業としては、それだけで十分だった。
◆
終了の鐘が鳴り、教科書を閉じる音が重なった。
挨拶を終えて教材を揃えていると、窓際から椅子を引く音がする。エヴァがこちらへ来るのは、顔を上げるまでもなく分かっていた。
「ウヌグ」
「今日は一度も起こさずに済んだな」
「その話はしていない」
教卓の前へ立ち、声を落とす。
「昨日、何を見た」
なるほど。そこまでは読めたらしい。
周囲では次の授業の用意をする者と、廊下へ出ていく者が入り混じっている。こちらも彼女へだけ届く声で答えた。
「古い紹介を少し読んだだけだ。随分と立派な肩書きが並んでおったぞ」
エヴァの顔が止まる。
それから、こちらの笑みの理由まで一度に繋がったらしい。片手が教卓の縁を掴んだ。
「……貴様」
「よい絵も付いていた。今の貴様を紹介すれば、描き直しを求められそうだがな」
「余計なことをするなよ」
「せんとも。絵描きが教室へ入ってきては授業にならん」
「そっちの心配じゃない!」
僅かに大きくなった声へ、前の席にいた生徒が振り返る。
エヴァはすぐに口を閉じ、不機嫌そうにそちらを見た。生徒が慌てて教科書へ戻ったところで、改めてこちらへ顔を向ける。
「……そんなものを読んでいる暇があったら、もう少し面白い授業を考えろ」
「今日は最後まで起きておったではないか」
「お前が何か言い出さないか気になって、眠れなかったんだよ」
「それは結構。教材を増やした甲斐があったな」
「教材にするな」
さすがに、ここまでにしておいた方がよさそうだった。
手元の本を揃え、教卓から離れる。エヴァも一歩横へ退いたが、通り過ぎる直前にこちらを見上げてきた。
「いいだろう。次からは私も、熱心に聞いてやるよ」
「急に殊勝なことを言うな」
「言い間違えでもしてみろ。遠慮なく訂正してやるからな、先生」
今度は向こうの口元が上がる。
なるほど、それなら寝てはいられまい。
「期待しておこう。最後まで起きていられればの話だが」
返ってくる言葉より先に教室を出ると、背後から短い舌打ちが聞こえた。
廊下へ出てから、少しだけ笑ってしまう。
昨夜は魔法と気の使い方を覚えるつもりだったが、どうやら、眠そうな生徒の目を覚まさせる方法まで1つ増えたらしい。
もっとも、これは他の生徒には使えない。
次の授業では、ちゃんと教科書の中身で起こしておくことにしよう。