魔法先生ギルガメッシュ 作:長LAVA
【長谷川千雨side】
2002年の秋になっても、麻帆良学園のおかしさには慣れなかった。
窓の外では、少しずつ色の変わり始めた木々が風に揺れている。制服を着た生徒が廊下を歩き、教室では次の授業の準備をする者と、ぎりぎりまで喋り続ける者が半々。黒板には消し残しの文字があり、教卓の横には回収されたノートが積まれていた。
どこにでもありそうな学校の風景だ。少なくとも、見た目だけは。
その日の昼休み、長瀬が2階の渡り廊下から飛び降りた。
下にいた誰かから声を掛けられて、手すりに手をつき、そのまま向こう側へ身を躍らせたのだ。落ちたんじゃない。どう見ても、自分の意思で跳んでいる。
私は廊下の途中で足を止めた。声を上げる暇もなく、長瀬は中庭へ降り立つ。膝を軽く曲げただけで勢いを殺し、何事もなかったように立ち上がると、下で待っていた連中のところへ歩いていった。
「……階段を使えよ」
思わず漏れた声は、周囲のざわめきに紛れた。
私の前を歩いていた女子たちは、手すりから下を覗いている。何人かは驚いた声を上げていたし、危ないと言った奴もいた。そこまでは分かる。
だが、その後が続かない。
「長瀬さんって、本当に身軽だよね」
隣でそんな声がして、私はそちらを見た。
それで終わりか。
身軽だったら、2階から落ちた時の衝撃までなくなるのかよ。
下を見れば、長瀬はもう笑いながら何かを話している。怪我をした様子はない。無事なのはいい。そこを残念に思うほど、私も腐ってはいない。
でも、無事だったことと、今の出来事がおかしいことは別だろう。
周囲の連中は手すりから離れ、途中だった話を再開していた。私もつられるように足を動かしかける。急いでいただけなのだろう。あいつなら、ああいうこともできるのかもしれない。
そう思い、数歩進んだところで、また足が止まった。
いや、待て。
今、何に納得した?
私はもう1度中庭へ目を向けた。さっきまでそこにいた長瀬たちは、既に別の校舎の方へ歩いている。廊下に残って下を見ているのは、私だけだった。
こういうことが、何度もある。
長瀬や古菲の身体能力がおかしいのは、今に始まった話じゃない。運動が得意だとか、鍛えているとか、その辺りの言葉で説明できる範囲を、あいつらは時々、当たり前のように踏み越えていく。
絡繰にしたってそうだ。耳の辺りに付いているものを見て、誰も気にしない。本人に聞けば、きっとあの丁寧な口調で何か答えてくれるのだろう。それを聞いた周りも、なるほど、と頷くに違いない。
何がなるほどなのか、私にはさっぱり分からない。
別に、他人の格好へいちいち文句をつけたいわけじゃない。髪の色も服の趣味も、本人が好きでやっているなら好きにすればいい。変わった奴がいるのも、人数の多い学校なら普通のことだ。
だが、変わった奴と、説明のつかない現象は違う。
その区別まで、ここでは妙に曖昧になる。
「まあ、麻帆良だし」
それを何度聞いただろう。
何でもありの便利な言葉だ。どれだけおかしなことが起きても、最後にそれをつければ、みんな次の話題へ移っていく。
私だって、流してしまえるなら流したい。
わざわざ面倒なことを考えたいわけじゃないし、学園の秘密を暴く新聞記者になりたいわけでもない。授業を受けて、課題を片付けて、余計な騒ぎに巻き込まれず帰れれば、それで十分だった。
なのに、現実へと戻ってくる。
その場では一度納得しかけたはずの疑問が、帰り道や、夕飯を食べている最中や、眠ろうと目を閉じた時に、また頭の中へ顔を出すのだ。
どうして、あんなことができた。
どうして、誰も聞かなかった。
どうして私は、あの時、納得しかけた。
答えの出ない問いを抱えたまま教室へ戻ると、いつも通りの騒がしい声が迎えてくれる。
2年A組。
うるさくて、お祭り好きで、妙な特技を持った奴ばかりのクラスだ。悪い奴らではない。それは分かっている。
分かっているからこそ、余計に困る。
こいつら全員が、私を騙そうとしているとは思えない。私のいないところで打ち合わせをして、何もおかしくないふりをしているなんて、そんな馬鹿げた想像はしたくもなかった。
だったら、何がおかしいんだ。
周りじゃないなら。
その先の問いかけを止める、私は鞄から教科書を引っ張り出した。
◆
部屋へ戻ってパソコンの電源を入れると、ようやく少し息がつける。
本体から聞こえる低い動作音も、見慣れた画面も、私にとっては学校より余程分かりやすいものだった。もちろん、機械だって不調になるし、作ったページの表示が崩れることもある。思った通りに動かなくて、夜中まで頭を抱えたことも1度や2度じゃない。
それでも、原因を探る。
画像の指定を間違えたのか、設定を変えたのか、どこかの接続がおかしいのか。調べて直せば、ちゃんと結果が変わる。
直らなければ腹が立つが、少なくとも「麻帆良だから」で話を終わる事はないのだ。
鞄を置き、制服から着替える。
撮影に使う場所を整え、カメラの位置を確かめた。画面に余計なものが入らないようにして、髪を直し、鏡の前で表情を作る。
「……よし」
学校での私を知っている奴が見れば、何だその顔は、と言うだろう。
言わせておけばいい。そもそも見せるつもりもない。
ネットアイドル、ちう。
画面の中では、そう名乗っている。
衣装を選び、角度を考え、何枚も撮った中から出来のいいものを残す。明るさを調整して、画像の大きさを揃え、載せる文章を考える。何となくカメラを向けただけで、勝手に可愛く写るわけじゃない。
佐々木や雪広みたいな連中と違って、こっちはこっちなりに手間をかけているのだ。
……いや、あいつらだって何もしていないわけではないのだろうが。
ともかく、画面の中にいるのは、私が作ったちうだった。
どこを見せるか、何を書かないか、それは私が決められる。自分でそうしていると分かっている分、学校で訳の分からないものを見せられるより、ずっと気が楽だった。
撮影を終え、写真を取り込む。
何枚か選んで並べ、掲示板を開くと、新しい書き込みが増えていた。前の衣装を褒めるもの、更新を楽しみにしているというもの。他愛のない言葉でも、読むと少し気分が上がる。
私が手をかけたところを、ちゃんと見てくれている人がいる。
それだけで、学校で溜まった苛立ちの大半は、いつもなら片付くはずだった。
『今日も見に来てくれてありがとっ☆』
いつもの調子で文章を打ち込み、続けて今日のことを書こうとする。
指が止まった。
長瀬が手すりを越えた時の姿が、頭の中を横切る。
私は画面を睨み、書きかけた一文を消した。
今考えることじゃない。
ここにいるのは、学校で愛想もなく過ごしている長谷川千雨ではなく、見に来てくれた連中へ笑顔を向けるちうだ。昼間のくだらない苛立ちまで持ち込んで、どうする。
そう言い聞かせ、写真の位置を直す。
確認画面を開いて、文字のずれを直し、もう1度見直す。ところが、さっきから同じ画像ばかり確認していたことに気づいた。
作業が進んでいない。
「……くそ」
椅子の背へ体を預ける。
机の端には、小さな手帳が置いてあった。最初は課題や、買うものを忘れないように書いていたやつだ。
最近は、そこへ別のことも書いている。
何月何日、どこで、何を見た。
なるべく感想を入れず、自分の目で見たことだけを短く残していた。後で考え直した時、記憶が勝手に大げさになっていないか、確かめたかったからだ。
今日の分も書いてある。
昼休み。渡り廊下。長瀬が2階から中庭へ飛び降りた。着地後、そのまま歩いていた。
読み返しても、やっぱりおかしい。
だが、これを書いたのも私だった。
他の誰かが同じように驚いて、一緒に首を捻ってくれたわけじゃない。結局は、私の見たものを私が記録しているだけだ。
周りの何十人、何百人より、自分1人の方が正しい。
そう言い切れるほど、私は自分を信用できていない。
見間違えたのかもしれない。思い込んでいるだけかもしれない。周りを変だと思いすぎて、何でもおかしく見えるようになったのかもしれない。
そう考えるたび、今度は見た時の事を思い出してしまう。
あれを見間違いで済ませるのか。
今日だけじゃない。今までの全部を、私が勝手に勘違いしてきたことにするのか。
画面の中では、ちうが笑っていた。
さっき撮ったばかりの、自分で選んだ写真だ。それを見ても気分が切り替わらないことが、何より腹立たしかった。
私は手帳を閉じ、更新用の画面へ戻った。
学校の話は書かない。衣装の話と、見に来てくれたことへの礼だけにして、いつもより短い文章を載せる。
更新を終えても、気分は晴れなかった。
このまま明日になれば、また学校へ行く。同じものを見て、同じように周りを眺め、帰ってからまた1人で考える。
それを続けて何かが変わるとは、もう思えなかった。
◆
誰かに聞くなら、大人だ。
そう決めたところで、すぐに相手が思い浮かんだわけではない。
高畑先生なら、話は聞いてくれるだろう。
途中で笑ったり、気にするなと乱暴に切り上げたりはしない。私が何に困っているのか、真面目に考えてくれる人だと思う。
だからこそ、最後まで言わないこともある気がした。
生徒が知る必要はない。知らない方が安全だ。あるいは、今はまだ話せない。
そういう理由があるなら、あの人はそれを選ぶだろう。その上で、私がなるべく不安にならないよう、言葉を選んでくれる。
優しい先生だ。
でも今の私が欲しいのは、上手な慰めじゃなかった。
他の教師にも、似たようなところがある。
おかしなことが起きた時、その場を収めるのが妙に早い。何が起きたのか驚くより先に、生徒を別の場所へ向かわせたり、騒ぎを大きくしないように動いたりする。
全員がそうだとは思わない。だが、何かを知っている側と、何も知らない側がいるんじゃないかという感覚は、以前からあった。
同じ出来事を見た時、驚く場所が違うのだ。
知らないから答えられないのではなく、知っていても言わない。
そんな相手へ、遠回しに何かを尋ねたところで、こちらが聞きたいところまで届くとは限らない。
では、誰ならいいのか。
英語の授業中、黒板へ文字を書いている男を見ながら、私はそのことを考えていた。
ギルガメッシュ先生。
金髪に赤い目、黒い背広。名前も態度も、普通の英語教師という言葉からは随分と遠い。
教壇に立っている時でさえ、教室の主は自分だと疑っていないような顔をしている。生徒が騒げば遠慮なく言い返すし、妙な言い訳には鼻で笑ってくる。優しく包み込んで何でも許してくれる、なんて種類の大人ではなかった。
ただ、答え方は真っ直ぐだ。
間違っていれば違うと言うし、できていればできていると認める。前よりよくなったところを褒めた直後に、それでも赤点だから補習だと告げるような男でもある。
ただ褒めるべき時は褒めている。
逆に、褒めたからといって、その場の雰囲気で基準を曲げることもない。
分からないところを聞かれれば説明する。ふざけて聞いた奴にはふざけて返すこともあるが、本当に分からず止まっている相手を、そのまま放っておくところは見たことがなかった。
自分が口にしたことを、後から都合よく曖昧にするようにも見えない。
あの先生なら。
たとえ私が嫌な顔をしても、必要だと思えば本当のことを言うんじゃないか。
「千雨」
いきなり名前を呼ばれ、背筋が伸びた。
いつの間にか、先生がこちらを見ている。
「そこまで熱心にこちらを見ていたのだ。次の文くらいは読めるな?」
クラスの何人かが笑う。
私は教科書へ目を落とし、今の箇所を確かめてから読み始めた。聞いていなかったわけじゃない。別のことも考えていただけだ。
読み終えると、先生は軽く頷いた。
「よろしい。では、その続きだ」
視線が別の席へ移る。
私は教科書を持ったまま、短く息を吐いた。
相談する相手を観察していて授業中に注意されるとか、何をやってるんだ、私は。
それでも、その日の放課後には、もう決めていた。
◆
「先生。今日、この後ちょっと時間あるか」
廊下で声を掛けると、先生は足を止めた。
手にはプリントの束を持っている。こちらを見て、それから周囲を一度見回した。
「あるぞ。何の話だ?」
「……相談。ここだと、ちょっと話しにくい、んだ」
口にしてから、自分でも妙に大げさな言い方だと思った。
だが、先生は茶化さなかった。
「分かった。ついてこい」
案内されたのは、生徒指導室だった。
その名前を見た途端、悪いことでもして呼び出されたような気分になる。自分から相談しに来たはずなのに、最近何かやらかしただろうかと、余計な記憶まで探しそうになった。
中には机と椅子、棚、それから少し古びた掲示物がある。窓には薄いカーテンが掛かり、校庭から部活動の声が届いていた。
先生はプリントを脇へ置き、私に椅子を示した。
座って待っていると、少しして紙コップが2つ運ばれてくる。中身は温かい茶だった。
「飲め。話しているうちに喉が渇くだろう」
「……ありがと」
受け取ったコップを両手で包む。
向かいに座った先生は、腕を組むでもなく、書類を広げるでもなく、こちらを見た。
「それで?」
ようやくここまで来た。
そう思った途端、何から話せばいいのか分からなくなった。
昨夜は何度も考えたはずだ。手帳も持ってきた。順番に話せばいいだけなのに、いざ誰かを前にすると、自分の中で形になっていた言葉が急に馬鹿げたものへ見えてくる。
「その……変なこと言ってると思ったら、そう言ってくれ。ただ、できれば最後まで聞いてほしい」
「聞くために座ったのだ。先に断りばかり入れず、遠慮なく話せ」
急かすような口調なのに、視線は時計へも扉へも向かわない。
私はコップを置き、鞄から手帳を取り出した。
「この学校、おかしいと思わねえ?」
「……ふむ。何を見て、そう思った」
笑われなかった。
それだけで、次の言葉が少し出しやすくなる。
「クラスの連中とか、学園の中で起きることとか。変わってるって意味じゃなくて、普通じゃ説明のつかないことがあるだろ。昨日だって、長瀬が2階から飛び降りたんだ」
先生の目が、手帳へ落ちた。
「落ちたのではなく、自分からか」
「そう。下から呼ばれて、手すり越えて、そのまま。着地した後も普通に歩いてた。怪我してないのはよかったけど、だからおかしくないって話にはならねえだろ」
「うむ」
「古菲もそうだ。運動が得意だとか、武術をやってるとか、それは分かる。でも、だからって何でもできるわけじゃない。絡繰だって……いや、別にあいつらをどうにかしてほしいわけじゃなくて」
言いかけて止まる。
これではクラスメートの悪口を言いに来たみたいだ。
自分でも苛立って、手帳の角を指で押さえた。
「あいつらが嫌いだから、何か文句をつけたいわけじゃねえんだ。おかしいと思っても、別に本人を責めたいわけでもない。ただ、どうしてそうなるのか知りたいだけで」
「誰かを責める気がないのは理解しておる、落ち着いて話せ」
先生は、誰かを庇うようなことも言わなかった。
長瀬はよく鍛えているからとか、絡繰には事情があるからとか、そんな説明で話を終わらせようともしない。
私は手帳を開き、机の上へ置いた。
「忘れないように、少し書いてた。後から考えて、私が大げさに覚えてただけなんじゃないかと思う時があったから」
「見てもよいか?」
「そのために持ってきた」
先生は手帳を引き寄せ、書かれたところへ目を通した。
走り書きで、字も揃っていない。書きかけて消した行もあるし、その日のうちに付け足した箇所もあった。誰かへ見せるつもりで整えたものではない。
それを読まれている間、私は膝の上で指を組んでいた。
こんなことまでしていたのかと呆れられるだろうか。
気にしすぎだと言われるだろうか。
先生は何も言わず、最後の頁まで読んでから手帳を戻した。
「これだけではないのだな」
「……ああ。書き始めたのは最近だから」
「では、書いていない事も聞いておこう」
何でもないように言われて、私は一度口を閉じた。
話して、いいらしい。
全部証明できなくても、文章にして整理できていなくても、ここでは先へ進んでいい。
茶をひと口飲み、今度は手帳を見ずに話し始めた。
学校の中で見たこと。道で見かけた、おかしな出来事。何かあったはずなのに、振り返る頃には周囲が普段通りに戻っていたこと。
1つずつ話すうちに、言葉が少しずつ速くなった。
「変なものがあるだけなら、まだいいんだよ。そういう学校なんだって説明されれば、腹は立つけど、それなりに考える。でも、誰も説明しないだろ。聞こうとしても、何を気にしてるんだって顔をされる」
先生は黙っている。
だから、私は続けた。
「見てない奴なら分かる。一緒にいなかったんだから、私が何か変なことを言ってると思っても仕方ない。でも、その場にいた奴までそうなんだ。同じところにいて、同じものを見て、最初はちょっと驚いてたはずなのに、途中から誰も気にしなくなる」
昨日の廊下を思い出す。
手すりへ集まっていた連中と、そこから離れていく足音。
最後まで中庭を見ていた、自分。
「私も、一瞬は流しそうになるんだよ。あいつならそういうこともあるか、とか、ここは麻帆良だから、とか。なのに、ちょっとすると戻ってくる。いや待て、何でそれで納得したんだって。さっきまで平気だった自分まで、分からなくなる」
口の中が乾いていた。
コップへ手を伸ばしたが、持ち上げる前に、また言葉が出た。
「私は、そんなに難しいこと言ってるか?」
先生の顔を見る。
こちらを面白がってはいない。可哀想なものを見るような顔もしていなかった。
ただ、聞いている。
「人が変なところから飛び降りたら驚くだろ。どうやったのか分からなければ聞くだろ。答えを聞いても変だったら、もう1回考えるだろ。別に、全部に噛みつきたいんじゃない。普通に考えてるつもりなんだよ」
最後の方は、自分へ言い聞かせているみたいになった。
気づいても、止められなかった。
「でも、みんな平気なんだ。私だけ、ずっと引っ掛かってる。教室で誰かが笑ってる時に、まださっきのこと考えてる。部屋へ帰って、別のことをしてても、また思い出す」
ちうの話はしなかった。
あれは誰にも言いたくない。先生へ相談するからといって、全部の秘密を渡すつもりはなかった。
それでも、逃げ場にしていた時間まで落ち着かなくなったことは、もう隠しきれない。
「そのうち気にならなくなると思ってた。慣れるとか、何か分かるとか。でも、全然そうならねえ。分からないことが増えるだけで……」
そこで言葉が途切れた。
校庭から、誰かが仲間を呼ぶ声が聞こえる。
窓の外はいつも通りだった。夕方になれば部活動が終わり、生徒が帰り、明日にはまた授業が始まる。
みんな、普通にその続きを過ごすのだろう。
私は机の木目へ目を落とし、今まで口にできなかったことを尋ねた。
「……私の方がおかしいのか?」
言ってしまうと、急に顔を上げられなくなった。
相談へ来る前に何度も考えていた言葉だ。それなのに、実際に人へ聞いてみると、返事を待つ数秒がやけに長い。
先生が椅子に座り直す音がした。
「千雨、顔を上げよ」
仕方なく目を向ける。
先生は、教室で答え合わせをする時と同じくらい、はっきりした声で言った。
「お前が今挙げた出来事は、妄想ではない。実際に起きておる事よ。それを不自然だと感じることも、間違いではなかろう」
「……は?」
「理解できぬか?お前の違和感には理由がある。気のせいだと片付けるつもりはない、と言っている」
すぐには、意味が頭へ入ってこなかった。
言葉は聞こえている。
何を言われたのかも分かる。
なのに、用意していたどの返事とも違っていて、口が動かなかった。
「……慰めで言ってんなら、やめてくれよ」
「慰めのために、見てもいないものを見たことにしてやると思うか?」
「そういう先生じゃねえとは、思ってるけど」
「では、今の言葉もそのまま受け取れ。お前が変なことを言い出したから、適当に話を合わせているのではない」
机の上に戻された手帳を見る。
自分で書き、自分で読み返し、それでも自分1人の記録でしかなかったものだ。
そこにあることを、違うと言われなかった。
私はコップを持ち上げた。何かしないと、そのまま黙り込んでしまいそうだった。
茶は、もう熱くない。
「先生は、知ってるのか。この学校で、何が起きてるのか」
「知っておる」
ためらいのない答えだった。
その一言で、胸の奥が軽くなった。
同時に、腹も立った。
知っている。
私がずっと首を捻っていたことに、答えがある。
誰も分からないから説明できなかったわけじゃない。
「……じゃあ、何なんだよ」
コップを机へ戻す。
「何でみんな平気なんだ。何で私はそうならねえんだよ。説明できるなら、そう言ってくれればよかっただろ。何もおかしくないみたいな顔ばっかりしないでさ」
「うむ」
「うむ、じゃなくて……!」
思わず声が大きくなり、自分で止まった。
先生に怒鳴ったところで、昨日までが変わるわけじゃない。そもそも、初めてまともに聞いてくれた相手へぶつけることなのか、それは。
「……悪い。先生に怒っても仕方ないのに」
「腹が立つなら、そう言えばよい。今の話で何も感じるなとは言わん」
なだめるような声ではなかった。
怒るのもおかしな反応ではないと、ただ受け取られた。
私はしばらく黙り、呼吸を整えてから椅子へ座り直した。
「他の先生も、知ってるんだろ」
「知っている者はいる。全員ではない」
「……やっぱりな」
思わず笑いそうになる。楽しいからじゃない。
今まで見てきた教師たちの反応に、初めて説明がついた気がしたからだ。
「高畑先生とか、たぶんそうだと思ってた。ちゃんと聞いてくれるだろうけど、肝心なところは言わないんだろうなって」
「それで我のところへ来たか」
「ああ。あの先生が悪いとか、そういう話じゃねえよ。言っちゃいけない事情くらいあるんだろうし、それを私が勝手に聞き出そうとしてるのかもしれない。でも……」
「納得できぬものは、できぬ、か」
私は頷いた。
そこまで言ってもらえると、もう口が止まらなかった。
「知らなくていいって言われたら、そうなのかもしれない。けど、知らないままにしておけって言うなら、せめて変なものを見ても何も思うなってところまで、私にやらせないでほしい」
先生は少しの間、こちらを見ていた。
それから、机の上の手帳へ視線を落とす。
「高畑にも考えはあろう。知らずに済むものへ近づけまいとすることが、全て間違いだとも思わん。だが、お前は既に、知らぬままで済んでおらんのだな」
「……そうだよ」
「ならば、その状態をお前の気の持ちようだけで解決させるつもりはない。出来ぬともいいえよう」
私は先生の顔を見た。
先ほどまで、必死に説明しようとしていたことだった。
おかしいと思う自分を直せば済む話じゃない。
他の奴と同じように笑って流せればいいのに、それができないから、ここへ来たのだ。
その部分が、ようやく相手へ届いた気がした。
「ただし、千雨。ここから先の話は、聞いた後で、知らなかった頃へ戻れるものではない」
先生が言う。
そこで私は、少し身構えた。
やっぱり教えられない。
次にそう続くのではないかと、反射的に考えてしまった。
「秘密だから駄目だって?」
「お前が知りたいのかを、確かめておる。腹を立てた勢いで頷かせるつもりはない」
違ったらしい。
先生は手帳を指で押し、私の前へ戻した。
「これまで見たものに、説明はつく。だが、それを知れば、次からは別の意味で周りを見ることになる。何も知らずに通り過ぎていたものへ、今度は気づくこともあろう。それでも聞くか?」
私は手帳へ目を落とした。
知らなかった頃。
それがいつのことなのか、少し考える。
何も疑問に思わず、学校で騒いで、帰ってから趣味に没頭できる。明日のことを考えても、今日見た何かが頭へ割り込んでこない。
そんなふうに過ごせるなら、それが一番よかった。
だが、今更ここで知らないと言い張ったところで、あの廊下へ戻った時に何が変わるのだろう。
「先生。私、とっくに戻れてねえよ」
今度は、顔を上げたまま言えた。
「何も知らないから平気なんじゃねえんだ。知らないままでいるのが無理になったから、ここへ来たんだよ。聞かなきゃ元通りになるなら、最初からこんなもん書いてない」
手帳を持ち上げる。
先生はそれを見て、ゆっくり頷いた。
「そうか」
「知ったら、何かやらされるのか?」
「今は、お前の相談に答える話をしておる。承諾もなく別の用を背負わせるつもりはない」
「……なら、聞く。教えてくれ」
先生の口元が、僅かに緩んだ。
面白いものを見つけたという笑い方ではない。こちらが何を言うか待ち、それを確かめた後の顔だった。
「よかろう。明日の放課後を空けておけ」
「……明日?」
「言葉だけで説明するより、見せた方が早い」
私は、しばらく先生を見つめた。
ここまで話して、ここまで聞かれて、最後はお預けなのか。
「今じゃ駄目なのかよ」
「邪魔の入らぬ場所と、見せるための用意が要る。我の口から聞いたことを、そのまま信じ込めと言うつもりもない。自分の目で確かめてから、説明を聞け」
「用意って……何を見せる気なんだ」
「お前が、今まで何に引っ掛かっていたのか分かるものだ」
相変わらず、具体的な答えにはなっていない。
だが、さっきまでとは違った。
分からないことをごまかされたわけじゃない。何も起きていないと言われたわけでも、気にしなければいいと諭されたわけでもない。
理由はある。
先生は知っている。
明日、それを確かめさせると言っている。
私は手帳を鞄へしまい、残った茶を飲み干した。
冷めていたが、もう味を気にする余裕が少し戻っていた。
「……分かった。明日、何時に来ればいい?」
「授業が終わったら職員室へ来い。そこから一緒に行く」
「どこへ?」
「場所は我が案内する」
「先生、それ、他の奴が言ったら相当怪しいぞ」
「では、我だから信用しておけ」
「自分で言うなよ」
思わず返すと、先生は平然と笑った。
いつもの顔だ。
教室で生徒に文句を言われても、少しも困らず言い返してくる時と同じ。こっちは随分と大変な話をしたつもりなのに、先生は私を見て態度を変えたりしなかった。
それが、今はありがたかった。
空のコップを持って立ち上がる。
片付ける場所を聞こうとしたところで、先生がこちらへ手を出した。
「置いておけ。我が片付ける」
「ありがと。……話、長くなって悪かった」
「相談したいと言ったのであろう。短く終わらせるために来たわけではあるまい」
そう言われて、私はまた口を閉じた。
確かにそうだ。
話す前から、面倒をかけるな、変なことを言うな、さっさと切り上げろと、自分で勝手に決めていた。最後まで聞いてくれる相手がいるかどうかも、確かめないうちに。
先生は脇へ置いていたプリントを揃え始めた。
私は扉の前で足を止め、一度だけ振り返る。
「先生」
「何だ」
「明日になって、やっぱり気のせいだったとか言うなよ」
口にしてから、我ながらしつこいと思った。
でも、そこだけは聞いておきたかった。
先生は書類から顔を上げ、私を見た。
「言わん。お前が今日話したことを、なかったことにはせぬ」
はっきりした声だった。
私は短く頷き、扉を開けた。
◆
廊下へ出ると、相談へ来た時よりも日が傾いていた。
窓から差し込む光が床を長く照らし、向こうでは誰かが笑っている。階段を駆け下りる足音がして、別の教師が走るなと声を掛けた。
いつもの学校だ。
相変わらず、訳の分からないことだらけの麻帆良学園。
明日何を見せられるのかは、まだ分からない。聞いたところで余計に頭を抱える羽目になるかもしれないし、知るんじゃなかったと思う可能性だってある。
正直、嫌な予感はしている。
あの先生が自信満々で見せると言ったものが、まともな説明で片付くとは、どうしても思えなかった。
それでも、鞄の中の手帳を思い浮かべた時、さっきまでの重さは少し違っていた。
もう、私1人だけが抱えてるものではなくなった。
あそこに書いたことを、読んで、顔を上げて、気のせいではないと言った大人がいる。
明日の放課後。
そこまで待てば、少なくとも続きを聞ける。
「……余計、眠れねえだろ」
小さく悪態をつき、私は階段へ向かった。
ただ、今夜は何度も手帳を読み返さずに済みそうだった。