「これが……本物の【ミツバチ】なのか……本当に人を襲わないんだな……」
聖教国パンタシア。
とある領主が管理する山岳部にかつて建造され、長い歴史の中でいつの間にか放棄され廃墟となった要塞都市。
永く人の手を離れ、それでも堂々と屹立する砦の中で。
「あぁ、坊やはフォルティスから勉強を兼ねて出稼ぎに来とるんじゃもんな。知らなくて当然じゃね」
「いえ、知識としては知っていたのですが……いざ目の前で、インセクトが大人しくしているのを見ると……圧巻といいますか」
「まぁ……牛や豚ほどの大きさしかないとはいえ、これだけの数じゃ。そら見慣れん人にはそうなるや。でも余計なことさえしなけりゃ本当におとなしいもんよ」
まるで恐れる様子などなく、作業服の男性が近くにいたミツバチの背中を撫でる。それこそまるで牛や豚などの家畜を世話する光景のようで、ミツバチは少し顔を向けただけで威嚇すらしてこない。
インセクトの巣を掃除に行く。
フォルティス王国の首都にして学園都市グランマガザンで兄と別れ、行儀見習いが始まって1週間。その言葉を聞かされたルカニはまず自分の耳を疑った。
聞き間違いか、そうでなければ意味の受け取り方の問題だろう。巣の掃除とはつまり、ホーエンハイム領でも行っているように定期的に巣穴を探索してインセクトを駆除する行為のことだと信じていた。
現実は、非情である。
いや、むしろ有情。
もしかしたら友情かもしれない。
「ルカニくん、ここ、ほれ。透明だけどハチミツだよ。ちょっと味見してごらんよ」
「あ、はい。では失礼します。……ん? あんまり甘くない。それに、なんだか草原のような爽やかな香りが」
「新鮮過ぎるハチミツはこんなもんさ。そっちの、薫製肉みたいなヤツまで熟成してると苦味が出る。それはそれで需要はあるけどね。で、丁度いい濃厚な甘さのヤツが」
「そちらの紅茶のような鮮やかな色味のハチミツ、ですね」
「そういうこと。で、巣穴に土砂みたいにつまってるヤツあるだろう? あれがハチミツの塊ってワケ。そいつを回収して、巣穴を綺麗にしてやると、ミツバチがそこに産卵するって寸法よ」
「僕たちが襲われないのは、ミツバチにとって掃除を担当する使用人みたいなものだから、ですね」
「共存できるなら余計な敵なんざ増やす必要ないのさ。とりあえずルカニくんはゴミ掃除を頼むよ。ミツバチの巣穴での作業はちょっと特殊だから、慣れるまではね」
「はぁ……? わかりました、ゴミ掃除ですね!」
領民たちと交流を深めるため、兄コレオと一緒に畜産関係の手伝いもした。あのときに比べればハチミツの香りに包まれながらの仕事など気楽なもの。
領主貴族の息子としての肩書きが意味を持たない労働による人々との触れ合い。これこそが行儀見習いとして本来あるべき姿なのだと自分に言い聞かせ、ルカニは張り切ってスコップを動かした。
そして2時間後。
「坊やぁ、大丈夫かねぇ?」
「……申し訳、ありません。ちょっと、まだ、キツい……です……うぷっ」
ルカニ、無事にダウンする。
最初の30分はなにも感じなかった。
1時間を過ぎたあたりで鼻の奥まで甘くなる。
さらに30分後には吐き出す息すら不快になり。
現在こうして外の空気に当たり身体と心を癒していた。
彼にとっての不幸は、不調に気づき軽く休憩をしようと座り込んでいたところをミツバチに“排熱が上手く機能せず動けない状態”だと認識されてしまったことだろう。
人間のことを変わった姿のミツバチと思い込んでいる彼らにはルカニも小さな同族。体力の少なそうな個体をフォローするべく羽根を器用に振動させて送風を開始する。
その瞬間、砦の内部に充満していた濃厚なハチミツの甘い香りが暴風(ルカニ主観)となり襲い掛かったのだッ!!
…………。
…………。
「まぁ、誰でも1度はそうなるからよ。ホレ、コーヒーでも飲むさ」
「ありがとう、ございます……」
砂糖の入ってないブラックコーヒー。
これからの人生でどれほど高級で美味しいコーヒーを飲んだとしても、この缶コーヒーの喜びを超えることはないだろう。
そんなことを考えながらチビリチビリと味わっていると。
「ルカニ少年、お疲れさん。なかなか強烈な洗礼を受けたようだな?」
「あ、どうも。ナヴィさんも護衛、お疲れさまです」
「契約だ。気にするな。それに、いまから体調不良のキミに愉快ではない報告をしなければならないしな」
ほかの護衛役のパイロットたちがそうであるように、ミツバチたちに余計な刺激を与えないようコート姿のまま……相変わらず帽子を深く被っているので目元は見えないが、雰囲気でどこか呆れた様子なのはいまのルカニでも察することができた。
「僕に影響が出そうなトラブルでしょうか?」
「可能性としては。中央神殿で対インセクトの穏健派と過激派の対立が深刻化しているようだ。それを察してか、どうやら王妃アダマンス・ルフェイ・パンタシアが娘を事前にフォルティスへ逃がしていたらしい」
「それは……なんだか不穏というか、心配というか」
「そして偶然にもキミの兄であるコレオ少年が無事に保護したようだ」
「それならもう心配いりませんね! 兄上なら大丈夫です! それにしてもナヴィさん、よくそんな情報を集められますね? この1週間、ずっと僕から見える範囲にいたように思うのですが」
「私は音に関するギフト持ちだからな。国境のひとつやふたつ、私にとっては手元で話しているのと変わらない」
「それだけ聞こえていると日常生活すら困難なんじゃ……」
「桁違いに高性能のラジオのようなものだ。簡単にスイッチは切り替えられる。心配は無用だよ。それで、だ。国が違えど権力を持つインテリが過激なことを始めるとろくでもないことになると相場は決まっている。私も護衛として全力を尽くすが、トラブルのひとつやふたつ巻き込まれることは覚悟したほうがいい」
「つまり僕にも兄上のように成長できるチャンスがある、ということですね! 望むところです! あ、でも行儀見習いとしては皆さんと一緒に仕事をするのを優先しないといけないし……。やっぱりナヴィさん、できるだけトラブルは処理してもらう方向でお願いしてもよろしいですか?」
「任せろ。契約だからな」
「はい! お任せしました! よぉ〜し……そうと決まったら余計なことを考えちゃわないよう仕事に集中しないと。ナヴィさん、またあとで!」
「あぁ、またあとでな。……行ったか。あの兄にしてこの弟あり、だな。ヴィッシュ様の胃がまた痛むことになるが……そちらは契約外だ。自力で立ち直ってもらおう」