無限に続く暗闇の空。
光も無ければ音も無い。
しかしその少年は────ルカニ・ホーエンハイムは。
その黒一色が支配する空間を全く恐れる様子もなく、まるで歩き慣れた屋敷の裏庭を眺めるかのように……穏やかに微笑んですらいた。
一歩。
前に。
すると足元から淡い光の粒が、ひとつ……また、ひとつ……と。ゆっくりと歩き出したルカニの動きに引っ張られるように舞い上がった。
そしてタンポポの綿毛のように儚く頼りない光でしかなかったそれは、徐々に意味のあるカタチへと姿を変える。
未知の、魔法文字たちが。
未知の、錬成陣を組み立てる。
「……うん。まるで解析が進まない。なにひとつコピーすることができない。なんて……なんて、素晴らしく、美しく、恐ろしい完成度なんだ……ふふ……はは、はははは! やっぱり兄上は凄いや……僕のギフトでは、兄上のギフトに遠く及ばない……僕には、兄上を、追いかけ続ける権利がある。あは、あははッ! こんなに嬉しいことはないよ……ッ!!」
ルカニは自身を幸運な人だと確信していた。
万物の構成を瞬時に紐解き理解し再構築できるという錬金術士として世界の頂点に立てるだけの資格を有していること、を喜んでいるのではない。
そのギフトを全力で行使しても決して辿り着けない高みに兄コレオが座していたという事実こそが、規格外のギフト以上の幸運であると確信していたのだ。
最初にそれを理解したのは土ブロックと枠板を真似たとき。
土ブロックのほうは簡単に完全に再現できたのに、何故か枠板のほうは必ず魔力の歪みが起きる。
最初はそのような些細なことを疑問に思うことはしなかった。ただ兄と一緒に遊べるだけで楽しかったから。
だが成長するにつれて、錬金術に対する理解が深まるにつれて、その僅かな歪みが対岸の見えない巨大な濁流にすら見えてきた。
99パーセントまで再現した。
99,9パーセントまで再現した。
99,99パーセントまで再現した。
99,9999…………まで。
目の前に答えがあるのに、永遠に手が届かない。
1年早く産まれた兄に才能の差を見せつけられる、いや見せつけられ続けるというシチュエーション。
本来ならいつ闇堕ちしてもおかしくないが、ある意味両親以上に可愛がってくれる兄を嫌うほどルカニは捻くれていなかった。
もちろん自身もギフテッドであるという心の余裕もあるだろう。
それはルカニも自覚している。
自由奔放であり、何故か────あまりにも忌々しく、恐ろしく腹立たしいことに負の評価を受けている兄よりは社交界に顔を出す機会があるルカニは、兄弟や姉妹はもちろん、親子ですらギフトの有無で関係性が歪になることもあると知っている。
もしも自分がギフテッドでなければどうなっていたか? そんな可能性を想像しなかったワケではない。
だがそれは、所詮存在しない可能性に過ぎないのだ。
そんなことに思考のリソースを割り振る価値など、どこにある? そんなヒマがあるなら1秒でも兄コレオが気まぐれに見せる真なる神業を追い求めることに費やしたほうが何万倍も価値があるのに。
その感情は兄コレオがテナクス戦闘国家で開発した武装に触れることでさらに燃え上がり、これまた目が眩むほどの完成度でFAの装甲パーツをクラフトする姿に感動し、そして……。
「ヨロイムカデの外骨格……まるで加工できる気がしない……。カフリンクスという小さなカタチに姿を変えても、その内部で無限に魔法文字が流動的に変化し続けている……。兄上の魔力で組まれた錬成陣と、カフリンクスの深層に宿る炎の記憶がダンスを踊っているかのようだ……何時間でも、ずっと見ていられるな……」
魔法文字が並ぶ、などという陳腐な表現はあまりにも不適切。
この原始の炎というパートナーの手を取る資格があるのは、世界でコレオ・ホーエンハイムという真なる天才だけに許されたモノ。
それでいて、ルカニを取り巻く錬成陣には兄が弟の無事を願う真摯な祈りが込められている。
目指すべき頂点が、常にそこにあった。
それを幸運と呼ばずしてなんとするのか?
▲▼▲▼
「……うん、こんなものかな。僕も素材のサンプルが欲しいところだけど、欲しいものは自分で探しにいかないと兄上の弟を名乗れないからね。ゆっくり機会を待って、確実に────はい、どうぞ〜」
「失礼するよ、ルカニ少年。時間を頂いても構わないかな?」
「はい、大丈夫ですよ。どうしました?」
「なに、少しばかり上の方で動きがあったのでね。私のほうで対処したが、一応報告に来た。契約だからな」
「そうでしたか。わざわざありがとうございます。それで、僕のほうにはなにか影響が出そうなんでしょうか?」
「問題ない。そうならないよう人を動かした。ルカニ少年、パンタシアには【結晶渓谷】と呼ばれる巨大な谷底があるのは知っているか?」
「えっと、申し訳ありません。勉強不足で……」
「謝罪の必要はない。本来なら外に持ち出すべき情報ではない。ただ確認しただけだ」
「本来持ち出すべき……閲覧制限のインセクトに関わる話ですか?!」
「その通り。どうやら過激派の連中はどこからかホーエンハイム家の子どもが行儀見習いに来ていると知ったようでな。接触を試みようとしていたので、もっと魅力的なエサの在り処を教えてやったワケだ」
「それは、なんと言えばいいのか……えぇと、市民の皆さんが犠牲になるような話ではない……んですよね?」
「当然だろう? そんな下手は打たないさ。囁き方ひとつでどうにでもできる。テナクス戦闘国家では、第一王子が、親衛隊と近衛騎士だけで接触禁止級のインセクトを撃退しましたよ……と、過激派が愉快な夢を見れるようにしてやるだけでいい」
「あぁ……そういう……」
大凡を察する。
きっと、その結晶渓谷とやらにはミツバチの親玉とも言えるようなインセクトが潜んでいるのだろう。
確かにハチミツという実体のある恩恵すら無視するような考えの集団であれば、早々に元凶を叩いて成果としたくなるのかもしれない。
「でも、それは、本当に大丈夫なんですか? それでミツバチたちが怒って本格的に敵対したら」
「大丈夫だから誘導した。安心しろ。そもそもミツバチたちの怒りに触れるような事態にすらならない。少なくとも私は絶対に近寄りたくない場所だよ。実態を探るため音を聴こうとしただけで発狂するかと思ったぐらいだ」
「音だけで……? 魔力の干渉を試みるだけで、なんらかの現象が……逆流してくるような環境ということか……そういう場所であることを理解して、そのための装備がなければそもそも……」
「テナクスではキミの兄、コレオ少年が類稀なる理解力で危機を察して戦ってはならないと指示を出した。だがパンタシアの過激派集団にコレオ少年はいない。巻き込まれる犠牲者たちには同情するが……そちらは契約外だし、ほかに手段もなかった。まぁ、キミはのんびりと行儀見習いを続けるといい」
「わかりました。あ、そうだ! 僕、今度ヤギのミルクでチーズを作る作業を手伝うんです。鍋にゆっくり魔力を流しながらかき混ぜて作るやつを」
「それは……錬金術士の修業になるのか? いや、食べ物だからこそ繊細な魔力調整が求められるのか……?」
「はい! なので上手にできたらナヴィさんにもぜひ!」
「そうか。契約外の報酬は受け取らない主義なのだが……せっかくのご厚意だ。ありがたく頂戴しよう」
テナクスには兄がいたから帰ってこれた。
そしてパンタシアには兄がいない。
たったそれだけのことで、ルカニの興味から過激派の存在が消える。顔も名前も知らない人々とはいえ、少なくない命が犠牲になることを理解していても。いや、理解しているからこそ。
そして傭兵であるナヴィもまた、雇用主たちにはルカニの無事について問題無しとだけ報告するのだろう。彼女の契約はあくまでルカニの護衛であって、パンタシア貴族の犠牲に関しては契約外の出来事なのだから。
ルカニ・ホーエンハイムの聖教国パートナーでの行儀見習いは、きっと、無事に、平和に終わる。