今から三十年前。神秘が薄れつつあった現代社会。
第一次世界大戦の頃から、ただでさえ数少なかった、神を降ろす神秘の術――『面影宿し』の術者は次第に生まれなくなっていた。その存在は伝承や昔話として語られるだけとなり、神秘は確実に世界から姿を消しつつあった。
しかし、冷戦終結からさらに五年後。突如として太平洋より巨大な厄龍が出現する。
既存の兵器はほとんど通用せず、人類は滅亡の危機に瀕した。
だが、その厄龍をわずか三十四時間で討伐した六人の英雄が現れる。
後に『六英雄』と呼ばれる彼らの活躍によって、忘れ去られつつあった神秘は再び世界の表舞台へと姿を現した。そして現在。神秘は社会に受け入れられながらも、その全容はいまだ多くの謎に包まれている。
そして、その六英雄の一人を父に持つ少女がいた。
夏休み特有の強い日差しが校舎を照りつける。
部活動の一環として行われているプール掃除もひと段落し、生徒たちは思い思いに休憩を取っていた。照り返しで熱を持った屋上には蝉の鳴き声が響き、フェンスの向こうには大きな入道雲が浮かんでいる。
自販機の前で、冷えた缶を取り出した彼は満面の笑みを浮かべた。
「いやー、ありがとうございます〜澪様♡ 三ツ矢サイダー奢るよ」
差し出された三ツ矢サイダーを受け取り、澪は小さく眉を上げる。
「くるしゅうない……何がいいのやら?」
プシュッ、と炭酸の抜ける音が響く。
一口飲んだ澪を見ながら、彼は先ほど聞いた六英雄の話を思い返していた。
「それで聞きたいのは、厄龍って結局何だったの? って話だよ!」
澪は少し考えるように缶を眺めた後、肩を竦めた。
「知らないわよ、そんな事。それこそ父さん達六英雄本人か、三極国のトップ層ぐらいじゃないかしら?」
「えー、おしえてよー。くそう、三ツ矢が〜」
恨めしそうな声を上げる彼に、澪は呆れたような視線を向ける。
「秘匿されるのは、それなりの理由があるのよ。」
先程までの気の抜けた様子とは違う、どこか真剣な声音だった。
「命が惜しいなら、探らないことよ。」
一瞬、蝉の声だけがやけに大きく聞こえた。
「……そんなに?」
「そんなによ。」
澪はそれ以上何も語らず、残ったサイダーを飲み干す。
そんな重苦しい空気を振り払うように、彼は別の話題を持ち出した。
「にしても、知ってる? ライバルのさ、志繰佳高校の一年生が面影持ちらしいよ〜! 何でも河童だって。水操れるとかで、プール掃除もラクラクチンなんだろうな〜」
「……だから何?」
「いやいや、だって面影持ちだよ? 憧れない? 水を自在に操れるんだよ?」
澪は空になった缶を見つめながら、淡々と答える。
「別に珍しくないでしょう。」
「十分珍しいって!」
厄龍の出現以降、神秘は再び世界に広がり始めた。
面影を宿す者も、かつてより増えている。
それでも、誰もがその力を持てるわけではない。
「でも河童ってなんか地味じゃない?」
「あなた、河童を何だと思ってるの?」
「キュウリ好きで相撲取る妖怪?」
「……まあ、間違ってはいないけれど。」
呆れたように息を吐きながらも、澪は続ける。
「水の操作が本当なら有用な面影よ。戦闘でも救助でも役立つでしょうね。」
「おぉ、流石は六英雄の娘。分析がガチだ。」
「別に普通よ。」
そう言って階段へ向かう澪の背中を見ながら、彼はふと疑問を口にした。
「そういえば澪って、どんな面影持ってるの?」
澪の足が、一瞬だけ止まる。
「ん? 何にも。」
「え?」
「私の美貌なら天照様もメロメロにしちゃうからね? 嫉妬って怖いわー。」
さらりと髪をかき上げながら、得意げに言い放つ。
「……。」
「……。」
「いやいやいや! 何その理由!」
「そのままの意味だけれど?」
「絶対違うよね!?」
「失礼ね。どこに疑う余地があるのかしら。」
「全部だよ!」
思わず声を上げた彼に対し、澪は平然と肩を竦める。
「第一、面影持ちじゃない人なんて珍しくないでしょう?」
「それはそうだけど……。」
面影を持たない人間の方が、まだずっと多い。
だから澪に面影がなくても、本来なら不思議ではない。
――六英雄の娘でなければ。
「……でもさ、六英雄の娘なのに?」
「親が優秀だからって、子供も同じとは限らないわ。」
澪はあっさりと言った。
「そういう期待を勝手にされる方が面倒よ。」
その言葉に、彼は「そっか」とだけ返す。
「それに。」
澪はプールへ続く扉の前で振り返った。
「仮に面影があったとしても、簡単に他人へ話すものじゃないわ。」
「お、急に真面目な話。」
「あなた、さっき厄龍のことを探ろうとしていたでしょう?」
「うっ。」
「神秘に関わる情報は、知らなくていいことも多いのよ。」
そう言って扉を開く。
照り返す日差しと、塩素の匂いが二人を迎えた。
「ほら、休憩終わり。まだ掃除は残ってるでしょう?」
「えぇー……河童の面影持ちがいれば一瞬なのに……。」
「いないものは仕方ないわ。諦めなさい。」
「畜生、来世は水属性希望……。」
「まずは現世でモップを動かしなさい。」
「はーい。」
ぼやきながら掃除道具へ向かう彼の背を見つめながら、澪は小さく目を細める。
面影を持たない。
それは嘘ではない。
少なくとも、世間的には。
蝉の鳴き声が響く真夏の空の下。
厄龍の正体も、六英雄が隠す秘密も、そして澪自身のことも。
彼は、そのどれ一つとして知らなかった。
そんなこんなで、プール掃除には丸一日を費やした。
朝、まだ日が低いうちに家を出たというのに、今では太陽は反対側の空へと移り、大地を赤々と照らしている。夏特有の強い熱気も、夕暮れと共に少しだけ和らぎ始めていた。
学校を出た私は、隣を歩く同級生へと恨みがましい視線を向ける。
「はぁ……貴方は良いわね。家が学校の徒歩圏内?」
心底羨ましい、という気持ちを隠す気もなく続ける。
「私なんて片道五十分は掛かるんじゃい!」
朝早く起きなければならないし、帰宅時間も遅くなる。
夏休みの部活など、もはや苦行に近い。
対する彼は、どこか誇らしげに胸を張った。
「いいでしょ。俺が学校選びで重視したのは家との距離だからな。」
「でしょうね、貴方の性格的に。」
面倒事は極力避けたい。
楽ができるなら全力で楽をする。
その判断基準はある意味、一貫している。
駅前に着くと、私は改札へと続く階段へ視線を向けた。
「あっ、私は電車だからここでさよならね! それじゃ!」
いつもより少しだけ足取りが軽い気がする。
いや、気のせいではないかもしれない。
「なんか、嬉しそうじゃない?」
後ろから飛んできた言葉に、思わず足が止まる。
「……は?」
振り返ると、彼はどこか面白そうな顔をしていた。
「いや、いつもより機嫌良さそうだなって。」
「気のせいじゃない?」
「そうかなぁ?」
じっと見られる。
……鋭い。
普段は鈍いくせに、どうしてこういう時だけ妙に勘が良いのだろうか。
私は小さくため息をついた。
「単純に、やっと帰れるからよ。」
「なるほど?」
「五十分の通学を舐めないことね。」
「それは確かに大変そう。」
納得したように頷く。
……まあ、嘘ではない。
けれど、それだけでもなかった。
今日。
家に帰れば、父さんが帰ってくる。
数週間単位で家を空けることも珍しくない父だが、今回は珍しく「今日は帰る」と連絡があった。
だから、少しだけ。
本当に少しだけ、帰るのが楽しみだった。
「じゃあ、本当に行くわよ。」
「おう。また明日!」
「ええ。また明日。」
軽く手を振り、私は駅へと向かう。
背後から聞こえていた足音が遠ざかっていく。
改札を抜け、ホームへ向かう途中で、ふと空を見上げた。
夕焼けに染まった空。
三十年前、厄龍を討伐した六英雄。
その一人である父。
そして、今もなお秘匿され続ける数々の真実。
そんな大層なものとは関係なく。
今の私は、ただ家族に会えることを少し嬉しく思う、どこにでもいる女子高生だった。
「……早く帰ろ。」
誰に言うでもなく呟いて、到着した電車へと乗り込んだ。
ガタンゴトン、ガタンゴトン――。
一定のリズムを刻む電車の揺れに身を任せながら、私は窓の外をぼんやりと眺めていた。
夕焼けに染まっていた空は、いつの間にか藍色へと変わり始めている。
数十分後、聞き慣れた駅名を告げるアナウンスと共に電車は減速し、やがて静かに停車した。
「……着いた。」
重い身体を引きずるように立ち上がる。
丸一日のプール掃除の疲労が、今になって全身へとのしかかっていた。
人の流れに乗ってホームへ降り、改札へ向かう。
ピッ。
SUICAをタッチし、駅を出る。
駅前は帰宅する人々で賑わっていたが、昼間ほどの活気はない。
「今日は、迎えがない……。」
普段なら、家の者が迎えに、あるい稀に父か母が来ることもある。
だが今日は違った。
私は深々とため息を吐く。
「徒歩か〜……ダルいなぁ。」
片道五十分の通学。
その上、今日は朝からプール掃除で動きっぱなしだ。
正直、一歩たりとも歩きたくない。
ぶつぶつと文句を言いながらも家へ向かって歩き出した。
夕暮れの住宅街を、重い足取りで歩く。
普段なら何とも思わない道のりも、今日ばかりは妙に長く感じた。
「はぁ……足痛い……。」
誰に聞かせるでもなく愚痴をこぼす。
道端の自販機の明かりが、藍色に沈み始めた空の下でやけに眩しく見えた。
角を曲がると、見慣れた塀と、その向こうに聳える霧崎家の屋敷が見えてくる。
正直、実家が「屋敷」と呼ばれる規模だということに、未だに慣れない自分がいる。
物心ついた頃からずっとこの家で育ったはずなのに、たまに友人の家に遊びに行くと「うちが普通で、あっちが異常なんだな」と思い知らされる。
門をくぐり、玄関へと向かう。
「ただいまー……。」
疲労のせいで、声にあまり元気がない。
引き戸を開けると、廊下の奥から賑やかな声が聞こえてきた。
「あ、澪お姉ちゃんだ!」
真っ先に飛んできたのは麟羽だった。
頭の両側から生えた小さな角が、廊下の灯りを反射してつやりと光る。
「おかえりなさい。プール掃除、お疲れ様でした。」
「……ただいま。麟羽、いい子ね。」
出迎えてくれただけで泣きそうになるくらい疲れている。
靴を脱ぎながら廊下を見ると、リビングの方から凰華の声が響いてきた。
「あ、澪帰ってきたー? ちょっとちょっと、聞いてよこの写真! 今日ナンパされた時の――」
「聞きたくないから帰ってきたばかりの人間に話しかけないで。」
被せ気味に返すと、リビングの奥で笑い声が上がる。
「相変わらず容赦ないなぁ、澪姉ちゃんは。」
そう言ったのは蛟だ。
見れば、上着は真紫、ズボンは黄色…相変わらず色の組み合わせが謎な私服姿でソファに寝転がっている、お前はサツマイモになりたいのか?
「あんたはその服、いい加減見直しなさい。」
「え、これかっこよくない?」
「よくない。」
即答すると、リビングの入り口で凰華が肩を竦めていた。
「私もそう言ってるんだけどねぇ……。」
「凰華ちゃんは分かってない。これは俺の美学なんだって。」
「美学の前に色彩感覚を身につけなさい。」
いつもの調子だ。
疲れた身体に、家族のやり取りが染み込んでいく。
靴を揃えて上がり込みながら、私はふと辺りを見回した。
「……お父さんは?」
その問いに、麟羽が控えめな声で答える。
「まだ帰ってきてないみたいです。」
「そう。」
少しだけ、期待していた分の肩透かしを感じる。
まあ、いつものことだ。
「今日は帰るって言ってたんでしょ?」
凰華の言葉に頷きながら、私はリビングへと足を進めた。
「言ってたわね。でも、あの人の『今日は帰る』はだいたい夜遅くだから。」
「せやな。」
蛟が横からぼそりと同意する。
ソファに崩れ落ちるように座ると、疲労が一気に噴き出してきた。
「はぁ……今日は本当に疲れたわ……。」
「お疲れー。プール掃除、丸一日だったんでしょ?」
「ええ。もう二度とやりたくない。」
天井を見上げながら呟くと、隣に座っていた麟羽がそっと寄り添ってくる。
「頑張りましたね、澪お姉ちゃん。」
その優しさに、思わず頬が緩む。
「……ありがと。」
素直に礼を言うと、麟羽は嬉しそうに微笑んだ。
その様子を見ていた凰華が、にやりと笑う。
「麟羽には素直なのねぇ、澪は。」
「うるさいわね。」
「照れてる照れてる。」
「照れてないわよ。」
軽口を叩き合いながらも、家の中の空気はどこか温かい。
窓の外は、もうすっかり夜の色に染まっていた。
いつもの、何でもない霧崎家の夕方だった。
夕食の支度が整った頃、リビングに漂う匂いに釣られて腹の虫が鳴った。
「あ、お腹すいてる音した。」
麟羽が耳ざとく反応する。
「聞こえてたの……。」
恥ずかしさに顔を逸らしながら、私はソファから重い腰を上げた。
「今日は何?」
「カレーだって。田中さんが腕によりをかけたって言ってたよ。」
凰華がキッチンの方を指差しながら言う。田中さんというのは、霧崎家に長く勤めている家政婦だ。物心ついた頃から、うちの食事はいつも彼女が作っている。
「田中さんのカレー、久しぶりね。」
「永久兄さんが好きだから、たまに気を利かせて作ってくれるんだよね。」
「あの人、今日帰ってこないでしょうに。」
「気持ちの問題じゃない? 誰かの好物を作ると場が和むから、みたいな。」
軽口を叩きながらダイニングへ向かうと、テーブルにはすでに四人分の皿が並べられていた。母の分はない。
「お母さんは?」
「書斎にこもってるよ。大使館の書類が溜まってるみたい。」
麟羽が答える。母は在宅の時でも、食事の時間に降りてこないことが珍しくない。仕事が立て込んでいる時は特に、部屋にこもって書類と向き合っている。
「……そう。」
「いただきます。」
各々がバラバラのタイミングで手を合わせ、食事が始まった。
「そういえば、お父さんまだ?」
「まだみたい。」
「……そう。」
いつものことだ。分かっていたはずなのに、少しだけ胸の奥がちくりとする。
「まあ、あの人の『今日は帰る』は当てにならないもんね。」
凰華がスプーンを咥えながら肩を竦める。
「せやな。俺も前に楽しみにしてて、結局日付変わってから帰ってきたの覚えてるわ。」
蛟がぼやくように言うと、麟羽が控えめに口を挟んだ。
「でも、ちゃんと帰ってきてくれますよ、いつも。」
その言葉に、少しだけ救われる。
「……そうね。」
カレーを口に運びながら、私は窓の外に視線を向けた。すっかり暗くなった空に、ぽつぽつと星が瞬き始めている。
食事が進むにつれ、いつも通りの他愛のない話題――凰華のナンパ話、蛟の学校での失敗談、麟羽が育てている花壇の話――が飛び交う。
そのやり取りに相槌を打ちながらも、私はどこか上の空だった。父の帰りを、また少しだけ気にしてしまっている自分がいる。
それは別に、特別なことじゃない。娘が父の帰りを待つ。それだけの、どこにでもある感情のはずだった。
けれど。
――あの人が本当に「六英雄」なのだということを、私はいつも、こういう瞬間にだけふと思い出す。
半分ほど食べ進めた頃、玄関の方から物音がした。
「……ん?」
麟羽の角が、ぴくりと動いたように見えた。彼女は気配に敏感だ。
しばらくして、廊下の奥から聞き慣れた声が響いてくる。
「ただいま。悪い、遅くなった。」
「あ、お父さんだ!」
麟羽が真っ先に立ち上がり、廊下へ駆けていく。
「……本当に帰ってきた。」
私は箸を置き、ダイニングの入り口へ視線を向けた。
スーツ姿のまま、少し疲れた顔をした父――応河が、麟羽の頭を撫でながらこちらへ歩いてくる。
「ただいま、みんな。腹が減って死にそうだ。」
「おかえりなさい、お父さん。」
「おー、澪。プール掃除お疲れさん。」
「……なんで知ってるの。」
「そりゃ知ってるさ、娘のことだからな。」
父はそう言って、涼しい顔で笑った。
その笑い方に、少しだけ毒気を抜かれる。
「田中さんがカレー作ってくれてるわよ。永久兄さんの好物だからって。」
凰華の言葉に、父は嬉しそうに目を細めた。
「そうか。あいつも今頃、寮の飯食ってるんだろうな。」
その声には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
父が席に着こうとしたところで、階段を降りる足音が聞こえた。
「……あら。」
振り返ると、書斎から降りてきた母――雨辰が、腕を組んでこちらを見ていた。
「帰ったの。」
「おう、ただいま。」
母はそれだけ言うと、当然のようにダイニングへ入ってきて、自分の椅子に腰を下ろす。
「お母さんも食べるの?」
「小腹が空いた。」
短い返事だったが、その口ぶりに、私は思わず苦笑した。
――絶対それだけじゃない。
父が帰ってきた気配を感じて、書類そっちのけで降りてきたくせに。
「田中さん、カレーもう一杯分あったかしら。」
凰華がキッチンの方へ声をかけると、程なくして湯気の立つ皿がもう一つ運ばれてくる。
「……ん。」
母はスプーンを手に取りながら、隣に座った父を一瞥した。
「遅い。」
「悪い悪い。会議が長引いた。」
「知ってる。」
「知ってるんかい。」
父が苦笑する。母はそれ以上何も言わず、黙々とカレーを口に運び始めた。
会話らしい会話はない。それでも、二人の間に流れる空気は、どこか穏やかだった。
「相変わらずね、二人とも。」
凰華が呆れたように呟く。
「言葉少なくても分かり合えるって、逆にすごいよな。」
蛟がスプーンを咥えたまま言うと、麟羽がにこにこと二人を見つめていた。
「お父さんとお母さん、仲良しですね。」
「……別に。」
母がぼそりと返すが、耳が少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
父はそんな母の様子を見て、小さく笑うだけで何も言わない。相変わらず、余計な茶々を入れない人だ。
食卓には、いつもの他愛のない話題が戻ってくる。
父が今日あった仕事の愚痴を零せば、母がひとことで切り返す。凰華がそれを茶化し、蛟が便乗し、麟羽が時々くすくすと笑う。
私はその輪の中で、ただ静かにスプーンを動かしていた。
――こういう時間が、好きだ。
六英雄とか、面影とか、そんな大それたものは関係ない。
ただの、霧崎家の夕食。
窓の外はすっかり夜に染まっていたが、この部屋の中だけは、いつも通りの温かさで満ちていた。
食事を終え、風呂を済ませ、自室のベッドに倒れ込む頃には、時刻はすでに夜の十時を回っていた。
「……疲れた。」
天井を見上げながら呟く。明日も部活がある。早く寝なければ、と分かっているのに、なぜか眠気がやってこない。
スマホを手に取り、何とはなしに画面を眺める。ニュースアプリの通知が、目に留まった。
――『茨城県沿岸部、原因不明の地盤沈下。周辺住民に避難勧告』
見慣れない見出しだった。指先で記事を開く。
『17日未明、茨城県沿岸部の一帯で大規模な地盤沈下が確認された。現時点で被害者は報告されていないが、周辺住民には避難勧告が出されている。専門家は自然現象による地質変化の可能性を指摘しているが、原因の特定には至っていない』
「地質変化、ね……。」
記事を読みながら、ふと違和感を覚える。
添えられた写真には、崩れた道路の隙間から、うっすらと赤黒い光が漏れているように見えた。
「……気のせいよね。」
画像を拡大しようとするが、粗すぎてよく分からない。単なる圧縮ノイズかもしれない。
それでも、何かが引っかかった。
――爪痕、と似てる。
そこまで考えて、私は小さく頭を振った。
考えすぎだ。爪痕なら、とっくに国の管理下で騒ぎになっているはず。こんな一般ニュースとして、こんなに軽く扱われるわけがない。
「……まあ、いいか。」
スマホを枕元に置き、私は目を閉じる。
明日も早い。今日はもう、余計なことを考えずに眠ってしまおう。
そう思いながらも、瞼の裏には、あの赤黒い光の残像がしばらく消えなかった。
窓の外では、いつも通りの静かな夜が更けていく。