五つ子との顔合わせを済ませ、朝のSHRを終えた黒瀬は一限目の授業の準備をしていた。そんな黒瀬のもとに、上杉が授業の準備そっちのけで慌てて駆け寄って来た。
「黒瀬! 今朝俺が出した問題を覚えてるか?!」
「え? えっと、確か……厳島の戦いで~ってやつ?」
「そうだ! そして次にこれを見てみろ!」
上杉はそう言って、手に持っていたノートのページを開くと、黒瀬へ突きつけるようにして見せてきた。そのページには一昨日行ったテストの正誤が表に分かりやすくまとめられていた。
「……凄いね、これ。凄く分かりやすい」
「今はそんなことどうでもいい。問一の欄を見てみろ」
上杉は黒瀬の賞賛をバッサリ切り捨てると、表の一点をビッと指差した。
黒瀬は「相変わらずだなぁ」と苦笑いを浮かべると、促されるままそこに視線を向けた。
「えっと……あれ?」
「気付いたか」
「うん……合ってるね」
問一の列、『✕』が並ぶ中に1つだけ──三玖の欄にだけ『〇』が記されていた。
つまり三玖は今朝、敢えて分からないふりをしたということになる。
「アイツが一番何考えてんのか分からん……」
「あはは……まあ、確かに、表情は分かりにくかったかも」
頭を抱える上杉を横目に、黒瀬は今朝の記憶を呼び起こしていた。
姉妹の中で一番暗い色合いの長髪に、青色のヘッドホンを首に掛けた、落ち着いた雰囲気の女子生徒──黒瀬の三玖に対する印象は、そんな感じであった。
「これは問い詰める必要があるな」
「……程々にね?」
慣れていないからか不気味な笑みを浮かべる上杉に、黒瀬は「大丈夫かな……?」と内心不安を覚えるのだった。
◆◇◆◇◆
「あ、中野さん、お疲れ様」
「……おつかれ」
放課後、多くの生徒が下校し終え、少しだけ遅い時間帯の下駄箱で、黒瀬は三玖と遭遇した。
今朝顔合わせを済ませたばかりだったが、挨拶しないのもなんとなく居心地が悪かったため、黒瀬から声を掛けたのだ。
「独り? 他の中野さん達は?」
「一花と二乃は友達と帰るって……四葉は部活の助っ人、五月はたぶん先帰った」
「そうなんだ。みんな仲良さそうだから、てっきりいつも一緒なのかと」
「そんなことないよ。みんなそれぞれの都合がある」
「うん、まあ、それもそっか」
短くそう返して黒瀬は自身の下駄箱を開けた。
二人しかいない静かな下駄箱、部活動に精を出す生徒の掛け声や吹奏楽部の演奏が聞こえてくる──そんな静寂。
お互いに騒がしくない質であったためか、そこに気まずさは無かった。
「あっ、そういえば……」
「ん?」
ちょうど下駄箱から自身の靴を取り出した黒瀬が、何かを思い出したかのように口を開いた。
「上杉くん悔しがってたよ。三玖に負けた~って」
「……そう」
黒瀬は下駄箱に来る前に一度図書室を訪れ、必死に歴史書をかき集める上杉と軽く言葉を交わしていた。その時のことを話題に出せば、三玖は少し顔を逸らして簡素な返事を口にする。
靴を履き替えることに気を取られていた黒瀬は三玖の変化には気付かず、言葉を続けた。
「あんなに悔しがってる上杉くん見るの久しぶりだったから、最初見た時びっくりしたよ。中野さんは歴史、好きなの?」
「…………うん、まあ……」
「そっか。僕でも上杉くんに勉強で勝てたことないのに──凄いね、中野さん」
「え……?」
三玖はパッと顔を上げ、少し目を見開いたまま黒瀬を見た。
その視線に気づいた黒瀬は、三玖と目を合わせて不思議そうに首を傾げた。
「どうかした?」
「……かないの?」
「え?」
「引かないの? 私が歴史好きって聞いて」
「え? なんで?」
三玖の疑問に、黒瀬は本当に不思議そうに首を傾げた。
「好きなことで、それも上杉くんに勉強で勝つって、結構凄いことだと思うけど……」
「…………」
自分の好きなものを真正面から賞賛された気恥しさに、三玖は少し俯いて黒瀬から視線を外し、胸の奥から湧き出てくる微かな温かさをゆっくりと噛み締めた。
「あ、ご、ごめんっ。これ、もしかして秘密だった? そうとは知らず無神経なことを……」
「いや……大丈夫。私も口止めするの忘れてたし、気にしてない」
「そう……? ほんとにごめん……」
「だからいいって」
なおも申し訳なさそうに頭を下げる黒瀬に、三玖はキッパリ言い放った。
「それより、聞きたいことがあるんだけど」
「え、うん。僕に答えられることなら」
「あなたは……私たちに勉強しろって言わないの?」
上杉の友人であり、勉強会にも参加予定らしい黒瀬。聞くところによると頭も良いらしく、勉強会に参加する理由と言ったら上杉の協力者と見るのが妥当だろう。
てっきり上杉と一緒になって説得しに来ると踏んでいた三玖は、食堂で独りで話し掛けに来た上杉を見た時から疑問に思っていた。
そのことについて問い掛ければ、黒瀬は何とも言えない曖昧な表情を浮かべた。
「え~っと……言った方がいい?」
「嫌」
「ははっ、だよね……」
黒瀬は曖昧な笑みを漏らし、続ける。
「僕は上杉くんと違って、お金で雇われてるわけじゃないからね。あくまで手伝いってだけだし、それに……」
そう一度言葉を切ってから、黒瀬は頬を軽くかいて、はにかんだ。
「僕は中野さん達が勉強しなくても特に何も困らないしね」
「……たしかに」
それはそうだ、と三玖は小さく呟いた。
「中野さん達のやる気をゼロからイチにするのが上杉くんの仕事。僕はやる気のある人にちょっと手を貸してあげるくらいしかできないよ」
黒瀬はあくまで、五つ子の友人という立場から勉強の手助けをするだけ。そこに義務や責任といった堅苦しいものは存在せず、在るのはただ一人の友人としての親切心だけであった。
「そんな感じだから、三玖さんも勉強がしたくなったら、いつでも勉強会に参加してね」
「……説得はしないんじゃなかったの?」
「うん、まあ……これは友人としてのアドバイスってことで。ほら、上杉くんって結構頑固で諦め悪いし、根負けした時のために……ね?」
苦笑いを浮かべる黒瀬を見て、三玖も「たしかに」と小さく笑みをこぼした。
それから二人は、なんとなくの流れで共に帰路についた。別れるタイミングを逃したとも言う。
黒瀬が話題を振り、三玖がそれに応える。会話のテンポはゆっくりで、過度に踏み込まない。それでいて長く途切れることのない場繋ぎのような会話。
似ているようで、似ていない二人。
黒瀬のこの付かず離れずな距離感が、三玖にとっては心地の良いものだった。
そうして、二人が分かれ道に差し掛かった時──。
「じゃあ、またね、中野さん。僕は
「え……?」
黒瀬が何気なく放ったひと言に、三玖は目を丸くして固まった。
そしてしばらく無言で見つめ合った後、その沈黙に耐え切れなくなったのか、黒瀬が恥ずかしそうに頬をかいた。
「あ、あれ? 違ったかな……?
「っ、ううん! し、知ってる!」
はにかみながら言う黒瀬に、三玖がハッとして声を上げた。
ずいっと距離を詰める三玖に一瞬目を丸くする黒瀬だったが、すぐに柔らかそうな笑みを浮かべてほっと胸を撫で下ろした。
「よ、よかった……物知り顔で間違ったこと言っちゃったのかと……」
「あっ、ご、ごめん……いきなりだったから、驚いて……」
三玖はそう言って、咄嗟に近づいた分、黒瀬から少しだけ距離を取った。しかしその距離は、最初と比べて明らかに近くなっていた。
「……詳しいの?」
「え?」
「そういう逸話、とか」
「あぁ、まあ……普通の人よりは詳しい、かな?」
曖昧な返しをする黒瀬だったが、すぐに何かを懐かしむかのように語り始めた。
「小学生の頃、父さんに連れられて歴史博物館に行ったことがあるんだ。その時、ガイド(?)の人が色んな逸話を聞かせてくれて……当時の僕は結構単純だったから『これ学校のみんなに自慢できるんじゃないか』って──そこから色々調べ始めたんだ」
「……なんか意外」
「あ、あはは……まあ、きっかけは『目立ちたい』っていう邪な感情からだったけど、調べてみたら結構面白くて、一時期凄いハマっちゃってね。だから、そういうのは結構詳しいかも」
黒瀬のその発言に、三玖はピクリと反応を示した。
「それって……私より詳しいってこと?」
「ん~……まあ、負けたくはないかな」
ギランっと目を光らせる三玖に、黒瀬は曖昧な笑みで返した。
そして先ほど離した距離を、三玖は再度ずいっと縮めた。
「じゃあ問題ね。茶会で
「えっと……『大谷吉継の鼻水が入ってしまったお茶を、気にせず一気に飲み干した』だよね?」
「っ……正解……」
自慢の知識を易々と答えられた三玖は、少しだけ拗ねたように頬を膨らませた。
「ふふっ、じゃあお返しに──問題です」
「え……?」
「え? あ、あれ? 違った?」
「う、ううん……! 違わない!」
黒瀬からの出題は予想していなかった三玖は一瞬驚いた表情を浮かべるが、すぐに声を上げて黒瀬に先を促した。
三玖は少し顔を俯かせ、黒瀬から半歩ほど、僅かだが距離を取った。
──内からこみ上げてくる嬉しさによって、ニヨニヨと歪む口元を隠すように。
「じゃあ改めて、問題です」
「う、うん……!」
「
「『伝書鳩』ならぬ『伝書犬』として運用するため……!」
「うん、正解」
「ちなみにそれ、実際に成功したっていう逸話があって……」
「あぁ……確か、留守中に
「そう……! 書状の入った竹筒を犬の首に結び付けて放して、28キロ離れた資正に救援を要請したっていう……!」
「うん、凄いよね。犬の『帰巣本能』ってやつだっけ?」
「そう。二つのお城で50匹ずつ飼って、お互いに行き来させて覚えさせたっていう逸話が──」
──────。
───。
「犬好きで有名な武将は他にもいて──」
「僕が知ってるのは──」
──────。
───。
「──って逸話があるんだけど、知ってる?」
「うん、もちろん。確か──」
──────。
───。
どのくらい時間が過ぎただろうか。
二人は途中、立ち話に疲れたため近くの公園のベンチに腰掛け、時間が過ぎるのも忘れて己が知見を語り合った。
日が沈むのがまだまだ遅い9月の初めにも関わらず、既に太陽は半分ほど沈んでしまっていた。
「それで、──あっ」
「? どうかした?」
何かに気付いた三玖がポケットからスマホを取り出すと、画面には『二乃』という文字が表示され、着信を報せるバイブレーションが鳴り響いていた。
三玖は黒瀬にひと言断りを入れると、画面をタップして通話を繋げた。
「もしも──」
『──アンタ一体何時だと思ってるの!? 五月が空腹で死にそうになってるから、さっさと帰って来なさい!!』
「……わかった」
スピーカーでないにも関わらず、通話越しの二乃の罵声は隣に座る黒瀬の耳にも届いていた。
通話を切った三玖はスマホをしまい立ち上がると、ベンチに置いていた自身のリュックを背負い、黒瀬の方へ向き直った。
「早く帰らないと、五月が本当に死んじゃいそう」
「あはは……まあ確かに、もうすぐ暗くなりそうだしね。送ろうか?」
「いい。すぐそこだし」
そう言って少し駆け足気味に歩き出す三玖だったが、少し進んだ所で一度足を止めて振り返り、軽く手を振った。
「じゃあね、
「うん、また明日」
その時の三玖の笑顔は、夕陽に照らされた影響かほんのりと赤く染まり、ひどく幻想的で美しく見えたのだった。
踵を返してタッタッタッと軽い足取りで駆けていく三玖の後ろ姿を、黒瀬はしばらくじっと見つめていた。
「(……うん。少しは仲良くなれたかな)」
黒瀬は心の中でそう呟くと、カバンを肩に担ぎ帰路につくのだった。
◆◇◆◇◆
翌日の放課後──。
黒瀬は上杉に呼ばれる形で、図書室で行われる勉強会に参加していた。
「だから何回言ったら分かるんだ……ライスは“L”じゃなくて“R”! お前はシラミ食うのか!」
「あわわわわ」
「あはは……やっぱり、暗記系が特に苦手なんだね」
机に向かう四葉の後ろから、上杉がノートに腕を伸ばす。対面に座る黒瀬は苦笑しながら、その光景を眺めていた。
そして、上杉が四葉の顔を見て、あることに気が付いた。
「四葉、お前……なんで怒られてんのにニコニコしてんだ?」
「えへへ……家庭教師の日でもないのに上杉さん達が宿題を見てくれるのが嬉しくって」
上杉が問えば、四葉は更に嬉しそうに笑みを浮かべた。その笑顔は心の底からそう思っているのが伝わってくるほど、純粋で眩しい笑顔だった。
その笑顔に黒瀬は僅かに目を細め、上杉は大きくため息をついた。
「残りの四人もお前くらい物分かりがいいと助かるんだが……」
「声は掛けたんですけどね……」
「──あっ、でも、残り四人じゃなくて三人ですよ!」
四葉が図書室の入口の方を見て声を上げた。それに釣られる形で上杉と黒瀬も入口の方へ視線を向け、揃って目を見開いた。
「──ね? 三玖!」
そこには、恥ずかしそうに視線を逸らす三玖が立っていた。
「おお! 来てくれた……の、か?」
三玖の方へ歩み寄る上杉だったが、三玖はその脇をすり抜けるようにして上杉の背後──黒瀬の方へと歩いて行った。
そして黒瀬の前で立ち止まると薄く笑みを浮かべた。
「……ユーマの言った通りだった」
「? あぁ……ははっ、根負けしたんだね」
黒瀬の言った通り、上杉は諦めの悪い頑固者だった。
三玖が思い返すのは昼休みの追いかけっこの後、上杉に言われた言葉。
──『一人ができることは全員できる。全員が100点の潜在能力を持っていると、俺は信じてる』
上杉の体当たり的説得に、三玖は少しだけ自分に期待してしまったのだ。
「フータローのせいで考えちゃった。ほんのちょっとだけ、私にも……できるんじゃないかって。だから……」
三玖はそこで一度言葉を切り、くるっとその場で振り返ると、上杉へ優しく微笑み掛けた。
「──責任、取ってよね」
「任せろ」
三玖の言葉に、上杉はドンっと拳を胸に打ち付けることで応えた。
そんな二人のやり取りを見て、頭の上のリボンをピコーンと反応させた四葉が三玖に近づこうとした──が、一歩目を踏み出した時点でピタリと動きを止めた。
「……というわけで、ユーマもよろしく。
「うん、よろしく。僕でよければいつでも付き合うよ」
四葉の視線の先にはいつの間に仲良くなったのか、楽しく笑い合う三玖と黒瀬の姿があった。そして、四葉の頭脳がかつてないほどの速度で回り始める。
──『
──二人が初めて顔を合わせたのは昨日の朝。
──昨日一人だけ不自然に帰りが遅かった三玖。
──遅くなった理由を尋ねれば「友達と話してただけ」と少し嬉しそうに答えた三玖の姿。
再度、四葉の頭の上のリボンがピコーンと反応した。
「み、三玖、もしかして……」
未だ黒瀬と談笑している三玖に近づき、四葉は細心の注意を払って耳打ちした。
「この前隠してた三玖の好きな人って、黒瀬さんじゃ……?」
その言葉を聞いて、三玖はほんの一瞬だけ目を見開くが、すぐに瞼を閉じ優しい笑みを浮かべた。
「ないしょ」
「え、えええぇぇぇ!?」
答えてくれなかったことに対する抗議か、はたまた単なる驚きか、四葉は三玖の返答に声を上げた。
そんな二人のやり取りに、首を傾げる黒瀬を遠目に見ながら、上杉は今日の昼休みのことを静かに思い返していた。
上杉が、全員に100点の潜在能力がある、と宣言した直後──。
「なにそれ、屁理屈」
「ぅぐっ……」
「……本当に、五つ子を過信しすぎ」
そっぽを向いてバッサリと切り捨てた三玖に、上杉が恥ずかしそうに声を漏らす。しかし逸らされた三玖の表情は、心の底からそうは思っていないようであった。
そして『抹茶ソーダ』の缶を一口呷った三玖は、一度小さく息をついてからゆっくりと口を開いた。
「……ねえ、フータロー」
「ん?」
「……ユーマは勉強会、毎回参加するの?」
「黒瀬か? いや、さすがに毎回は無理だろ。アイツもアイツで予定とかもあるだろうし、無理やり付き合わせるわけにもいかんからな」
「……そう……」
何故そんなことを聞くのか疑問に思う上杉だったが、特段隠すようなことでもないので、分かる範囲で答えてやることにした。
「まあ、アイツのことだ。なんだかんだ暇を見つけて、できる限り参加してくれると思うけどな」
「うん……そっか……そう、だよね……」
俯きがちにそう言った三玖の表情は、上杉からはハッキリとは見えなかったが、垂れ下がった髪の隙間から覗くその口元は、薄く笑みを浮かべているように見えた。
そして現在に至る──。
上杉は黒瀬と三玖、四葉が楽しく談笑する様子を少し離れた場所から静かに眺めていた。
「(黒瀬の奴、いつの間に三玖と仲良くなったんだ……?)」
腕を組んで頭を捻る上杉だったが、すぐに何かに気付いたようにハッと顔を上げた。
「(僅か一日足らずで三玖との距離を縮めたってことか……! やはり、アイツに手伝いを頼んだのは間違いじゃなかった……!)」
自分の選択の正しさを再確認した上杉は、謀が上手くいった悪代官のようなあくどい笑みを浮かべた。
「……なにあれ」
「わわわっ、ただでさえ悪人顔の上杉さんの顔が、更に恐ろしくなってますよ!」
「うん……まさに『計画通り』って感じの顔だね……」
凶悪顔で「フッフッフッ……」と不気味な笑い声を漏らす上杉に、三人は何とも言えない表情を浮かべるのだった。
※逸話は諸説あり。