足を怪我した三玖をおぶって人通りの多い通りから脇道に逸れた後、黒瀬は近くの階段に三玖を座らせ簡単な応急処置を行っていた。
「よし、と……一応簡単にはできたけど、大丈夫そう?」
「うん……ありがとう」
階段に座る三玖の前で片膝をついたまま問い掛ける黒瀬に、三玖は少し気恥ずかしそうにしながらお礼を言った。
そして黒瀬が立ち上がった瞬間、彼のポケットのスマホが震えた。
「はい。もしもし、らいはちゃん?」
『あっ、よかった、やっと繋がった……悠真さん、今どこにいますか?』
「今? ん~……特に目印になるようなものは見えないや……ごめんね? らいはちゃんは今どこにいるか分かる? 独り?」
『あっ、私は四葉さんと一緒に時計台の辺りにいます。四葉さんが連絡してくれて、二乃さんとお兄ちゃんには場所が伝わってます』
「そっか、よかった。たぶん、上杉くんが迎えに来るだろうから……って、切れちゃった」
人混みのせいか、話し終わる前に通話が切れてしまった。しかし、らいはの無事は最低限確認できたため、黒瀬の表情は少しだけ軽くなっていた。
スマホをポケットに仕舞ったタイミングで、三玖から声が掛かった。
「らいはちゃん、なんて?」
「うん、
「…………(また、四葉の名前……)」
黒瀬の『四葉さん』という呼称に、三玖がまたピクリと反応した。
ただじっと目の前の彼を見つめ続ける三玖に、黒瀬は徐々に居心地の悪さを感じていった。
「え、っと……
「名前……」
「え?」
「なんで四葉だけ……名前呼び?」
恐る恐るといった様子で黒瀬が声を掛ければ、三玖は先ほどから感じていた疑問をポツリと声に漏らした。
ポカンとした表情を浮かべる黒瀬だったが、すぐに得心がいった様子で口を開いた。
「あぁ……うん、四葉さんから名前で呼ぶように言われてね。勉強会の時とか、ちょっとややこしかったみたい」
苦笑いが混じったような優しい笑みを浮かべる黒瀬に対し、三玖の表情は晴れるどころか、内心の不満を表すように頬をぷくっと小さく膨らませていた。
「(ユーマと私は友達……少なくとも私はそう思っているし、ユーマもそう思ってくれている……はず……)」
三玖にとって黒瀬は、好きなものについて気兼ねなく語り合える初めての友人だ。その黒瀬が、自分より先に四葉のことを名前で呼ぶようになっていたことに対する嫉妬心。それが、池の底に舞う泥のようにモヤモヤと広がっていく。
「
反応がない三玖を心配した黒瀬が、優しく声を掛ける。新たな
「(……別に、名前で呼んでもらうように言うなんて、普通……四葉も言ってたんだし……)」
そこまで考えて、三玖はゆっくり口を開いた。しかし……。
「っ、……っ」
小首を傾げる黒瀬を見て、直前でその言葉を呑み込んだ。
四葉は勉強会の時にややこしかったという理由から、黒瀬に名前で呼んでもらうよう頼んだ。それに対し自分は、ただ自分も名前で呼んでほしいからという、合理性の欠片もない理由……それに気が付いた時、途端に口に出すのがとても恥ずかしくなってしまった。それに……。
「中野さん? どうかした?」
膝に手をつき、中腰でこちらを心配そうに見つめてくる黒瀬を見て、どうしても考えてしまう。
──もし、断られたら……と。
「わ…………あ、アレ……五月、じゃない?」
「え?」
黒瀬の視線から逃れるように、三玖はたまたま視界の端に映った五月を指差しながら言った。
「あっ、ほんとだ……中野さん、ちょっと待っててくれる? 僕が連れてくるよ」
「う、うん……」
振り返って五月の姿を見つけた黒瀬は、そう言って五月を追って人混みの中へと入って行った。
遠ざかっていく黒瀬の後ろ姿を、三玖はただ静かに見送った。
「別に普通……のはずなのに……」
──上手く言葉にできない感情に、戸惑いながら。
◆◇◆◇◆
三玖と別れた後、黒瀬は五月のもとへ駆け付け、声を掛けた。
「中野さん!」
「あっ、黒瀬くん! よかった、危うく迷子になる所でした……」
「そ、そっか……見つかってよかったよ……(迷子にはなってたんじゃないかな……?)」
瞳に薄っすらと涙を滲ませながら辺りをキョロキョロと見回す五月の様子は、どこからどう見ても迷子のソレであったが、黒瀬は寸での所でその言葉を呑み込んだ。
「先ほどまで上杉くんもいたんですが、いつの間にかはぐれてしまって……」
「そっか……ひとまず、三玖さんと合流しよう。向こうの方で待っててもらってるんだ」
「ほ、ほんとですか!? あぁ、助かりました……一時はどうなることかと……」
五月がほっと息をついたタイミングで、彼女のお腹が『ぐぅ~』と可愛らしい音を鳴らした。直後、五月はバッと弾かれたようにお腹を抱え、その顔をカーッと真っ赤に染めていった。
「えと……あの、これは……安心して……その……」
恥ずかしさからか冷や汗を垂らし、視線を彷徨わせる五月。そんな彼女を見て、黒瀬は一度小さく笑みを浮かべてから口を開いた。
「ついでに何か買って行こっか。三玖さんへの差し入れにもなるし、正直、僕もお腹減ってたんだよね」
そう言って、はにかむように笑う黒瀬に、五月はきょとんと目を丸くした。そしてすぐに瞳をキラキラと輝かせて、嬉しそうに「はいっ!」と声を上げた。
「中野さんは何か食べたいものとかある?」
「そうですね……やはり、まずはたこ焼きでしょうか。あとはお好み焼き、ポテト、焼き鳥……あっ、焼きとうもろこしもありますよ!」
「う、うん……一応、今みんなとはぐれてる段階だから、できれば一、二品とかにしとこっか……?」
「わ、分かっています! い、今はただ、こ、候補を挙げていただけなので……っ」
明らかに食べたいのを我慢している様子で、五月は「うぬぬ……」と頭を悩ませる。それを見た黒瀬は一度苦笑を漏らした後、改めて声を掛けた。
「とりあえず、空いてる屋台をいくつか回ろうか。急がないと、花火が終わっちゃう」
「っ、確かに……それもそうですね」
幸い、花火の影響もあってか屋台に並ぶ人は少なかった。歩調を僅かに緩めて先導する黒瀬の後を、五月は並ぶ屋台を見回しながら付いて行く。
「中野さんって苦手な食べ物とかある?」
「私ですか? 私は梅干しが少し苦手ですね」
「へぇ~。酸っぱいものが苦手、とはまた違うの?」
「そうですね。レモンなどは大丈夫なんですが、酸味と塩味の組み合わせがどうも苦手で……」
「あぁ……確かに、梅干し特有の酸っぱさみたいなのがあるよね……」
「そう言う黒瀬くんの苦手な食べ物は────」
「ああ、うん。僕は────」
気まずい沈黙を埋めるかのような世間話……しかしながら、黒瀬は純粋に、五月との仲を深めてみたいと思って始めた会話だった。
黒瀬が昨日の勉強会で感じた五月の印象は、唯一無二の親友である上杉と似ている、というものだった。
──初めて会った時からずっと、変わらない接し方をしてくれている親友と同じ。
だから、黒瀬は少なからず彼女に希望にも似た期待を抱いていた。彼女とも、かけがえのない友人関係を築けるのではないかという淡い期待を。
そうして、二人は適度に会話を交わしながらいくつかの屋台を回った。
「──よし。中野さん、そろそろ戻ろっか」
「そうですね。まだ少し物足りませんが、時間も時間ですしね」
「(ま、まだ足りないんだ……)」
両手にそれぞれ二つずつぶら下がるビニール袋を視界に収めながらも、黒瀬はギリギリのところでその言葉を呑み込んだ。
そして二人は、黒瀬が先導する形で三玖のもとへと歩き出した。
「少しだけ急ごう、中野さん。荷物重かったら言って。いつでも持つから」
「ええ、ありがとうございます。ですが、このくらいなら私一人で大丈夫です。それと、一つ、いいですか?」
「え、うん。どうしたの?」
黒瀬が歩きながら後ろを振り向くと、真っ直ぐこちらを見ていた五月と目が合った。
「これからは、是非私のことも『五月』と名前で呼んでください」
今それを言われるとは思わなかった黒瀬は、僅かに目を見開いてゆっくりと足を止めた。そして、同じく足を止めた五月はゆっくりと言葉を続ける。
「私はあなたのことを一人の友人だと思っています。それに、私たちは五つ子で、全員同じ『中野』という名字を持っています。ですので、黒瀬くんさえよければ、私も四葉と同じように、これからは名前で呼んでください」
その言葉を聞いて、黒瀬の脳裏に四葉とのやり取りが過った。
──『私たちは五つ子で、全員同じ『中野』です!』
──『なので、これからは、私のことは名前で呼んでください!!』
言い回しなどは多少異なるものの、記憶の中の四葉と同じような言葉。髪型や表情、テンションの差はあれど、流石姉妹と言わざるを得ないそれに、黒瀬は小さく笑みをこぼした。
「ふふっ……うん、分かった。改めてよろしく、五月さん」
ならばこちらもと、黒瀬は四葉と同じような言葉で返した。
「ええ。こちらこそ、よろしくお願いします。黒瀬くん」
そう言って軽く頭を下げた五月の笑顔は、屋台の灯りと花火の光によって綺麗に照らされていた。
それから二人は、改めて三玖のもとへと向かい、辿り着いた時……。
──すでに、そこに三玖の姿はなかった。
◆◇◆◇◆
時間は少し巻き戻り──。
五月と黒瀬が屋台を回っている頃、三玖は階段近くのビルのガラス前で静かに立ち尽くしていた。
瞳を伏せた三玖の脳裏に浮かぶのは、黒瀬との別れ際のやり取りだった。
名前で呼んでほしい──ただそのひと言が、口に出せなかった。
あの時──五月を視界の隅に捉えて咄嗟に話題を逸らした時、確かにほっとした。しかし、それは時間が経つにつれ……いや、黒瀬の背中が遠ざかっていくのを見た瞬間、大きな後悔へと変わった。
「(どうして、言えなかったんだろう……)」
その後悔が、頭の中を隅から隅まで満たし、自己嫌悪という形を成していく。
黒瀬のことは大切な友達だと思っている──これは、紛れもない事実……のはずだ。
人見知りの自分でも、不思議なくらいいっぱい話せる。話していて楽しいし、一緒にいて楽な気持ちになる。だから……もっと一緒にいたいと思える。
「(ユーマは、大切な友達…………異性の……)」
そこでふと、三玖は顔を上げて鏡に映る自分の顔を見た。
──口元が僅かに緩み、頬が僅かに赤く染まっている自身の顔を。
それと同時に、一花の言葉が脳裏を過った。
──『女の子が髪型変えたら、とりあえず褒めなきゃ』
それは髪型を変えた五月に、開口一番「誰だ」と言い放った上杉へ向けた言葉だった。
「(髪型……ユーマは、なんて言うかな……?)」
それは、ただの好奇心に過ぎない感情。しかし、その中に僅かな期待が含まれていたのは言うまでもない。
三玖は付けていたひょっとこお面と愛用のヘッドホンを外し、一枚の青いスカーフで長い髪をひとつに纏めた。
お団子のように括り上げられた後ろ髪で、浴衣から覗く綺麗なうなじが露わになる。
「(褒めて、くれるかな……?)」
ガラス窓を鏡のようにして結び目を確認する三玖は心の中でそうこぼす。しかし、すぐにその不安は跡形もなく姿を消した。
脳裏に浮かぶのは彼の姿──。
──好きなものを否定せず、自分と同じくらい語ってくれた彼の姿。
──明らかに失敗した料理を、「美味しい」と言って食べてくれた彼の姿。
そんな優しい彼が、自分の髪型を見て何と言ってくれるかなど……短い付き合いながらも、なんとなく想像できる気がした。
三玖は胸元に手を当て、胸の奥から伝わってくる温もりを確かめるように、小さく微笑んだ。
「(ユーマからは貰ってばっか……だから、私も……自分から……)」
三玖が密かに決意を固めた──その時。
「一花ちゃん! 見つけた!」
そんな声が、三玖へと向けられた。
◆◇◆◇◆
色とりどりの花火が打ち上がり暗い夜空を鮮やかに彩る中、黒瀬は花火を見上げる人々の背後を走っていた。
三玖と別れたあの場所に彼女の姿が見えなかった時、黒瀬はとてつもない後悔に見舞われた。
三玖が消えた正確な理由は分からない……しかし、もう少し自分が早く着いていれば、もう少し早く屋台での買い物を切り上げていれば、もう少し、もう少し……彼女の話を聞いてあげていれば、と。
黒瀬は別れ際に三玖が何かを言い淀んでいることに気付いていた。しかし、無理に聞き出すものではないと自分を納得させて、無難な選択肢を取った。
──取ることしかできなかった。
それが逆に、彼女を傷つけてしまったのではないか……?
「(早く会って、謝らないと……!)」
そんな後悔にも似た消極的過ぎる思想を抱きながら、黒瀬は三玖を探し回っていた。
実際、これは黒瀬の勝手な思い込みである。しかし、この考えを否定できるだけの自己肯定感を、黒瀬は持ち合わせていなかった。
それは偏に、彼の抱えるトラウマに直結する問題でもあったから。
そして、黒瀬は視界の端に目的の人物の姿を捉えた。
──見知らぬ中年男性に無理やり腕を引かれる、三玖の姿を。