三玖が連れて行かれるのを路地裏から目撃した一花と上杉は、早歩きで二人の後を追いかけていた。
「お前、なんで仕事抜け出してきたんだよ!」
上杉は一花から、三玖の腕を引いている中年の男性は一花の仕事仲間であり、カメラマンだということを聞かされていた。
カメラアシスタントとしての仕事から無断で抜け出してきたことに対する多少の憤りと、路地裏で抱き合っていたことに対する羞恥から、上杉は叱るような口調で声を上げる。
「っ…………言いたくない! どうやらフータローくんとは友達じゃないらしいしっ」
「うっ、そうは言ったが……」
拗ねたように口を噤む一花に、上杉は釈然としないといった視線を向けた。しかし、すぐに冷静になり自分の行いを顧みる。
「(なんでそんなこと聞いてんだ、俺……コイツらが何をしてようが俺には関係ない。関係ないんだ!)」
そう何度も自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、ふと脳内に二つの声が響いた。
──『一花ちゃんとどういう関係?』
今追っている髭のおっさんの声。
──『私に聞かずとも……』
ふと、「俺たちってどういう関係?」と聞いてみた時の……。
──『あなたはその答えを、既に持ってるじゃないですか』
五月の顔と声。
「フータローくん! アレ!」
「っ!」
思考の海に沈んでいた上杉は、一花の呼び掛けによって現実へと引き戻された。そしてそのまま一花の指差す方へ目を向け、驚愕に目を見開いた。
「っ、黒瀬!?」
上杉の目に飛び込んできたのは、いつもの黒縁眼鏡を外し、三玖を抱き抱えて髭のおっさんと言い争いをしている黒瀬の姿だった。
◆◇◆◇◆
時間は少し巻き戻り──。
三玖は一花と間違えられ、見知らぬ中年男性から腕を引かれていた。
「あのっ……私、一花じゃ……っ」
三玖の声は花火の音と周囲の喧騒によってかき消され、前を歩く男性の耳には届かなかった。
抵抗しようにも男性の歩くスピードが速く、足の怪我や浴衣の動き辛さも災いして上手く踏ん張れない。半ば転びそうになりながら無理やり腕を引かれている状態だった。
三玖は足の痛みと上手くいかないもどかしさ、そして単純な恐怖から目頭が熱くなるのを感じた。そして瞼を閉じ、ここにはいない彼の姿を思い浮かべた。
「(ユーマ……)」
「──三玖さんッ!!」
「っ!!」
三玖がハッと目を見開いた瞬間、彼女の身体がグイッと強く引かれ、優しく抱き留められた。
何が起きたのか分からずしばらく呆然とする三玖だったが、ゆっくりと、その
そこには、つい先ほどまで頭に思い浮かべていた彼がいた。
「ゆう、ま……?」
いつもの黒縁眼鏡を外し、重たい印象の前髪をかき上げてはいたが、目の前の彼は正真正銘、黒瀬優真その人だった。
「はぁ、はぁ……もう、大丈夫だよ……三玖さん」
黒瀬は荒い息をつき、汗ばんで紅潮した顔で三玖に優しく笑い掛けた。
三玖は先ほどまで感じていた不安や恐怖が、みるみる内に萎んでいくのを感じた。それと同時に、自身が彼に強く抱き留められていることも徐々に実感していき、三玖の顔は黒瀬とは比にならないほど紅潮していった。
「なんだ君はー!」
呆然と黒瀬の顔を見上げる三玖と、安心させるよう笑顔を絶やさない黒瀬。二人がしばらく見つめ合っていると、先ほどまで三玖の腕を引いていた男性が声を上げた。
その声を聞いた黒瀬がピクリと反応を示し、男性を鋭く睨みつける。
「なんだって……アンタこそ、一体何考えてんだッ!」
それは、三玖が初めて見る黒瀬の激情──普段の物腰柔らかな彼からは想像もできないような感情の発露だった。
三玖は先ほどとは違った意味で呆然と黒瀬の横顔を見つめ続けた。
「この子、足怪我してんだぞ!? それを無理やり引きずり回すような真似して、アンタ一体何考えてんだッ!!」
「ええっ!? そ、そうだったのかい!?」
「それに浴衣の女の子の腕を無理に引いたらどうなるか、考えなくても分かるだろッ! 腕を取られてたら、咄嗟に手をつくことだってできねぇんだぞ!?」
「うぐっ……そ、それは……」
黒瀬の正論を前に、男性はバツの悪そうな表情を浮かべた。
三玖は、黒瀬が自分の為に怒ってくれているという事実に、少しだけ嬉しくなった。そしてその緩む口元を隠すように、彼女は少しだけ顔を俯かせるのだった。
「そ、それは確かに私が悪かった。後で病院で詳しく検査してもらえるよう、こちらで手配しておこう……だから、早くその手を離しなさいっ」
「何が“だから”だ、信用できるかッ!! 質の悪いナンパなら余所でやれ!」
「ナンっ、パ……き、君こそ! 一体この子とどういう関係なんだねっ!?」
「──この子は
黒瀬の咆哮とも取れる宣言を聞いて、三玖の脳裏に、かつて自分に言い聞かせた言葉が過る。
──『(ユーマは、大切な友達…………異性の……)』
大したことはない。ただ自分と同じように、相手も自分を思ってくれていたというだけ。
──ただそれだけのことが、三玖の心を大きく揺さぶった。
今もなお言い合いを続ける二人の会話は、三玖の耳には届かない。ただ彼女は、胸の奥から伝わってくる温かさをじっと静かに噛み締めていた。
それから間もなく、一花と上杉がその場に駆け付けた。
「おい、黒瀬っ、落ち着けっ」
上杉が黒瀬の正面に回り込み、彼の両肩をガッと掴んで声を掛けた。それを受けた黒瀬は、怒りの矛先を収めることこそしなかったものの、言い合いを止め、ただ男性を睨みつけて威嚇するだけに留めた。
まるで大型犬が飼い主を守るために威嚇をしているような黒瀬の様子に、上杉はひとまず安堵の息をつく。
そんな上杉の背後から男性が声を上げた。
「また君か! 知り合いなら君からも、この子に彼女を離すよう言ってくれ! もう時間が無いんだ!」
「──断る」
男性の要求をバッサリ切り捨てた上杉は、振り返って男性と真正面から向き合った。
「俺だってコイツを連れて行かれたら困るんだ。だから、断る」
「なっ……!? だ、だから……一体君はその子の何なんだ!?」
堂々と言い放った上杉に、男性は驚愕と共に声を上げる。それを受けてなお、上杉はその佇まいを崩さず口を開いた。
「俺は、コイツの……(この関係を友達とは言えないが……
上杉が思い浮かべるのは、家庭教師初日に五月へ放ったあのひと言……。
「アイツらの……」
「──パートナーだ」
上杉はそうハッキリ口に出した。
その背後で、一花が大きく目を見開く。しかし、男性はその答えに納得がいっていない様子だった。
「な、何をわけの分からないことを……ッ!」
「よく見てくれ! コイツは一花じゃない!」
「あ、あの!」
「その顔は見間違いようがない! さあ、君も早く……」
「──うちの若手女優から、手を離しなさい!!」
男性がそう声を上げると同時に、その場の空気が一瞬だけ凍り付いた。そして……。
「「「「えっ……?」」」」
一花以外の、その場にいる全員の困惑したような声が重なった。
「ええぇ!? い、いい一花ちゃんが、二人ぃ!?」
男性が黒瀬の腕の中の三玖と、その背後に立つ一花を見比べながら声を上げる。それに釣られるかのように、三玖と上杉、黒瀬の三人も背後をゆっくりと振り返った。
「三玖さんじゃなくて……?」
「い、一花が……」
「わかて、じょゆう……?」
黒瀬、三玖、上杉の順に、動揺したまま言葉を続けた。彼らの視線を一身に受けた一花は、恥ずかしそうに真っ赤に染めた顔を手で隠していた。
「カメラで撮る仕事って……そっち?」
上杉の困惑と驚愕のこもった呟きは、誰も声を発せないその場に酷く響き渡るのだった。
それから、一旦お互いの情報の擦り合わせと相成った。
「一花が……」
「一花ちゃんが……」
「──女優って……」
「──五つ子って……」
「「マジ?」」
それぞれの衝撃に、上杉と男性──正確には一花の所属する芸能事務所の社長兼マネージャーらしい──は、最後には声を揃えて言った。
「っ、そうだ、こうしている場合じゃない……行こう、一花ちゃん!」
最初にハッと衝撃から戻ってきたのは男性で、彼は一花の手を取り、今度は彼女の足元を気遣いながら歩き出した。
「っ、おい、待てって!」
「止めないでくれ」
咄嗟に引き留めようとした上杉だったが、男性が一花を庇うようにスッと前に出た。
「人違いをしてしまったのは本当にすまなかったね。そちらの子も、もし怪我が悪化したようであれば一花ちゃん経由で私に連絡を入れてくれ。できる限りのことはすると約束しよう。だけど、今は本当に時間が無いんだ。これから一花ちゃんは大事なオーディションがあるんだよ」
そう言った男性は、本当に切羽詰まっている様子だった。
「そんなっ……一花、花火いいのかよっ」
立ち塞がれたことに一瞬怯んだ上杉だったが、すぐに男性の背後にいる一花へ直接声を掛けた。しかし……。
「……みんなによろしくね」
一花はそう、笑顔で応えた。
それから、一花は男性と共に花火大会の会場を後にした。
「黒瀬……三玖のこと、任せてもいいか?」
「うん、もちろん。いってらっしゃい」
「フータロー、一花をお願い」
ポツリと呟く上杉に黒瀬が笑顔を、三玖が不安そうな眼差しを向けた。それらを受けた上杉は、覚悟を決めたような硬い表情で足を踏み出す。
「ああ……アイツにはひと言、物申したいことができたからな」
そう鋭い目つきで言う上杉を、二人はただ静かに見送った。
そして二人きり──。
黒瀬がひと息ついて三玖へ視線を向けると、自身の手が彼女の肩に置かれていることに気が付き、バッと弾かれるように距離を取った。
「あっ、ご、ごめんっ! って、痛くなかった? 結構強く引き寄せちゃったと思うんだけど……」
「へ、平気……ありがとう」
心配そうに三玖の顔を覗き込む黒瀬の視線から逃れるように、三玖は顔を背けながら恥ずかしそうにお礼を言った。
それを聞いた黒瀬は「そう?」と不安そうに言いながらも、姿勢を元に戻した。
黒瀬の顔が離れたことを確認してから、三玖は彼の顔に改めて目を向けた。
いつもの重めの前髪は分けられたためかスッキリとした印象を与え、耳もほんの少しだけ露出している。そして、何よりも目立っていた黒縁の眼鏡が外れたことで、顔立ちがいつもよりはっきりと見えた。
三玖からの観察するような視線に気付いた黒瀬が不思議そうに首を傾げる。
「? どうしたの?」
「ねえ、ユーマ……」
「ん?」
「眼鏡は?」
「? ………………あっ」
最初、何のことか分からないといった様子だった黒瀬は、しばらくして自分の目元に手をやり、初めてソレが無いことに気付いた。
そこからはあっという間だった。
黒瀬はすぐにポケットから取り出したいつもの黒縁眼鏡を掛け、乱れていた髪を手櫛で整えた後、お手本のような直立不動の体勢を取った。
「…………」
「…………」
じっと静かに黒瀬の顔を見つめ続ける三玖と、冷や汗を垂らしながら、彼女からの見えない圧から逃れるように視線を逸らす黒瀬。
しばしの無言の我慢比べの後……。
「……ユーマって、伊達眼鏡だったんだ」
「あ、あはは……やっぱ無理か……」
確信を滲ませた三玖の呟きに、黒瀬はガックリと肩を落とした。
「ごめんっ、中野さん! みんなには黙っておいて……っ!」
両手を合わせてバッと大きく頭を下げる黒瀬を、三玖はしばらく無言で見つめた後、やがて小さく笑い声を漏らした。
「ふふっ……そんなにしなくても、誰にも言わない」
「ほんとに……?」
「うん」
三玖の言葉を聞き、黒瀬はゆっくりと顔を上げた。先ほど見た力強い彼とは対照的な、酷く不安そうな表情──そのギャップに、三玖は思わずもう一度頬を緩めた。
三玖にだって他人に知られたくない秘密はある。その秘密の一つを共有し、守ってくれている黒瀬に対し、不義理を働こうとは欠片も思っていなかった。
──それと同時に、秘密の共有という確かな絆を手放したくはないと思ったのは確かだ。
「その代わり、ひとつだけ……お願い、聞いてほしい」
「え、うん。僕にできることなら」
しかし、それはそれとして……。
「これからは…………『三玖』って……名前で、呼んでほしい……」
大切な友達に、細やかなお願いをする勇気を、ほんの少しだけ分けてほしい──そう思った。
「え? うん、それはもちろん、大丈夫だけど……そんなことでいいの?」
心配と不安を半々に分けたような顔で黒瀬が三玖に問い掛けた。それを受けて三玖は、緊張、不安、羞恥……様々な感情を含んだ、小さな微笑みを浮かべた。
「うん…………そんなこと
噛み締めるように呟いた三玖の言葉を聞いて、黒瀬は表情をふっと柔らかく緩めた。
「そっか……うん。じゃあ、改めてよろしくね、
「うん……よろしく、ユーマ」
三玖は、自身の心の奥から伝わってくる熱を嚙み締めるような笑みを浮かべた。
その熱の正体を決めつけることは、きっと簡単だ。しかし……。
「(今は
それをしてしまう前に、もう少しだけ、この今の関係を楽しんでいたいと思った。
「それと、三玖さん」
「?」
「その髪型、似合ってるね。浴衣の雰囲気と合ってる」
「っ…………うん……」
「ユーマも……似合ってた……」
「あ、あはは……な、何のことだか……」
恥ずかしさを隠すように呟いた、からかいの言葉。
三玖は高鳴る心臓を抑えるように、自身の胸にそっと手を添えた。そして、誤魔化し笑いを浮かべる彼のことを静かに見つめて、思う。
──