しかし、彼女の口から出たのは――「私を殺して」という、あまりにも物騒な言葉だった。
ヴァーチェと出会った事件から、しばらく経った。
あの時は、まさかあれほど奇妙な少女と再び関わることになるとは思っていなかった。エクシードギルスへと変身する力を持ち、巨大な蟻の怪物たちと戦っていた少女。彼女については、いずれ改めて調べる必要があると思っていた。
ただ、学校を経営しながら生徒たちの面倒を見ている私にとって、「いずれ調べよう」と思ったことを実際に調べる時間は、意外と少ない。
だから、その日の午後も私はいつも通り校長室で仕事をしていた。
授業の報告書を確認し、生徒たちの生活記録に目を通し、教師たちから届いた相談に返事を書く。そんな、いつもと変わらない仕事の繰り返しだった。
――だからこそ。
突然、校長室の扉が開いた時、私は少し驚いた。
「……誰?」
顔を上げる。
そこに立っていた人物を見た瞬間、私はさらに驚いた。
「あなた……ヴァーチェ?」
以前出会った少女が、そこに立っていた。
けれど、前に会った時とは明らかに様子が違う。
服はところどころ汚れていて、疲労も隠しきれていない。呼吸も僅かに乱れている。そして何より、その表情には明らかな焦りが浮かんでいた。
「食蜂操祈……」
彼女は私の名前を呼ぶと、ふらつきながらこちらへ近づいてくる。
「お願いがある」
「ええ、何かしら?」
私が尋ねると、ヴァーチェは一瞬だけ躊躇した。
そして――。
「私を殺してくれ」
「…………は?」
思わず聞き返してしまった。
いや、聞き間違いだと思いたかった。
「ま、待って。いきなり来て、私を殺してなんて……どういうことなの?」
「迷っている暇はない」
ヴァーチェの声には、冗談など一切含まれていなかった。
「早く私を殺さないと、手遅れになる」
「だから、待ってちょうだい。いったい何があったの? 説明して」
「そんな暇はない」
彼女は必死に訴える。
「お願い……あなたにしか頼めない」
その言葉を聞いた瞬間、私は眉をひそめた。
このままでは話が進まない。
それに、彼女の様子は明らかに普通ではない。何かに追われているのか、それとも自分自身の力を制御できなくなっているのか。
どちらにせよ、まず落ち着かせる必要がある。
「……ごめんなさい、ヴァーチェ」
私は静かに能力を使った。
「少しだけ眠っていてちょうだい」
ヴァーチェの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
私は慌てて彼女を支えた。
「まったく……」
思わずため息が出る。
「いきなり『殺して』なんて言われても、こっちだって困るのよぉ」
私はすぐに人を呼び、ヴァーチェを医務室へ運ばせた。
そして、彼女が眠っていることを確認してから、私はベッドの横に座る。
本当なら、本人の許可なく精神へ干渉するのは避けたい。
けれど今回は、事情が事情だ。
彼女自身が説明できないのなら、私が知るしかない。
「……ごめんなさいねぇ」
私はヴァーチェの精神へ意識を伸ばした。
そして――。
大量の記憶が、一気に流れ込んできた。
最初に見えたのは、戦いだった。
周囲を取り囲む、大勢の異形。
その姿には見覚えがある。
「……アナザーアギト?」
ヴァーチェはギルスへと変身していた。
無数のアナザーアギトに囲まれながら、必死に戦っている。
爪が振るわれる。
触手が伸びる。
敵を倒しても、次から次へと新しい敵が現れる。
そして――。
場面が変わった。
今度は、ヴァーチェがどこかへ連れて行かれている。
大きな部屋。
その奥には玉座がある。
そして、その玉座に座っている存在を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「……何、あれ?」
そこにいるのは、確かにアギトのように見える。
しかし、私が前世の記憶で知っているアギトとは明らかに違った。
私の知識にあるグランドフォーム。
そこから派生するストームフォーム、フレイムフォーム、トリニティフォーム。
さらにバーニングフォーム。
そして、ひとつの到達点とも言えるシャイニングフォーム。
その亜種とも言えるミラージュアギト。
アナザーアギト。
その強化形態。
――そのどれにも当てはまらない。
身体の特徴そのものが違う。
特に目を引いたのは、頭部だった。
展開されたクロスホーンは、通常のアギトより明らかに多い。
「……八本?」
さらに胸部。
中心に存在するワイズマンモノリスは、六芒星を思わせる形状になっている。
そして、その六芒星の一角が欠けていた。
「こんなの……私の知識にはない」
私は記憶の映像を追いながら、必死に情報を整理した。
これは私が前世で知っていた作品そのものではない。
この世界に存在するアギトという力は、私が知っているものとは別の歴史を歩んでいる。
そして、その証拠はヴァーチェ自身の記憶の中にあった。
私はさらに記憶を辿った。
そこで知ったのは、この世界におけるアギトの歴史だった。
遠い昔。
アメリカの先住民族の中に、とある一族が存在していた。
その一族に、四人の若者が現れた。
彼らはアギトへと変身する力に目覚めた。
しかし、その力を歓迎する存在ばかりではなかった。
アギトの誕生を許さない、創造主の一人。
その存在に従う勢力との戦いが始まった。
四人の若者たちは戦い、そして――。
創造主の一人を倒した。
アギトを忌み嫌う存在を打ち倒した四人は、一族の英雄となった。
そして次代の長、その候補として扱われるようになった。
だが。
戦いが終わったからといって、彼らの争いまで終わったわけではなかった。
四人は今度こそ、一族の長の座を巡って争い始めた。
最初に脱落したのは、ギルスへと変身していた男だった。
四人の中で最も年長で、戦闘経験も豊富だった男。
それでも、彼は敗れた。
続いて、アナザーアギトへと変身していた男も命を落とした。
最後に残ったのは二人。
グランドフォームへ変身する男。
そして、ミラージュアギトへ変身する男。
二人の戦いの末、勝利したのはグランドフォームの男だった。
こうして、一族の長は決まった。
そして――その戦いは、後の一族にも大きな影響を残した。
アギトの力は、その四人の子孫へと受け継がれていった。
世代を重ねるたびに、アギトへと目覚める者が一族の中に増えていく。
基本的には、アギトの力を持つ者が生まれる。
しかし、時折り――。
ヴァーチェのように、ギルスへと変身する者が現れた。
ギルス。
それは、他のアギトとは違ってワイズマンモノリスを持たない不完全な変化。
そして、変身を繰り返すほど肉体が極端に老化していく。
そのため、ギルスに目覚めた者たちは一族の中で「半端者」と見なされていた。
力を持っているにもかかわらず、完全なアギトではない。
そんな理由だけで冷遇される。
ヴァーチェも、その例外ではなかった。
彼女の父親はギルス。
母親はアギト。
そしてヴァーチェ自身も、父親と同じギルスの力に目覚めた。
けれど、母親は娘を見捨てなかった。
自分自身のワイズマンモノリスを娘へと託した。
それによってヴァーチェは、ギルスでありながらワイズマンモノリスを持つ存在へと変化した。
エクシードギルス。
ギルスの弱点を克服した、ヴァーチェだけの力。
「……そういうことだったのね」
私は記憶を辿りながら、小さく呟いた。
そこから先も、私は彼女の人生を見た。
一族の中で冷遇されながらも、ヴァーチェは生きてきた。
彼女の力を欲しがる者たちとの戦い。
アギトの力を取り込もうとする者たち。
そして、かつてアギトを抑え込もうとした創造主。
その勢力に属するロードと呼ばれる怪人たち。
その残党との戦い。
ヴァーチェは、そのすべてを生き抜いてきた。
そして――私は理解した。
なぜ彼女が、私のところへ来たのか。
なぜ「殺してくれ」と言ったのか。
その原因は、おそらくあの存在だ。
あの玉座に座っていた、私の知らないアギト。
「……あれが原因ね」
私は眠っているヴァーチェを見る。
彼女が何を恐れているのか。
なぜ自分の死を望んでいるのか。
そのすべてが完全に分かったわけではない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
――彼女は、あれから逃げてきた。
そして、私のところへ助けを求めに来た。
「……それにしても」
私は額に手を当てる。
「やっぱり厄介ごとだったじゃないのよぉ……」
前回、ヴァーチェと出会った時。
私は彼女が少し特殊な能力を持った少女だと思っていた。
ところが蓋を開けてみれば、一族の歴史。
アギトという力。
創造主。
ロード。
そして、私の知らない未知のアギト。
どう考えても、普通の事件ではない。
しかも。
ヴァーチェがここへ逃げてきたということは、彼女を探している者がいる可能性が高い。
すでに追手が動いているかもしれない。
そう考えると、ここで呑気にしているわけにもいかなかった。
「まずは情報収集ねぇ」
私は立ち上がる。
ヴァーチェ本人から話を聞けるようになったら、さらに詳しい事情を確認する必要がある。
彼女を追っている者は誰なのか。
あの玉座にいた存在は何者なのか。
そして、なぜヴァーチェを狙っているのか。
分からないことが多すぎる。
私は医務室を出て、廊下を歩きながら考え続ける。
学園には、生徒たちがいる。
ここは彼らの安全な場所だ。
だからこそ、外から持ち込まれた厄介ごとを、そのまま放置するわけにはいかない。
ましてや、ヴァーチェが追われているのなら。
追手がこの学園まで来る可能性だってある。
「……あーあ」
私は小さくため息を吐いた。
「頭いたいわねぇ」
校長としての仕事。
教師としての仕事。
生徒たちの生活。
そこへ、異世界由来の知識と転生者たち、そしてミュータントとは異なる力を持つ者たちまで加わってくる。
どうやら私の望んでいた「平穏な学校生活」というものは、まだまだ遠いらしい。
それでも――。
私は足を止める。
窓の外には、いつも通り学園の校庭が見えていた。
そこでは、生徒たちが何も知らずに笑っている。
「……まあ、やるしかないわよねぇ」
私は再び歩き出した。
まずは情報収集。
そして、ヴァーチェを守る。
それから、彼女を追ってくるかもしれない連中について調べる。
やるべきことは決まった。
あとは――。
「どうか、これ以上面倒なことになりませんように」
そう願いながら、私は校長室へ戻った。
もちろん。
こういう時に限って、願いが叶わないことくらい、私はもう分かっていた。
後書き
今回は、再びヴァーチェが登場し、彼女の過去とアギトの力を巡る一族の歴史が少しずつ明らかになりました。
そして、食蜂操祈の学園生活にも新たな問題が発生。果たしてヴァーチェが恐れている「あのアギト」は何者なのか。
次回、さらに物語が動き始めます。