五年は組の商人   作:ジェーンドェは彼方

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春麗

 青、というものは、ごく自然にそこにあって、人が、産まれて初めて認識する色は、きっと、青である。

 青、というものは、そこかしこに溢れている。この世界は、この星は、どこまでも「青」なのだ。

 空があって、海が揺れている。

 私たちには、「青」が欠かせない。地球上に生きる、すべてのものは「青」なしでは、生きていけないのだ。

 飛ぶ鳥も、地に足をつける生き物も、魚も、である。

 私たちは皆、その、「青」に包まれて生きている。

 

 太陽の傾きが、少しだけ私の斜め上に差し掛かる頃。不規則に揺れる馬引きの荷台の上で、僅かに、船を漕いでいた。

 一月の旅の終わりがやっと見えてきて、どうにも気が緩んでしまっている。一人で居るといつもこうだ。私という人間は怠け癖がある。つい先日、気を引き締めていかなければーーと思ったばかりだというのに、三日坊主どころではない。

(そろそろ降りなければ)

 私は寝ぼけ眼を一度閉じ、眉間のその中心にギュッと力を入れると一つ伸びをした。その時、竹笠が背中に落ちて、私の視界は、東の空から昇る春の太陽によって白く遮られ、思わず、再び目を閉じた。

 目の奥がチカチカと色彩を放つのは、いつまで立っても変な感じだ。

 それから、徐々に薄く開いて、やっと外の世界を見た。東の国で、それなりに活気に溢れた場所で、それなりに忙しく過ごしていた私には、随分と長閑で、煌びやかで、静かだった。知らない景色が広がる中に、ぽつりと私が居るというのは、どうも妙な感じだ。

(けれど、少しだけ懐かしい気がするーーそうか。知らぬ土地に流れるこの風も、私のいた、あの町に流れて行くのだ)

 そんなことを思いながら、私は東の空を、薄く開いた目で、愛おしく見つめる。

 

 以前の私は、東の国の、江戸の下町の、二階建ての古屋を借りて、商人の父と二人で暮らしていた。

 でも、そこも、二年近くで離れてしまったーーそこも、と言うのは、私と父は住む場所を移ろうーー要は、旅をする商人だ。

 私の父は、私が生まれるよりも前から商人を生業としていて、その頃は、海の町に住んでいた。私が産まれたのも、その町だ。

 どれほど大きく手を翳そうと、隠しきれないほどの青が広がる海の町。それは、大日本帝国よりも遥か遠くの異国の地で、父はそこに生きていた。

 私自身も、物心ついた時から父の膝の上に座って、その商いの一行を見て来たのだ。

 だからだろうか……歳を重ねるにつれて、いつからか当たり前のように、私も父の隣に立つようになっていた。

 これまで、二人で各国を巡り、商いを営む日々は私にとって、とてもごく自然で、産まれた時からそこに、煌びやかな光の粒が舞うように、めまぐるしく、物に溢れた景色を飽きることなく見てきたのだ。

 そんな生活の中で、小さな私の手を引いて、父は只々、私を大切に扱ったーー父は物を大切にする人だ。そんな父だから、私は、私の手を優しく握ってくれる父の手が好きだ。然し、最近はもう、その手を優しく握ってはくれない。

 きっと、私がもう幼くないからだろう。そりゃ、子供扱いされるような歳でもないか。

 なんたって、私はこの春に十四を迎えたのだ。

 並大抵のことは一人で出来てしまう。だからこそ、変に手を出して、年頃の息子に小言を言われたら嫌だと思っているのやもしれない。

(まあ、知ったことでは無いが)

 

 ーーさて、話を戻そうか。

 そう。江戸の古屋では、一階に店を構えて、その奥は居間となり、食事をとること、それから、父の寝床になっていた。

 二階はガラリとしている。それに、古屋の階段は、足を踏み込むと、悍ましいほどに軋む音がする。いつか底が抜けて足に刺さるんじゃないかーーと、ヒヤヒヤする日々だったが、二年も住んでいると、それも気にならなくなった。鳴らさずに歩くというもの、実はできたりする(いいや。それはそれで、不安なのだが……)。

 その階段を上がって、すぐに、短い廊下が現れる。正面には、物置のような、一畳の小部屋があったが、ほとんど使われず、ガラリとしていた。それから、左手には私の寝床と、元から置かれていた、年季の入った低い長机が一つあるだけ。

 そして、部屋と廊下の境目の、柱にくっきりと残る、横に刃を入れた跡は、湿気を帯びて白く浮き上がっている。

 その跡は個人差があって、下から古く、上へ上るにつれて、若く見える。

 それは背丈を測るために刻んだ、跡、である。

 ただ、私から見れば、それは小さく、というよりは、低い位置で止まっていた。

(もう、測るのをやめてしまったのか)

 浮き上がった跡を指でなぞっては、そんなことばかり思う。

 それから、私の部屋。窓がひとつあって、夜は、ちょうど月が見える。

 本で知った、日ごとに変わる月の名前。その正体を、この目で見るために起きて、その形を書き出したこともある。とてもくだらない。そんなことばかりしていて、夜遅くまで起きていると、外から、呑兵衛たちの陽気な声が聞こえて来るし、時々、女の啜り泣く声さえも聞こえてくる。

(おや、鵺が鳴いている)

 酷い目に遭ったんだろうな。可哀想に、江戸の夜は、なんと怖いものか。ああ、恐ろしい。

 いやな気分を味わって、いやなまま床に着いて、深く衾を被っても、いやというほど鵺の鳴き声が聞こえてくる。そういう夜は、酷く不気味で、少しだけ胸が締め付けられるのだ。目を瞑っても、耳は起きているから。

 それ以外で言えば、私の窓からは江戸の全てが見える。朝も、昼も、夜も、全部だ。私がいちばん気に入っているのは、朝だ。

 それはーー夜の名残を抱いたまま、空は淡く紫色を滲ませている。

 夜明け前の、江戸の空が好きだ。

 私は、江戸に住んでいた二年間、この窓の景色を飽きることなく、毎日、眺めていた。

 だからこそ、今はとても恋しく思う。同じ空を眺めていても、あの窓から見た景色とはまるで違う。

 例えば、雨が降ったあとの、炭の煤けた匂いと、泥が雑りあった、鼻につく匂いが、まずしない。啜り泣く女の声ではなく、本当に鵺の鳴き声がする。

 恋しく思うなんて言ったが、二年という年月はそう短いものでもなければ長いものでもない。

 ただ、私という身体のそこかしこに、それらは染み付いている。江戸に住み移る前の地でも、それ以前も、ずっとそうなのだ。そういうものなのだ。四つ前の地でのこと、その場所を離れた時、やっと身体が慣れ始めた。

 以前は、病のように思っていたが、今となっては風邪と変わりなく、むず痒さも、三日もすれば治る。今回ばかりは、江戸に長く居すぎた所為だ。

 それでも、日々移動を繰り返すうちに、忘れてしまったかのように、だんだん、気にならなくなったーーいや、そんなこともないが、とある夜、空を見上げ、ふとした時に、星が綺麗だと自然に思えて、

 何一つ、江戸のことを思い出さなかった。

 

 私が、江戸を離れて半月ほど経った頃、京の国に立ち寄った。

 京は美しい。また行きたい。

 

 それから、一月ほどして摂津国へ入った。

 父とは、そこで別れを告げた。

二度と会えないような別れではなく、私個人が、とある学園に身を置くからである。

 父の、知り合いの勧めであった。

 その本質は忍びを育てる学校だが、そこでは、私がこれまで目にしてこなかった多くの事柄が待っていると思う。

 そう信じてやまない。実際、私は期待に胸を躍らせていた。

 江戸や、それ以前も、寺小屋だったり、塾のようなものへ通うことはあれど、その多くは年齢も能力もばらけていて、そもそもの人数さえ少なかった。

 普通、と言ってはなんだが、「そう言った経験をさせたい」という、父の本音のような、これまでの旅で、私に「子供らしい」ことをさせてやれなかった後ろめたさや、計らいのようなものが見えたのだ。

 それを、利害の一致などと言っては、なんて可愛げのないことかーー然しだよ、父の本音と、私の理想を天秤にかけたとき、確かに均等になった。

 どこか、私も同輩と肩を並べてみたいという理想があったのだ。

 これまで、各国を回ってまともに、年相応の「らしい」ことを一つもしていない。私だって、そりゃ、年頃ですもの。好奇心に満ち溢れた若者ですもの。

(ちょうどいいじゃないか。自分自身の、それから、父の期待にも応えよう)

 そういうわけで、私は父と別れ、学園に身を置くことを選んだのであった。

 

 さて、摂津国に入ったあたりの話をしようか。

 私は学園へ向かう前に、少しだけ寄り道をして、「空気」というものを見学しに行った。

 その港町は、江戸ほど栄えてはいないが、陽を浴び続けた肌が、若木の樹皮にも似た色を帯びていて、体つきのがっしりとした男らの、威勢の良い声がそこかしこで聞こえて、活気が見られた。

(漁業が盛んなのだろうか?)

 市場には海産物がよく並んでいる。

 磯の独特の、あの香りが鼻につくが、それは海の香りだ。悪くない。

 ただ、塩っ気のある風に晒されて、髪がベタつくのは少し嫌になる。

 私は、竹笠が風に飛ばされないよう、いま一度、それを深く被った。

(騒がしいのはもういい。何か食べたい)

 私は、その港町の小さな商店街をウロウロと歩き回った末に、店の外に長椅子が一つあるだけの、こじんまりとした団子屋に入った。

 

『ここで頂きます。団子を一つ、それとお茶を一杯』

 

 注文を告げる。店主はなンにも言わず、ただ団子を一つ手渡される。それから後ろを指差し、「茶はあそこ」とでも言いた気だった。

 

『どうも』

 

 懐から銭を取り出し、受け渡す。

 団子は一銭、お茶をつけて二銭(少し安く思える)。

 茶を注いで、私は店の外の長椅子に腰を掛ける。茶からは、茉莉花ーージャスミンとやらの香りが鼻腔をくすぐってくれる。とても良かった。異国の地でも試したことがあるが、日本でも頂けるとは、これまた珍しい。物好きな貿易商がいるに違いない。それから、この店の主人も物好きか。

(とはいえ、この香りは好みが分かれそうだ)

 ひとくち、茶を口に運ぶ。

 

『ん、うまい』

 

 そのまま、ぼんやりと、その景色を見ていた。商店街の中でも、このあたりはしんとしているが、ほどほどに人の足がある。

 ガラリとしているよりはいい。

 うるさすぎず、町らしい町だった。

 それから、磯の香りがほのかに漂う。港町らしくて良い。そういうのは好きだ。

 ぼんやりと眺めていると、母子が歩いて来る。歩き慣れてきた頃合いなのか、少し拙い足取りで、母の後をせっせと小さく着いていく。愛らしい。

(あれは、転ぶ)

 母が後ろを振り向くと、すんでのところでその身体を支えた。子は驚いて声も出ない。泣きこそはしなかったが、そのまま母に抱えられて、その着物にぎゅっとしがみつく。

 

「坊や、危なっかしいねぇ。気をつけんと」

 

 母はそっと子の頭を上から下へと撫で下ろす。

 その温度を確かめるように、そっと、優しく。

 すると、子は顔を埋め、いかにも眠そうな声を上げた。

 

「おやおや、坊や。眠たいんやねぇ、帰って寝よか。母とおやすみになろか」

 

 そう言って、そっと、その頭部に母の愛を口づける。

(まあ、なんと。愛らしいこと)

 良いもんを見たような気になる。

 母子という存在は、平和の一部である。

 その一瞬は、この上ない「幸せ」という一瞬だ。

 口に含んだ団子がいつも以上に甘く感じた。舌鼓を打ち、それを、ぬくいお茶で流し込んだ。

(得でもした気分だ)

 私は遠く、小さくなってゆく母子の背中を見ていた。

 そうしていると、団子屋の店主が外へ出て来る。饅頭の乗った皿と、茶を一杯手にして、長椅子の、少し離れたところに腰を掛けると、その間に饅頭と茶を挟んだ。

 少しの間が生まれ、私は、そろそろ行こうかと、茶を飲み干そうと顔を上げた時。

 

「食うかい」

 

 と、声を掛けられる。

 迷いなく、私はすぐ隣に視線をやると、少し下を向き気味に、店主が私を見ていた。

 意外な展開だった。

 一服するために、外に出てきたのかと思ったもので、私は驚いて、ええーーと返事に戸惑った。

 

「……い、いや、要らないなら構わんのですが」

『むしろ、良いのですか』

「ええ、まあ……痛む前にと。こいつはね、一人では食べきれんほどあるので、あの……いや、なんもありませんわ」

 

 店主は何か、拭いきれなさそうな表情を一つ浮かべつつも、「どうぞ」と言葉を置き換え、私に饅頭のを勧めた。

 

『そぃなら、お言葉に甘えて……』

 

 意味もなく、恐る恐るその饅頭を一つ手にとった。

 ーーそれはそうと、突然降りかかって来る「人情」というものには、たびたび怖気付く。特に、それが自分に向けられたものほど、猫が毛立たせるかのように、つい身構えてしまう。私という人間は、案外、臆病なのだ。

(考えすぎている、気にしすぎている)

 店主が、一体何を思って勧めて来たのかはさておきーーそう、考えるのが馬鹿らしくなって、私は躊躇いなく、差し出された饅頭を半分ほど齧った。

(これは、餡子の甘味と、それから酒の風味?)

 おそらく酒饅頭か、美味しかった。

 然し、なんだか悔しかった。

 

『こりゃ、とても美味しゅうございます』

「さいですか。よかったよかったーーところで兄ちゃん、旅人? このあたりの人に見えんのですが……それから、目が、ほら」

 

 店主は私の顔をじっと見て、物珍しい、いや奇妙そうに、とも言える。

 私の「目」を見て、ギョッと驚いた様子だった。

(ああ。だからさっき、言葉に詰まったんだわ)

 私は、先ほどの、店主の様子が少し気になっていた。

 確かに、そうだ。私の目は日本では少し珍しい色をしている。

 

『これね。ええ、珍しいでしょう』

「いや、そうね……。顔をあげた時、驚いたもんだ。兄ちゃん、もしかして異国の人? いや、北の人やろか?向こうは、ほら、あれでしょう。アイヌってやつ」

『まあ、そんなとこですな』

「ほらやっぱ。へえ、立派な。綺麗な青色してはるな」

『ーー綺麗?そりゃ、嬉しいわぁね』

 

 口元に手を添え、小さく微笑む。

 そうだ。江戸では、周りも私も慣れたもんで、気にしてすらいなかった。

 二年という月日が、自然とそうさせていたのだろう。今回ばかりは、久々の移動ということもあって、各地で出会う人々は、私の目を見るたび、同じように、ギョッと驚く。

(まあ、慣れたもんだがね)

 私という人間は、見た目こそ日本人らしく、真っ黒な髪を伸ばしている。ただ、そこに青い目なんてーーねえ? そりゃ珍しいもんだろう。

 北海道によくいるアイヌ民族ならまだしも、私という人間は、それらの種族ではない。

 どちらかというと、そう、俗に言う混血種だ。

 私の父は日本人だが、母は異国人だった。

 母の目は私と同じ青い目だと、父は言うーーとはいえ、物心ついた時から、母は側にいなかった。母のことで、私が覚えているのは、その青い目くらいか。

 

 それは約10年ほど前のことだ。

 父は幼い私を連れて、人が何百人と入るような、大きな船に乗り込んだ。海をすぐそこに感じるような、人が歩くたび船が揺れて、少し怖かったような気がする。

 父は幼い私を抱えて、船の、少し高いところへと連れて行った。船のすぐそば、埠頭に立つ人々の中に、母の姿が見え、私は無邪気にも『かあさん』と小さくてを振って、母を呼んだ。微かな私の声に母は振り向く。

 その時、母のその、青い目から大粒の涙が不均等に溢れ、地面へと、静かに流れ落ちるのを見た。

 私はそれを、船の少し高い位置から見ることしかできず、それと同時に、何故、人は涙を流すのか、幼い私には皆目見当もつかず。

 ただひとつ、胸の内側に焼かれるような痛みが纏わり付いて、酷く不快だった。

 思えばあの時の、私を愛おしそうに見つめる母の目は、玻璃の如く透き通り、海のように鮮やかだった。

 その目から溢れる涙さえ、美しかった。

 今も時々、その一瞬を夢に見る。

 その度、母は私を見つめて何か言葉を告げるように口を開くのだ。

 私はその声を聞こうと耳を澄ませる。然し、それはいつも、蒸気船の汽笛の音によってかき消されてしまう。腹の底が震えるような、あの低い汽笛の音が鳴り響く。

 それと重なり合って、ザザザと海を掻き分ける荒ただしい音に包まれては、船全体が揺籠のように大きく揺れはじめる。

 「ああ、まただ」と私はよろめいて、立っていられない。そうしている間にも離れて行く母のもの悲しい姿。

 いつも、そこで目が覚めてしまう。

 そして、訳もなく、私の頬はいつも濡れていた。

 母の存在を唯一身近に感じられる特別な目、綺麗だと言われるだけで、どこか救われたような気にもなれば、どこか虚を感じる。

 

「兄ちゃん。この後はどちらへ」

『いや、それが悩んでいましてね。行くところはあるんですが、その前に、ちょいと彷徨ってみようかと』

「ほう。そしたら、この辺りなら、春日社が名所やわ」

『春日社?』

「あすこは、行くと、縁がありますよ。縁があると辿り着けるんですわ」

『縁ですか』

「私はなかなか行きませんがね。まあ、見晴らしが良いですよ。なかなか」

『そこまで言うなら、行ってみましょうか』

「是非に」

 

 私は残った茶を飲み干した。

 それから、長椅子から腰をあげる時、「これ持ってってや、兄ちゃん」と、余った饅頭を茶屋の主人に持たされた。

 見ず知らずの、誰かの優しさに触れる時、どう言った顔をすればいいのか、全く困ったものだ。

 商人のくせして、下手な笑みを浮かべると、私はただ、ひとこと、感謝を述べることしかできなかった。

 

 

 町を離れ、道ゆく人に「春日社」までの道を尋ねているうちに、とある馬引き人と出会った。

 彼が言うに、そのあたりが家だから途中まで共に行こうとーーこれも縁か。

 それから、他愛もなく、先ほど団子屋の主人としたような会話をしたような気がする。馬引きの彼と春日社の話になった。

 また「縁」だという。

「これも縁だ。お前さんはきっとツイている」と。

 興味半分、嘘半分で聞いている。この手の話は、つまらない話ではないし、退屈を持て余すよりは良かった。

 ただ、なんでも縁に結びつけたがるのは、何故なんだろう。

 

 それから結局、馬引きの彼は私を春日社まで送り届けてくれた。

 悪いよと、最初こそ断ったのだが、私と話しているのが「楽しい」からと言って、半ばしつこいようにも思えたが……まあ、良い。

 今朝まで東にあった太陽が、私の頭上を這っていくように、気づけば西へ、随分と落ちていた。

(父上との別れを惜しんだ所為で本当に日が暮れてしまった。こりゃ、学園に着くのは夜だな)

 

 

「恋文はさ、こういうの好き?」

 

 その問いは、私が江戸にいた頃、寺小屋で仲良くしていた「あいつ」の言葉だった。

 はじめっからこうも言ってはなんだが、あいつは、どことなく女っぽかった。下に弟妹が居て、どちらも母親が好きで、自分も母親が好きだからと、母親にぴったりくっついて育っていくうちに、母親の癖がついたんだとか。(私には全く未開な話だが)そう言うわけか、あいつは穏やかな性格をしていた。

 喧嘩ごとは愚か、言い争いさえ嫌っており、まさに、弱いものいじめの「カッコウの的」でしかなかった。

 あいつは本屋の息子故か、言葉の意味や表現に少し過敏な節はあった。

「言葉は文字通り、葉が生い茂る様に、人生に 根を張り巡らせて、いつか花を咲かせる。その花はきっと、自分にとっての意味のある言葉なんだ」と、続けてあいつは「そのような人間になりたい」と言った。

 思うに、あいつはきっと、言葉を紡ぐことのできる人間になりたかったのだろう。本を書きたいと言ったこともあった。

 あいつと私は、寺小屋で充分に学んだあと、川か山のどちらかへ遊びに行く。川なら水遊び、石を投げる水切りも、夏に行くとヒヤリしていて尚良かった。時々、魚を釣ることもあったけれど、それでも、ひとり一匹までと決めていた。あんまり獲ってしまうと、山のものたちが困るからだ。

 時々、川へ熊がやってくる。そう言う時は、二人して身を低く屈めて、その様を見ていた。

 ある時は、痩せ細った雄のクマがやってくる。体が小さいのは、山でうまく狩ができない。他の熊に負けて、食事にありつけない。そうなると、集落のあたりまで降りてくることもある。春先に向けて肥えた雌の鮭は脂が乗っていて美味しい。産卵の前なら尚更、その腹には充分な栄養のついた卵を隠している。私が好きなのは川だ。

 

 然しだ。ただ、こうも淡々とあいつのこと綴ると、俯瞰して見ている様で、どこか冷たく思うかもしれないが、言わせてもらう。

 仲が良いで留めては良いものか!……と、思うほどに、私とあいつは仲が良かったんだ。

 ……今も頭の中にあいつの問いが残るーーこういうの好き?ーーあれは確か、寺小屋から少し離れた先の、古い神社で言われたこと。あの周りは地味に竹林だった。然程大きな神社ではなかったが、地味におみくじがあって、あいつと二人で引いたことがある。

 まあ、結果はそんな溜めて言うほど良いものではなかった。つまり……末吉だ。これが人生で始めて引いたおみくじの結果だ。

 

「ふぅん。恋文も?じゃあ、二人とも末広がりだね」

『おや、気の利くこと言うわね。別に、初めてのおみくじが"これ"でがっかりなんかしちゃないよ』

「別に、なんも言ってないし! ほら、そんなこたいーんだよ恋文。せっかくだから、結んでいこう」

『結ぶ?』

「知らない? この神社、あすこに竹が吊るされてるでしょ。竹ってどこまでも伸びるからさあ、運も縁も、悪くても伸ばすんだって」

『言葉の文だねえ、実に日本人らしい』

「そっちだってそれ流れてるくせに。ほら、恋文も結ぶんだよ!」

『わかった。わかったよ……!』

 

 私はあいつに腕を引かれ、神社の端っこに吊るされた竹に、なんとも地味な結果の末吉を縛り付けてやったーーこの先、こいつの結果以外は信じないだろう。もう縛ってしまったんだからーー末広がりなんて言われたら、多少は期待する。私に末広がりなんて言葉が似合うとは思えないが、あいつ曰く「私たちの関係」も末広がりになるよきっと、と。

 ……夢みがちだ。夢みがちで、そんなもの全部、言葉の文で、この先も共に居ようと言ってくれた意味を理解できなかった。

 

ーー私はなんて愚か者だろう。

 

 胸中に粕溜まりのように残っている。洗い流そうにも流せない。清らかな心なんて持ち合わせちゃいないが、私が今も尚、あいつを思い出すように、あいつも思い出していてくれればいいがーーそれより前に、憎まれているやもしれんがーーこんなことを他所の神社で懺悔するとは思わなかった。

(もう、おみくじは引かない)

 さて、団子屋の主人に教えられた春日社まで来ることができた私は、立ち入ったからには参りをする必要があった。ただ眺めて帰るには少し勿体無いもので、とはいえ、私は神との繋がりなんか無論信じちゃいないが、形は形なのだ。それと、心を落ち着かせる必要もあった。これは言い訳に過ぎない。

 それよりも、眺めの良い場所だこと。それから空気の良いこと。こんな場所を紹介してもらえて、嬉しいわ。

 

 それから、私は徐々に日の沈む様をただ茫然と眺めていた。もし、あのまま江戸に在られたのなら、私はどれほど安堵の胸を撫で下ろし、どれほど眠れない夜になっただろう。野うさぎの子供が生まれてから、今という今までいちども飛び跳ねたことがないのだとしたら、私なら永遠と飛び跳ねていたいものよ。

 ーーこの気持ちが、わかるか。いいや……わからない。

 そんなこと、今まで一度もなかったんだ。この先もきっとないのよ。

 落ち着くところに落ち着いたら、きっと、私ときたらかえって不安になって、別の意味で眠れなくなる。そんなことを思っては、自嘲するように息を零した。

 石畳の上を歩く足音が聞こえて、振り返ると白衣を纏った年老いた男がいた。和かに浮かべる笑みは私を見ているのか、夕焼けを見ているのか曖昧なほど、とってつけたような細い目でいる。

 

「こんばんわ。旅人さんかいね」

『ええ。こんばんわ。こちらの神社の?』

「はい。神主にあたります。ここは景気が良いでしょう。それから、ここ縁があると辿り着ける……って、散々言われて来られましたかね」

『よく分かりましたね』

「こういう場所、人伝に聞かないと辿り着けませんから」

『ああ、なるほど。そういうことであれば……私は縁がありますね』

「ありますよ。きっと」

『もしそうなら、私は助かりますな。これから、縁のある元へ出向かねばならんので』

「それなら、心配は要りませんよ。縁のある方へ……人は導かれるものですから」

『左様ですか。では、縁のある方へ導かれてみましょうかね』

「ええ、お気をつけて」

 

            ーー縁のある方へ。

 

 

 

 私が進んだ先は暗がりで、あたりは草葉の擦れる音がザワザワと足元から漣のように押し寄せていた。

 まるで海辺のーー砂浜だーー浅瀬を歩いているみたいだ。不均等で、細かい石の粒がぶつかって、ジャリジャリと音を立てている。

 雲に隠れた月が時々顔を出すこと、私はなんとも生きた心地がする。

 

ーーああ、やはり。私には月が必要なんだ。私が欲しいのは、太陽じゃなくて月なんだ。

 

 縁のある方へ。なんて言われたことを真に受けたわけではないが、私の足は、まるでその闇に伸びるもう一つの影を潰していくかのように、足を踏み込むばかりだった。

 いえば、導かれているような感覚に等しい。

 

 そう。これから、私が踏み込む場所は、闇の中にある影の、光の当たらない、静かで、冷たい世界である。

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