生産科棟の中央の一室、学科長室のデスクで一人の生徒がどっかりと座面に体重を預けながら書類の束──発掘科再建計画について記されたレポートを無言で読んでいる。艷やかな亜麻色のウェーブヘアに、シワもシミも一つもないブラウス、なめらかな光沢のある生地のフレアスカート、細やかな着こなしはトリニティの令嬢たちにも匹敵する上流階級の装いだった。しかしその衣装の上にはぶ厚い琥珀色の作業着を着込み、その優美な雰囲気を覆い隠すかのような現場技術者の鎧で武装している、そんな印象を覚えた。しかし一番その生徒に抱いた印象は、ひとえに獰猛な捕食者のような、一つの学園の頂点に座るに相応しい覇気が放つ圧力だった。
「……駄目だ」
「う、うぅ……」
冷徹な声色と、真っ直ぐに貫かんとするような視線でもって、その生徒──生産科の長にして基盤研究審査会主査、
「セツ、一応言っておくが、わたしもお前に意地悪がしたいわけじゃない。別に発掘技術保存局を潰そうというつもりもないし、必要なら活動資金だっていくらでも工面してやる。お前がやりたいと思うことならできるだけやらせてやりたいとさえ思っているんだ」
「な、なら旧発掘場の発掘再開許可を……」
「それは駄目だ」
「うぅ……」
けんもほろろな対応ではあったが、そこには明確なラインというものの存在を覚えた。それは過去のプレローマの傷跡に簡単に触れさせないという態度そのものだった。逆に言えばそれを越えない範囲であればきちんと後輩の活動を応援しようという態度であることも明確で、セツやノレアの言う尊敬に値する先輩という評価も嘘ではなさそうであった──
──「学科長がどんな人かですか?」
「う、うん。やっぱり新世界の神ってだけだと印象が全然分からなくって」
学科長室に向かう道中、彼女の人となりについての話になっていた。
「うーん、まず背がちっちゃくて、おっぱいがすごいおっきいです!」
「見た目の話はあとでいいかな……?」
「えーとそれじゃあ……」
「学科長は偉大な先輩です。プレローマの食糧事情をはじめ、生徒の生活環境を大幅に改善させた、まさに生産科の長を預かるに相応しい人物です」
よどみなく発言したのは意外なことにノレアだった。
「そうなの?」
「はい、学科長の功績によって、プレローマの生徒には24時間365日無料で食糧が支給されます」
「すごい!」
「まあ出てくるのは食パンとコーンスープだからめちゃくちゃ豪勢ってわけじゃないけどね」
「しかしどんな成績状況でも分け隔てなく食べられるわけですから、生徒たちの食糧事情について大きな改善をもたらした点は重要です」
「へー、本当にすごいね……」
「それだけではありません。学科長が就任して以来、プレローマ全体の生産力は飛躍的に増加しました。生産科はもともと工業的な機械設備の生産が本職で、近年はミレニアムや大企業といった新興の先進技術を有する集団の後塵を拝することも多かったのですが、学科長が食品生産に力を入れたこともあり、最近はキヴォトスでも独自の地位を確立しつつあるんです」
先程までとはうって変わって饒舌になったノレアの口ぶりからは、学科長早乙女ムギホに対する畏敬の念が強く感じられた。
「ノレアはムギホをすごく尊敬しているんだね」
「はい! 私はもともとプレローマへの入学は乗り気じゃなかったんですけど、いざ生産科の実力を目の当たりにすると、感覚を見直さないわけにはいきませんでした……。これが叡智の為せる業、キヴォトスの未来を一歩先へ進める技術がここにあると、確信したんです」
「それで生産科での勉強を続けてるわけなんだ」
「はい! それに、学科長の目指す未来像もとても素晴らしいものだと思っています。生徒たちが生徒たち自身の力で学園都市キヴォトスを運営できる未来を目指す。そのために生きる基盤たる食生活を生産技術で支えていく。私はそのビジョンに強く賛同します。だってプレローマの外には、今も食事に困る生徒たちがたくさんいて、人並みの生活を営むために大人たちにいいように使われるなんてことがありふれているわけじゃないですか。私はそういう生徒たちの力になりたいと思っています」
「ノレアは優しいんだね」
「ありがとうございます、先生もそう思いますよね?」
ノレアの目指すものは、確かに素晴らしい世界へと導くように思えた。そして彼女が背中を追うムギホが築いている新世界というのもきっと素晴らしいものだと思う。ただ……
「私は、世界を良くしていくのは大人の責任だと思うな」
そう言うとノレアはスッと顔を曇らせて、先程までのようなよそよそしい態度に戻り、吐き捨てるように言った。
「そうですか」
再び押し黙ってしまったノレアに代わって、セツが口を開く。
「あはは……まあ学科長は実際すごい人です。技術者としての能力ももちろんですが、責任感も強くて、リーダーシップもあって、それに……とってもいい意味で強欲な人です」
「強欲?」
「発掘技術保存局、絶対に守らなきゃいけない存在ってわけじゃないんですよ? 生産科が次席の学科だから引き受けることになっていただけで、別に伝統とか義務とかがあるわけじゃないですし、本当に自分の野望を実現するためだけだったら、無くしてしまってもいいはずじゃないですか? でもこうして今年も活動させてもらえてる……この意味が分かります?」
「守れるものは、全部守ろうとしている……?」
「私は、そう思います」
「確かに強欲、なのかな……?」
「まあ、私があんまりかわいい後輩じゃないから余計にそう思うところはあります。窓際の部署にいるくせに要求だけはいっちょまえなんで」
「きっとムギホにとってはセツもかわいい後輩だよ」
「そう……なんですかね? 正直わがままだけの生徒なんて、先生も気に入らないんじゃないですか?」
「そんなことないよ、自分のやりたいことをやるのが一番大事だから」
「ふふっ、ありがとうございます。緊張がやばかったんですけど、ちょっと勇気が出ました」──
──その言葉の通り、打ちのめされかけていたセツは目を剥いてムギホに食ってかかった。
「じゃあなんですか! 一体なにがあったら発掘科を復活させてくれるんですか! そのために私は何をすればいいですか? 私は……私はただ発掘科でみんなと一緒に、キヴォトスの地下にある神秘を解き明かしてみたいだけなんです。なのにノレアと二人だけじゃ……」
ここで、セツの力になるためにはどうするべきなのか。
「ムギホ、私からもお願い。今すぐにじゃなくても構わないから、もう少しセツたちを自由に活動させてあげて?」
「……セツ、お前の情熱はとてもよく分かる。だがあの場所は駄目なんだ。かつての発掘科の、ひいては審査会の過ちを繰り返さないために、旧発掘場の立ち入りは許可できないし、これ以上定員を増やすこともできない」
「過ちって……」
「もしかして、何か問題があるの? 解決する必要があるなら力をかすよ?」
「セツ、分かってくれ。お前たちが不自由なく日常を過ごすためには、必要なことなんだ、頼む」
少なからずムギホができる譲歩は、既に最大限に到達しつつあることがうかがえた。それでは仕方がないかと思ってしまったとき、一つの声が均衡に切り込んだ。
「学科長、私もその過ちについて、疑問があります」
声の主はノレアだった。
「旧発掘場の奥底で、事故があったことは知っています。そしてそれが原因で発掘科が廃止になってしまったことも。ですが具体的に何が起きて、どのような被害があり、なぜその子細について説明が残されていないのかについては疑問に感じずにはいられません。一体全体、なぜ旧発掘場への立ち入りは禁じられなければならないのでしょうか?」
意外な追及だった。尊敬している人物に対して食い下がるというのは、あれほど誇らしげに語ってみせたノレアの態度とは正反対に見えたからだ。
「もしその理由が十分まっとうなのであれば、私からも姉さんを説得します。ですから学科長、きちんと説明してもらえますか?」
聞く限りノレアは、発掘科そのものに思い入れはないはずだった。しかし尊敬する人物と姉との間で諍いがあることを目の前にして、自分の立場だけは自分の考えで見定めたいと、そう思ったのかもしれない。
その態度に一定の理路を見たのか、ムギホはしばしこめかみに手を当てて唸ってみせた後、ひらりと椅子から飛び下りた。そして豊かな胸をゆっさりと持ち上げながら腕を組んで悩ましそうな表情を浮かべると、ぽつりぽつりと話し始めた。
「これは、私がただ伝え聞いたものでしかないということを念頭に置いたうえで聞いてほしい。4年前、旧発掘場の発掘作業中に事故が発生し、それが発掘科廃止の直接の要因になった、これはいいな?」
「は、はい……」
「よく知ってます」
「ではその事故に遭った生徒たちの身に何が起きたかは知ってるか?」
「いえ……」
「知りません」
発掘中の事故……となれば、落盤をはじめとした土木関連作業の事故が連想される。しかし……
「彼女たちは、正気を失ってしまった。より平たく言えば……発狂した。そしてそのほぼ全てが帰らぬ人となった」
「えぇ……?」
「そんな……」
「普通の事故じゃないみたいだね……」
「学科が維持できなくなったというのも比喩の類ではなく、文字通り活動できる生徒がまるっきりいなくなってしまったからに他ならない」
「……」
「待ってください学科長。発狂って……それこそ何があったらそうなるんですか……?」
「それは……当時あの場所で『見つかってはならないモノ』が掘り出されてしまったということだ。そいつを覗いてしまった連中は、そのおぞましさを受け止めきれず、恐怖と狂気の渦に飲み込まれてしまったわけだ」
「恐怖……」
「……」
「たった……それだけで……ですか? そんな地面の下に正気を失いそうな何かが、平然と眠っているとでも言うんですか?」
「旧発掘場は、プレローマでも最も歴史のある遺構だ。そして長い間発掘が続けられ、そしてより多くの生徒たちの手がつぎ込まれ、そしてキヴォトスのどこよりも深く深くへと掘り進められた場所だ。そこに関する知見は無いに等しいし、そこに何が存在しているかを常識で測ることはできない」
「そんな……馬鹿げてますよ……」
直感的には信じがたい事実なのは、ノレアの言うとおりだろう。しかしこれまでキヴォトスを東奔西走してきた経験から言えば、地面の下の奥深くに常識をひっくり返すような事物が息を潜めて眠りについているということは否定しがたかった。名もなき神々の遺産、ユスティナ聖徒会の亡霊、ウトナピシュティムの箱船、いずれも存在していたのは地下だった。
「ノレア、個人的な経験でしか言えないけど、正直ありうる話だと思う」
「先生……」
「そんな、直視してしまうだけで精神に異常を来す代物を相手に、太刀打ちする手をこまねいたという事実を、どうか理解して欲しい。そして一緒に、私が何か意地悪でお前たちの動きを制限しているわけでもないことを、どうか分かってほしい……」
審査会の事情が明かされたところで、沈黙を貫いていたセツが口を開いた。
「学科長は、旧発掘場の地下をどうしたいと思っているんですか?」
「……何の手立ても打ち出せず、時間だけを浪費してしまうのは私も腹立たしいとは思っている。むしろ私がこうして世界を変えたように、この学園に根付いた因縁を握り潰してやりたいという気も無いわけではない。ただ……」
「ただ……?」
「私は……いや、この審査会は、託されたんだ」
「「託された……?」」
セツに連れるでもなく、不思議と私の口も開いた。
「そう……この主査の椅子を預かるにあたって、私は先輩から託された……『プレローマの生徒たちみんなが、何をも恐れることなく、踏みにじられることなく、脅かされることなく過ごせるように』とな……」
「だからわざわざ危ない場所に立ち入らないように……セツたちの活動を制限し続けているんだね?」
「それだけじゃないと思います、先生。旧発掘場の作業が再開されて、その『見つかってはならないモノ』が他の学科の生徒の目の前に曝されれば、彼女たちにも危険が及ぶ……、対症療法的ですが、発掘場自体を封印してしまうのが、合理的なんでしょう」
セツは少しの間目を閉じて、それらの事実を受け止めるように何度か深く呼吸した。そして再び、それでいてしっかりとした眼差しをムギホに向けて訴えかけた。
「なら、私がその因縁を断ち切ります!」
「何?」
「姉さん!? 話聞いてました!?」
「地面の下に何が埋まっているのか、確かに分からないことばかりで、恐ろしい危険が眠っているかもしれません。だけど! それが踏み出す足をすくませるなら、私が代わりに一歩先へ踏み出そうと思います! だって……私はそういうのをずっと楽しみにして生きてきた人間なので」
「セツ……」
「姉さん……」
「それにほら! 私がその恐ろしいモノに打ち勝てれば、プレローマはもっと豊かで、幸せな学園になります! それこそ学科長が大先輩たちから託されたことを、学科長と同じように背負っていきたいんです! どうせ発掘科の再建を目指すなら、学科の運営についても考えなきゃいけないわけですし……そのくらい当然のことです!」
セツの口ぶりはとても前向きだった。明らかな恐怖と課題を前にして、臆した雰囲気をまとっていても不自然ではなかったのに、彼女は胸を張って希望を述べたのだ。その表情に、私も応える必要性があることを感じ取った。
「ムギホ、セツたちのことは私に任せてほしい。だからお願い、セツたちの活動を認めてあげてくれないかな?」
その言葉をどう受け取ったのかは定かではなかったが、ムギホは既に腕を強く組んで思考を巡らせていた。
「うーん……分かる、分かるとも……だがな……うーん……だがなぁ……」
「お願いします!」
「私も、お願いします!」
セツとノレアが深々と頭を下げたところを見て、ムギホの表情がさらに悩ましげに歪んだ。その様子は背負ったものの重さを噛み締めているからであることが、容易に読み取れた。それゆえにこれ以上口出しするべきではないと……そう思っていたところ……
「ムギホ? 少しくらい自分のやりたいようにやっても、よいのではありませんか?」
突如として冷たい振動の残滓が、私の耳元を剃刀のような鋭さでかすめていった。反射的に耳を押さえて振り向くがそこには誰もおらず、むしろ視界の端にいたムギホのそば、デスクに手をつきながら話しかける影がそこにいた。
「あ、安全科長……」
セツとノレアも、突然の来訪者に言葉を失っていた。
安全科長……そう呼ばれた生徒は、アキたち安全科生と同じようにエメラルドグリーン色のウィンドブレーカーに身を包み、これまたアキと同型のクラシックなアサルトライフルを肩に担いでいた。暗い灰緑色の髪が長く腰までのびており、自然と目線が流れる。しかしその流れの先の左の腰元には、人の大腿骨ほどの大きさはありそうな武骨で巨大なリボルバーが重厚な威圧感を放っていた。
「安全科ってプレローマの治安維持とかをやってるんだよね? ってことは彼女は……」
「はい……名実ともにプレローマの武力のトップ、最高戦力です……」
キヴォトスの中でも隔絶された実力を持つ生徒たちは何人かいるが、彼女の放つ雰囲気は冷たい金属のように鋭く硬質的だった。張り付けたようなアルカイックスマイルを僅かにも崩さない表情は仮面のような不気味な印象を覚えさせた。
「……アサヒ、それはどういうことだ? 私はただ、私個人の希望とこの立場に付いてきた責務の比較衡量を果たそうとしているだけで──」
「その責務とは、結局座長がお願いしてきただけのものではありませんか?」
「なんだと?」
ムギホの目つきが一段と鋭くなる。
「別に無視すればいいと言いたいわけではありません。ただわざわざその責務に縛られて、あなたの目指す世界が半端なままに終わるのは、きっと座長も本意ではないのではありませんか? ということです」
「それが、危険を冒すことを正当化するのか? 安全科がそれを言ってしまったらおしまいだろうに……」
「どうでしょう? 私の立場から言わせてもらえば、あの爪痕に怖気づいて人払いをし続けることは、あなたの目指す完全な『新世界』の大きな瑕にしかならないと思います」
「……ちっ」
「何も大きな犠牲を払えとは言いません。ただ当代のプレローマを率いているのはムギホ、あなたです。ならただの伝説に従い続けるのではなく、あなた自身がきちんと宣言するべきだと言いたいのです、病巣を根絶するのか、白旗を上げるのか、ね?」
「ふうむ……」
するとムギホはまた眉根を詰めて思考を巡らせた。しかし今回は安全科長──アサヒと呼ばれた生徒の挑発に乗ってか口角を釣り上げて、どう攻勢に出るかという手について考えている様子がうかがえた。そして再びどっかりと椅子に腰掛けて脚を組むと、私たちの方に体の向きを合わせてピッと指を差した。
「いいだろう! 旧発掘場の調査について許可してやる!」
「……ええっ! ほ、ほんとですか!?」
「ああ、そうだセツ! お前の目で証明してみせろ! プレローマの過去に我々が立ち向かえるのだと! そしてそれを背負う覚悟を見せてみろ! 発掘科の意地としてな!」
「はっ……はい!」
勇ましい指令に腹からの声で応えたセツに、私も祝福の声をかける。
「よかったね、セツ」
「先生……ありがとうございます!」
「姉さん、私からも……おめでとうございます」
「ノレア〜〜お姉ちゃんはうれしいよ〜〜」
「なっ……別に普通のことじゃないですか! っていうか急にベタベタしないでくださいって……!」
「セツ、浮かれるのは待て」
「えっ、あ! はい……」
全身で喜びを表現するセツに向けて、ムギホは一つ大きな釘を刺した。
「調査をする前に、当時の資料を改めてまとめておけ。無策で突撃することは容認しない。そしてそのために……座長に話を聞いておけ」
「座長……ですか? 確かに座長は5年生で、当時を知る人だとは思いますが……」
座長。アサヒも言及した、彼女たちの先輩と思しき人物だ。
「いや、座長にこそ聞くべきだ。なにしろ座長は……あの事故の唯一の生存者だからだ」
「「「えっ……」」」
「アサヒ、座長のもとへ案内してやれ」
「いいですよ。では皆さん、早速行きましょうか」
まさかの重要人物の存在に驚く間もなく、私たちはアサヒの冷たい威圧感に押しやられて、学科長室を後にした。
ガチャッ、ギィ──
生産科の建物から中庭に出て、私たちは座長のいるという準学士研究科棟へと向かっていた。無機質だった街並みとは反対に中庭には花壇が整えられ、差し込む陽光とともにとても穏やかな雰囲気を醸し出していた。
一方で数歩先で私たちを先導するアサヒは、非常に淡々と歩みを進めるばかりで、積極的な雑談には興味がなさそうだった。
「アサヒも基盤研究審査会のメンバーなんだよね?」
「ええ」
「仕事も多くて大変だったりしない?」
「大変ではありません。私も安全科長の職を仰せつかっている以上、学校運営の役割もきちんと果たすことにしています」
アサヒは真っ直ぐ前を向いたまま疑問に答える。人当たりの良さそうな声とは裏腹にわずかにも崩れない立ち姿から滲み出る雰囲気は、凛としたというよりは冷たさを隠しきれていないもののように感じられた。
「あんまり生徒会の仕組みとかには詳しくないけど、風紀委員長みたいな立場の生徒が生徒会役員もやってるって、結構珍しいよね?」
「そうですね」
「安全科が主査になったりすることもあるの?」
「いいえ。武力組織が政治の実権を握るというのは好ましいことではありませんから、安全科が審査会の主査を務めることは原則としてありませんね」
学園最強生徒、という触れ込みがどのようなイメージを持つかは多種多様だが、アサヒはその中でもかなり理性的で冷徹な印象を覚えさせた。
「先生は他の学園の強い方とも知り合いなんですか? たとえばその……ゲヘナの風紀委員長だとか、あとトリニティの正義実現委員長とかもとんでもない傑物だって言いますよね?」
「あはは、もちろん知り合いだけど、そんな怖い生徒じゃないよ? みんな良い子だよ」
好奇心を示すセツに答えつつ、アサヒにも話を振る。
「アサヒも他の学園の生徒に興味ある?」
「いいえ」
「誰がキヴォトスで一番強いのかとか、気にならない?」
「なりませんね」
「友達になりたい子とかいるんじゃない?」
「まさか。向こうにしてみれば、私を引き合わせられたところで困ることでしょう」
「そんなことないと思うけどなあ……」
他学園の強者と聞けば、ネルあたりはむしろやる気になりそうなものだが、アサヒはまるで興味を示さず真っ直ぐ前を向いたままだった。
「安全科長はその……プレローマの平和のために身を粉にして活動していらっしゃいます。実際現体制になってから自治区内の犯罪発生率は大きく減少したそうですし」
「そうなの? それはすごいね」
「まあ安全科っていえばもともと学園中に監視の目を光らせてる感じの学科ではありますよ? ただ少なくとも私が入学したときよりも今の生徒会のやり方の方が、平和だなーって感じはしますね」
下級生から見れば、アサヒの冷徹さは治安維持の徹底ぶりを体現するものらしい、実際役職持ちらしいアキはかなり折り目正しい印象があった。まあそれでもガスボンベを吹き飛ばしたショウコのような人物がいるところを見ると、やはりプレローマもキヴォトスの一部なのだなと思ったりするが……。
「お世辞だとしても褒めていただいたのですから感謝を示しておくことにしましょう。ただ──」
こちらに背中を向けつつも、少しだけ感情を込めた反応をアサヒが返す。しかし続けて彼女は一つ念押しした。
「──私が守っているのは平和ではなく、『安全』です。あなたの考える正しさを私が共有している保証はない、ということにご留意ください」
いささか不可解な言い回しに生返事で答えていると、一つの長い長い影が中庭を二つに割っている所に出くわした。
「ここが準学士研究科棟です、どうぞ」
北向きの裏口の周りには、中庭中に咲いていた花壇の花は見当たらなかった。その雰囲気と同じ表情を準学士研究科棟はしているように見えた。
「おじゃましまーす……なんて」
ガラス扉を開けて中に入ると、ぱちぱちと自動点灯の照明が点く。館内は静まり返っており、私たちの足音が小さく反響して聞こえてくる。
「な、なんか緊張しますね……あはは……」
「私たちからすれば大先輩がいらっしゃる場所ですから、当然ですよ……」
身をすくめるセツたち姉妹に代わろうと、質問を投げかける。
「高専っていうだけあって、やっぱり5年制なんだね」
「そうですね」
「4年生以上はみんなここにいるの?」
「そうですね」
「にしては人がいる感じじゃないね」
「そうですね」
「あれ? みんな進級するんじゃないの?」
「いいえ。実際に4年以上在籍する生徒はまれです」
「そうなの?」
「基本的にキヴォトスでは高校生で学園生活を終えてしまう生き方が大半ですからね〜、実際プレローマでも3年分勉強すれば高校生として卒業できるシステムになってますよ」
「そうなんだ」
途中からセツが説明したことを踏まえれば、確かに学生で居続けることに興味を示さない生徒にとって、満期で卒業することの意味というのは薄いのかもしれない。
「じゃあその……座長の子はどうして最後までいることにしたのかな?」
「さあ……私は会ったことないんで……、安全科長は何か知ってますか?」
セツの問いかけに対してアサヒはエレベーターのボタンを押しながら答えた。
「どうでしょうか? 少なくとも私の口から説明するよりも、本人に直接聞いた方がよいでしょう」
そう言ってアサヒはエレベーターに乗り込むように私たちを促した。
――チーン!
エレベーターから降りると、そこは既に一つの大きな部屋の中だった。アサヒはエレベーターのそばの通話機を取って連絡を取り始めた。
「こちら
部屋の中は沢山の資材と加工設備で埋め尽くされ、一つの空間でありながら全景を見通せなかった。エンジニア部の作業スペースのような大規模な機械が空間を占領しているような感じではなかったが、スタンドに立てかけられた小銃や砲身の数々が物語っているのは、この部屋の主が一日の大半を制作作業に費やしているという事実だった。
そんなふうに部屋の中へ視線を巡らせていると、ガサガサと荷物をまたぎながら移動してくる人影が見えた。紅のブレザーに身を包んだその人物こそ、私たちの目的の生徒であることがうかがえた。ぞっとするほど蒼白なロングヘアに、なぜか眼鏡とサングラスをかけた、一目で印象に残りそうな風貌の人物だった。
「いやはや、お待たせしたね。話は聞いているよ。わたしがこの学園の座長、
「赤本セツです! よろしくお願いします!」
「同じくノレアです」
「シャーレの先生です」
「うん、ご足労かけたね。んじゃあこっちに来てもらおうか、お茶くらいは出してあげないとね」
「座長、代わりにお淹れします」
「あそう? じゃあアサヒにお願いしようかな。他の子たちはこっちね」
いくつかの段ボールをまたぎながら、チエの後について部屋を移動する。どうやら居住スペースにしていると思しき広々とした空間に出ると、チエはキャスターつきの椅子をいくつか引っ張って来た。
「ちょっとごめんだけど、そこの机動かしてもらえる?」
「あ、はーい」
「ありがとね、この部屋あんまり沢山人が来たりしないからさ」
えっちらおっちらとテーブルを動かしながら椅子が各々に配られ、私たちは次々と席に着いた。
「ふぅ……じゃあまずは用件を聞こうかな」
「ええっと、旧発掘場の発掘再開に向けて、4年前の事故についてお話を伺いたくて……」
学園の長老を前にして緊張しているのか、セツは何度も唾を飲み込みながらも一言一言を手繰り寄せるように喉の奥から引っ張り出していた。その様子を前に、チエはいささか神妙な面持ちでセツの言葉を聞いていた。一見後輩に対しても親身な姿勢であるように窺えたが、その表情にはどこか落ち着かなさが見え隠れしていた。
「ふむ……そうだね、まあ何があったかだけ話してあげてもいいけど、とりあえず説明するべきことから説明することにしよう。この学園について、詳しくないお客さんもいることだしね」
チエはゆっくりと椅子にもたれかかりながら、私に一瞥をくれた。
「まず、この座長という地位について……字面どおりに受け取れば、この役職は基盤研究審査会の進行役だ。だが実際には議長と呼ばれるほどには審査会への直接的な影響力は持っていない」
「じゃあ、名誉職みたいな感じなんだね」
「そう、長くプレローマの舵取りを担ってきた功労者へ用意された席のようなものだ」
「それじゃあ、チエも主査をやっていたの?」
「ええ、実際にわたしは2年前に審査会の主査を務めている」
「そして同時に……あの事故の生き証人でもある……わけなんですね……」
私とチエの会話の横で、セツが固唾を飲む。するとアサヒがティーポットとカップを携えて戻ってきた。
「座長という役職にはもう一つ役割があります。それは、主査として築き上げてきた学園の姿を見届けることです」
アサヒはカップを並べてお茶を注ぎつつ、淡々と説明を続ける。
「プレローマの生徒たちは、どのような立場であれ、審査会が目指して構築した学園環境の中で過ごすことになります。もちろん次の代でまるごとその仕組みが変わってしまうことはありません。そのため主査──まあすなわちプレローマに5年といようという人間には、それを目に焼き付ける義務が生じるのです」
滞りなく給仕と解説を同時に行うアサヒから、みなカップを受け取る。しかしチエは顔を窓の外に向け、手元にカップが置かれるのをただ待っていた。感慨も憧憬も無く、ただ外の方を見ていた。私は、ふと疑問を投げかける。
「もし、何かやり残したことがあったら、どうするの?」
「何もできませんよ。勤めを終えた人間に、あれこれ口を出す権利は与えられていません。砂浜に描いた絵のように時代の波にさらわれて痕跡が消えていくのを待つか、あるいは小さな過失が大きな破局へと育っていくのを黙って見ていることしかできません。だからまあ……せめて良い流れができてほしいと、祈るだけですね」
今日この場で尋ねようとしていることは、チエにとってどのようなものなのか……。そう質問しようとしているのを察知したのか、チエは椅子に腰掛け直すと、両肘をつき、口元で手を組んで不敵にこちらに臨んだ。
「本題に入ろう。あの日あの場所で、何があったかだね」
「ざ、座長がその……ただ一人の生き残りだというのは、本当なんでしょうか……?」
「生き残り……か……。嫌な称号だね」
「す、すみません……」
「謝らなくていいよ。ただ……わたしはずっとその責任を背負い続けてるっていうだけだから」
責任──このキヴォトスで、多くの生徒たちを迷わせてきた単語だ。ある生徒は身に余るものを背負おうとし、ある生徒は押しつぶされながら這いずるように生きていた。このプレローマという学園を最も長く見続けてきたチエは、いったいどれほどの責任を背負っているのだろうか。
「ふぅ……じゃあ明かしておこう。わたしが、わたしこそが、あの発掘場の最深部で見つけてしまった生徒なんだ。わたしのせいで数多の学友が狂い、発掘科の命脈が絶たれてしまったんだ」
彼女が、チエが──
「えっ、えっえっ……じゃあ……」
青春の物語、その外典の──
「あなたのせい、だってことなんですか……?」
すべてのはじまりの人間。
「そうだ。わたしがすべての元凶だ」
プレローマの歴史の生き証人が告白したその内容は、私たち──私とセツとノレアを衝撃の波に呑み込ませていった。チエは大きな恐怖心を落ち着けるかのようにゆっくりと息を吐く一方で、アサヒは顔色ひとつ変えずこの場の人間たちをじっと見つめていた。
「ど、どういうことか、続きをお願いできますか?」
「……ああ。まず、プレローマの発掘科が長きに渡って発掘作業に取り組んでいた場所があの発掘場だというのは皆分かっているだろう。当時1年生だったわたしも、その最前線で発掘に取り組んでいた生徒の一人だった」
「でも座長って今は銃砲科の所属ですよね? 服装的にも──」
「まあ待ちなさい、すぐ説明するから。それで、ある岩盤層を取り除くためにクレーンを下ろしていた時だ。下っ端の1年生は地面とにらめっこして作業するなんてことはできなくて、大きな岩をクレーンをロープで繋ぐみたいな、もっと繊細さを必要としない作業をする役割があったんだ。でもね」
「でも?」
「わたしは……我慢できなかったんだ。岩盤の下、まだ誰も知らぬ神秘、深淵、その先にあるものを、真っ先に、どの先輩たちよりも早く、見てみることを望んだんだ」
沈黙が、その独白を受け止める。目の前で聞くセツが、当時のその気持ちを理解せんとするように、真っ直ぐチエに向かい合う。
「だから、わたしはそっとのぞき込んだんだ。クレーンで持ち上げられていく大岩と、厚い岩盤の隙間の、その暗闇の奥を……」
ぼうっと遠くを見ていたチエが、ふとセツへと視線を合わせる。
「そこに、何があったと思う?」
「えっ、あの……そうですね……、こう……謎の文章が刻まれた石版みたいな……」
多くの生徒を狂気に陥れたという前情報から推測するなら、あり得そうな回答だった。しかしチエは少し微笑んでから、また視線を遠くへやった。
「そこにはね、もう1人のわたしがいたんだ」
「え……?」
「いや、もう1人のわたしがいたわけじゃないな。そこは鏡のような……そう、昏い水面があったんだ。だからそこをのぞき込んだわたしの顔が、写って見えたんだ」
「何かがあったわけじゃない……んですか?」
「そう……かもしれない。ただはっきり覚えているのは、その鏡像のわたしは、こちらのことが見えていないかのように、自分がこの世界で唯一崇高であると確信したように得意げに笑ったんだ」
「それで……座長は……何をされたんですか……?」
「……いや……何も……ただ見ていた……」
「っ……」
「何もできなかったのはその通りだ。だってすぐにその場は絶叫の渦に飲まれていたんだからね。大きな岩塊が除けられて、その下の暗黒が露わになったんだ。そしたらそこを見た同級生や先輩たちが、そろって狂い始めた。びっくりしたよ、遥か上で作業していたはずの友人たちが泣き叫ぶ声まではっきり聞こえたんだから。わたしはひとまずその場を離れたよ。顔を覆って血涙を流しながら倒れていく生徒たちを横目に見ながらね……」
「それじゃあ、その時の発掘科の皆さんは……!」
「みんな……無事では済まなかった。わたしを呼びに来た生徒、まだ正気の生徒を助けに来た生徒、地獄の渦中の状況を伝えようとした生徒、そこであの暗闇を少しでも覗き込んでしまった生徒は、全員狂気の渦に飲まれてしまった」
「そんな……」
「わたしは、たった1人で逃げたよ。何もできない気しかしなかったから」
語る度に目から光が失われていくチエを前に、思わず口を挟んだ。
「チエ、それは仕方がないことだと思うよ。こうして君が生きていることが大事だから」
「ははは、先生は慰めがお上手ですね……確かにあの日あの場所で、ベストな行動が取れた人間は、誰もいなかったことでしょう」
小さく息をつく私とチエを前に、ノレアが問いかけた。
「1つ、聞いてもよろしいですか?」
「いいよ」
「その暗闇の中を、座長は直に覗いたというのに、なぜ他の先輩方は狂気に堕ち、なぜ座長は無事でいられたのですか?」
「ふむ……わたしが思うにね、きっと直接目を合わせたからなんだ。強い絶望が視界に映ってしまえば心が闇に支配されてしまうだろう。だけどそれとまっすぐに目を合わせた人間なら、その闇と向かい合い続けることができるんだ。いや、むしろ、目を逸らすことが許されなくなると言った方がいいだろう。狂ってしまうこととは絶望から逃げることだからね」
「狂うことは、絶望から逃げること……」
「チエはその絶望から逃げなかったんだね?」
「まあ、そうですね……もっともやはり、逃げることが許されなかっただけだとも思いますが」
チエのここまでの歩みの重さを噛みしめるように私たち三人は沈黙を守っていると、アサヒが代弁するように口を開いた。
「セツ、もっと聞きたいことがあるのではありませんか? その事故からプレローマが何をしてきたのか、何故発掘科を廃止しなければならなかったのか、そういうことが聞きたかったのでは?」
「えっ、あっ、そ、そうですね! はい……ええと、なんでなんでしょうか、座長……?」
「安全科長、姉さんをそんなにいじめないでもらえますか?」
「まあまあノレア、アサヒも悪気があって言ってるんじゃないだろう、大目に見てやってくれないか? さて……それじゃあセツの疑問に答えようか。その事故によって発掘科は壊滅状態に陥った。ベッドの上で二度と正気に戻らなかった生徒もいれば、助け出すこともできず大穴の底に置き去りにされたままになった生徒もいた。その中でわたしは唯一まともに口が利ける生存者だったわけだ。そんなわたしを当時の審査会はじめプレローマはどう受け止めたと思う?」
「正直なことを言えば……めちゃくちゃ責められたのかなと思ったり……」
「まあ、そうだろうね。わたしも1人逃げ帰ってきたことに気付いた時には肝が冷えた。だけど過去のプレローマはわたしを責めなかった。むしろ他の発掘科生を置いてまで、わたしのことを気遣ってくれた」
「やっぱり、1人でも帰ってきてくれたことは嬉しいことだったんですかね?」
「……いや、そうではないかな」
チエがその一言を紡ぐまでの時間は、妙に長かった。
「たぶん、皆見ないふりがしたかったんだと思うな。あの恐ろしい深淵に、誰も立ち向かおうとする勇気が出なかった。だから私1人に目をかけて、忘れようとしていたんだと思う」
「それじゃあ発掘科を廃止したのは……いったい誰……?」
「それもわたしだ、2年前、わたしが3年生のときに廃止を決めた」
「自分の手で、自分の居場所を閉じたってことですか?」
「そう、だね。正確に言えばわたしがしでかしたことにわたしの手でけじめをつけたのさ」
「反対された方はいなかったんですか?」
「ああ、いなかった。わたしの代から主査を決めようとしたとき、わたしの他に誰も手を上げなかったから。誰も、あの恐怖を引き受けることができなかったから。わたしがやるしかなかった」
「それで、発掘場も閉鎖したんですね……」
「そうだね。わたしが、あの大穴を石棺の中に封じた。これ以上、後輩たちがあの暗黒に怯えないように」
「外部への活動を縮小したのもその判断の一環ですか?」
「いや、もとよりあの事故からプレローマは意気消沈していたからね。部屋の隅で膝を抱えていたようなものだった。だからわたしはなんとかしてその傷を癒やすことに精を出した。もう一度プレローマが立ち上がれるように、1人で歩いていけるようにね」
そう言うとチエは窓の外に目をやった。懐かしんでいるのか、愛おしんでいるのか、どちらともつかない眼差しだった。
「もう1つ2年前にやらなければならなかったことが、後に続いてくれる後輩たちを探すことだったんだ。プレローマを豊かにして、安心して過ごせる場所にできる資質を持つような、そんな子たちをね。そこのアサヒもその1人だ」
「そうですね。もっと言えば当代の基盤研究審査会メンバー、すなわち各学科の学科長を見出したのが座長です」
「うわぁ……すっごい……全員ですか?」
「ちょっと不正確かな。ムギホに関してはわたしが声をかけなくても今の地位に上り詰めていただろう。そういう意味で全員ではない」
「あっそうなんですか……」
「まあ学科長のハングリーさは生来だろうなっていうのは分かります」
「……座長、お話の続きを」
少しだけ自慢げなチエの話に反応するセツとノレアを、アサヒは相変わらず直立したまま見つめていた。まっすぐでいてまっすぐでしかない視線が表すように、アサヒは説明を促した。
「分かった分かった、そうだね、それで君たちには、わたしの希望を託したわけだ」
希望──ムギホも言っていた、「プレローマの生徒たちみんなが、何をも恐れることなく、踏みにじられることなく、脅かされることなく過ごせるように」という言伝のことだろう。
「恐怖や
「消し去った、じゃなくて?」
思わず訊いてしまった。
「ははは、それができるのであれば、事態はもっと簡単に済んでいたことでしょう。……私は穴掘りくらいしかできない生徒でしたから、せめて恐怖を衆目から遠ざけるのが精一杯でした。そして更地になってしまったプレローマを立ち直らせるには、もっとたくさんの知恵が必要でした」
「だから、後に託したんだね」
「ええ」
感傷、あるいは後悔の色がその声には強く宿っていた。その感覚をこぼさないようにきゅっとまぶたを閉じたチエは、再び語り始めた。
「実際のところ、壊すより直す方が大変なことであるように、わたしに残された時間は少なく、どれだけ頑張っても志半ばで復興が途絶えてしまうと感じていた。だから当時の1年生たちの中から、次代を背負えそうな子を見出した」
「それが今の審査会の先輩たちですよね? どんな基準で選んだんでしょうか?」
「それは……周囲から爪弾きにされているような生徒だったかな。意外かもしれない、でも周りから欠陥の烙印を押された子たちほど、その空気に抗おうとすると、そんな気がしていたから、あえて選んだ。それくらい当時のプレローマに充満していた憂鬱は濃厚で強固だったからね」
「……」
チエの真意を知っているのかいないのか、選ばれた当事者であろうアサヒはじっと黙っている。
「そしてそんなことをしているうちに3年生の時間は終わった。後の学園運営は後輩たちに任せて、わたしはここ、この部屋に収まり、プレローマを見守ることにした」
「卒業はなされなかったんですか?」
「それは──まあ、後の2年くらい真面目に学ぶということをしてみたかったからかな。あの日以来ずっとろくに勉強することもできないくらい毎日駆けずり回ってばかりだったからね」
チエはあっけらかんと笑って、作りかけと思しきリボルバーを取って弄んだ。撃鉄を起こして、何もない方向へバァンと口で銃声を呟きながら引き金を引く。カシャッという駆動音が鳴るも、すぐ静かに空間へ消えていった。そしてチエはリボルバーを机に置くと、セツとノレアの方に体の向きを合わせて言った。
「それじゃあ最後に質問に答えてもらおうかな。わたしが託した希望は実現できていると、君たちはそう思うかい?」
「ええっと……そうですね、少なくとも毎日のご飯と寝る場所には困らないので」
「脅かされていないかどうかは、何とも言えないですね。ただ外に出向いていないだけだとも思いますが」
「ノレア、そんなことはないと思うよ。先生は私の声に答えてくれたし、きっと他の学園の人とも仲良くなれると思うな」
「いやまあ……そうかもしれないけど……」
セツのノレアの返答を聞いて、チエは少し満足そうに微笑んだ。
「それならよかった。まあもっとも、あの日一変してしまった世界を知らない君たちには、本当の意味で比較できているわけでもないだろう。でもそれでいい。あんな恐怖を知らないでいられるなら、それが一番幸せだ」
そう言ってチエは少し目線を伏せた後、私の方を見た。
「先生も、何か聞きたいことがあるんじゃないですか?」
「えっ? そう思う?」
「何の興味もなくここへ来たわけではない。違いますか?」
「はははっ、そうだね……」
少し視線を巡らせて、目の前にいる、少し他の生徒たちより長く道を歩んだ生徒のことについて考える。今のこのプレローマという学園が抱える問題について、彼女は強い自責の念を覚えていた。苦難を前に何もできなかったという思いばかりを募らせていた生徒を、私は知っている。ただチエがその生徒と違うのは、自らが事態を引き起こしたという事実が確かであることだ。だからチエが学園中を奔走して立て直したその結果も明確で、無価値ではありえない、疑う余地もない。だが──
「チエは、やるべきことは全部やったって、自信がある?」
「まあ、もちろん1人で成し遂げたいことを為したという自信はありません。無いからこそ後に託したので」
「それじゃあ、君にはまだやるべきことがあると思ってる?」
「いいえ、1人ではできないことは全て託しきりました。きっと成し遂げてくれると信じていますので、わたしの役割は終わりました」
「じゃあ──君は今、自由かな?」
「……」
チエは身体を硬直させて、私の質問を受け止めた。まるで時が止まったように動きを止めていた。そして大きく息を肺に取り込んでから、短く答えた。
「……ええ、自由ですよ」
「そうなんだね、じゃあ、君を信じることにするよ」
少しだけ張り詰めた空間を前にして、セツがおそるおそる口を開いた。
「ええっと……それで……旧発掘場の件なんですけど……」
「いいよ」
「うぇっ!?」
「いいんですか?」
「ああ、どのみちこの立場に後輩たちのやることへ口出しする権利はないからね」
「でも、姉さんのやろうとしてることって、ぶっちゃけ座長の思いを台無しにしかねないんじゃ……」
「いや、構わない。いずれこういう時が来ると思ってたさ」
「はぁ……」
「まあ1つおすすめしておくとしたら、発掘場をそのまま掘り進めるんじゃなくて、石棺を作ったときの道を辿るということかな」
「石棺? あの穴の途中にある構造物ですか?」
「そう、大穴を封印するためのフタなんだけど、それを作るために使った工事用の坑道があるんだ。今資料を管理してるのは安全科……だよね?」
「はい」
「うん、じゃあアサヒ、ちょっと手伝ってあげなさい」
「了解しました」
「うわぁん! ありがとうございます!」
意外にも快く賛意を示したチエを前に、セツは喜びをあらわにしていた。
「ふぅ……しかし、もうこんな時が来るなんてね」
「ん? どういうことですか?」
「いや、もう少しみんなあの大穴に怖気づいているかと思ってたからさ、わたしが卒業してからじゃないと手を付けない気がしてたんだけども。まあいずれ癒やされなければならない傷跡だ。早いに越したことはないんだろうね」
感慨深そうに語るチエの傍らで、アサヒは冷たい表情を崩さなかった。そしてあえて水を差すように、私に訊ねた。
「先生、せっかくですので私からも1つ質問していいでしょうか?」
剃刀のように鋭い声がみんなの口をつぐませ、まるで亀裂から水が流れ出るように私に返事をさせた。
「いいよ」
「……先生は、このプレローマが抱える過去について、ご自身もそこに踏み入るつもりであると、そう考えて良いでしょうか?」
「……うん」
「セツが求めたから、ですか?」
「どういうことかな?」
「セツに力を貸すために先生はこの話に顔を突っ込むのかということです。ただ助力をするためだけであれば私が付き添うのが最善であると、私はそう考えます」
「……いや、違うかな」
わずかにも揺れ動くことのない瞳が、私の心の奥までをも見透かそうとばかりに私の眼を貫いてくる。
「確かに地下へ降りていくだけなら私よりずっと適した生徒はいると思う。だけどセツはそれだけを望んでいるわけじゃない」
セツは、もっと広い世界を見ている。
「セツは自分以外の、この学園自体を良くしていくために、過去に向き合おうとしている」
最初は小さな欲望かもしれない。けれど顔を上げて視界が開ければ、いずれ大きな希望になる。
「それなら私も、最後まで付き合ってあげないとね」
この部屋の誰もが、私の言葉を聞いている。ある生徒は胸を抱きながら、ある生徒は驚きを浮かべながら、またある生徒はこの応答の当事者たちを見定めながら、次に何が問われるのかを待っている。
「……いくつか、理解できないことがあります。あなたはまず非力だ。これから入る闇の中で己を守る火の衣さえ持たないあなたは、どれほどのことをなし得るのでしょうか?」
「私は……大丈夫」
「根拠は?」
「無い……だけど信じてほしい。生徒を守るのが大人の役目だから」
「安全管理の面からは不十分すぎる回答です。安全科としては、いかなる犠牲も許容しません」
「なら約束する。みんな無事で帰ってくるって」
「口約束に過ぎませんよ?」
「……それでも」
視界の端で、セツが何度も声をあげようとしているのが見えた。しかし私とアサヒの間に張られた緊張の糸が喉に這っているものだから、容易い口出しは許されなかった。
「……では、安全科長として責任を負うことはしないことにします。しかしもう一つ──」
周囲に張り巡らされていた糸が弛む。その代わりに──
「──あなたがこうして物語に介入して、何かが良くなる保証はあるのでしょうか?」
私以外を回答の台から疎外する。
「どういう……ことかな……?」
「座長の言う通り、今のプレローマは傷を癒やす途上にあります。しかしそれは、ただ元通りになる以上の羽ばたきのためかもしれません。いわば蛹のようなもの……。それに手を触れることは、羽化の手助けになるよりも命脈を絶つ可能性の方が高いでしょう。ならば先生、あなたのようなプレローマの外の者は、そっと道行きを期待しながら放っておくことが勧められるのではないでしょうか?」
「それはもちろん私の利害関係から手を貸そうとしているわけじゃない。私はただ生徒の頑張りを見守ろうとしているだけだよ」
「その、『見守る』ということが危うさをはらんでいることはお気づきでしょうか? あなたがこうして目を向ける、たったそれだけでプレローマの営みはあなたの物語に取り込まれてしまうのです。……セツの望みは、隠されていたひずみに触れる行為です。あなたが物語に組み込んでしまえば、封じ込められていた危機が解き放たれることは必至であると、そう認識しています。先生、あなたはそれでも、セツとともに行きますか? 脅かされなくてもよかった危機にプレローマを晒すということが分かっていても……」
アサヒに合わせられた視線を、逸らすことができない。周囲の様子──セツとノレア、チエがどんな表情で私を見つめているのか、確かめることができない。だがアサヒがそうさせているのは、誰かの眼を気にして答えなくてもよいという、優しさであるようにも感じられた。
「確かにね。隠されていたままでなんとかなっていたことは、隠されたままにしておいた方がいいのかもしれない。それで大切な日常が維持されるのなら、そっちの方がいいのかもしれない。それに私はここのことをよく知らない部外者だっていうのも正しいことだと思う」
「ではここで手を引きますか?」
「いや、引かないよ。私はもう部外者じゃないから」
「……その心を聞きましょうか」
「セツは、決してただ好奇心のためだけに発掘科を復活させようとしているわけじゃない、この学園が失ったもの、目を背けたものにも向き合おうとしてる」
「若気の至りを共にしようということですか?」
「それだけじゃない。過去に向き合いたいという思いは、きっとチエも持っていると思う。できることなら、そのわだかまりも一緒に解決したいと思う」
「座長はもはやプレローマに関わる人物でありません。その行く末に責任を負う人物でもありません」
「いや、チエも同じだよ。目の前で困っている生徒がいたら、手を差し伸べるのが先生だから」
「……そうですか。しかし先生、あなたがここで手を引けば、たとえ一時のまやかしであっても、彼女たちに安寧がもたらされることは確かではありませんか? 何が潜んでいるかも分からない藪の中に棒を突っ込むことは危険だと、そうは思いませんでしょうか?」
確かに、ここで本を閉じてしまえば、ここから先彼女たちに降りかかる災いというものが認識されることもないだろう。そうかもしれない。だが──
「それは違うよ。私はもう無関係ではいられない。こうしてプレローマに来た以上、いや、セツからのメールを受け取ってしまった以上、物語は走り出してしまったから。だから私だけ離れるなんてことは許されない。最後まで一緒に立ち向かわなきゃいけない。だから……私は引かないよ」
答え抜いた。
「では、約束してください。この物語が終わるまで、私たちを見捨てないということを」
「もちろんだよ」
「──言質、取りましたからね」
「うん」
するとアサヒはスッと目を閉じて、私を縛っていたものを解く。
「先生……」
いつの間にかセツが側にいた。
「ありがとうございます……最後までいると言ってくれて……」
「なんてことないよ、私はずっとそうしてきたから」
「私は正直びっくりなんてものじゃなかったですよ……なんですか先生? 姉さんを勝手に口説いたら容赦しませんから」
「そ、そんなつもりはないよ!」
怖い顔をしたノレアから目を逸らすと、いつの間にかチエの姿が消えていたことに気づいた。そしてその空間の空白を遮るように、アサヒが私たちの前に立った。
「皆さん、そろそろお時間です。坑道の資料についてはアキに頼んでいますので、そちらを訪ねてください」
アキ……旧発掘場の前で会った、安全科の二年生だ。
「ありがとう、アサヒ。ところでチエは?」
「お手洗いです、失礼をお許しください」
「ううん、大丈夫、いろいろ教えてくれてありがとうね」
「いえ、ではエレベーターまで」
そう言うとアサヒはまた、私たちの先に立って歩き出した。彼女を追っていつの間にか整理されていた動線を通り、再び籠に乗り込むと、アサヒは少し用事があると言って私たちを見送った。