「あ、やっべ。歴史の教科書も忘れてる……」
「もー! ほら、また机寄せたげるから」
午前の座学が始まったばかりの教室で、あかりが隣の席から呆れたように机を半分寄せてくれた。
「悪いあかり、助かった……! 最近ちょっと物忘れが多くてさ」
「ちょっとじゃないし! 昨日だって食堂の食券買い間違えて結衣に止められてたじゃん」
あかりのツッコミに、前方の席から振り返った結衣がクスクスと優しく笑う。結衣の膝の上では、いつものように宵が眠たそうに瞳を擦りながら「……迅、あさからぼーっとしてる。おバカ加速してる……」とぼそりと呟いていた。
「うぐっ……宵、ストレートに刺さる言い方はやめてくれ……」
苦笑いを浮かべながら、迅は自分の頭をポカポカと叩いた。
氷華に完敗したあの日から、迅の鍛錬は限界を超えて過熱していた。学園の授業に始まり、弟や妹たちへ仕送りをするための冒険者ギルドでの深夜の依頼、そして放課後の『迅雷・襲』を超えるための激しい自主鍛錬。
(俺は9人きょうだいの長男なんだ。家族の生活もかかってるし、学園には氷華みたいな化け物じみた強敵がいる……俺が立ち止まってるヒマなんてねぇんだ)
長男としての強い責任感、そして氷華の隣に立ちたいという焦り。それらが迅の視野を狭め、無自覚のうちに肉体と精神を確実に蝕んでいた。
教科書の忘れ物。食堂での買い間違い。
日常のほんのわずかな小さなミス。
普段の迅なら笑い飛ばせるような微細な綻びが、彼の中で確実に積み重なっていた。
「……迅さん」
通路を挟んだ隣の席から、静かな声が届く。
白銀の髪をなびかせた零条氷華が、瑠璃色の瞳を深く細めて迅を見つめていた。その瞳には、迅の目の下にうっすらと落ちたクマと、微かに震える指先を正確に捉えている色があった。
「授業の後は実戦演習ですわ。無理はおやめなさい」
「へーきへーき! 俺のタフさを舐めちゃ困るぜ、氷華!」
「……なら、いいのですが」
迅はいつものように親指を立てて破顔してみせたが、氷華の表情は晴れないままだった。
◇
午後の実戦演習——『演習用擬似ダンジョン』。
薄暗い岩場が広がるエリアで、生徒たちはパーティごとに指定されたエリアのゴールを目指していた
迅とあかりのペアは進路を阻むゴーレムたちと対峙していた。様々な形をしたゴーレムは、プログラムされた魔物の動きで生徒たちと戦っていた。
「出たな! あかり、遠距離からのバックアップ頼む!」
「りょっ! ウチの《
あかりが二丁拳銃を構えてピンク色の爆裂弾を連射し、激しい爆風と炎がゴーレムたちの体勢を崩した。
完璧な隙だ。本来の迅であれば、瞬時に踏み込んで《
「行くぜ、『迅ら——!」
足元に青白い雷光を爆発させ、地を蹴——その瞬間、迅の視界がぐらりと大きく揺れた。
(あ……れ……!?)
激しい目眩。過労と魔力回路の酷使が最も集中を要する踏み込みの足踏みで致命的なラグを生み出した。踏み出すべき足が、自分の意図した位置よりもわずかに数センチズレる。岩場に足を取られて膝がガクリと折れた。
「迅!?」
あかりの悲鳴が上がる。
体勢を崩した迅の目の前で爆風を振り払おうとゴーレムが、巨大な岩の拳を突き立てて死角から肉薄していた。
(まず——避けれな——!)
魔力も切れ、足も踏み込めない。回避は完全に間に合わない。
日常の小さなミスの積み重ねがついに命に関わる大きなミスとなって迅へと襲いかかった。
◇
「…………はっ!」
気がつけば迅は医務室のベッドに倒れていた。
「気がついたようですね、迅さん」
「氷華……すまねえ、心配かけちまったな。ちょっと集中がかけ——」
「言い訳は聞きたくありません」
迅の言葉を遮り、氷華は静かに、けれど逃げ場のない眼差しで迅を射抜いた。そこに感情的な怒りや涙はなかった。まるで聞き分けの悪い幼子を正しく諭す親のような、深く、厳しく、そして絶対的な包容力を秘めた静謐さだった。
「迅さん。今日の失態……何が原因か、ご自分で理解していらっしゃいますか?」
「……集中が切れてた。俺の修行不足だ。もっと鍛えて——」
「違います」
氷華は横たわった迅の手を取る。
「修行不足などではありません。あなたのそのお身体……すでに悲鳴を上げておりますわ。目の下の隈、酷使された魔力回路の腫れ、そして日常で見せていた集中力の欠如……あなたは言い訳を重ねて自らの限界を無視し続けていたのです」
「っ……!」
迅の胸が大きく跳ねた。氷華の言葉は、自分が一番見ないようにしていた甘えを正確に打ち抜いていた。
——その頃、医務室の扉の外では。
(ちょっと……迅、マジで氷華に詰められてない!?)
(あかり、しーっ。声大きい)
あかり、結衣、宵の三人が、扉の隙間にぴったりと耳を押し当てて盗み聞きをしていた。さらにその少し後ろには、腕を組んだ隼人が『呆れたやつらだ』と言わんばかりに近くの壁に背をもたれかけている。
壁一枚を隔てた内側で、氷華の静かな、けれど熱い言葉は続いていた。
「強くなりたいと願うことは大変素晴らしいことですわ。ですが……自分を大切にできない人間に、どうして願いを叶えることができましょうか」
氷華は迅の頭を優しく、しかし力強く両手で撫でつけた。子供をあやすような、温かくも毅然とした手つき。
「今日のミスは、偶然ではありません。あなたが日頃の小さなSOSを無視し続けた結果引き起こされた、当然の『失敗』です……もし今日、戦場であったら、どうするつもりだったのですか? あなたが倒れれば私や、あかりさんたちがどれほど悲しむか……考えたことはおありですか?」
淡々と、けれど芯の通った言葉が迅の心に染み渡っていく。扉の外で耳を澄ませていたあかりたちも、思わず息を呑んでいた。
(氷華ちゃんの言う通り。迅のやつ、ずっと一人で背負い込みすぎ)
(うん……迅くん、いつも笑ってるから気づけなかったけど……私たちも反省しなきゃ)
(……迅、ばか。みんながいるのに……)
「ごみをたべ……む?」
迅はゆっくりと頭を下げ、拳を強く握りしめた。
「……すまん。俺……『俺がやらなきゃ』って焦って……周りが見えてなかった」
ぽつりと零した迅の頭を、氷華は最後にもう一度ぽんぽんと優しく叩いてから手を離した。
「分かればよろしいのです。一人で全てを背負い込むのは、立派なのではなく……ただの『我が儘』で『弱さ』ですわ」
氷華はくすりと小さく可憐に微笑むと、手を離して座り直す。
「これからは、私や仲間を頼りなさい。あなたが倒れそうな時は、私がその背中を支えます。一人で勝手に限界を超えることは、禁制ですわよ?」
「……おう。ありがとな、氷華」
迅の肩の荷がスッと降りていくのを感じる——ガチャンッ!
「っとと……!?」「きゃっ!?」「うわっ!」
「あいてたよ」
掃除中だったスライムが勘違いして扉を開けてしまい、あかりたちがそのまま医務室に転がり込んできた。
「「「…………」」」
静まり返る医務室。目を丸くしている迅と氷華。そして床に重なって倒れているあかり、結衣、宵、そして後ろから顔を出した隼人。
「あ、あはは〜……偶然だね迅! ウチらちょうど今通りかかったところで〜……」
あかりが冷や汗を流しながら引きつった笑みを浮かべ、結衣はやれやれ顔で「あちゃー」とため息をこぼし、宵は結衣の背中に隠れながら「……スライムのせい」と責任転嫁していた。
「お前ら……全部聞いてたのかよ!?」
「っ……! み、みなさん、いつからそこに……ッ!?」
迅が呆れ果て、氷華の雪のような白い頬が一瞬で真っ赤に染まる。
「ハン、丸聞こえだっつーの……だが迅、零条の言う通りだ。そんな調子じゃ俺もお前を超えちまうぜ?」
隼人が頭を掻きながら、不器用な笑みを浮かべた。あかりも立ち上がり、胸を張って拳を突き出す。
「そうそう! ウチも結衣も宵も頼りなさいって!」
「迅、あたしもしっかりサポートするからさ」
「私も、ぶい」
仲間たちの温かな言葉と賑やかな歓声。
赤面しながらも「ふふ……本当に騒がしい方々ですわ」と小さく微笑む氷華の横顔を見て、迅は心の底から笑った。
「うーむ。ぼくのおかげかな」
「ええ、ありがとうございますスライムさん」
「ありがとう、ごみをたべるよ」
互いの欠けた部分を補い合い、温かな仲間たちに囲まれながら、彼らの絆はまた一つ、解けないものへと深まっていくのだった。