貞操逆転世界のメンズエステで働くことになった   作:カラスあげます

1 / 2
AIにごりごりサポートしてもらってます


金のない大学生、メンズエステを知る

 金がない。

 

 大学二年生。

 

 一人暮らし三年目。

 

 俺――佐伯恒一の現在を一言で表すなら、それが一番しっくりくる。

 

「……三千八百円」

 

 財布を開いて、中身を確認する。

 千円札が三枚。

 小銭が少々。

 それだけだった。

 

「給料日まで……五日か」

 

 スマホを確認する。

 銀行口座の残高も似たようなものだ。

 

 別に遊びまくっているわけじゃない。

 毎晩飲みに行くわけでもないし、高い服を買っているわけでもない。

 パチンコもやらない。

 ソシャゲに課金しまくっているわけでもない。

 大学に通って、週に何日か居酒屋でバイトして、たまに友達と飯を食う。

 それだけ。

 

 なのに、なぜか毎月金がない。

 

 家賃。

 光熱費。

 スマホ代。

 食費。

 大学関係の出費。

 そして、友達との付き合い。

 

 一つ一つは大した金額じゃない。

 だが、全部合わせればそれなりの金額になる。

 

 今月も、

 

「まあ、何とかなるだろ」

 

 と思っていた。

 

 そして、何ともならなかった。

 

 冷蔵庫を開ける。

 卵が三個。

 納豆が二パック。

 米。

 調味料。

 飲みかけの麦茶。

 

「……まあ、五日ならいけるか」

 

 冷蔵庫を閉める。

 納豆卵かけご飯を五日間食べ続ければ、たぶん生きてはいける。

 生きてはいけるのだ。

 

 ただ。

 

「もうちょっと余裕が欲しい……」

 

 ベッドに倒れ込む。

 天井を見る。

 

 金がない。

 それが最近の俺の口癖だった。

 

 そして。

 俺には、もう一つ普通の大学生とは少し違う事情があった。

 

 俺は、この世界が普通の世界ではないことを知っている。

 

 ……いや。

 正確には。

 いつの間にか、世界の方が変わっていた。

 

 俺自身は、この世界に生まれた。

 両親もいる。

 幼馴染もいる。

 小学校も中学校も高校も、普通に通ってきた。

 転生したわけじゃない。

 別の世界から来たわけでもない。

 

 それなのに、ある時から。

 俺の知っている男女の常識と、現実の常識が噛み合わなくなった。

 

 最初に強く違和感を覚えたのは、高校生の頃だった。

 

 女性が男性に声をかければ、

 

「ナンパ?」

 

 と警戒される。

 

 逆に、男性から女性に声をかけるのは、多少強引でも、

 

「積極的だね」

 

 くらいで済んでしまう。

 

 恋愛でもそうだった。

 告白するのは男性。

 デートに誘うのも男性。

 女性にアプローチするのも男性。

 

 そんな俺が知っていた世界とは、男女の立場がほとんど逆だった。

 女性が男性に積極的なのは当たり前。

 男性が女性に積極的なのも、特別珍しいことではない。

 

 そして、性的な価値観も違った。

 女性が男性経験の少ないことを恥ずかしがる。

 経験の多さを武勇伝のように語る。

 

 男性の方が、

 

「俺、そんなに経験ないんだけど」

 

 と恥ずかしそうに話している。

 

 もちろん全員がそうというわけではない。

 人によって性格も違うし、恋愛観も違う。

 だが、社会全体の空気として。

 俺が知っている世界とは、明らかに違っていた。

 

 最初は戸惑った。

 何度も、

 

「なんで?」

 

 と思った。

 

 けれど。

 人間というのは、慣れる。

 

 大学生になった今では、

 

「この世界はそういうもの」

 

 と受け入れていた。

 

 ただ。

 だからといって。

 俺の人生が急にイージーモードになったわけではない。

 

「……まあ、俺には関係ないんだけどな」

 

 スマホの黒い画面に映った自分の顔を見る。

 普通。

 本当に普通。

 イケメンではない。

 かといって、ブサイクでもない。

 大学に男が百人いたら、たぶん真ん中より少し下くらい。

 身長も167センチ。

 別にモデル体型でもない。

 ただ、大学に入ってから軽い筋トレを続けているので、身体だけは多少締まっている。

 

 服を着ていれば普通の大学生。

 脱いだら、

 

「思ったより鍛えてるね」

 

 と言われる程度。

 そのくらいだ。

 

 この世界では男性が女性から積極的に求められる。

 だからといって、男なら誰でもモテるわけではない。

 当然だ。

 

 俺だって彼女がいたことはある。

 女性から遊びに誘われたこともある。

 告白されたこともある。

 それでも。

 俺の生活は、別に華やかではなかった。

 

 そして何より。

 

「金がない」

 

 恋愛以前の問題だった。

 

「……もっと稼げるバイトないかな」

 

 スマホを操作する。

 求人サイトを開く。

 

 飲食。

 コンビニ。

 塾講師。

 イベントスタッフ。

 倉庫。

 家庭教師。

 

 どれも悪くない。

 だが。

 

「時給千二百円とか千三百円か……」

 

 これでは大きく生活を変えるのは難しい。

 大学もある。

 バイトばかりするわけにはいかない。

 

「効率よく稼げる仕事……」

 

 そう呟いた時だった。

 

 外から、妙に派手な音楽が聞こえてきた。

 

「ん?」

 

 窓を開ける。

 夜の道路を、派手な広告トラックが走っていた。

 大きな文字。

 派手な照明。

 夜の街ではお馴染みの、ナイトレジャー系の広告。

 

 俺はしばらくそれを眺めていた。

 

「……夜職か」

 

 この世界では、男性が夜の仕事をすること自体は珍しくない。

 むしろ、女性客を相手にする仕事なら男性の方が需要がある。

 キャバクラのような女性スタッフ中心の店とは別に、男性が女性を接客する店も普通に存在する。

 そして。

 そういう仕事は、普通のアルバイトより稼げる。

 

「……」

 

 俺は広告トラックを見送った。

 

 そして。

 

「……この世界なら、ワンチャンあるんじゃないか?」

 

 ふと思った。

 口に出してから、自分でも笑ってしまう。

 何を考えているんだ。

 俺が夜職。

 

 確かに、この世界なら男性の需要は高い。

 でも。

 

「風俗は怖いよな……」

 

 未知の世界すぎる。

 トラブルになったら嫌だ。

 そもそも、いきなりそんな世界に飛び込む勇気はない。

 

 水商売も微妙だ。

 

「酒飲むの面倒だし」

 

 酒が嫌いというわけではない。

 ただ、仕事で飲み続けるのは嫌だった。

 

 なら。

 他に何かないか。

 

 俺はスマホを手に取った。

 検索欄に、

 

『男性 高収入 夜 求人』

 

 と入力する。

 

 検索結果がずらりと出てくる。

 ホスト。

 ボーイ。

 スカウト。

 接客。

 

 そして。

 

「……メンズエステ?」

 

 指が止まった。

 

 メンズエステ。

 その名前は知っている。

 ただ。

 俺が以前知っていたメンズエステとは、少し違う。

 

 前の世界では、基本的に女性セラピストが男性客を施術する店が中心だった。

 男性客が女性セラピストからオイルトリートメントなどを受ける。

 そんなイメージだ。

 

 ところが。

 この世界では。

 

「男性セラピストが女性客を施術する方がメインなのか」

 

 求人を見れば見るほど、それが分かってくる。

 

 男性セラピスト募集。

 女性客中心。

 未経験歓迎。

 研修あり。

 完全歩合。

 出勤自由。

 

「へえ……」

 

 さらに求人を読む。

 

 そして。

 

「……日給六万円可能?」

 

 目が止まった。

 

 求人広告の目立つところに、

 

『日給6万円可能』

 

 と書かれている。

 

「六万?」

 

 思わず声が出た。

 

 もちろん、

 

「誰でも一日六万円稼げます」

 

 なんて話ではない。

 求人広告なのだから、条件のいい場合を大きく書いているだけだ。

 それくらいは分かる。

 

 それでも。

 仮に。

 一日六万円稼げたら。

 

「……今のバイトの十日分じゃん」

 

 時給千二百円。

 一日五時間なら六千円。

 それが六万円。

 単純計算で十倍。

 

「いやいや……」

 

 俺は頭を振った。

 さすがに怪しい。

 そんな簡単に稼げるわけがない。

 

 そう思いながらも。

 ページを閉じられない。

 

 さらに求人を見る。

 

『未経験歓迎』

『男性セラピスト歓迎』

『研修制度あり』

『出勤日応相談』

 

 そして、

 

『マンション型店舗』

 

 という文字。

 

「……マンション型か」

 

 何となくイメージが湧く。

 ただのマッサージ店より、ずっと小規模なのだろう。

 

 そして、求人ページには、

 

『リラクゼーションを目的としたサロン』

『風俗店ではありません』

 

 という説明もある。

 

「これなら……」

 

 俺でもできるかもしれない。

 マッサージなら、風俗よりは怖くない。

 酒も飲まなくていい。

 女性相手。

 しかも、この世界では男性セラピストが珍しいわけでもない。

 

 そして。

 

「……身体、多少鍛えてるし」

 

 俺は自分の腹を見る。

 別にムキムキではない。

 ただ、多少締まっている。

 この程度でもプロフィール写真で多少は見栄えがするのかもしれない。

 そう思った。

 

 そして。

 自分でも認めたくないが。

 少しだけ。

 本当に少しだけ。

 下心があった。

 

 この世界なら。

 もしかしたら。

 

「……女性から求められる仕事って、ちょっと面白そうだよな」

 

 俺だって男だ。

 金が欲しい。

 それに。

 女性から必要とされる仕事に、多少の興味がある。

 

 俺は求人ページをもう一度見る。

 

 店名。

 

**GOD SELENE SPA**

 

「ゴッドセレーネスパ……」

 

 妙に仰々しい名前だ。

 だが、求人ページ自体は清潔感がある。

 白を基調にしたデザイン。

 アロマ。

 リラクゼーション。

 癒やし。

 

 そして給与。

 

**日給6万円可能。**

 

「……応募だけしてみるか」

 

 俺は応募フォームを開いた。

 

 名前。

 年齢。

 連絡先。

 職業。

 希望出勤日。

 

 入力していく。

 

 志望動機の欄で少し手が止まった。

 まさか、

 

『金がありません』

 

 とは書けない。

 

 少し考えて、

 

『接客業の経験を活かし、新しい仕事に挑戦したいと思ったため』

 

 と入力した。

 

「……嘘ではない」

 

 送信。

 これで終わり。

 そう思った。

 

 ところが。

 数分後。

 スマホが震えた。

 

「早っ」

 

 店から返信が来ていた。

 面接についての案内。

 場所は店舗ではなく、近くの喫茶店。

 候補日時もいくつか提示されている。

 

 俺は予定を確認した。

 

「……明後日なら空いてる」

 

 返信。

 すると、またすぐに返事が来た。

 

『では○日の○時、○○駅前の喫茶店でお願いします』

 

「決まった……」

 

 スマホを置く。

 そこで初めて、少し緊張した。

 

「……俺、本当にやるのか?」

 

 でも。

 金は欲しい。

 それに。

 ちょっと興味もある。

 

「まあ、面接だけなら」

 

 この時の俺は、本当にそう思っていた。

 

     ◇

 

 面接当日。

 

 俺は指定された喫茶店へ向かった。

 服装には悩んだ。

 スーツを着るほどではない。

 かといって、大学へ行くようなラフな格好もどうかと思う。

 結局、無地のシャツに黒いパンツ。

 髪も軽く整えた。

 

 店内に入る。

 指定された席を見る。

 そこに、一人の女性が座っていた。

 

「……」

 

 一瞬、足が止まった。

 

 綺麗な人だった。

 三十五歳くらい。

 落ち着いた雰囲気の、大人の女性。

 派手な美人という感じではない。

 けれど、顔立ちはかなり整っている。

 柔らかな目元。

 すっと通った鼻筋。

 薄く笑った口元。

 髪は肩にかかるくらいの長さで、自然にまとめられていた。

 

 そして。

 服装は完全な普段着。

 淡い色の薄手のトップスに、白っぽいパンツ。

 仕事用のスーツでもなければ、いかにも夜職という派手な格好でもない。

 むしろ普通の女性の休日の服装に近い。

 

 ただ。

 身体つきが、妙に目を引いた。

 細身ではない。

 かといって太っているわけでもない。

 胸元から腰。

 腰から太腿。

 全体的に柔らかそうな丸みがあり、いわゆるむっちりとした体型だった。

 トップスが身体のラインに沿っているせいで、その女性らしい体つきが余計に分かる。

 

 服装自体は普通なのに。

 身体だけを見ると、妙に色っぽい。

 

「……」

 

 俺は一瞬、見てしまった。

 そして慌てて視線を逸らした。

 何をやっているんだ、俺。

 今日は面接だ。

 

「佐伯くん?」

 

「はい」

 

 女性がこちらを見る。

 

「神崎です。今日は来てくれてありがとう」

 

「あ、こちらこそ。よろしくお願いします」

 

 俺は頭を下げた。

 近くで見ると、やっぱり綺麗だった。

 しかも、写真より実物の方が大人っぽい。

 

「座って」

 

「失礼します」

 

 向かいに座る。

 

「飲み物、何にする?」

 

「あ、じゃあコーヒーで」

 

「私もコーヒーにしようかな」

 

 二人分注文する。

 やがて運ばれてきたコーヒーから、ふわりと湯気が立った。

 

「じゃあ、そんなに堅苦しい面接じゃないから」

 

「はい」

 

「大学二年生だよね?」

 

「はい」

 

「一人暮らし?」

 

「そうです」

 

「大変でしょ」

 

「まあ……」

 

 俺は苦笑した。

 神崎さんがコーヒーを一口飲む。

 

「今、バイトは?」

 

「居酒屋です」

 

「接客経験あるんだ」

 

「一応」

 

「週何日?」

 

「三日くらいです」

 

「こっちは?」

 

「平日は夕方以降なら。土日は結構入れます」

 

「なるほど」

 

 神崎さんはスマホにメモを取っていく。

 面接というより、本当に近況確認という感じだった。

 

「メンズエステの経験は?」

 

「ないです」

 

「他のマッサージ経験は?」

 

「ないです」

 

「完全未経験か」

 

「はい」

 

「まあ、珍しくないよ」

 

 神崎さんはあっさり言った。

 

「研修するから」

 

「お願いします」

 

「あと、うちは小さい店だから、大手みたいに全部マニュアル化されてるわけじゃない」

 

「はい」

 

「その辺は大丈夫?」

 

「大丈夫です」

 

 神崎さんは少し笑った。

 

「それと、メンズエステだから普通のマッサージとは少し違う部分もある」

 

「違う部分?」

 

「オイルを使うから、施術中の距離が近いんだよね」

 

「なるほど」

 

「お客さんによっては、距離感がちょっとおかしい人もいる」

 

「……」

 

「そういう時は、無理に合わせなくていいから」

 

「はい」

 

「一応、うちは風俗店じゃないし」

 

「……はい」

 

 そこまでは分かる。

 求人にも書いてあった。

 

 俺は少し迷ってから、聞いた。

 

「じゃあ……風俗的なサービスとかは、やっぱりないんですか?」

 

 神崎さんの手が止まった。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ、何か考えたような顔をする。

 

 そして。

 

「まあ、その辺は……」

 

 神崎さんが笑う。

 

「働き始めれば、そのうち分かるよ」

 

「……分かる?」

 

「うん」

 

 それ以上は答えない。

 俺は少し首を傾げた。

 だが、神崎さんは何事もなかったようにコーヒーを飲んでいる。

 

「とりあえず、最初は普通の施術を覚えてもらうから」

 

「はい」

 

「変なこと考えなくて大丈夫」

 

「いや、考えてないです」

 

「そう?」

 

「はい」

 

「ならよろしい」

 

 そう言って、神崎さんは笑った。

 その笑顔は優しそうだった。

 ただ。

 どこか掴みどころがない。

 

「ちなみに」

 

 神崎さんが話題を変える。

 

「求人見て応募したんだよね?」

 

「はい」

 

「日給六万円可能ってやつ?」

 

「……はい」

 

「そこに食いついた?」

 

「……まあ」

 

 正直に答える。

 神崎さんは笑った。

 

「正直だね」

 

「すみません」

 

「謝らなくていいよ」

 

 コーヒーを飲みながら、神崎さんは続けた。

 

「実際、お金目的で来る人がほとんどだから」

 

「そうなんですか?」

 

「そりゃそうでしょ」

 

 当たり前のことのように言う。

 

「この仕事に興味がある人もいるけど、やっぱり稼げるから来る人が多いよ」

 

「なるほど……」

 

「ただ、日給六万円っていうのは、誰でも毎日稼げるって意味じゃないからね」

 

「分かってます」

 

「人気が出れば、それくらいは普通に狙える」

 

「へえ……」

 

「うちだと、一日十万円以上稼ぐセラピストもいるよ」

 

「……十万円?」

 

 思わず聞き返した。

 

「一日で?」

 

「一日で」

 

 俺は言葉を失った。

 十万円。

 一日。

 もちろん、毎日というわけではないだろう。

 それでも。

 

「……そんなに稼げるんですか」

 

「稼ぐ人はね」

 

 神崎さんは笑う。

 

「逆に、人気がなければ待機ばっかり」

 

「なるほど」

 

「だから、技術も大事だけど接客も大事」

 

「接客……」

 

「また来たいと思ってもらえるかどうか」

 

 神崎さんが俺を見る。

 

「そこは、ちゃんと教えるよ」

 

「お願いします」

 

 俺は素直に頭を下げた。

 

 十万円。

 自分がそこまで稼げるとは思っていない。

 でも。

 一日二万円。

 三万円。

 それだけでも、今の俺には大きい。

 何より。

 今の居酒屋バイトと比べれば、時間効率がまるで違う。

 

「……働いてみたいです」

 

「じゃあ、採用でいいよ」

 

「そんな簡単に?」

 

「うちはそんなに難しいことしないから」

 

「ありがとうございます」

 

「じゃあ、実際のルームも見てみる?」

 

「はい」

 

「近いから歩こう」

 

     ◇

 

 喫茶店を出る。

 神崎さんと並んで歩く。

 こうして近くで見ると、やっぱり綺麗な人だ。

 しかも、普段着だからなのか。

 さっきから妙に距離が近く感じる。

 

 俺はできるだけ前を見る。

 

「佐伯くん」

 

「はい?」

 

「緊張してる?」

 

「ちょっとだけ」

 

「面接で?」

 

「いや……その」

 

「何?」

 

「……何でもないです」

 

 神崎さんは少し笑った。

 

「変なの」

 

 そう言って歩いていく。

 俺はその後ろをついていった。

 

 駅から徒歩五分ほど。

 大通りから少し外れた住宅街。

 そこで神崎さんが足を止めた。

 

「ここ」

 

「……ここですか?」

 

「うん」

 

 目の前には、普通のマンションが建っていた。

 少し古い。

 だが、汚いわけではない。

 外観もごく普通。

 

「……」

 

 俺はマンションを見上げた。

 

「どうした?」

 

「あの……」

 

「うん」

 

「ここ、普通のマンションですよね?」

 

「そうだよ」

 

「……こういうところで店やって大丈夫なんですか?」

 

 神崎さんが一瞬黙る。

 

「まあ、その辺は……大丈夫だから」

 

「本当に?」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

 言い方が妙に軽い。

 俺はもう一度マンションを見る。

 普通の住人が出入りしている。

 普通のマンションにしか見えない。

 

「……」

 

 少し不安になった。

 だが、もうここまで来てしまった。

 

「何号室ですか?」

 

「三〇二」

 

「三〇二……」

 

 エレベーターに乗る。

 三階。

 扉が開く。

 廊下を進み、神崎さんが鍵を取り出す。

 

「ここ」

 

 鍵が回る。

 扉が開いた。

 

「どうぞ」

 

「失礼します」

 

 中に入る。

 

「……あれ?」

 

 思っていたより普通だった。

 というより。

 かなりシンプルだ。

 

 ワンルーム。

 白っぽい壁。

 必要最低限の家具。

 ソファ。

 小さなテーブル。

 そして、奥に施術スペース。

 

「ここだけ?」

 

「うん」

 

「ワンルームなんですね」

 

「小さい店だからね」

 

 部屋の中央には、施術用のマットが敷かれていた。

 俺が想像していたような立派なマッサージベッドではない。

 体育館などにある体操用マットを思わせる、厚手の簡素なマット。

 その上には清潔なタオルが敷かれている。

 

「これが施術用ですか?」

 

「そう」

 

「……思ったよりシンプルですね」

 

「まあね」

 

 神崎さんは笑った。

 

「その分、掃除はちゃんとしてるよ」

 

 部屋は清潔だった。

 高級感があるわけではない。

 むしろ簡素。

 だが、物が散らかっているわけでもなく、嫌な感じはしない。

 棚にはタオルやオイルなどが整然と置かれている。

 洗濯機。

 シャワー。

 必要なものだけが揃っている。

 

「使ったタオルはこっち」

 

「はい」

 

「施術が終わったら片付けて、洗濯して、次のお客さんに備える」

 

「なるほど」

 

「だから予約と予約の間は最低でも三十分くらい空ける」

 

「結構かかるんですね」

 

「意外とね」

 

 俺は部屋を見回した。

 求人ページの写真で見るより、ずっと生活感がある。

 それでも。

 ここで一回の施術に一万円以上の金が動く。

 そう考えると不思議だった。

 

「待機するときはあそこのソファ」

 

 神崎さんがソファを指差す。

 

「予約が入るまでは基本自由」

 

「スマホとか?」

 

「別にいいよ」

 

「寝ても?」

 

「爆睡しなければね」

 

「分かりました」

 

「予約が入ったら私からLINEする」

 

 神崎さんがスマホを見せる。

 スタッフ用のグループ。

 そこに予約情報が送られるらしい。

 

「こんな感じで時間とかコースとか送るから」

 

「分かりやすいですね」

 

「慣れれば簡単」

 

「なるほど……」

 

 ここまで見ても。

 やっぱり、普通のマッサージ店とは少し違う。

 だが。

 想像していたよりずっと普通だった。

 少なくとも今のところは。

 

「じゃあ」

 

 神崎さんが施術用のマットを見る。

 

「軽く研修してみようか」

 

「今日ですか?」

 

「うん」

 

「分かりました」

 

 俺は頷いた。

 

 その時。

 神崎さんが、部屋の隅に置いてあった袋を取り出した。

 

「じゃあ、まずシャワー浴びて」

 

「え?」

 

「研修するから」

 

 神崎さんは当たり前のように言う。

 

「オイル使うからね。服が汚れちゃうし」

 

「あ、はい」

 

 俺が受け取ろうと手を伸ばす。

 

 すると。

 

「これに着替えて」

 

 渡されたのは、薄手のTシャツ。

 そして。

 もう一つ。

 

「……」

 

 黒い布。

 よく見る。

 

「……これ」

 

「うん」

 

「ブーメランパンツ……?」

 

「そう」

 

 神崎さんは何でもないことのように答えた。

 

「施術しやすいから」

 

「……」

 

 俺は手元を見る。

 薄手のTシャツ。

 そして、明らかに普通の下着とは違う、かなり際どい形のパンツ。

 

「これを……?」

 

「着替えてね」

 

 神崎さんが笑う。

 

「オイルで汚れちゃうから」

 

「…………」

 

 俺は返事ができなかった。

 

 面接に来た時点では。

 もっと普通の仕事だと思っていた。

 マッサージを覚える。

 女性客と話す。

 予約を受ける。

 それくらいだと思っていた。

 

 なのに。

 初めて店舗に来た俺に渡されたのは。

 薄手のTシャツと。

 ブーメランパンツ。

 

「……メンズエステって」

 

 俺は手元の服を見つめた。

 

「こんな感じなのか……?」

 

 神崎さんは、そんな俺を見て楽しそうに笑っている。

 

「ほら。早く着替えておいで」

 

 こうして。

 俺のメンズエステ研修が始まった。




神崎美咲 イメージ画像(AI)

【挿絵表示】
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。