貞操逆転世界のメンズエステで働くことになった 作:カラスあげます
真横の至近距離に座る彼女――慶明大学に通うお嬢様であり、先日『GOD SELENE SPA』で俺が施術を担当し、直後に理由を告げぬままNG指定を出した客、コトネ。
彼女は当たり前のように俺の隣、ボックス席の奥へと深く腰を下ろしていた。
「お久しぶりですね、『コウ』さん……お元気していましたか?」
隣に滑り込んできたコトネの体が、一切の隙間を残さず俺の側体に押し当てられる。
真横の至近距離。どころか、太腿からお尻にかけてのラインがぴったりと隙間なくくっついていた。
ファブリックのシートが沈み込み、彼女の体温が薄い生地越しに直に伝わってくる。上品で可憐な百合の花のようなアロマの香りと、若い女性特有の甘く微かな体臭が、一瞬で俺の鼻腔を支配した。
コトネは可憐な微笑みを浮かべたままである。首を少しだけ傾げ、まるで大好きな恋人に甘えるような距離感と角度で俺の顔を覗き込んできた。
外から見れば、休日の午後に老舗の喫茶店で寄り添う、とびきり仲の良い甘いカップルにしか見えないだろう。通りかかった老夫婦や若い客が、微笑ましいものを見るような視線を一瞬こちらに向けたくらいだ。
だが――その内側で繰り広げられている現実は、全く異なっていた。
俺の背筋には、氷水を直接流し込まれたかのような猛烈な戦慄が走っていた。全身の毛穴という毛穴が激しく収縮し、心臓が肋骨を裏側から破らんばかりの勢いで暴動を起こしている。
優しく笑うコトネの瞳の奥。そこに揺らめく、底知れない暗闇のような冷ややかさに気づいているのは、世界中で俺ただ一人だった。
逃げ出したい。今すぐこの場から立ち上がって、全力で店を飛び出したい。
そう思った瞬間、コトネは何事もなかったかのようにすっと片手を挙げ、店内の通路を歩いていた給仕のウェイトレスへと視線を向けた。
「あ、店員さん、私にもアイスコーヒーをお願いします♪」
鈴を転がすような、あまりにも可憐で通りの良い声。
ウェイトレスは「かしこまりました、少々お待ちください」と笑顔で頭を下げ、奥の厨房へと下がっていく。
注文を終えたコトネは、再びその顔をゆっくりと俺の方へと向け直した。
真横から差し向けられる視線。至近距離すぎるその顔貌は、狂おしいほど整っているだけに、かえって人造人間のような異様さを醸し出していた。
「いやー、あの日以来ですね。約束通り、私のことを覚えていただけていたみたいで、とっても嬉しいです」
うっとりとした口調でそう呟きながら、コトネは密着したまま、ごく自然な動作で背中側から手を回してきた。
細くしなやかな指先が、俺の服の上から腰回りをしっかりと抱きかかえる。
まるで愛おしいぬいぐるみを抱きしめるような、あるいは恋人の腰に手を回すような仕草。だが、その指先には、ぎゅっと確実な力で腰を握りしめられていた。
「は、話したいことって……何でしょうか、、」
俺の喉はカラカラに乾ききっていた。声を出すだけでも一苦労で、掠れた情けない音が口から漏れ出る。
次の瞬間――空気の温度が凍りついた。
コトネの顔から、さっきまでの愛らしい笑顔が一切の脈絡もなく消失した。
陶器のように滑らかな肌の奥で、感情という感情がすべて揮発したかのような無機質な表情。そして、腰を抱く彼女の手に、ぎゅっと強い力が込められる。
「っ……!」
恐怖で息が詰まる俺の耳元へ、コトネがすっと唇を寄せた。
吐息が直接耳介を撫でる。そこに吹き込まれたのは、地獄の底から響いてくるような、低く静絶な声だった。
「今、私が話しているんですよ……? 静かにしていてくださいね……?」
ゾクッ、と脳幹を直接痺れさせるような悪寒が走った。
やばい。この女、本物だ。何をされるか分からない。叫んで逃げ出すべきか、それとも言う通りにして大人しくしているべきなのか、頭の中が真っ白なパニックに陥る。
まさにその時だった。
「お待たせいたしましたー。アイスコーヒーでございます」
カチャン、と軽い音を立てて、ウェイトレスがグラスをテーブルの上に置いた。
その瞬間、コトネの全身から放たれていた刺すような殺気が、嘘のように霧散した。
「あ、ありがとうございます♪」
パッと花が咲くような満面の笑みをウェイトレスに向け、コトネは可愛らしく頭を下げる。ウェイトレスは「ごゆっくりどうぞ」と微笑み返し、そのまま別の席へと去っていった。
その一瞬のやり取りを横で見つめながら、俺の脳内では生存本能が警鐘を鳴らし続けていた。
どうする? どうすればこの絶望的な状況を潜り抜けられる?
知恵を絞り、必死に思考を巡らせる。だが、視線を下に向けると、現実は残酷だった。
このボックス席は、入り口(通路)側にコトネがどっかりと座っている。俺は壁際奥に追い詰められた格好だ。仮に俺が立ち上がろうとしても、彼女の体が完全に脱出経路を塞いでいる。強行突破しようとすれば、それこそ大声を出されるか、力ずくで引き留められて店内を惨劇の舞台に変えるだけだ。逃げ道は、文字通りどこにもなかった。
コトネは細く美しい指先でグラスのストローを掴むと、非常に綺麗な所作でアイスコーヒーを口へと運んだ。
ちゅう、と小さくストローを吸う音が響く。喉がかすかに動くのすら、恐ろしく洗練されて見える。
グラスを静かに置くと、コトネはどこか遠くを見るような、懐かしむような目で呟いた。
「それにしても、すごかったですね。あの日は……」
「……え」
「私、恥ずかしながら今まで、勉強や部活、習い事に明け暮れる日々でとても忙しかったというのもありますが……男性とは、プラトニックなお付き合いしかしたことがなかったんですよ……」
コトネはテーブルの上に置かれたコーヒーを静かに見つめながら、ぽつりぽつりと語り出す。
「そういったこともあり、社会での経験を積むために、大学に入ってからはある程度自由にさせてもらっているんです」
つらつらと自分の生い立ちや日常を語りながら、彼女は空いている右手でテーブルの上のシロップやガムシロップ、そして粉ミルクのパックを取り上げ、手際よくコーヒーへと投入していく。
カララン、とストローで氷を回す涼やかな音が響く。
だが――もう片方の左手は、依然として俺の腰をがっちりと握ったままだった。服の上からでもはっきりとわかる確実な力加減。どれほど優しげな口調で世間話をしていようと、この手が俺の逃走を絶対に許さないという明確な意思を示している。その恐ろしい事実に、俺は恐怖を隠すことができなかった。
「私は恥を忍んで、大学の友人に聞きました。社会勉強がてら、そういったソフトなお店に行ってみようと……。そこで出会ったのが、コウさんです」
話を進めながら、コトネの左手が動いた。
じわじわと、腰に回されていた手が衣服の生地を擦りながら、胸の下あたりへと上方へ滑り上がってくる。
指先が服越しに俺の鼓動を確かめるように触れてくる。
「本当に驚きましたよ……。色々と初めてで、勝手が全くわからない私に対して、あんなことや、こんなこと……。家の者が聞いたら、あまりの刺激に目を回してしまうかもしれませんね……」
意味深に語られる「あんなことやこんなこと」。
あの日、施術室で俺が彼女の身体をほぐし、オイルで刺激し、最終的に彼女を悶えさせたあの時間のことだ。
「は、はは……」
乾いた笑いしか出てこない。冷や汗が額から垂れ落ち、顎の先からポタリとズボンへ染みを作った。
コトネはストローから口を離すと、にっこりと完璧な笑顔を浮かべて俺に問いかけてきた。
「いつも、ああいうことをしているんですか?」
純粋な好奇心を満たすかのような、無邪気な問いかけ。
だが、ここで「いつも誰にでもしています」と答えればどうなるか。プロとして割り切って遊ばれたと知れば、彼女の自尊心がどう反応するか……想像するだけで背筋が凍る。
俺は真っ白になりかけた頭で、なりふり構わぬ生存戦略を弾き出した。
一縷の望み。彼女のプライドを煽り、「あなたは特別だった」と主張することで、この場の怒りを宥められるのではないかという、身勝手な賭けだ。
「い、いえ……! コトネさんが……すごく可愛くて、つい……」
声が震えていたが、必死に言葉を紡ぐ。
「あら……そうでしたか。とっても嬉しいです」
コトネの目が細められ、頬がかすかに朱に染まる。
「他の方にはされていなかった、特別メニューということですね?」
食いついてきた。いけるかもしれない。このまま彼女の気分を良くさせれば、何とか穏便に解放してもらえるかもしれない。
俺は一縷の希望を感じ取り、必死にコミュニケーションを試みた。
「は、はい……! 普段はあんな過激な施術はしないんですが……コトネさんが、その、すごく魅力的で……してほしそうに見えたというか、喜んでいただけると思って、つい特別に……」
自分の口から出ている言葉の言い訳がましさに吐き気がしたが、背に腹は代えられない。とにかく彼女を立てるんだ。
「それはそれは……素晴らしいサービス精神ですねえ」
コトネは満足したように深く頷き、にっこりと、本日一番の眩しい笑顔を弾けさせた。
よし――助かった。そう胸を撫で下ろそうとした、まさにその刹那。
「――それでは、なぜ私をNGにしたんですか??」
世界が一瞬で反転した。
笑顔の形のまま固定された顔。だが、耳元へ急速に引き寄せられた声は、地獄の底から這い上がってきた怨霊のように低く、冷酷に響いた。
「ひゅっ……!」
変声期のような情けない悲鳴が喉から漏れる。
コトネの手が、胸の下から俺の肩へと滑り、そのままガシッと肩をつかんで強引に自分の方へと引き寄せてきた。
至近距離。息がかかるほどの距離で、彼女の黒目がちな瞳が、逃げ場のない光を宿して俺の網膜を刺し穿つ。
「あれから……あなたにされたことが忘れられなくて、しばらく悶々とした日々が続きましたよ……」
耳元で、言葉が流し込まれる。
「後半の、私を焦らすようなあのあおる態度も……私のことを想ってしていただいたのかなって、ずっと考えていました。だから……意を決して、もう一度あなたに会いたくて、再度予約のお電話をした時です」
肩をつかむ彼女の手に、強い力がこもる。
「『NG』という回答があり……その瞬間に気づきました」
一拍のタメ。そして、鼓膜を破らんばかりの暗い圧迫感。
「あなた……私をおもちゃにして、捨てましたね……??」
至近距離で詰めてくる彼女の言葉には、極度の屈辱と、狂気的な執着が渦巻いていた。
「ひ……っ……」
怖くて、何も言い返せない。
弁明の言葉など、脳のどこを探しても見つからなかった。ただ、彼女の圧倒的な眼力とプレッシャーに押し潰され、呼吸を整えることすら叶わない。
コトネの唇が、さらに俺の耳たぶに触れそうなほど接近する。
「初めてですよ……? 私が、こんな扱いを受けたことは……」
その声には感情の起伏が全くなく、完全に平坦だった。怒りや怒号よりも、むしろその無機質でフラットなトーンが、かえって底知れぬ恐怖を猛烈に助長させる。
「実は私……お父様の知り合いに、とても信用のおける探偵会社がいましてね……? 知見をお借りして、コウさんのお店周りを、軽くお調べさせていただきました」
探偵会社――その単語が出た瞬間、俺の頭の中で何かが弾けた。
「コウさん……あなた、健全なエステ店と銘打って、裏で性的なサービスを提供している自覚がおありですよね……?」
核心。
完璧すぎる核心を突かれ、俺の思考は完全にフリーズした。
パニックという概念すら超越して、頭の中が真っ白な音を立てて崩壊していく。
「……っ……ぁ……」
「先ほど見せたこの写真……確たる物的証拠は、すでに多数押さえてあります」
コトネは空いている方の手でスマホを操作し、その画面を俺の目の前にかざした。
そこには、俺がマンションに入っていく瞬間や部屋の明かりなど、完璧な画質で記録された写真がずらりと並んでいた。
「理解できますか……? あなたはもう……詰んでいるんですよ……?」
逃げられない。
大学にも、警察にも、店にも――彼女の一言で、俺の人生は一瞬で崩壊する。
恐ろしさのあまり、全身の筋肉がガタガタと激しく震え始めた。歯の根が噛み合わず、カチカチと惨めな音を立てる。
そんな俺の無様な姿を、コトネは愛おしそうに、そして蔑むように見つめていた。
「……ただ、私も鬼ではありませんからね。条件付きで見逃してあげてもいいですよ?」
地獄の底に垂らされた、一本の蜘蛛の糸。
俺は溺れる者が藁をも掴む思いで、すがるように絞り出した。
「な……何でしょうか……っ」
「まず……私のNGを取り消してください」
コトネは迷いのない手つきでスマホの画面を操作し、メモアプリを開いた。そこに打ち込まれた文章を俺の目の前に突きつける。
「文章はこちらが指定する文章を送ってください。今、この場で、私の目の前で……ね?」
提示されたスマートフォンの画面。そこに躍っていたのは、あまりにも完璧に演出された「言い訳」の文章だった。
『すみません! 先日のコトネさんのNG指定について、あれからSNSのDMで謝罪の連絡があったので、取り消します! 本当は良い人で、事情があったみたいでした。 もう一度だけチャレンジしてみようかと思います!』
「さあ……書いてください。店長さんに送信するんです」
コトネの指が、俺の肩を優しく、しかし確実に圧迫しながら促してくる。
俺は震える手で自分のスマホを取り出し、画面に表示された通りの文章を、一文字一文字打ち込んでいった。
(そんな事になるわけないだろ……!頼む、店長気づいてくれ……!こんな文章、俺が打つわけないって察してくれ……!!)
心の中で血を吐くような思いで祈りながら、送信ボタンをタップした。
画面が切り替わり、「送信済み」のマークがつく。
息を殺して返信を待つ。ほんの数十秒が、永遠のように感じられた。
ピコン。
恐怖の通知音が響く。
画面を開いた俺の目に飛び込んできたのは、あまりにも呑気な店長からの返信だった。
『OK~!✨ SNSまでしっかり使って対応するなんて偉いね~!若い子同士、仲良くね 』
「……っ」
終わった。
希望の光が完全に潰えた。店長は何も察してくれなかった。むしろ、俺の「神対応」を絶賛すらしている。
「ふふっ……見せてください」
コトネが横からスマホ画面を覗き込み、店長からの返信を確認する。
彼女の口元が、満足げな歪んだ笑みを描いた。
「素晴らしいです。聞き分けの良い子は大好きですよ」
コトネはスマホを自分のバッグに仕舞うと、今度は俺の目を見つめ、最後にして絶対的な命令を提示した。
「それでは……月に最低1度、私からとある日と時間帯を指定します……。この日は、私の予約付きで必ず出勤するようにしてください……」
「つ、出勤……」
「ええ。コウさんの立場や、大学生活のことも把握していますからね。なるべく学業に支障が出ないよう、こちらも加味してあげるつもりです……」
脅迫の中に混ぜ込まれた、巧みな手綱さばき。
断れば、即座に大学と警察へあの写真がばら撒かれる。俺に拒否権など最初から存在しなかった。
「わ……わかりました……」
なすすべもなく、俺は彼女と個人の連絡先を交換させられた。
「では……記念すべき最初の出勤日は、この日です♪」
コトネが指し示した日付。そこは、俺が大学の課題と居酒屋バイトのシフトを調整し、久しぶりの全休(休み)にしようと予定していた日だった。
休みすら奪われ、完全に彼女のスケジュール下へと組み込まれていく。
「……はい」
すべての「手続き」が終わると、コトネはすっと俺の身体から手を離した。
まとわりついていた恐ろしい圧迫感が一瞬で消え去る。
「では、失礼しますね。急にお邪魔してしまって失礼いたしました♪」
パッと雰囲気を明るく変え、コトネは可憐なお辞儀をした。
そしてテーブルの上の伝票をすっと手に取ると、優雅な動作で立ち上がる。
「お会計は、私が払っておきますね」
そう言い残し、彼女は一度も振り返ることなく、軽やかな足取りで喫茶店のレジへと向かっていった。
取り残された俺は、深く沈み込んだボックス席のシートの上で、ただ呆然とするしかなかった。
窓から差し込む午後の光が、テーブルの上の二つのコーヒーグラスを照らしている。一つは半分ほど減った甘いアイスコーヒー、もう一つは、俺が一口も手をつけられなかった、すっかり氷の溶け切った冷たいグラス。
絶望。
ただそれだけの感情が、冷えた体の中に重く、重く溜まっていった。