貞操逆転世界のメンズエステで働くことになった 作:カラスあげます
「……ねえ、コウくん。君さ、あいつ――店長の過去とか、このお店がどうやってできたかとか知ってる?」
カフェの静かな店内。テーブル越しに向かい合うカイさんは、冷めきった豆乳オレのグラスを細い指先で弄りながら、声を少し潜めて僕に問いかけてきた。
ガラス張りの窓の外には、霧雨に濡れるスクランブル交差点と、傘を差して行き交う人々の影が滲んでいる。店内に流れる穏やかなジャズのBGMを切り裂くように、カイさんの黒いマスクの奥から覗く瞳が、どこか憂いを帯びた真剣な光を放っていた。
「いえ……独立してこのマンションエステを立ち上げた、としか聞いていませんが……」
俺が正直に答えると、カイさんは「やっぱりねー」と小さく苦笑し、ソファーの背もたれにゆっくりと身体を預けた。シルバーピアスがシャラリと耳元でかすかな音を立てる。
「あのオバサン店長、絶対自分に都合の悪いことは言わないもんね。……あのね、元々あいつはさ、ここから数駅隣にある大型のメンズエステ店で電話番をしてたんだよ。そこはマンションの部屋を二十部屋以上も借り切って、何十人ものセラピストを抱えて大規模に回してるような、このエリアじゃちょっとした大手の有名店だったの」
「二十部屋……そんな大規模型の店だったんですか」
「そうそう。でね、店長は昔から『自分は新人研修の担当になりたい』って上層部にずっとアピールしてたらしいんだよね。男のセラピストたちに施術の手ほどきをして、店全体のクオリティを引き上げるポジションに就きたがってたの。……でも、上の人間は絶対にそれを許可しなかったんだって」
カイさんはストローで氷をカランと鳴らし、あきれたように首を振った。その美しい顔立ちに、暗い影が落ちる。
「理由は単純だよ。あいつさ、店に在籍してる女性セラピストや受付の女の子に対して、裏でしつこく連絡先を聞いたり、業務にかこつけて体に触ろうとしたりしてたらしくてね。素行が悪すぎて、苦情が絶えなかったんだよ。そんな奴に男の新人研修なんて任せたら、今度は男のセラピストに変なこと教えたり、店が無茶苦茶になるって上の人も分かってたわけ」
(……変なこと……)
カイさんの言葉が頭の中でリフレインし、俺の背筋に冷たいものが走った。
脳裏に蘇ったのは、この『GOD SELENE SPA』に入店した直後、神崎さんから受けたあのあまりにも過激な「新人研修」の光景だった。
紐同然の紙ブラと紙パンツを纏った30代の成熟した肉体。指導という名目のもと、四つん這いにさせられて股間を撫で回され、挙げ句の果てには彼女のブラやパンツの中にまで手を突っ込まされた。最後にはブーメランパンツを剥ぎ取られ、俺の下半身は隠しようもないほどガチガチに勃起させられていた。
正直に言えば、あの時の俺は決して嫌だったわけではない。むしろ、艶やかな大人の女性に密着され、手練れの技で敏感な場所を刺激されたことで、理性が吹き飛ぶほど性的に興奮してしまっていた。おまけに研修が終わると「将来有望だから」と一万五千円もの現金を握らされ、どこか「男として得をした」とすら思っていたのだ。
だが――カイさんの話を聞いて、ようやくすべての辻褄が合った。
あれは指導でも何でもなく、ただの職権乱用によるセクハラそのものだったのだ。
大手店で研修担当になれず、若い男を弄ぶ機会に飢えていたあの店長。彼女は自分の店を作ったことで、何も知らない俺のような新人男セラピストを、誰の目も気にせず合法的に自分の性欲の捌け口として弄んでいたのだと悟った。
「なるほど……それは、許可されないのも当然ですね……」
俺はひきつる唇をどうにか動かし、掠れた声でそう答えるのが精一杯だった。
「でしょ? でもさ、当然あいつの中にフラストレーションが溜まるわけじゃん? 『私はこんなに評価されていない』『私には凄い手腕があるのに誰も理解してくれない』ってさ。……で、結果どうしたと思う? あいつ、その大手店から人気のあるセラピストを何人か強引に引き抜いて、バックレ同然で店を飛び出したんだよ。そうして急ごしらえで作ったのが、今のうちの店ってわけ」
カイさんの口から淡々と語られる事実に、俺の背中に冷たい汗が伝った。
「引き抜き……ですか。それって、業界的にはかなりマズいんじゃないですか……?」
「マズいなんてもんじゃないよー。業界のタブー中のタブーだし、完全なルール違反。元いた大手店のオーナーは相当ブチ切れてたらしくてさ、今でも裏で探してるって噂があるんだよね。だからさ、あいつ、完全に目を付けられてるよ。うちの店が立ち上がってまだ一年も経ってないのは、そういうヤバい経緯があるからなんだ」
カイさんは細い指先で顎を支え、天井のダウンライトを見上げた。
小さなマンションの一室を借り切って始まった『GOD SELENE SPA』。表向きは清潔感や高級感を装っているけれど、その土台はあまりにも危うい泥船の上に成り立っていたのだ。俺が飛び込んでしまった世界は、思っていた以上に深く、暗い闇に包まれていた。
「まあ、客入り自体はそこそこ良いんだけどね。店長が一人で電話番から予約管理まで全部回してるから、人件費も浮いてあいつ自身は相当儲けてるはずだし。……だけどね、最近のあいつは完全に暴走しちゃってるんだよね」
「暴走……ですか?」
「うん。コウくんも薄々勘づいてるでしょ? 店に在籍してるセラピストたちが、客と裏オプションでガンガン本番行為までやり出してるのをさ。店長もそれを知ってて完全に見て見ぬふりをしてるの。いや、むしろ客単価が上がるなら何でもいいやーってスタンスだね。警察のガサ入れが入るリスクも、元いた店からの報復も、何一つ考えてないんだよ。
……正直な話ね、僕はこんな危ないお店にこれ以上いるのは嫌だし、近いうちに辞めるつもりなんだ」
カイさんはテーブルに少し身を乗り出し、僕の目をじっと見つめてきた。その声はどこまでも優しく、けれど重みを持って俺の心に染み込んでいく。
「コウくん。君は筋がいいし、顔もいいから客からの評判もすごく良いよ。だけどね、この店の歪んだ環境に慣れすぎちゃダメだよ。お金払いがいいからって感覚が麻痺してると、いつか絶対に足元をすくわれちゃうから。……これからどうするのか、コウくんも一回しっかり考えた方がいいと思うな」
カイさんの温かくも切実なアドバイスは、俺の胸の奥深くに重く、深く突き刺さった。
◇
そして――季節は巡り、寒さが少しずつ和らぎ始めた冬の終わり。
カイさんとカフェで会ってから数日後――俺は、あの『GOD SELENE SPA』を退職した。
カイさんからあの店の真実と危険性を聞かされて以降、施術ルームに入るたびに付きまとっていた背徳感と恐怖心は、日を追うごとに膨れ上がっていった。いくら裏オプションで一日に何万円という臨時収入が得られるとはいえ、警察のガサ入れや、元いた大手店とのトラブル、そして裏掲示板で過熱する自分への執着に巻き込まれるリスクを天秤にかけたとき、俺の繊細な心は限界を迎えていた。
店長に「学業が忙しくなったので辞めさせてください」とLINEを送ると、案の定、店長は「えー、せっかく稼げるようになってきたのに勿体ない! また戻りたくなったら連絡してね」と、呆気ないほど軽い返信を一言送ってきただけだった。セラピスト一人ひとりの安全や人生なんて、彼女にとっては使い捨ての駒に過ぎなかったのだ。
自室のベッドの上で、俺はスマホの画面を眺めていた。メンズエステの業界掲示板を開くと、かつて働いていた『GOD SELENE SPA』のスレッドが、相変わらず猛烈な勢いで更新されている。
『最近マジでヤバいね。本番交渉したら一発でOK出たw』
『店長に裏オプのこと聞いたら「そういうことは担当のセラピストと直接交渉してください」って言ってくるぞ』
『ガサ入れも時間の問題かもね。今のうちに入っといた方がよさそう』
スレッドに並ぶ生々しい書き込みの数々は、以前にも増して無法地帯と化した店の現状を赤裸々に物語っていた。
(……カイさんの言っていた通りだ。あのまま残っていたら、間違いなく巻き込まれていた……)
スマートフォンの青白い光を見つめながら、俺は冷や汗を拭った。何のルールもモラルもなくなったあの店は、まるで自ら火の中に飛び込む蛾のように破滅へと向かっている。あのタイミングで足を洗ったのは、間違いなく正解だったはずだ。
だが――俺の心は、少しも晴れやかではなかった。
画面を切り替え、LINEのトーク一覧を開く。
一番上に表示されているアカウント。それは、あの日に俺の人生を狂わせた張本人であり、最後にあの大金を叩いて俺を目隠し全裸で弄んだお嬢様――コトネさんだった。
コトネさんとは、以前カイさんとカフェで会うよりも前、彼女に強引に迫られた際に連絡先を交換してしまっていたのだ。そして、俺が店を退職した後も、彼女からのメッセージは途切れることなく届き続けていた。
《コウさん、お店辞めちゃったんですね。でも私との練習が終わっていないので、定期的に会ってくれますよね?》
トーク画面に残されたコトネさんからのメッセージを、俺は苦々しい思いで見つめ直した。
店を辞めた直後、俺は彼女との関係を完全に断ち切ろうと試みていた。
《もうお店の関係者ではありませんし、個人的にお会いすることはできません。すみません。もう連絡してこないでください》
冷たく、突き放すような返信を送ったときのことを覚えている。これで彼女も諦めるだろうと思っていた。しかし、コトネさんの反応は俺の予想を遥かに超えて荒れ狂うものだった。
《なんでですか!? 私、コウさんのためにお金だってたくさん用意したのに!》
《拒絶するなんて許しません。絶対に会ってください。約束したじゃないですか!》
画面を埋め尽くすような怒りの連打。そして、彼女はついに決定的な「脅迫」のカードを切ってきたのだ。あの時影から盗撮された、俺がマンションに入っていく瞬間の写真。
《あの写真、どうなってもいいんですか? 大学や警察にばら撒かれたら、コウさん困りますよね?》
暗に人生を台無しにしてやると言わんばかりの、執念深いメッセージ。以前の俺なら、その脅迫に恐怖して震え上がり、彼女の言う通りに屈していたかもしれない。
だが――俺の頭には、カフェでカイさんが言ってくれたあの言葉が強く残っていた。
『そのくらいの証拠じゃあ全然何にもならないよ。素人の客が撮った写真程度じゃ、警察も相手にしないからさ。気にしないできっぱり断っていいと思うよ』
カイさんという絶対的なプロからの助言が、俺の背中を強く押していた。俺は震える指を抑え込み、画面に向かって一気にメッセージを打ち込んだ。
《はい、もうあの店にかかわりはないのでどうとでもしてください》
冷たく、突き放すような返信を送ったときのことを覚えている。これで彼女も諦めるだろうと思っていた。
しかし、送信ボタンを押した直後、画面が切り替わる間もなく、スマホがブーッ、ブーッ、とけたたましい振動を上げ始めた。
画面に浮かび上がったのは『コトネ』の二文字。
予想を超える早さに、俺の心臓が跳ね上がった。画面上で緑色の通話ボタンが明滅し、拒絶されたことに対する彼女の動揺が画面越しに伝わってくるようだった。
(……出るわけにはいかない)
俺は固く唇を結び、息を殺してスマホの画面を伏せ、ベッドの上に放り投げた。
だが、一件の着信が途絶えた瞬間に、一秒の猶予もなく二件目の着信が鳴り響く。
三回、五回――。
留守番電話に切り替わる暇すら与えない怒涛の連続着信。振動音が壁や床を伝い、狭い自室の中に不気味に響き渡る。部屋の空気が徐々に狂気に侵されていくような恐怖に、背筋が冷たく凍りついた。
あまりのしつこさに耐えかね、マナーモードをサイレントにし、通知の光すら見えないようにスマホの上に枕を押し被せた。それでも、静まり返った部屋の中で、枕の隙間からかすかに漏れる光とバイブの残響が、彼女の執念深さを物語っていた。
やがて、何回目かの着信がプツリと途絶え、部屋に不気味な静寂が戻ってきた。
俺が胸を撫で下ろし、小さく息を吐き出したのも束の間――コトネさんからの反応は思いもよらない方向へと変化した。
強気で高圧的だった態度が一変し、縋りつくような大量のメッセージが送られてきたのだ。
《ごめんなさい……ごめんなさいコウさん! 私、取り乱して酷いこと言いました……写真も絶対にどこにも出しませんから!》
《お願いです、見捨てないでください……っ! 私、コウさんじゃなきゃダメなんです……もうわがまま言いませんから……!》
《拒絶しないで……お願いだから、もうちょっとだけ会ってください……私、コウさんがいないと生きていけないんです……》
画面越しにも伝わってくる、彼女の弱々しさと切実な泣き叫び。
予想外の展開に、俺は呆気にとられた。脅迫という最悪の手段すら破られ、捨てられることを極度に恐れた彼女は、形振り構わず俺に泣きついてきたのだ。
自分のような普通の男子大学生に対して、裕福で清楚なお嬢様であるはずのコトネさんが、ここまで惨めに許しを請い、しがみついてきている。その姿を画面越しに目にした瞬間、俺の胸の奥で、小さく歪んだ優越感が芽生えるのを否定できなかった。
(……なんか、ここまで言われると可哀想になってきたな……)
かつて自分を恐怖のどん底に突き落とした恐ろしい捕食者が、今や自分の顔色を伺い、捨てないでくれと乞うてくる哀れな存在に見えた。気弱で押しに弱い俺の性格も手伝い、俺は彼女に「条件」を一つだけ提示して、関係を維持することを受け入れてしまったのだった。
《……分かりました。ただし、僕が嫌だと思ったことや、拒否した要求には絶対に深追いしないこと。それを守れるなら、たまに会うくらいならいいですよ》
《本当ですか!? ありがとうございます! 絶対に守ります! コウさんの言う通りにします!》
そうして始まった二人の関係は、かつての世界線で言うところの「パパ活」そのものだった。
週に一度か二度、彼女と連絡を取り合い、駅前の高級なイタリアンや静かな会員制カフェで食事を共にする。そして食事が終わると、彼女の誘導に従って、当たり前のように近くの高級ホテルのシースルーエレベーターに乗る。
静まり返った客室。ドアが閉まった瞬間から始まる密室の時間。コトネさんは俺が提示した「深追いしない」という条件を表面上は守りつつも、その熱く濡れた瞳と滑らかな手つきで俺の身体を求め、甘い快楽へと誘い込んでいく。そして行為が終わると、彼女は満足そうな笑みを浮かべ、俺のポケットに「お小遣い」と称する数万円の入った分厚い封筒を忍ばせるのだった。
また、メンズエステ店を辞めた後、俺は一見すると普通の大学生らしい健全な生活に戻っていた。
日中はキャンパスで講義を受け、空いた時間には駅前の居酒屋で一般的なアルバイトに勤しむ。時給千数十円の真面目な労働。汗を流して1か月必死に働いて得られる給料は、7-8万円程度だった。
しかし――一度狂ってしまった金銭感覚は、そう簡単に元には戻らなかった。
「……はあ、また今月もピンチか……」
ある日の夕方、自室の机の上で通帳を開き、俺は頭を抱えた。
メンズエステ時代、たった数時間の施術で数万円から十万円近くの臨時収入を手にしていた記憶が、俺の脳を深く蝕んでいたのだ。
かつては一円単位で節約していたコンビニの買い物が、今では欲しくなったお菓子や新商品のドリンクを迷わずカゴに入れるようになっていた。友人たちと行く外食も、以前なら手頃なファストフードや安チェーン店で済ませていたものを、少し背伸びしたおしゃれなカフェや居酒屋を選ぶようになった。服や趣味にかけるお金も劇的に増え、気づけばバイト代なんて、月の半ばで綺麗さっぱり消えてしまうような荒んだ生活が定着していたのだ。
一度知ってしまった贅沢の味と、指先一つで大金が手に入っていたあの感覚。
(このままだと……スマホ代もカードの引き落としも追いつかない……)
足りなくなった生活費や娯楽費を補うために、俺が最終的に頼ったのは、結局のところコトネさんだった。
金に困ると、俺は自らスマホを取り出し、コトネさんに《今週、時間ある?》とメッセージを送ってしまう。
すると彼女はまるで待ち焦がれていたかのように即座に返信をくれ、喜んでスケジュールを空けて豪華な食事とホテル、そして数万円単位の「お小遣い」を提供してくれるのだった。
だが、俺は気づいていた。
コトネさんと会う回数が増えるにつれ、彼女の要求が少しずつ、けれど確実にエスカレートしてきていることに。
「ねえ、コウさん。今日はちょっとだけ……新しいこと、試してみませんか?」
薄暗いホテルの一室で、コトネさんは上目遣いに俺を見つめ、テーブルの上にいつものお小遣いよりも明らかに厚みのある封筒をそっと置く。
彼女は俺が金に困っていること、そして提示される金額が大きければ大きいほど、俺が彼女の要求を断れなくなることを完全に見抜いていたのだ。金という絶対的な力で俺を縛り付け、自らの底なしの欲望と歪んだ愛撫の中にゆっくりと引きずり込もうとしている――コトネさんの密かな企みが、透けて見えるようだった。
(このままだと……いつかコトネさんの無茶な要求を断れなくなって、完全に彼女の所有物になっちゃうかもしれない……。でも、今の俺の金銭感覚じゃ、このお小遣いなしじゃもう生活が回らないんだ……)
自室のベッドに横たわり、天井の模様を見つめながら、俺は激しい葛藤と自己嫌悪に苛まれていた。
かつての純粋だった自分は一体どこへ行ってしまったのか。金と快楽に依存し、女性の好意と札束に縋らなければ生きていけない惨めな現状。この底なし沼から抜け出さなければならないと頭では理解していても、身体と心が元の地道な生活を拒絶していた。
そんな悶々とした悩みに押し潰されそうになっていた、まさにその時だった。
ピロン――。
スマホが短い通知音を鳴らした。
俺は億劫そうに手を伸ばし、画面を開いた。送信者の名前を見て、俺の目が大きく見開かれる。
カイさんからだった。
店舗を退職して以来、しばらく連絡を取っていなかったカイさんからの久しぶりのメッセージ。そこには、予想外の言葉が躍っていた。
《コウくん、久しぶり! 元気にしてる?
実はさ、前に言ってた通り、僕自身で新しくメンズエステのお店を立ち上げることにしたんだよね。
今度の店は、前の場所みたいな危険な裏オプや怪しい営業は一切なし! 完全に健全で、セラピストの安全を最優先にしたコンセプトでやるつもりなんだ。
かなり働きやすい環境を整えたからさ、もし良かったらもう一度僕と一緒に働かないかな? どう?》
画面に並ぶカイさんの優しく温かい文字を、俺は呼吸を止めてじっと見つめ直した。
カイさんからの、願ってもない救いの手。
危険な暴走店舗でもなく、コトネさんとの歪んだパパ活関係に依存し続ける道でもない、新しい選択肢。
胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。俺の暗闇に包まれていた世界に、一筋の強い光が差し込んできたような感覚だった。
俺は震える指先でキーボードを打ち込み、画面に文字を走らせた。
《カイさん、お久しぶりです! ご連絡ありがとうございます。
……ぜひ、詳しいお話を聞かせてください。よろしくお願いします!》
送信ボタンを押すと、画面上のメッセージは一瞬で「既読」になった。
カイさんからの誘いは、暗闇の中に差し込んだ一筋の救いのように見えた。だが――その手を取ろうとしている自分を客観的に見つめた瞬間、胸の奥で乾いた冷笑が漏れた。
結局のところ、俺は「昼の世界」へ戻るのではなく、再び自ら「夜の世界」へ足を浸すことを選んでいるのだ。
かつてあれほど恐怖し、背徳感に身を震わせていた「自分の身体や魅力を切り売りする仕事」という異物感。それが今や、何の引っかかりもなくスッと喉を通る清涼飲料水のように、俺の精神の中に溶け込んでいた。抵抗感など、とっくの昔にどこかへ摩耗して消え去っていた。
朝起きて講義に出て、放課後は時給千円程度のアルバイトで地道に汗を流す――同世代の誰もが歩んでいる「普通の大学生」という眩しく健全なレール。今の俺はそこから遥か遠くへ離脱し、二度と戻れない場所まで流されてしまっていた。
泥沼から抜け出そうと足掻いていたつもりだった。しかし俺がしていたのは、より心地よいぬるま湯の沼を探して、自ら深く沈み直していただけに過ぎなかったのだ。
冷たい冬の終わりを告げる風が、窓枠をかすかに揺らした。
昼の光の中へ帰ることを諦めた俺の目の前に、夜の街が紡ぐ新たなネオンの道が、静かに拓かれようとしていた。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます!
健全版につきましては、ここでひとまず一区切りとさせていただきます。
今後は全体の内容を調整しつつ、番外編などを不定期で更新していく予定です。
また、R18版に関しましては、健全版とは異なる展開で連載を続けてまいりますので、あわせてお楽しみいただけますと幸いです。
今後の詳細な更新や本作への所感につきましては、活動報告にて詳しく触れております。気になる方はぜひチェックしてみてください。
改めまして、これまで温かい応援やご感想をいただき、本当にありがとうございました!
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。