貞操逆転世界のメンズエステで働くことになった 作:カラスあげます
「じゃあ、私にやってみてね」
うつ伏せになった神崎さんが、壁際に置かれた横長の鏡越しに俺をじっと見つめている。部屋の照明は極限まで落とされ、足元に置かれた温かみのある間接照明と、アロマランプのほの暗い橙色の光だけが室内を優しく照らしていた。オイルが塗られた神崎さんの背中や太腿が、その淡い光を反射してぬらぬらと妖しい艶を放っている。部屋の中に充満する甘いアロマオイルの香りと、彼女の体温が混ざり合った独特の匂いが俺の鼻腔をくすぐり、それだけで脳の奥が痺れるような感覚に襲われた。
「あ、はい……おさらい、ですね」
俺は喉の奥に溜まった生唾を小さく飲み込み、震える手でアロマウォーマーから温かいオイルを手のひらに取った。手のひらを擦り合わせ、オイルを温めながら神崎さんの背中にそっと手を乗せる。
まずはSTEP1の腰の加圧からだ。教えられた順番通りに、掌底を使って腰椎の両脇をゆっくりと押し込んでいく。温かくなったオイルが神崎さんの滑らかな肌になじみ、滑るように手が動く。そのまま背中全体、腰、そして丸みを帯びたお尻へと揉みほぐしの行程を進めていった。
女性の身体にこうして直接触れること自体、俺の二十年の人生において片手で数えるほどしかない。ましてや、これほど肌を晒した大人の女性の体に触れるなんて経験は皆無だ。手が肌の上を滑るたびに指先からダイレクトに伝わってくる、吸い付くような肉感的な柔らかさと熱量。その圧倒的な生の感触に、俺の心臓は破裂しそうなほど激しく脈打っていた。
「うん、上手上手。力加減もすごくいい感じよ」
神崎さんはマットに顔をうずめたまま、気持ちよさそうに目を細め、低い吐息を漏らした。その吐息の声すらも妙に艶っぽく聴こえてしまい、俺の緊張はさらに跳ね上がる。だが、本当の試練はここからだった。
「はい、じゃあ次はメンズエステらしい施術のおさらいね。右足をカエル足にして……そう。でお尻側について、股関節をほぐすフリをしながら指を紙パンツの中にチラチラ侵入させるの」
「っ……!」
言われた通りに動かそうとするが、どうしても手がすくんでしまう。俺の目の前には、右足を外側に大きく開いたことで、薄い不織布の紙パンツが食い込み、むっちりとした肉が溢れ出ている神崎さんのお尻があるのだ。その生々しさに圧倒されつつも、俺は意を決して指先を紙パンツのゴムの隙間に潜り込ませた。
ヌルッとしたオイルの感触とともに指先が中に侵入し、お尻の柔らかい素肌に触れる。指先に伝わる肌の弾力と温もりに、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。
「そうそう。遠慮しなくていいのよ? はい、次は左足も同じように。で、そのあとは四つん這いね」
神崎さんが滑らかな動きで四つん這いになると、視界の光景はさらに過激さを増した。極小の紙ブラの脇から溢れんばかりに膨らむ胸、そして四つん真面目な体勢によって強調された豊かな臀部と太腿が、目と鼻の先で無防備に晒されている。
俺は指示されるがまま、彼女の真後ろに膝立ちになり、体にピタリと密着した。背中に触れる神崎さんの体温。両脚の間から手を伸ばし、太腿の内側を撫で上げながら、紙パンツのフロント部分へと指を滑り込ませていく。
「ふふっ……佐伯くん、手がすっごく緊張してる。でも、手つきはエッチで筋がいいわよ」
耳元でくすくす笑う神崎さんの吐息が肌をくすぐる。こんな過激な体勢で、成熟した女性の身体を触っているのだ。俺の下半身はとっくに限界を迎えており、薄手のTシャツと支給されたブーメランパンツを内側から強く押し上げるほど、ガチガチに硬く勃起したままだった。布地が突っ張って痛いくらいだ。
一通りのうつ伏せの手技が終わると、神崎さんはゆっくりと体を起こし、くるりとこちらを振り返った。
「よし、じゃあ次は仰向けの施術ね」
「え……? 仰向けですか? さっきはやってなかったですよね……?」
俺が不審に思って目を丸くすると、神崎さんはニッコリと、どこか怪しく艶やかな笑みを浮かべた。
「そうだよ? 男性と女性で刺激する部分は違うからね。女性客には仰向けで攻めるポイントがあるの。胸のブラの中と、パンツの中。ここが一番凝ってるからね。表面だけ触ってても意味ないの。実際に触って覚えるのが一番早いでしょ?」
「えっ……ブラとパンツの中が、凝ってる……?」
ブラとパンツの中が凝っているという、あまりにも無茶苦茶でセクハラじみた謎の理屈。だが、あまりに堂々とした態度で言われると、そういうものなのだろうかと一瞬脳が錯覚しそうになる。反論する隙を与える間もなく、神崎さんはマットの上で仰向けになり、自分の横のスペースをトントンと手で叩いた。
「横に座って。ほら、ブラの中に手を入れてごらん」
「は、はい……」
俺は言われるがまま横に正座し、ゴクリと唾を飲み込んだ。息を殺しながら恐る恐る手を伸ばし、神崎さんの胸元を覆う薄い紙ブラの隙間から、内部へと手を滑り込ませる。
指先がブラの布地をくぐり抜けた瞬間、手のひら全体を包み込んだのは、圧倒的な胸の柔らかさと熱量だった。掌いっぱいに収まるずっしりとした重みと弾力。指先が動くたび、ほぼ生のバストの感触が直接伝わってくる。胸の輪郭をなぞるように指を動かし、親指がうっかり胸の先端の突起を軽くかすめてしまうと、神崎さんは「ん……っ」と小さく甘い吐息を漏らし、うっとりと目を細めた。
「そう、上手。次はパンツの中。鼠径部から奥をほぐすの」
神崎さんの誘導に従い、俺は視線を泳がせながら、今度は下半身へと手を移した。腰のラインから、薄い紙パンツのゴムを少しだけ浮かせ、その隙間から指先をスッと中に潜り込ませる。
ぬらりとしたオイルの感触とともに、指先に触れたのは――丁寧に手入れされ、短く整えられたアンダーヘアだった。フワッとした柔らかい毛の感触と、そのすぐ下にある滑らかな素肌が直接指にあたり、俺の脳内に強い衝撃が走った。
(うわ……っ! 毛が……手にあたってる……!)
指先から脳へと伝わる過激すぎる情報量に、頭がどうにかなりそうだった。二十歳の冴えない大学生が、薄暗い個室で、三十代の艶やかな美女のブラとパンツの中に直接手を突っ込み、弄っている。自分の理性の糸が、パチパチと音を立てて切れ落ちていくのが分かった。
「それでね……こういう施術をしていると、女性側もワクワクしてくるから」
神崎さんの声のトーンが、一段と低く、むせ返るような艶を帯びた。
「こういうスキンシップもしてくるからね」
「え……?」
俺が間抜けな声を漏らした瞬間だった。神崎さんの手が俺の太腿を滑るように撫で上げ、そのままお尻へと伸びてきた。
薄いブーメランパンツ越しに、俺の臀部を力強く揉みしだいてくる。
「か、神崎さん……!?」
「じっとしてて。これも研修のうちだから」
神崎さんの手は止まらなかった。お尻の肉を撫で回すだけに留まらず、だんだんとその動きはエスカレートしていく。滑らかな指先がスッとブーメランパンツのゴムの隙間に滑り込んできた。
オイルの感触とともに、彼女の温かい指先が俺の素肌を直接撫で上げる。そのままお尻の割れ目から、股間のデリケートな部位のすぐ近くまで、じっくりと時間をかけて指先で刺激し始めてきたのだ。
「あっ……く……っ!」
我慢できるはずがなかった。すでに限界を超えてカチカチに硬くなっていた俺の下半身は、彼女の手による直接的な刺激を受け、暴走寸前の猛烈な熱を帯びていく。快感と困惑で頭の中が真っ白になり、神崎さんの胸や下腹部に触れていた俺の手は完全に止まってしまった。
完全にキャパオーバーになり、俺が途方に暮れてその場に固まった、まさにその瞬間だった。
ズリぃ!
神崎さんは容赦ない手つきで、俺のブーメランパンツのゴムを掴み、一気に足元まで引き下ろした。
「あ……っ!? ちょ、神崎さん!?」
空気の中に晒された俺の象徴が、薄暗い部屋の中で完全に怒り狂って自己主張している。あまりの恥ずかしさと恐ろしさに、俺は慌てて両手で股間を覆い隠そうと抵抗した。しかし、神崎さんは俺の手首を軽く払い除けると、目の前に露わになった俺の反応を逃さず見つめ、ニヤリと肉食獣のような笑みを浮かべた。
「いいから、施術を続けて?」
「いや、でも……っ! パンツ脱がすのはおかしいですよ!」
「さっきから、私の体チラチラ見てたよね? 私に触られてこんなに興奮してるなんて、佐伯くんって随分むっつりなんだね」
神崎さんは仰向けのまま、股間を完全に丸出しにした俺を上目遣いでじっと見つめ、性欲全開の言葉で一気に詰めてきた。
「ねぇ、そんなにしたいの? 私と」
「えっ……」
「したいってことだよね?」
圧巻の迫力だった。三十代の成熟した女性が放つ濃密な色香と、男を丸ごと呑み込もうとする強烈な欲求。迫られた俺の頭は完全にパニック状態に陥っていた。したくないと言ったら嘘になる。目の前には露出度の高い美女が横たわっており、自分自身は下半身を丸出しにして全開で勃起しているのだから。
だが、残された最後の理性を必死に振り絞り、俺は声の限り弱々しく抵抗した。
「い、いや……ここって、風俗じゃないんですよね……? 本番行為はダメなんじゃ……」
すると神崎さんは、緊張感をあおるようにくすくすっと可憐に笑ってみせた。
「うん、ダメだよ? お店での本番行為は禁止」
「じゃあ……!」
「でもね、今はお店じゃなくて、マンションの部屋で男女が出会って、お互い同意の元なんだから何も問題ないんだよ?」
「え……!?」
俺はあまりの理屈に言葉を失った。
そんな無茶苦茶な理屈がまかり通るのか?
お店の営業中じゃないからOK? 男女が部屋にいて同意の元だから問題ない?
そんな言い方をされたら、まるで実際の施術の際にも、客とセラピストが「同意の元」であればそういう事があってもおかしくないと言っているようなものではないか。この店の裏の顔が見えた気がして、背筋に冷たいものが走る。
混乱する俺に、神崎さんは追撃するように言葉を重ねてきた。
「じゃあ、サービスで2万円あげるよ。私から佐伯くんに。ね? 中々ないよ、こんな美味しい話」
「に、二万……!?」
「それか、とりあえず添い寝してよ。ね?」
甘い誘惑と、目の前に提示される大金、そして常識が完全に崩壊した空間。
俺の危機感は急速に麻痺していき、断るための言葉が喉の奥でつっかえて出てこない。このまま雰囲気に流されるまま、神崎さんと一線を越えてしまうのか――本当にこれでいいのかと苦悶し、頭を抱えそうになった、その時だった。
プルルルル……プルルルル……
カタカタと、ソファの上に置かれていた神崎さんのバッグの中から、バイブレーションの振動音が響き渡った。
「け、ケータイ……鳴ってますよ……」
俺がかすれた声で指摘すると、神崎さんは一瞬ピタリと動きを止めた。
「……」
神崎さんがソファの上のバッグを見る。
そして、あからさまに不服そうな、不機嫌極まりない顔をした。
「……こんなことなら電話番も用意しとくんだったな」
「電話番?」
「うん」
神崎さんが鬱陶しそうに立ち上がる。バッグからスマートフォンを取り出した。
「もしもし――はい、GOD SELENE SPAです」
その瞬間、俺は察した。
予約の電話だ。
神崎さんは数秒間、相手の話を聞いたあと、チラリと壁の時計を見た。
「はい……はい」
「……」
「ありがとうございます。では、お待ちしております」
通話が切れる。
「……予約、入ったんですか?」
「うん」
「何時ですか?」
「一時間後」
「一時間後……」
神崎さんが部屋を見回した。それから、股間を隠して縮こまっている俺を見る。
「ちょっと待ってて」
スマートフォンを操作しながら、別の誰かに電話をかける。
「もしもし? 今から30分後くらいにルーム来られる?」
相手と話す。
「うん。そう。ここ」
少し間を置いて、
「予約入っちゃってさ。お願い」
そして通話を切った。
「よし」
神崎さんが俺を見る。
「30分後に別のセラピストが来る」
「じゃあ……」
「うん」
神崎さんが、少し名残惜しそうに深いため息を吐いた。
「時間ないし、片付けしよっか」
「はい!」
「掃除とか洗濯も仕事だからね。そこまで教えておく」
「分かりました」
俺は間一髪で助かったという安堵感から、急いで足元のブーメランパンツを引き上げ、Tシャツを整えた。
神崎さんは手際よくマットを片付け始めた。俺も慌ててそれを手伝う。
オイルの付いた大量のタオル。
クシャクシャになったシーツ。
施術用のマット。
使い終わった備品やアロマオイルの瓶。
さっきまで充満していた濃密で生々しい空気は一瞬で霧散し、室内は打って変わって完全にただの仕事場、作業の時間へと切り替わっていた。
そして片付けが一通り一段落したところで、神崎さんが自分の財布を取り出した。
「はい」
「……?」
俺の前に差し出されたのは、何枚かの折りたたまれた紙幣だった。
「一万五千円」
「え?」
「今日の分」
「でも、オプション代だけじゃないんですか? さっき五千円って……」
「いいの」
神崎さんはその紙幣を、抵抗する俺の手に強引に押し付ける。
「将来有望だから」
「将来有望……?」
「そう。美味しいものでも食べな」
「いや、でも……」
「いいから」
断らせない強烈な押しだった。俺は結局、その一万五千円を受け取ってしまう。
「……ありがとうございます」
「うん」
神崎さんは満足そうに微笑んだ。
「あ、そうだ」
「はい?」
「契約周りの話してなかった」
「……そういえば」
「終わったら、さっきの喫茶店にまた行こっか」
「今日ですか?」
「今日」
「……分かりました」
俺は小さく頷いた。
シャワールームに入り、体についたオイルと汗を洗い流して着替える。そして神崎さんと二人で、研修を行ったマンションの部屋を出た。
建物の外に出ると、夕方の心地よい風が火照った頬を撫でた。神崎さんがふと立ち止まり、振り返って俺に視線を向けた。
「今回は簡単な施術を教えただけだけど……もっと人気が出るような施術やマッサージもあるから。研修したくなったら言ってね?」
「あ……はい」
意味深で妖艶な微笑みを浮かべる彼女に、俺は曖昧な生返事を返すことしかできなかった。
それから少しして。
俺たちは、最初に面接を受けたあの喫茶店に戻っていた。
静かな店内で、向かいの席に座り、普通にメニューを眺めている神崎さんを見て、俺の頭の中には妙な浮遊感が漂っていた。
(この人と……つい先ほど、セックス直前までいったんだよな……?)
全裸同然の格好で密着し、股間を剥き出しにされ、性欲全開の言葉で迫られた。それなのに、今の神崎さんは何事もなかったかのような、しれっとした澄まし顔で向かいに座っている。さっきまでの出来事が幻だったのではないかと思えるほどの落差に、どうしても現実感が湧いてこなかった。
「じゃあ、ここ読んで」
神崎さんがバッグから書類を取り出し、テーブルの上に広げた。置かれたのは『業務委託契約書』と書かれた紙だった。俺はそこに書かれた文字を一枚ずつ確認していく。
「業務委託……なんですね」
「そう」
「アルバイトじゃない?」
「うん。業務委託契約っていうのはね、店舗と対等な立場で契約を結んで、施術サービスっていう業務を請け負う形なの。だから報酬は時給じゃなくて、売上に応じた歩合給。頑張った分だけ収入アップが期待できるよ」
神崎さんはペンをクルクルと指先で回しながら説明を続ける。
「それに労働者じゃないから、勤務日数や施術内容も自分の裁量で決めやすいの。ライフスタイルに合わせて自由に調整できるし、特定店舗専属の取り決めもないから、掛け持ちしたかったら複数の店舗と掛け持ちもできるよ」
「へえ、掛け持ちもできるんですね……」
「そう。あ、あと所得に関する手続き……確定申告とかは自分でやる必要があるんだけど。まあ、するかしないかは任せるよ」
神崎さんはどこかあっけらかんと言い放った。
なんとなく、少しだけ大人の世界の複雑な仕組みに足を踏み入れたような気がした。俺は指定された場所に必要事項を書き込み、署名をする。契約自体は拍子抜けするほどあっさりと終わった。
「じゃあ次、源氏名」
「源氏名?」
「本名で働くわけじゃないからね」
「何がいいんだろ……」
「佐伯くんが決めて」
「うーん……」
しばらく考えた。頭がまだ少しボーッとしていて、洒落た名前など思い浮かばない。
「……恒でいいです」
「安直だね」
「思いつかないんですよ」
「まあいいか。じゃあ『恒』で登録しとくね」
次にSNSや集客についての説明に移った。
写真の撮り方、プロフィール文、出勤情報の設定、店の広告サイトへの掲載、予約用のLINEアカウントの作成。説明される内容は想像以上に多かった。
「SNSはちゃんと更新してね」
「毎日ですか?」
「できればね。店の集客力に頼りすぎるのはよくないよ。この○○駅周辺って、うちの店以外にも同じようなメンズエステが4店舗くらいあるから、常にお客さんの取り合いなの。その中で自分を選んでもらうために、自分からSNSでお客さんを取りに行くのが大事なんだからね」
「そんなに激戦区なんですか……なるほど」
「写真も大事。顔出しはしなくていいよ。むしろ最初は隠したほうがいいかも」
そう言って神崎さんはスマートフォンを操作し、画面を俺に見せてきた。
「こんな感じ」
見せてもらったのは、店に在籍している他の男性セラピストのプロフィール写真だった。Tシャツに短めのパンツを履き、顔部分はうまくカットされている。顔は見えないが、身体のラインや清潔感がはっきりと伝わってくる写真だった。
「……これ、俺もやるんですか?」
「もちろん」
「恥ずかしいな……」
「最初だけだよ。そのうち慣れるから」
神崎さんは楽しそうに笑った。
そして、最後に出勤予定を決めることになった。
「次いつ入れる?」
「大学があるので……」
「じゃあ、この日と、この日」
神崎さんがカレンダーの画面を指差した。
「ここなら、うちの常連さんがよく入る日だから、付けてあげられるかもよ」
「常連さん……」
「うん」
「俺にですか?」
「新人だしね。最初のお客さんがいるかどうかで、だいぶ気持ちも変わるから」
「それは助かります」
「じゃあ、この日でいい?」
「はい」
俺は頷いた。
こうして、俺の初出勤日が正式に決まった。
大学の講義予定、居酒屋バイトのシフト、そして――メンズエステの出勤予定。
気づけば俺の日常の中に、異物のような見知らぬ仕事が一つ、しっかりと入り込んでいた。
俺が記入し終えた契約書類を受け取ると、神崎さんは内容に不備がないか手早く目を通した。そしてトントンと卓上で紙の端を揃えると、自前の革のカバンの中に大切そうに仕舞い込んだ。
「はい、これで手続きは完了ね」
神崎さんはそう言うとカバンを肩にかけ、店を出ようと立ち上がりかけた。その時だった。
「そうだ」
神崎さんがふと振り返り、真顔になって俺を見た。
「一つだけ言っておくね」
「はい?」
「最初のお客さん」
神崎さんが少しだけ、意味深に笑う。
「良い人なんだけど――ちょっとコミュニケーション強めな人かも」
「……コミュニケーション強め?」
「うん。だからね、佐伯くん……ガード緩そうだから気を付けてね? 本当に嫌なことがあったら、きっぱり断るのも大事だよ」
真剣さを帯びた彼女のトーンに、俺は背筋を伸ばし、身を硬くした。しかし、神崎さんは間髪入れずに言葉を続けた。
「あ、でもね。周りの部屋の人に迷惑だから、大きい声は絶対に絶対に出さないでね。そこだけ気を付けてくれれば大丈夫だよ。まあ、常連さんだからその辺のラインはわかってるはずだしね」
「……」
嫌ならきっぱり断れ。だが、絶対に大声は出すな。
あまりにも矛盾していて、逃げ場を無くすような恐ろしい釘を刺され、俺は返事すらできずに言葉を失った。
「じゃ、初出勤よろしくね」
軽やかな足取りで喫茶店を出ていく神崎さんの背中を見送りながら、俺は自分の額から冷たい汗が流れていくのを感じていた。
手元に残された一万五千円の重みと、初出勤という現実。
――俺のメンズエステ初出勤は、どうやら普通には終わらないらしい。