貞操逆転世界のメンズエステで働くことになった 作:カラスあげます
神崎さんと別れた翌日。
俺は大学の講義を終えると、いつものように友人たちと学食へ向かっていた。
五限終わりの学食は、部活前の運動部員や、俺たちのように授業終わりの学生たちでそれなりに混雑している。
「腹減ったー」
「今日なんか食う?」
「俺、カレー」
「また? お前、先週も三回はカレーだっただろ」
「安いし、ハズレがないからいいんだよ」
たわいもない会話をしながら、食券機に並び、適当に空いている席を確保する。
昨日までなら、いつもと何も変わらない、ごく普通の大学生活の一コマ。
……のはずだった。
俺は、トレイに載せた唐揚げ定食をテーブルに置きながら、無意識にズボンのポケットの上から財布の感触を確かめた。
そこには、昨日神崎さんからもらった一万五千円が入っている。
神崎さんの、少し汗ばんだ指先から手渡された、温かみの残る紙幣。
まだ、手はつけていない。
居酒屋のバイトで一日中動き回って稼ぐ額とは違う、なんとも言えない、少し重みのある金だった。
その金の出処を思い出すたび、昨日の研修の光景が脳裏に蘇る。
薄暗い部屋。
橙色のアロマランプ。
神崎さんの、肉感的な身体。
紙ブラジャーから溢れんばかりの豊かな胸。
紙パンツの細い紐が食い込む、滑らかな腰のライン。
俺の指先にまとわりつく、アロマオイルの滑らかさと、彼女の肌の熱。
そして、耳元で囁かれた、吐息混じりの声。
「恒一、お前さっきから黙ってどうした?」
友人のケンタに声をかけられ、俺はハッと我に返った。
「え? ああ、いや、なんでもない。ちょっと寝不足で」
「また夜中までゲームか? ほどほどにしとけよ」
「まあな……」
俺は箸を取り、唐揚げを口に運んだ。
味は、あまりしなかった。
「そういやさ」
カレーを勢いよく口に運んでいたショウが、スマホを弄りながら口を開いた。
「昨日、駅前で女の人に声かけられたんだけど」
「また?」
「またってなんだよ」
「いや、お前最近多くない? 先週もカフェで声かけられたって言ってただろ」
「知らんって。俺は普通に歩いてただけだぞ」
「それがモテるってことだろ。羨ましいねぇ」
「でも普通に怖いんだよな。いきなり腕掴まれて連絡先聞いてくるし」
「腕掴まれるのは、ちょっと怖いな……」
ショウは、少し困惑したような、でもどこか嬉しそうな顔をしていた。
「わかる」
別の友人のダイキも頷く。
「俺もこの前、居酒屋のバイト終わって店出たところで、三十代くらいの女の人に声かけられたわ。『モデルさんですか?』って」
「それはお前、盛ってるだろ」
「盛ってる?」
「いや、ダイキなら普通にありえるだろ」
「盛ってないって。マジで」
「はいはい」
笑いながら、ダイキはスマホの画面を見せてきた。
「ほら。そのとき交換したLINEのアカウント」
「……あー、確かに綺麗。落ち着いた雰囲気の美人じゃん」
「だろ? 今度飲みに行きませんかって誘われてるんだけど、どうしようかな」
「贅沢な悩みだな。行けばいいじゃん」
「いや、知らない人といきなり二人きりで飲みに行くのって、怖くね?」
「怖いっていうか、面倒」
「贅沢言うなよ。俺なんて、ナンパなんて一度もされたことないわ」
ケンタが溜息をつく。
そんな話をしながら、俺は黙って昼飯を食べる。
こういう会話は、大学生なら別に珍しくない。
特に、この世界では。
男性の容姿やスタイル、清潔感が重視され、女性が積極的にアプローチしてくる世界。
「そういえば、ダイキ、この前言ってた彼女とはどうなった?」
「彼女? ああ、あのサークルの?」
「そう」
「……まだ付き合ってるけど」
ダイキの顔が、急に曇った。
「どうした? なんかあった?」
「いや……別になんでもない」
「なんでもない顔じゃないだろ。言ってみ?」
俺たちが促すと、ダイキは溜息をつき、スマホをテーブルに伏せた。
「……彼女、ちょっと重いっていうか」
「重い? LINEが多いとか?」
「それもあるけど……なんというか、その……」
ダイキは声を潜め、辺りを気にするようにしてから、口を開いた。
「……性欲が、強すぎるんだよ」
「は?」
ケンタが目を丸くする。
「性欲が強い? ……何かされたわけでもなく?」
「いや、お前はわかってない!」
ダイキは真剣な顔で言い返した。
「毎日だぞ? 毎日求められるんだぞ?」
「毎日……?」
「そう。朝、昼、晩。隙があれば」
「朝、昼、晩……?」
「この前なんて、大学の講義と講義の合間に、誰か来るかわからない多目的トイレに連れ込まれて……」
「マジで?」
「うん。『ちょっときて』って言われて、二人きりになった途端、ドア鍵かけられて、服の上から股間触られて……。拒否する間もなく、ズボン下ろされて……」
「……うわ」
俺は思わず、昨日の神崎さんの強引な研修を思い出した。
嫌だ、と言えない空気。
「で、そのまま?」
「……うん。五分くらいで。焦ったわ、誰か来るんじゃないかって」
「五分で……? ダイキ、お前……」
「うるさい! 焦ってたんだよ!」
ダイキは顔を赤くする。
「夜もさ、アパートに行くと、ドア閉めた瞬間に押し倒されるんだ。服脱ぐ暇もない。昨日の夜なんて、三回も……。俺、腰痛くて、今日の講義集中できなかったわ」
「三回……。お前、すごいな……」
「すごくないって! 毎日だぞ? 俺、干からびるわ」
「贅沢な悩みだねぇ。俺なんて、彼女すらいないのに」
ケンタがまた溜息をつく。
「でもさ、そういうのって結局、ダイキのことが好きだからこそだろ? 愛されてるってことじゃん」
「まあ……それはわかる。嬉しい面もあるけど……」
「だよな。追われすぎると冷めるけど、完全に嫌ってわけでもない、みたいな」
「まあ……うん」
ダイキは複雑な表情で頷いた。
「お前ら面倒くさすぎだろ」
俺が呆れたように言うと、三人が一斉にこっちを見た。
「恒一にだけは言われたくない」
「なんでだよ」
「お前、女の話になると急に他人事になるじゃん」
「そう?」
「そうだよ。恋愛とか、全然興味なさそう」
「……まあ、あんまり」
「もったいな。 その顔で、ナンパもされない、彼女も作らない、性欲の話にも乗らない」
「別にいいだろ。俺は俺で、穏やかに暮らしたいんだよ」
「お前、本当に自覚ないんだな……」
ケンタが呆れたように俺を見る。
すると、ケンタが俺のスマホを覗き込んだ。
「ていうか恒一、最近いつ写真撮った?」
「写真?」
「SNS。アイコンずっと同じじゃん。高校のとき撮ったやつだろ」
「ああ……」
「もうちょっとちゃんとした写真にしたほうがいいぞ。お前、写真写り悪いんだから」
「そうか?」
「うん。実物のほうが、全然いい」
「……そう?」
俺は自分の顔を、改めてスマホの画面で確認した。
ごく普通の、大学生の顔。
どこが整っているのか、自分ではさっぱりわからない。
「ダイキなんて、毎日彼女との2ショットアップしてるぞ」
「俺は、まあ、他の女へのけん制っていうか……」
「けん制?」
「うん。彼女が、『ラブラブなの載せないと他の女が寄ってくる』ってうるさいから……。それに、他の男にもけん制できるしな」
「……お前、大変だな」
「だろ?」
笑いが起きる。
「でも恒一、服変えたら結構印象変わりそう」
「そうか?」
「うん。今ちょっと地味すぎ。いつもTシャツにジーンズじゃん」
「大学生なんてこんなもんだろ」
「まあ、そうだけど。もう少しオシャレに気を使えば、もっとモテるって」
「いいよ……いや、せっかくだし行ってみようかな」
「え? 恒一、どうした? 珍しいじゃん」
「ちょっと、オシャレに興味湧いてきたっていうか……。それに、昨日臨時ボーナスあったから」
「臨時ボーナス? 居酒屋で? どんな臨時ボーナスだよ。そんな店ある?」
「まあ、色々あるんだよ……」
俺は少し視線を逸らして、コーヒーを啜るフリをした。心臓が少しドキドキしている。
……まさか、昨日神崎さんからもらった金の本当の使い道なんて、口が裂けても言えない。
「ボーナス出たなら、服買えよ」
「お前、相変わらず金ないな」
また笑いが起こった。
そのまま話題はSNSの話へ移った。
俺はほっと胸を撫で下ろした。
「最近さ、写真載せても全然いいねつかないんだけど」
「写真が悪いんじゃね?」
「じゃあどんな写真がいいんだよ。ダイキみたいに、腹筋とか載せればいい?」
「お前、腹筋ないじゃん」
「うるさい! これから作るんだよ!」
「女の人って、男の腹筋だけじゃなくて、大胸筋とかお尻、腕の血管とか筋も好きだよな」
「まあ、あれくらい普通じゃね?」
「ダイキの彼女も、ダイキの大胸筋とか血管が好きって言ってたろ?」
「……うん、まあ。だから毎日筋トレさせられてる」
また笑いが起こった。
俺もつられて笑う。
いつもの昼休み。
いつもの友人たち。
いつものくだらない話。
――なのに。
(……以前までの俺なら、この会話を男同士ですること自体がおかしいと思ってたんだろうな)
恒一は苦笑した。
女性に腕を掴まれて逆ナンされた話。
女性からLINEが毎日三回来るという愚痴。
サークルの彼女の性欲が強すぎて、多目的トイレに迫られたという相談。
腹筋や大胸筋、お尻、血管を載せればいいねが増えるという妄想。
そういう話を、男同士ですることに何の違和感も覚えなくなったのは、いつからだっただろう。
気づけば、それが当たり前になっていた。
それが、この世界だ。
「……でさ」
ケンタの声で、俺は我に返った。
「恒一、バイト何してんの?」
「え?」
「いや、最近忙しそうじゃん。臨時ボーナスとか言ってたし」
「ああ……居酒屋と、もう一つ」
「もう一つ? 何?」
「……ちょっと、エステ系」
「エステ? 恒一が?」
ダイキが首を傾げる。
「恒一、オシャレに興味ないのに?」
「オシャレは関係ないだろ。マッサージだし」
「メンズエステってやつ?」
「そう、それ」
「やめといたほうがよくない?」
「なんで?」
「押し切られて、気づいたら変なサービスさせられてた、とか笑えないぞ」
「それにメンズエステって女の人相手?」
「たぶん」
「恒一、押しに弱いからな」
「それは……」
「女の客って結構強引なのいるからな。嫌なことされたらちゃんと断れよ」
「わかってる」
「それは……大丈夫」
俺は昨日のことを思い出した。
神崎さん。
紙ブラジャー。
カエル足。
ブーメランパンツ。
……確かに、普通のアルバイトとは言い難い。
「臨時ボーナスって、そのエステ?」
「……いや、臨時ボーナスは居酒屋だよ」
「ならいいけど」
その話は、それ以上深くならなかった。
大学を出たあと、俺は駅前のカフェに入った。
神崎さんとの初出勤日まで、あと三日。
契約書も書き、源氏名も決まった。
「恒」。
昨日、神崎さんと契約を交わしたときに自分で決めた名前。
アイスコーヒーを飲みながら、俺はスマホを開いた。
神崎さんから送られてきたアカウント。
俺がこれから働く店のSNSだ。
ログインして、プロフィールを確認する。
自己紹介は、まだ空欄だ。
「……せっかくだ。俺も一度くらい、ちゃんと投稿してみるか」
他のセラピストの投稿を眺めてみる。
……写真がすごい。
顔を隠している人も多い。
口元だけ。
横顔。
後ろ姿。
それでも、服装やポーズはかなり際どいものが多かった。
上半身裸で、タオル一枚。
股間の膨らみを強調した下半身の写真。
口元を指でなぞる動画。
中には、Tシャツを少し捲り、腹筋を露出させて、見下ろすようなアングルで撮った写真に、
『今夜、僕の腹筋で、癒されに来ませんか? 心を込めて、マッサージします』
というテキストが添えられている投稿もあった。
「……そんな感じなのか」
俺は少し考える。
SNSなんて、ほとんどやったことがない。
まして、自分の写真を載せるなんて。
「……どうしようかな」
迷った末、俺はスマホを立てかけた。
とりあえず、普通の写真でいい。
そう思って撮影したのは、ジーンズを履いた俺の脚が写った写真と、支給された薄手のTシャツ姿で、少しだけ腹部が見える写真。
他の人に比べれば、かなり地味だ。
そこに簡単な自己紹介をつける。
『新人の「恒」です。よろしくお願いします。マッサージは初心者ですが、一生懸命頑張ります』
「……これでいいだろ」
投稿。
俺はスマホをテーブルに置いた。
数十分後。
通知が鳴った。
「ん?」
一件。
また一件。
「……早くない?」
投稿したばかりなのに、反応が増えている。
その中には、個別のメッセージもあった。
『むっちゃタイプです。肌が綺麗ですね』
「……」
『恒君、可愛いね。そのTシャツ捲り上げたくなっちゃいました。給料入ったら会いに行きます』
「……」
俺は画面を見つめた。
なんというか。
距離が近い。
女性からこういうメッセージが来ること自体は、この世界では珍しいことではない。
それでも、自分が受け取る側になると、妙な感じがした。
「……営業って、こういうものなのか?」
気になって、メッセージを送ってきたアカウントを開いてみる。
プロフィール。
過去の投稿。
そして――
『メンズエステで本番までできた! 新人くん、焦ってて可愛かった』
『この店はここを攻めればいける』
『新人セラピストの攻略法。押しに弱い子を狙え』
『昨日のセラピスト、テクニックすごかった。腰砕けた』
「……うわ」
俺は思わず顔をしかめた。
なんというか。
想像していたより、ずっと生々しい。
やりすぎだろ、みたいなエロ系投稿が、ごろごろと出てくる。
中には、セラピストの股間を触っている動画や、服を脱がせている最中の写真までアップされているアカウントもあった。
この仕事、本当に大丈夫なのか。
そう思った、そのとき。
スマホが震えた。
LINE。
神崎さんからだった。
『恒君、予約入ったよ』
心臓が一瞬だけ跳ねる。
続けてメッセージが届いた。
『初出勤の日ね。このまえ言ってた常連さん』
俺は画面を見つめた。
そして、さらに続く。
『ちょっとコミュニケーション強めの人だから、嫌なことされたらちゃんと断ってね』
「……」
昨日も聞いた言葉だった。
嫌なことは、ちゃんと断る。
当たり前のことだ。
忠告してくれたショウたちの言葉も頭をよぎる。
『女の客って結構強引なのいるからな』
『押しに弱いから、変なサービスさせられてた、とか笑えないぞ』
「……嫌なこと……」
俺は昨日の研修を思い出した。
カエル足。
四つん這い。
耳元の吐息。
嫌なこと……なのだろうか。
俺はスマホを握り直す。
初出勤まで、あと三日。
――いったい、どんな客が来るんだろう。
その答えを知るのは、もうすぐだった。
次回初出勤