成功体験に脳を焼かれたTS転生者、もう一度だけ前に進む 作:成功!
――失敗を恐れて二の足を踏み続けたまま年を取った結果、私の人生は何ともつまらないものになってしまった。
朝から晩まで仕事をし、趣味と言える趣味もない。
かつては好きだったアニメや漫画も、今は手に取ることすら億劫だ。
はたして、こんな人生に何の価値があるのだろう。
そういう思いを抱えながら、息苦しさとともに生きてきたのだ。
その結果が、異世界で少女となって森を彷徨うことだなんて、思っても見なかった。
森の中を歩いて、すでに一時間ほどになる。
不思議なことに疲れはない。
この世界にやってきた当初確認した”チート”が関係しているのだろう。
昨日まで感じ続けていた体のダルさも、節々の痛みもまったく感じない。
常に体力が絶好調の三割程度だったのが嘘みたいだ。
だが、今はその体の軽やかさ以上に、状況への不安が焦燥感を駆り立てる。
私はこれから、どうなってしまうのだろう。
容姿は美しかった。
水面に移る顔立ちは人形かなにかのようで、背丈は小柄で百五十と少し。
手足は細く、シミ一つない。
着ている衣服はどことなく民族衣装を思わせる。
少なくとも、この世界に放り出される以前の私とは似ても似つかない存在がそこにいた。
そんな容姿も、いいことばかりかと言えば果たしてどうか。
先ほどから何度か魔物を見かけた。
どうみても異世界ファンタジーなこの世界の治安を、信用できるとはとても思えない。
明日の仕事どうするんだよ、なんて社畜極まりない思考も巡ってしまう。
仕事なんて、しなくて済むならそれでいいと、ずっと思っていたはずなのに。
――だが、何よりも恐れていたことは、思ったよりも早く眼の前で起きてしまった。
「ひっ! いやだ、死にたくない! だ、誰か……!」
異世界で森の中、誰かと出くわすならこういう状況は想定できるものだった。
魔物が、人を襲っている。
商人風の男が、腰を抜かして地面に倒れ込んでいた。
眼の前には狼の魔物。
人を見下ろす体躯は、実に魔物らしい威容を誇っており、遠目に見る私ですら思わず息を呑んでしまうほどだ。
既に商人風の男を追い詰めて、もう逃がすことはないと踏んだのか、狼は男を睥睨して舌なめずりをしている。
恐れていたのは、命の危機だ。
こういう世界なら、魔物が人を襲って殺すこともあるだろう。
もしその現場に出くわしたら、私はどうすればいい?
幸いにも、力はある。
だが、魔物相手にそれを正しく振るえるのかという問題もあった。
私は単純に、命のやり取りという重大な状況に、自分を置きたくなかっただけなのだ。
ああ、最悪だ。
自分の矮小さが浮き彫りになる。
ほとほとに嫌気が差していた小心っぷりが、こんな状況でも顔をのぞかせてしまった。
昔からこうだ。
いつだって、大事な場面で一歩前に踏み出すことができないでいた。
そのせいで後々後悔すると解っているのに、やめられない。
失敗。
それを眼の前にすると、足がすくんでしまう。
最初のうちは、失敗を避けて立ち回ることを賢いと思っていた。
だけど少しずつ、自分の人生が巧く行かない方向に進むに連れ、間違いだったと気付かされる。
人は挑戦しなければ成功しない。
失敗を恐れて立ち止まれば、二度と先には進めないのだと。
後戻りできなくなってから思い知らされた。
――なら、今はどうだ?
「ひっ、助け……!」
眼の前で、一人の命が奪われようとしている。
狼は舌なめずりをしながら、弄ぶように男を追い詰めていた。
嗜虐的な笑みが、狼の凶暴性を端的に語っている。
もう結構な時間そうしていたのだろう、いつ襲われてもおかしくない。
動悸が苦しい、呼吸が自然と荒くなる。
助けなくては、助けなくては、助けなくては。
私には、そのための力があるのだから――
この場合の失敗について考えろ。
それは、どう考えても男の命が失われることだろう。
立ち止まっていることが失敗だ。
恐れすくみ、進めないことが失敗だ。
今までの失敗は、避けても誰かが死なない失敗だった。
取り返しのつかないことが起きることはない、そんな失敗ばかりだったのだ。
だからここまで、ずっと避けて逃げて立ち止まり続けることができたのだから。
でも、今は違う。
逃げれば人が死ぬ、避ければ人が死ぬ、立ち止まれば人が死ぬ。
失敗は許されない、私自身を許せなくなる。
何より――私は機会を手に入れたんだ。
かつての身体と能力を失い、強靭な肉体を手に入れた。
今なら、やりなおせる。
もう一度だけ、前に進めるかも知れないんだ。
だから、
だから――
だから――――!
動けよ、私の体!
「――――ああああああっ!」
動けよぉ――!
「あああああああああああああああああああああっ!!」
――世界が、遅くなって見えた。
飛び出した私は、今にも泣きそうな顔をしていただろう。
恐怖で視界が歪み、けれども一直線に狼へと体は向かっていく。
驚くべきことに、ほとんど運動なんてしてこなかったはずの私が、何一つ不自由なく森の中を一瞬で駆け抜けることができた。
思ったとおりに体が動く。
まるで、最初からそうなるように体が作られていたかのように。
そして、男を見た。
驚愕に染まり、私の事を認識できているかもわからない顔。
恐怖に歪み、もしかしたら服の下はひどいことになっているかもしれない。
ああ、今の私に力がなかったら、こうなっているのは私の方だった。
どことなくそれに、かつての自分を重ねながら、私は――
「だあああ、っらああああ!」
一撃で狼を、地面に叩き伏せた。
■
――できた。
できた、できた、できた。
やってしまった!
狼は動かない。
地面は少し陥没し、この体のスペックを物語っている。
肩で息をするが、けれどもそれは緊張と精神的疲労のせいだ。
身体には一切の疲労も傷も、ありはしない。
大きく深呼吸をしてから、私は倒れた男を見下ろした。
「――大丈夫、ですか」
驚くほどに可愛らしい声が自分の口から飛び出して、思わず自分でびっくりしてしまう。
けれども、今は何より男のことだ。
恐怖に歪んだ顔、生存を安堵する顔、そして驚愕に目を見開く顔。
混沌とした感情がないまぜになり、今までの人生で見たこともないような顔になっている。
死地というのは、そういうものなのだろう。
あと、少しの異臭。
「あの、ええと……」
「――あ」
男からの返事はなかった。
無理もない、相当な極限状態だったのだ。
だから根気強くもう一度声をかけようとすると――
「ああああっ! た、助かった! ありがとう! 君は命の恩人だ!」
男が、すがるように這いずりながら私へと近づいてきた。
思わず驚くが、それと同時に――
「君はすごいよ! 一撃でクルーエルウルフを倒すなんて! 高名な冒険者なのかい!? いや、本当にありがとう! 君がいなければ、僕は今頃……!」
――男の顔はくしゃくしゃな笑みで、少しだけ歪んでいた。
私に対する感謝、称賛、そして助かったことへの喜び。
驚きもまだまだ残っている。
けれども、先程浮かべていた恐怖に近しい感情はどこかへ行っていて。
私はそれが――
――どうしようもなく、嬉しかった。
私が助けた。
人の命を私が救った。
それに、ただただ純粋な感謝が帰ってきたのだ。
自分の中にこの一瞬が喜びとともに刻み込まれていくのを感じる。
これは、
――かつて、ある友人は言った。
人は失敗を重ねて、反省の中から成長していくものだ、と。
確かにそれは事実だろう。
だけど、同時に。
人は成功がなければ変われない。
どうしようもなく失敗を恐れてきた私が、もう一度一歩を踏み出すには――この体験がなければ勇気を持つことさえできなかっただろう。
「――すまない、君の名前を聞かせてくれないだろうか?」
男が言う。
私は、自分の名前があまり好きではない。
それは単純に、私が私を好きではないからだ。
でも、今は――胸を張って答えられる気がする。
「私は……イツキ、といいます」
イツキ。
どこにでもいる、普通の人間だった者。
今は異世界で、特別な力を手に入れた者。
これから先、私に何が待っているのかはわからない。
それでも、元いた世界にいた頃よりは、ずっと前向きに生きられそうだ。
なんて、少しだけ私は今の状況に――ワクワクしているのかもしれない。
そう、感じていた。