「いい?」
夜に訪ねてきたのはいずみさんだった。
「うん、どうしたの?」
「ちょっと付き合って」
それだけ言うと、いずみさんは僕の返事を待たずに部屋を出ていった。
「え? 部屋を出るって……なんで?」
「どこ行くのっ? いずみさん!」
慌ててサンダルを履き、後を追いかける。
廊下を抜け、外へ出たところで、いずみさんが振り返った。
「ごめん、ちょっと湖までいいかな?」
「湖……? なんで?」
「私が行きたくなったから。ダメ?」
「いいよ」
そう答えると、いずみさんは小さく笑った。
――――――――――
夜の湖は、昼間とはまるで違って見えた。
風が水面を撫でるたび、月明かりが細かく揺れている。
「夜の湖も、なかなかいいね」
「いいよね、こういうの」
「うん」
しばらく二人で湖を眺めていた。
静かな時間だった。
やがて、いずみさんがぽつりと口を開く。
「あのさ。この間の『普通』について、私なりに考えてみたんだ」
「え?」
「颯君は、普通がいいんでしょ?」
「えっ?」
思わず聞き返す。
「私は普通じゃない。何が違うのかなってさ」
いずみさんは湖を見つめたまま続けた。
「私、普通になりたいの」
「……いずみさんが?」
「うん」
少し意外だった。
いずみさんは、いつだって自分がしたいと思ったことをする。
周りがどう思うかなんて、あまり気にしない。
それが、いずみさんらしさだと思っていた。
「僕は……いずみさんは、そのままでいいと思うけど」
「え?」
「だって、普通っていうのは、みんなが面倒くさがってやらないことを、やらないってことでしょ?」
「……」
「だから、それができるいずみさんは凄いっていうか……」
うまく言葉にできない。
でも、これだけは伝えたかった。
「つまり……」
「つまり?」
「僕はいずみさんのこと、好きだよ」
「……へ?」
いずみさんが、ゆっくりこっちを向いた。
「……あっ、ごめん!」
言ってから、自分でも気づいた。
今の言い方は完全に誤解される。
「今のは……友達っていう意味でね?」
「…………友達?」
「うん」
「……」
いずみさんは黙って僕を見る。
その顔が、なんだか妙に気まずそうに見えた。
「僕ら、まだ出会って十日も経ってないしね」
「……そうね」
「だから、その……」
「颯君」
「うん?」
「それ、今言う必要あった?」
「え?」
「『好き』って言ったあとに『友達』って付け足すの」
「いや、だって誤解されたら困るし……」
「……ふーん」
いずみさんは湖のほうへ視線を戻した。
「じゃあ、友達なんだ」
「うん。友達」
「……そっか」
なぜか、いずみさんの声は少しだけ小さかった。
僕は、その理由がよく分からなかった。