ランナー   作:Zizzi

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第五十章 救命

濃密な硫黄の刺激臭と生々しい血生臭さが、バーの裏路地にある隠し扉から激しく流れ込んできた。 四名の腹心が簡易折りたたみストレッチャーを担ぎ、防弾ゴムカーテンをくぐって足早に店のバックヤードへと雪崩れ込んでくる。ストレッチャーの帆布は黒ずんだ汚水と赤黒い血糊にすっかり染まり、端からポタポタと合金の床へ滴り落ちては、濁った泥だまりを広げていた。

「平らに寝かせろ! 雑に扱うな!」

ハーマンが影の中から早足で駆け寄る。その顔に埋め込まれた旧式の義体呼吸弁が、切迫した排気音を荒く吐き出していた。 二名の部下がストレッチャーを金属の長テーブルへ乗せるや否や、ハーマンは邪魔な腹心を乱暴に押し退け、身を屈めた。

照明が一戸の顔を照らし出す。その若い顔立ちは、水に濡れた紙のように蒼白で、血の気は微塵もない。唇はひび割れ、胸の上下動はほとんど視認できないほどに微弱だった。 身に纏う色褪せた深灰色のトレンチコートはすでにボロボロに裂け、左肩の破れ目からは、骨に強引に打ち込まれた数本のチタン合金骨ピンと、白濁した高分子ゲルがめくれ上がっている。過酷な移動の負荷によって傷口は再び裂け、灰色の濁りが混じった粘り気のある血の滴が滲み出していた。

だが、ハーマンの視線がそれらの致命傷に留まったのは、わずかコンマ数秒にすぎなかった。

彼の呼吸が急激に荒くなる。機械油に汚れ、分厚いタコの刻まれた両手が、わずかに震えながら一戸の胸元へと伸びた。血糊で固着したトレンチコートのジッパーを力任せに引き裂く。 指先をインナーの隠しポケットへと滑り込ませた。 指の腹が、硬質で冷たく、角張った金属の感触を捉える。

ハーマンの濁った瞳がキュッと収縮した。一戸の懐からそれをひったくるように引き抜く——手のひら大の、鈍い鉛色の六角形をした絶対シールドコンパートメント。表面には高空からの転落による生々しい衝撃痕が無数に刻まれていたが、軍用の切断ツールですら手を焼くはずの外装の物理ロックが、あろうことか、極めて精密な高周波ツールによって継ぎ目に沿ってこじ開けられていたのだ!

ハーマンは息を呑み、こじ開けられた隙間に沿って、爪で慎重に天蓋を持ち上げた。 冷たい灰色の光の下、わずか第一関節ほどの大きさしかない、深紅の微小チップ——AX-19モジュールが、底部の耐震スロットに静かに鎮座していた。

AX-19。 本当にあった。 持ち帰ってきただけでなく、最も厄介な外装の物理自爆ロックすら、何者かの手によってすでに解除されていたのだ!

「ハ……ハハッ……!」

ハーマンはその金属ケースをわしづかみにし、義体呼吸弁から二筋の熱い白息を噴き出した。瞳の奥底に、死線からの生還がもたらす狂喜と貪欲が渦巻く。これさえあれば、この七日間の損失、潰されたセーフハウス、死んだ四名の精鋭傭兵——そのすべてを、利息付きで取り戻すことができる!

その時、テーブルの上の一戸の喉仏が激しく痙攣した。 口元から内臓の破片が混じった黒い血を吐き出し、ただでさえ微弱だった脈拍が、途切れ途切れに衰弱し始めた。

ハーマンの顔から狂喜が瞬時に消え去り、鬼気迫る冷徹さへと一変した。彼はごく自然な手つきでAX-19モジュールを納めたケースを灰色のジャケットの内ポケットへと押し込み、軽く叩いた。そして弾かれたように振り返り、背後の部下たちへ向けて怒号を浴びせる。

「何を突っ立ってやがる?! てめえら、こいつを俺のテーブルの上でくたばらせる気か?!」

リーダー格の腹心がビクッと身を竦めた。 「ボス、救助に向かわせた際に持たせた二台のポータブル医療ポッドと最高濃度の神経ゲルは、運んでくる途中でとっくに使い切っちまいました。こいつの傷はあまりにも深すぎて……」

「『Klo(クロ)診療所』からKloを力ずくで引っ張ってこい! 十分以内に連れてこねえなら、今すぐあのヤブ診療所を焼き払ってやると伝えろ!」

ハーマンはテーブルの上の酒瓶を薙ぎ払い、静まり返ったバーにガラスの破砕音が響き渡った。地下三階の廃地下鉄操車場へと通じる貨物エレベーターを指差し、矢継ぎ早に命令を下す。

「隠しリフトを使え! 直ちに地下三階のセーフハウスへ運び込め! 眠らせてあるとっておきの大型生体維持装置に繋ぎ、予備の止血剤と栄養液で命を繋ぎ止めろ! それから闇市へ走って、軍規格のナノ修復ポッドを一台調達してこい!」

ハーマンはストレッチャーの上で息も絶え絶えの青年を冷徹に見据え、刃物のような視線を突き刺した。

「いいか、今この瞬間から、こいつの命はお前ら全員を足したよりも価値がある。もし手術台の上で死なせたりしてみろ、てめえら四人まとめて排水分路に放り込んでドブネズミのエサにしてやるからな!」

「了解!」

四人の腹心は一刻の猶予もなくストレッチャーを担ぎ上げ、バックヤード深奥の昇降機へと飛び込んだ。重々しい鉄チェーンの軋み音とともに、血まみれの一戸を乗せたリフトは急速に地底深くへと沈んでいった。

……

三十分後、クインビー・ストリート地下三階、秘密セーフハウス。

廃止された地下鉄操車場を改造したそのアジトには、刺激臭を放つ消毒液と血生臭さが充満していた。小部屋の中では、力ずくで連れてこられた闇医者のKloが脂汗を流しながらレーザー縫合器を操り、一戸の左肩の裂けた傷口を再処置していた。心電モニターが微弱ながらも、ようやく一定のリズムを取り戻した電子音を刻んでいる。

隔壁の外のメインコンソール前で、ハーマンは回転式の鉄椅子に深く腰掛けていた。 卓上にはあのAX-19モジュールが置かれ、その傍らには、信号追跡を回避するための多重周波数ホッピング装置を接続した軍規格の暗号化端末が鎮座していた。

ハーマンは手慣れた仕草で粗悪な合成煙草に火をつけ、呼吸弁の吸気口へ寄せて一服吸い込んだ。灰白色の煙が立ち上り、その怜悧で陰険な顔立ちを曖昧に霞ませる。

命は繋ぎ止めた。 ならば次は、あの焦げ付いたビジネスを『救命』する番だ。

ハーマンは指先を動かし、端末のキーボードに、とうの昔に一方的に破棄・遮断されていた暗号周波数を打ち込んだ。そして最高優先度の強制通信プロトコルを立ち上げる。

「ツーツー、ツーツー」

単調な呼び出し音が、薄暗い部屋に丸一分間響き渡った。 やがて、通信が接続された。ホログラムスクリーンには映像は投影されず、多重音声加工を施された、見下すような不快感を露わにした男の冷徹な声だけが響いてきた。

『ハーマンか? てめえのチャンネルは一週間前に破棄されたはずだ。外はレッドウルフの部隊で溢れかえっているというのに、高出力ホッピングで強制通信を仕掛けてくるとは……アジトごと道連れに灰になるつもりか?』

数日前なら背筋を凍らせていたはずの恫喝を前にしても、ハーマンは狼狽えるどころか、背もたれに深く身を預け、低く嗄れた冷笑を漏らした。

「道連れだと? 道連れにされてくたばるのを心配すべきなのは、地底で腐りかけてるあんた方政治屋どものほうだろうよ」

『何だと?!』 通信の向こうの声が一瞬にして凍りつく。 『作戦をしくじり、我々に上層の貴重な潜入ルートを失わせた無能な仲介屋風情が、一体何の真似だ。誰の許しを得てその口を利いている?』

「こいつの許しだよ」

ハーマンは感情を殺した顔のまま、端末の小型スキャンカメラを起動し、卓上の深紅のAX-19チップとその内部識別コードをわずか半秒だけレンズにかざすと、パチンと音を立てて蓋を閉じた。

通信の向こうが、唐突に死のような静寂に包まれた。 ボイスチェンジャー越しであっても、相手の呼吸が突如として荒く、切迫したものへと跳ね上がったのが生々しく伝わってくる。 丸五秒の沈黙の後、ようやく声が返ってきた。先ほどまでの傲慢さは跡形もなく消え失せ、残されていたのは信じがたい驚愕と、探るような動揺だけだった。

『……あり得ん! 実験タワーは当夜、都市巡回中隊によって完全封鎖されたはずだ。すべてのバイタルサインは十分以内に完全消滅した……お前がそれを持っているはずが……』

「手下の連中は確かに四人くたばったがね。俺の賭けたエースは生きてたのさ」

ハーマンは足を組み、金属のシールドケースを指先で軽やかに叩いた。『エコー』から買い叩いた断片的な情報を、老獪なブローカーの話術によって、何食わぬ顔で前代未聞の武勇伝へと仕立て上げていく。

「あんた方がくれたクソみてえな『安全な侵入ウィンドウ』は、初めから完全な死に地だった。レッドウルフの部隊が最初から扉の裏で待ち構えてたんだからな。だが運が良かったな、俺が送り込んだ部隊長が一戸だったことだ」

ハーマンは煙を吐き出し、微かな得意げさと、それを遥かに上回る嘲笑を声に滲ませた。

「部隊が全滅した極限状況下で、あいつは単身で実験タワー第七下層の封鎖線を突破し、レッドウルフ戦略局の目の前から、中枢ストレージのAX-19を強引に引きずり出してみせた。それだけじゃねえ。あの若造は中層都市(ミドルシティ)でレッドウルフの追手と丸六日間にわたって遊撃戦を繰り広げ、ハウンド部隊を手玉に取った挙句、スラム街で黒曜処理人(オブシディアン・ハンドラー)を七、八機も返り討ちにしやがった。そして一時間前、物理ロックを解除したこの鍵を携えて、俺のバーへ五体満足で戻ってきたってわけだ」

通信の向こうから、机や椅子が擦れ合う微かな雑音が漏れ聞こえた。明らかに、相手がここ数日の中層都市の異常な封鎖ログを必死に照合している証拠だった。

『現物は今どこにある?!』 相手の声は完全に上ずり、隠しきれない焦燥を孕んでいた。 『ハーマン、前回の契約に基づき、直ちにそのモジュールを三号デッド・ドロップへ移送しろ! お前の信用ランクは元に戻してやる、報酬の残金も全額支払おう!』

「元の契約だと?」

ハーマンは天地がひっくり返るほどの傑作を聞いたかのように、首を仰け反らせて哄笑した。笑い声が呼吸弁を震わせ、耳障りな甲高い嘶きを立てる。 笑い声をピタリと止め、ハーマンは身を乗り出した。その双眸は毒蛇のように冷たく細まり、一語一語に容赦のない値札を突きつける。

「よく聞け、クズ野郎。あんた方が一方的に回線を破棄し、俺をレッドウルフの捨て駒にしたその瞬間からな、以前の契約なんぞケツを拭く紙屑に変わったんだよ」

「この鍵が欲しいか? いいだろう。当初の提示額の、四倍だ。全額を無記名のデータインゴットと軍規格の医療物資で支払え。それも、半分は手付金として先払いだ」

『四倍だと?! 正気か!!』 通信の向こうの連絡員はほとんど絶叫していた。 『ハーマン、己の分際を弁えろ! この地下都市(アンダーシティ)で我々を強請る気か? 今すぐ人を差し向けて、貴様のバーを更地にしてやってもいいんだぞ!!』

「やれるもんならやってみろ」

ハーマンは凪のように静まり返り、その口元に冷酷で確信に満ちた笑みを浮かべた。

「教えてやるがね、このモジュールと一戸の頭の中にある情報には、この街に買い手がいくらでもいるんだよ。もしその金が出せねえってんなら、あるいは裏切りや横取りを企むってんなら……俺はこれを持って、一戸ごと、地下闘技場の支配者——『鉄拳』マルクのところへ駆け込むまでだ」

『マルク』という二文字を耳にした瞬間、通信の向こうの罵声は、まるで巨大な見えない手によって喉を締め上げられたかのようにピタリと途絶えた。 闘技場の支配者マルク。地下都市の暗部を完全に掌握し、レッドウルフの上層部とも無数のパイプを持つ地下の絶対君主。もしマルクの手にレッドウルフを強請る決定的なチップが渡れば、反抗組織がここ数年積み上げてきた計画のすべては、ただの道化芝居へと成り果てる。

「考える時間は四十八時間だ」

ハーマンは端末の時計に目をやり、相手に値切る隙すら与えず、傲慢かつ冷酷な声音で告げた。

「四倍のブツを用意して、そっちから連絡してこい。時間を過ぎたら取引終了だ」

ハーマンは一切の躊躇なく、ブツリと通信切断キーを叩き落とし、相手の激昂の怒号をノイズの中に強引に封殺した。 この一撃が、この七日間にわたって下水溝のドブネズミのように怯え、屈辱に塗れていた鬱憤を、跡形もなく吹き飛ばした。

部屋に再び静寂が戻った。 ハーマンは影の中に佇んでいたが、その顔に浮かんだ勝ち誇った色はわずか二秒で霧散し、百戦錬磨のブローカー特有の狡猾さと猜疑心へと塗り替えられた。

よく理解している。反抗組織の連中は強欲で狭量だ。ここまで手酷く毟り取られれば、表向きは妥協しても、裏では間違いなく殺意を研ぎ澄ませてくる。それに、手術台の上の一戸は辛うじて一命を取り留めたとはいえ、あの凄まじい全身の重傷を見る限り、上層での戦いは自分が吹聴したような生易しいものでは断じてなかったはずだ。レッドウルフの報復は、いつこの地層を貫いて雪崩れ込んできてもおかしくない。

すべての卵を一つのカゴに盛るような真似は、愚か者のすることだ。 この死線が交錯する狭間で生き残り、巨万の富を掴み取るためには、より太く、より凶悪な後ろ盾が必要だ。

ハーマンは視線を巡らせ、小部屋の強化ガラス越しに、医療ベッドの上で無数のバイタルチューブに繋がれた一戸を見下ろした。その瞳に冷徹な計算が走る。 そして、作業台の最下段にある隠し引き出しを開き、鈍い金色のグラフィティが描かれた、普段なら決して軽々しく触れることのない独立暗号通信機を取り出した。

深く息を吸い込み、呼吸弁の角度を直すと、地下都市(アンダーシティ)における最強の暴力と富を象徴する、あの番号をダイヤルした。

コール音は三度鳴っただけで繋がった。 レシーバーからまず漏れ聞こえてきたのは、鉄格子の外で無数の観客が狂乱の雄叫びを上げる、闘技場の重苦しく粘りつくような喧騒。続いて、重いハンマーのように重厚で、圧倒的な威圧感を放つ男の声が低く響いてきた。

『誰だ』

先ほどまでふんぞり返っていたハーマンの背筋が、反射的に微かに強張った。だがその顔面には、本物の大口顧客を迎える商人特有の、卑屈と抜け目のなさが同居した笑みが瞬時に張り付いた。

「マルク様、深夜の観戦の最中、不躾なご連絡をお許しください」

ハーマンは声を一段低く落とし、卓上のAX-19のケースを指先で愛撫するように撫でながら、甘美な毒のような語調を紡ぎ出した。

「クインビー・ストリートのハーマンです。私の手元に……上層都市(スカイシティ)の赤紅区(ウルフゾーン)から流れ出たばかりの『至宝』と、閣下の昔馴染みの若造を一人、たった今『救命』いたしましてね。レッドウルフの喉元へ直接喰らいつき、莫大な分け前を毟り取れるこのビジネス……閣下なら、大いにご興味をお持ちいただけると思いまして——」

セーフハウスの重厚な鉄扉が音もなく密閉され、ハーマンの低く狡猾な密談は、サーバーの重低音のノイズの中へと完全に呑み込まれていった。

 

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