ナイトクラブ【セブン・ピンプバグ】からセーフハウスへと戻る道すがら、ハーマンは病的なまでの熱狂と昂揚感に支配されていた。
部屋の片隅でサーバーが低い唸りを上げ、数台の端末が放つ蛍光グリーンの微光が、ハーマンの痩せこけた、テカリを帯びた顔面を照らし出している。男はメカニカル呼吸弁に装着した金メッキのフィルターを外すことすらせず、ボトルの半分ほど残っていた強い蒸留酒を一気に喉へと流し込んだ。そして空になったグラスをメインコンソールへ力任せに叩きつける。 耳障りな甲高い破砕音とともに、ガラスの破片が四方へ激しく弾け飛んだ。
「見たかよ、さっきの『鉄歯会』の雑魚どもの目を?!」
ハーマンは振り返り、両腕を広げて狭く薄暗い部屋を行ったり来たりと練り歩いた。荒い息遣いに合わせて、呼吸弁から二筋の熱い白息が吹き出す。
「ただの一睨みだ! てめえが抜刀すらしてねえってのによ、このクインビー・ストリートで一番タチの悪い命知らずが、背骨をへし折られた野良犬みたいに震え上がりやがった! 四倍のふっかけ値で反抗組織のクソ亀どもから血の小便を搾り取ってやれると踏んでたが……考えが変わったぜ!」
ハーマンは唐突に足を止め、前のめりになって両手をコンソールの縁へ鷲掴みに叩きつけた。窪んだ眼窩の奥底で、貪欲と傲慢の炎が狂ったように渦巻いている。
「奴らが身代金をかき集めてくるのを待って、お行儀よく同時交換の取引なんざしてやる筋合いがどこにある?! 連中にそんな資格があるかよ! 地底で他人の血を啜って生き延びてるあの政治屋どもが、取引現場で強奪の罠を張ってねえはずがねえんだ!」
ハーマンはジャケットの内ポケットに収めたAX-19モジュールを指差し、次いで一戸を指差して、耳障りな哄笑を漏らした。
「鍵は俺たちの手元にある。そして俺の切り札は、通りを丸ごとミンチにできるだけの力を取り戻した! ならば話は簡単だ、テーブルごとひっくり返してやる! ケチな端金の残金なんぞいらねえ——腐食区の拠点に隠してある連中の『金庫』を、骨の髄まで丸ごと一口で呑み込んでやるのさ!」
一戸は影の中に佇み、正気を完全に失った老獪な狐を冷徹に見据えていた。 欲望と虚栄心の絶え間ない刺激によって、ハーマンの計算高かったはずの脳髄は、ギャンブラー特有の熱狂で焼き切れかけていた。世界で最も鋭利な凶器を手中に収めたと思い込み、この都市のすべてのルールに唾を吐きかける権利を得たと錯覚しているのだ。
「どう奪う」
一戸の声は淡々としており、反抗組織の反応について問いただすことすらしなかった。 一戸に異論がないと見るや、ハーマンの頬の肉が歓喜にピクリと跳ねた。メインコンソールを力強く叩き、入り組んだ配管と廃棄された工業建造物で構成された三次元ホログラムマップを展開する。
「
ハーマンの瞳に、冷酷な凶光が閃く。
「重度汚染地帯の腐食区に隠しておけば絶対に安全だと、間抜けどもは高をくくってやがるのさ。一戸、今夜あそこへ潜入し、元データが収められた金属ケースを真正面から強奪してこい!」
ハーマンは胸を叩き、ヤニで黄ばんだ歯を剥き出しにして嗤った。 「金庫と鍵の両方をこのハーマンが独占しちまえば、俺こそが唯一の胴元だ! その時、このリストをマルク様へ売り飛ばすか、それともレッドウルフの重役どもを直接強請るか……値札をつける権利は、すべてこの俺の手の中に握られるってわけだ!」
「装備が要る」一戸は無駄口を挟まなかった。
「好きなだけ持っていけ!」ハーマンは気前よく手を振った。
一戸は部屋の隅にある予備の武器ラックへと歩み寄った。 身に纏うのは、老井が遺してくれたあの色褪せた深灰色のトレンチコート。だがその内側には、軽量で耐刃性に優れた柔軟複合アーマーが仕込まれていた。破れた箇所は粗い糸で頑丈に縫い直されており、粗末な布地が、新生した全身の皮膚を覆い隠している。
一戸の細くしなやかな指先が、並べられた銃器パーツの上を流れるように走り、必要な物品を的確に選び出していった。
「予備の銃が一丁。九ミリ口径、神経毒コーティング弾頭。高濃度スモークグレネードを二個、EMP破砕グレネードを三個。それから、近接戦用に新しい打刀を一本」
ハーマンが背後の二名の腹心へ目配せし、武器庫から装備を運ばせた。 全体につや消しブラックが施され、グリップに微弱な蛍光塗料のマーキングが刻まれた特製九ミリピストルが一戸の手へと渡された瞬間、一戸は目を伏せた。灰色の前髪の奥で、義眼・オラクルが無音で駆動する。
マイクロ波による三次元ワイヤーフレーム走査が、一マイクロ秒のうちに透過解析を完了させた。
【構造識別:9mmカスタム消音ピストル】 【グリップ内部レイヤー:未起動の超小型無線測位ビーコンを検知 / パッシブ休眠モード】
一戸の表情には微塵の揺らぎもなかった。極めて自然な動作でマガジンを叩き込み、スライドを引いて薬室に初弾を送り込むと、トレンチコートの内側、脇下のホルスターへと滑り込ませた。
ハーマンは自分を警戒している。すでに首輪を用意した上で送り出そうとしているのだ。
「これが発電所外周の監視ルートだ」 ハーマンが物理周波数ホッピングを施した暗号化戦術端末を手渡してきた。 「内部ネットワークは完全に物理遮断されている。中へ入れば自力で活路を開くしかねえ。潜入可能なタイムウィンドウは十八分だ。制限時間を超えて警報が鳴り響けば、施設全体の自爆シークエンスが作動して地下ごと鉄くずに吹き飛ぶ」
ハーマンは一戸の瞳をじっと見つめ、恩着せがましい忠告を付け加えた。 「中でくたばるんじゃねえぞ。今のてめえは、俺の残りの半生における唯一の頼みの綱なんだからな」
一戸は端末を受け取り、手渡された新しい打刀を腰の最も抜きやすい位置へと斜めに固定した。 振り返ることはない。トレンチコートのフードを目深に引き下げ、重厚な防爆鉄扉を押し開けると、その身を廃地下鉄トンネルの刺すような冷気の中へと音もなく滑り込ませた。
……
重厚な鉄扉が緩やかに閉じ、機械式の閂が重々しく落とされる。
ハーマンは回転式鉄椅子に身を沈め、閉ざされた扉を濁った瞳で見つめながら、規則正しいリズムで金属の卓上を指先で叩いた。その顔面に浮かんでいた狂熱は扉が閉ざされた瞬間に急速に冷却され、老練な仲介屋特有の陰湿と猜疑心へと塗り替えられていた。
傍らに控えていた腹心が進み出て、吸い口を切り落とした葉巻を差し出し、身を屈めて低く囁いた。
「ボス……腐食区は足場が最悪な上、反抗組織の連中は全身を戦闘義体に換装しています。制限時間が十八分ポッキリな上、外周の重機関銃タレットの情報まで伏せたままで……あいつ、本当に生きてデータボックスを持ち帰れるんでしょうか?」
ハーマンは防風ライターの火を葉巻へ吸い付けた。青白い紫煙が呼吸弁の隙間から噴き出し、その表情をぞっとするほど冷酷に霞ませる。
「持ち帰れたなら、俺はこの盤上を根底からひっくり返すだけの資本を手に入れる。死んだなら、それはあいつの運命がそこまでだったってだけの話だ。誰を恨む筋合いもねえよ」
腹心は理解しがたいように眉をひそめ、探るように言葉を重ねた。 「ですが、あいつは俺たちにとって一番値打ちのある切り札じゃありませんか? 影から増援をつけて援護しなくていいんですか? もし本当に中で果てたら、手元のAX-19の鍵まで無駄に……」
「間抜けが」
ハーマンは冷ややかに腹心を一瞥し、葉巻を挟んだ指先で金属の天板を強く小突いた。
「俺が大人しく従順な番犬を飼い慣らしているとでも思ってんのか? 昨夜の【セブン・ピンプバグ】で、てめえはあいつの目を見ていなかったのかよ。通りで一番凶暴な命知らずが、間合いに踏み込むことすらできずに義手を焼き切らせて硬直したんだぞ! 何十万データクレジットも叩いて軍規格の義体をつけてやると申し出た時も、ベッドの上で眉一つ動かさずに拒絶しやがった。なぜだと思う? あいつは裏の仕組みを知り尽くしてるからだ! 俺がファームウェアにバックドアを仕込むのを警戒してたのさ!」
ハーマンは葉巻を噛み締め、その干からびた顔面をホログラムの冷光の下で獰猛に歪めた。
「毒蛇よりも警戒心が強く、機械よりも冷徹に人を殺す凶獣を、自分の後ろ盾として手元に置いておけると思うか? あの若造は上層から中層、そして中層から地底へと血の海を泳ぎ渡って生還してきたんだぞ。元データの格納ケースを持ち帰って中身のリストの真実を拝んだ後、俺に大人しくブツを差し出して大儲けさせてくれるとでも思ってんのか?! その時、あいつの打刀が最初に刎ね飛ばす首は、この俺の首筋だよ!」
ハーマンは立ち上がり、葉巻の灰を空のグラスへ叩き落とすと、声を一段低く落とした。濁った瞳の奥底で、毒蛇のような冷酷な打算が渦巻いている。
「俺がマルク様へ提示した値札は『高価値生体資産』だ。だが五体満足な一戸なんぞ、レッドウルフの重装甲師団でもなきゃ、この地下都市のどこに手懐けられる奴がいる? 誰がそんな危ねえ怪物を買いたがる?!」
ハーマンは口元を吊り上げ、残忍極まる笑みを刻んだ。
「反抗組織の重機関銃と強酸の汚水に、あいつの骨をへし折らせ、血を限界まで搾り取らせるのさ! ズタボロの瀕死になって、死に損ないの野良犬のように腐食区からこの部屋へ這い戻ってきた時……『鍵』も『金庫』もすべて俺のものになり、あの猛獣は完全に無力化されている」
ハーマンは腰元に差した、徹甲弾を装填した拳銃のグリップを指先で愛撫するように撫でた。
「その時になって初めて、首輪を溶接してマルク様へ売り飛ばすか、あるいは頭を撃ち抜いてチップだけを差し出して懸賞金に換えるか……真の主導権が、このハーマンの手の中に握られるんだよ」
……
一戸は防毒マスクを装着し、打ち捨てられた下水配管網と崩落したコンクリート橋脚の隙間を、地を這うように疾走していた。
三十分後。 鉛色の濃霧の向こうから、コードネーム『
建造物全体が、黒い鋳鉄と赤錆びた冷却タワーを強引に継ぎ接ぎした巨大な伏臥する鉄の獣のようだ。外周は高圧通電フェンスと四基の連装自動機関銃タレットによって完全に封鎖され、正面ゲートには反抗組織のシンボルである歯車のペイントが刻まれ、重装甲の兵が厳重な警戒を敷いていた。
一戸は打ち捨てられた鉱車スラグの物陰に身を滑り込ませ、片膝をつくと、義眼・オラクルを静かに起動した。
青いデータリングが眼窩を中心に微かに拡散し、無音の微小振動パルスが大気を伝って建造物の基礎と骨格を瞬時に透過走査していく。
網膜の最前線で、三次元の立体構造図が冷灰色の空間へと高速で構築されていく。
【構造応力解析:完了】 【正面ゲートおよび環状通路:駐留守衛12名 / 自動火線クロスファイア網】 【側翼排熱ダクト深部:微弱な温度差対流を捕捉 / 公式図面に存在しない臨時補修口】
ハーマンの情報はおおむね正確だったが、外周の自動重火力の存在が意図的に伏せられていた。正規のルートから突入すれば、十八分はおろか、外周を突破するだけで蜂の巣にされていたはずだ。
あの老狐は、自分を生きて帰す気など毛頭ないのだ。 この致命的な十字砲火を隠蔽したのは、反抗組織の手を借りて研ぎ澄まされすぎた凶器を叩き折り、戦闘不能に追い込むため。絶体絶命に陥って救援を求めたところをハーマン自ら「救出」し、晴れて首輪を嵌めて飼い犬に仕立て上げる算段なのだろう。
一戸の顔色は凪いでおり、瞳の奥に動揺の波紋は生じなかった。 正面タレットの扇形レーダーの走査死角を縫い、側翼の排熱ダクトの下部へと音もなく滑り込む。
ダクトの排気口は、乾燥して分厚く固着した化学結晶によって塞がれていた。一戸は背中から新しい打刀を逆手に引き抜き、結晶の最も脆い継ぎ目へ切先を滑り込ませた。極めて軽く、極めて速やかに、人間一人が辛うじて匍匐前進できるだけの隙間を静かに切り拓く。
閉塞感のある狭い鉄パイプの中を数十メートル進むと、前方に赤錆びた円形の手動バルブハッチが現れた。 一戸は冷たい管壁に側頭部を当てた。オラクルの音響捕捉モジュールがハッチの向こうの動向を増幅する——二名の交代要員の重厚なコンバットブーツが金属格子を踏みしめ、こちらへと近づいてくる。
五メートル、三メートル、一メートル。 二つの足音がバルブハッチの真正面でピタリと静止した、その瞬間——
一戸が動いた。
【15%】
神経系が低い唸りを上げ、世界が粘りつくような濃密な停滞へと引きずり込まれる。 バルブのロックが一戸の左手によって音もなく弾かれ、二名の守衛が驚愕して振り返る動作は、スローモーションの視界の中でカタツムリのように鈍重だった。一戸の影は地を這う亡霊のごとくハッチの隙間から滑り出た。抜刀はしない。打刀の鞘の硬質な鋳鉄の柄尻を用い、二名の後頭部の運動神経節を、寸分の狂いもなく、正確に打ち据えた!
「ゴッ、ゴッ」
時間が現実の流速へと叩き落とされる。 重武装の守衛二名は呻き声一つ上げる間もなく白目を剥き、崩れるように倒れ伏した。一戸は二人の身体を素早く排熱ダクトの中へ引きずり込み、ハッチを閉じると、発電所の中枢区画へと大股で足を踏み入れた。
入り組んだ機械通路を抜けると、視界が唐突に開けた。
発電所の半冠水冷却液循環中枢。 巨大な地下貯水槽の上空を、直径二メートルを超える無数の太い配管が縦横に横断している。水槽の底には蛍光グリーンに濁る強酸性の冷却液が満ち、鼻を突く白煙を微かに立ち上らせていた。水面の上空には、錆びついて脆くなった数本の狭隘なキャットウォークが架けられ、中央にぽつんと浮かぶ独立装甲防水サーバーコンテナへと繋がっている——そこが、この空間における唯一の「孤島」だった。
義眼・オラクルのスペクトル走査が、瞬時に深紅のアラートをポップアップさせる。
【液体成分:高濃度強酸冷却液 / 極めて高い腐食性】 【空気中の遊離毒素:基準値超過 / 物理的接触の回避を推奨】
ハーマンが告げた十八分のタイムリミットまで、残り六分。
一戸は深く息を吸い込み、軋む音を立てるキャットウォークへと飛び乗ると、平地を走るかのような驚異的な速度で疾走を開始した。 だが、サーバーコンテナのプラットフォームへと接続する伸縮キャットウォークの縁に足を踏み入れたその瞬間、オラクルの視界が、足元の鉄板の陰影に潜む極めて微弱な赤色電荷を捕捉した。
圧力感知式地雷。
一戸は冷徹に目を細め、踏み下ろしかけた軸足を強引に静止させた。腰の高張力ワイヤーアンカーを右上空へと射出し、頭上を走る太いH形鋼の梁へガチリと噛み合わせると、振り子の慣性を利用して中空へと身を躍らせた! だが、老朽化した鉄骨は瞬間的な過大負荷に耐えきれなかった。梁から剥がれ落ちた鉄屑の塊が下の鉄板へと落下し、感知センサーを直撃した。
「ピピッ————!!」
発電所内の薄暗い黄色照明が、コンマ一秒のうちに凄絶な深紅の戦闘警報へと切り替わった!
【警告:中枢エリアへの不正侵入を検知】 【防衛プロトコル作動:高圧電網起動、自動火器迎撃オンライン】
耳を劈く警報サイレンが、地下の巨大空間に轟然と反響する! 一戸は無表情のまま、サーバーコンテナのプラットフォームへ着地する刹那にワイヤーを切り離し、前転して衝撃を逃がしながら身を起こした。 インナーから小型の物理切断ツールを引き抜き、コンテナの重厚なダイヤルロックの継ぎ目へ突き立てる。オラクルのデータストリームが、ミリ秒単位の超高速演算で電子暗号論理を逆コンパイルしてこじ開けていく。
「ガチリ!」
高圧気密ハッチが跳ね上がり、一戸は室内へ飛び込むと、台座に固定されていた深鉛色の金属データボックスを力任せに引き抜いた!
「中央機械室に侵入者だ! 全隔壁を遮断しろ! 撃てッ!!」
通路の向こうから怒号と大口径機関銃の予熱音が轟いてきた。 一戸はデータボックスを左腕で胸元に抱え込み、コンテナから身を躍らせた。退路には四枚の防爆シャッターが次々と轟音を立てて落下し、頭上両脇の吊り下げ式連装タレットが、真っ赤な照準レーザーを一戸へと収束させる!
「ババババババッ——!!」
弾雨が吹き荒れ、鉄骨の足場を激しく粉砕していく。 一戸は配管の上をギリギリの姿勢でスライディングし、抜刀した打刀の銀閃でタレットの給電ケーブルを精密に両断した。
崩落する鋼材を足場にして退路の主通路へと飛び込む。だが、排熱ダクトへと続く最後の重厚な防爆扉まで残り十メートルを切ったその時、通路の突き当たりに刺すような赤い光が灯った。
鉄塔のような巨躯が、重々しく扉の真正面を塞ぎ、立ち塞がっていた。
雑兵ではない。 オラクルが一瞬のうちに解析を完了させる。
【標的スキャン:重装突撃改造型戦闘ユニット】 【中枢神経系:未知のモデルの時間拡張インプラント / 最大拡張率:25%】 【外骨格動力増幅:両肩、肘、膝、足首に全向推進スラスターを搭載】 【近接武装:大型気圧式パイルバンカー】
反抗組織がこの拠点に配備した、最高峰の拠点防衛者。
「箱を置いていけッ!!」
防護マスクの奥から歪んだ怒声が響き、男の体内の神経回路が強烈な高熱を発した。
【25%】
敵の時間拡張が発動した。 一戸の瞳が冷たく細まる。本来なら、わずか25%程度の時間拡張領域など脅威足り得ない。鋭角のステップで側翼から滑り抜ける腹づもりだった——だが。
「ドォッ! ドォッ! ドォッ! ドォッ!!」
前触れもなく、重装守衛の両肩、肘、両膝、そして脊椎の両脇に配置された計八基のスラスターが、同時に狂暴な橙色の噴流を爆発させたのだ!
噴射が生み出す圧倒的な推進力が空気を引き裂き、油圧外骨格のトルクと共振する。本来なら鈍重なはずの鋼鉄の塊が、25%の遅延視界の中で、物理法則を無視した暴虐的なトップスピードへと跳ね上がった! 残煙を切り裂き、大型パイルバンカーが衝撃波の突風を纏って、瞬きの間に鼻先へと肉薄する!
一戸の瞳孔が急収縮した。 時間拡張下において全身のスラスターによる自爆同然の強引な加速を行うなど、通常の戦術モデルの予測を完全に超越していた——反応が、コンマ数ミリ遅れた。
間合いが近すぎる。突進が巻き起こす気圧がトレンチコートの襟を圧迫する。 本能的な身のこなしであれば、斜め後方へ滑り込んで回避することは可能だった。だが、もし身体を躱せば——装甲板すら貫通するパイルバンカーの杭が、胸に抱え込んだ金属データボックスを直撃する。
箱が砕ければ、すべての元データは消滅する。
退けない。
コンマ一秒の極限状況下で、一戸は冷徹なまでの自己破壊の決断を下した。 抱えていた金属データボックスを右下腹部の死角へと強引に押し込み、自らの左胸と肋骨を、全開で突進してくるパイルバンカーの直撃軌道へと差し出したのだ!
「ガァァァァンッ————!!」
現実の時間の流れが、轟音とともに叩き落とされた!
狭隘な通路に、骨を砕く鈍重で狂暴な金属打撃音が炸裂した! パイルバンカーの杭が、一戸の左胸の肋骨を真っ向から粉砕した。内側に仕込まれていた柔軟複合アーマーは強大な運動エネルギーに耐えきれず瞬時に引き裂かれ、胸骨と肋骨がへし折れて内側へと陥没する生々しい破砕音が響き渡る!
「カハッ……!!」
激しい衝撃が肺胞を無慈悲に圧迫し、大量の灼熱の鮮血が一戸の口元から激しく噴き出した。灰色のトレンチコートの胸元が、瞬く間に黒ずんだ血の色へと染まり上がる。
視界が暗転しかけるほどの激痛。胸腔全体を真っ赤に焼けた鉄のヤスリで抉り抜かれたかのようだった。 だが、呻き声一つ漏らさない。 その冷徹な双眸の焦点は、直撃を受けてなお寸分の乱れもなかった。一戸は吹き飛ばされる衝撃の反動を利用して後方へ宙を舞いながら、右手の打刀を鋭角に上方へと跳ね上げた!
「ザシュッ!」
研ぎ澄まされた刃先が、守衛の右腕パイルバンカーの後方に露出していた高圧油圧ホースと推進燃料パイプを、狂いなく切断した。 同時に、左の袖口から抜き放った大容量EMPグレネードを指先で弾き飛ばす。それは紙一重の軌道を描き、守衛の背後にある防爆シャッターの電子ロックの中枢へと吸着した!
「ドォォォォンッ!!」
漏れ出した高圧オイルと燃料がEMPの電磁火花と接触し、瞬間的に誘爆した! 電磁パルスを含んだ狂暴な爆風が狭い通路の中で荒れ狂い、分厚い防爆シャッターを無理やり押し曲げて歪んだ脱出孔を引き裂いた。
一戸は爆風の余波を浴びて孔の向こうへと転がり落ち、泥濘んだ小石の上へと膝から激しく叩きつけられた。 奥歯をギリリと噛み締め、砕けて血が溢れ出す左胸の傷口を左手で強く圧迫しながら、右手で抱えた無傷の金属データボックスをトレンチコートの下へと庇い込む。背後の炎上とサイレンを振り返ることすらなく、足をもつれさせながら排熱配管網の深い暗闇の中へと姿を消した。
……
クインビー・ストリート地下三階、セーフハウス。
「ギギィッ……」
歪んだ防爆鉄扉が荒々しく押し開かれ、泥と血飛沫に塗れた人影が、足をもつれさせながら部屋の中へと転がり込んできた。
一戸だ。 着古した深灰色のトレンチコートは酸性のヘドロと血糊を吸って重く垂れ下がり、左胸には鈍器によって強烈に抉り取られたような陥没痕が露わになっていた。折れてズレた肋骨が皮膚の内側から異様に突き出し、粗末に巻かれていた布地はすっかり黒ずんだ血に浸りきっている。
「ガラン……」
一戸は脱力した右手を解き、表面に数本の擦り傷がついただけの、完全に密閉された深鉛色の金属データボックスを鉄のローテーブルへと放り出した。 そのまま冷たい鋼板の壁に背を預けてズルズルと滑り落ち、荒く途切れ途切れな息を吐き出す。胸郭が上下するたび、口元から暗赤色の血の泡がこぼれ落ちていた。
セーフハウスの深奥、メインコンソールの影から、ハーマンがゆっくりと姿を現した。 男の視線は、テーブルの上に転がるデータボックスへと、丸二秒間、完全に釘付けになった。
軍規格の鉛色の外殻、無傷の防爆気密リング、作動していない底部の自爆インジケーター……紛れもない、『リスト・プロジェクト』の元データが収められたデータボックスそのものだ。
金庫が、手に入った。 ポケットの中に眠る、物理ロックをすでに解除済みのAX-19という鍵と揃って——
高圧電流を流し込まれたかのような戦慄と貪欲が、ハーマンの背骨を一気に駆け上がった。反抗組織、レッドウルフ戦略局、そして闘技場の絶対君主マルク……地下都市のあらゆる権力中枢と天文学的な富が、今この瞬間、己の掌の中へと転がり込んできたのだ。
だが次の瞬間、ハーマンの視線がデータボックスから離れ、壁に凭れて座り込む青年へと向かった時、その狂喜は跡形もなく凍りついた。
一戸のトレンチコートは濃密な黒い汚血で濡れそぼり、左胸には目を覆いたくなるような生々しい陥没孔が刻まれていた。破れた布地の隙間からは、白く砕けた骨の破片が覗いている。ブーツとズボンの裾には腐食区特有の黄緑色の強酸性のヘドロがこびりつき、鼻を突く焦げた悪臭を放っていた。
重火器の情報を意図的に伏せて送り込んだ死地。 外周を重機関銃タレットで固められ、内部は自爆シーケンスが作動し、反抗組織の最高戦力が待ち構えていたはずの絶対の罠から、この若造は生還したのだ。 それも、出撃からデータボックスを持ち帰るまで、わずか二十分足らずの間に。
ジャケットの内ポケットの中で、ハーマンの指先が小刻みに震えた。 尾骶骨から脳天へと、骨の髄まで凍りつくような悪寒が突き抜けていく。
これは傭兵ではない。人間ですらない。 あらゆるルールと鋼鉄の防壁を素手で切り裂いてみせる、本物の殺戮の怪物だ。自分が手元に用意した安物のビーコンや防爆扉、あるいは手下の銃火器など、この怪物の前では薄い紙切れと何一つ変わらない。
もし、自分がマルクへこのビジネスを売り飛ばし、一戸を担保として差し出そうとしていることが露見すれば——今夜の任務が、最初から生きて帰す気のない罠だったと気づかれれば…… この抜き身の刃が最初に刎ね飛ばすのは、間違いなくこのハーマンの首だ。
「……さすがは、俺の切り札だ」
ハーマンは渇いた唾を強引に飲み込み、呼吸弁から規則正しい白息を吐き出しながら、どこか引き攣った、奇妙な賞賛を口にした。 「単身で乗り込み、二十分足らずで反抗組織の秘密拠点を切り裂いて、元データを力尽くで奪い取ってくるとはな。一戸、この地下都市の泥濘なんぞ、とっくにお前を収めきれなくなってやがるぜ」
一戸は力なく目を上げた。濡れた前髪が瞳を覆い隠し、義眼・オラクルの青い光条が、薄暗がりの中で消え入りそうに明滅していた。
「箱は持ってきた……。中のリストは、俺が最初に見る」
掠れた低い声が、重い鉄槌のようにハーマンの張り詰めた神経を叩きつけた。 ハーマンの瞳孔が微かに収縮する。
最初に見る、だと? 冗談ではない。
あの元データには、リスト資産のシリアルナンバー、コードネーム、そして個々の資産に対応する実験記録がすべて刻まれている。一戸がそれを一瞥した瞬間、己のコードが「GL-29-07」であることを知り、この街全域の追跡劇がただの資産選別トーナメントにすぎないことを悟り、そしてこのハーマンが演じてきた卑劣な役割を即座に見破るだろう。
情報が男の支配を離れた瞬間、彼は胴元になるどころか、この手負いの猛獣に真っ先に喉笛を噛み千切られる生贄へと成り果てる。
明日まで生かしておくわけにはいかない。
ハーマンの視線が、極めて密やかに一戸の全身を舐め回した—— 左胸の肋骨の大規模な粉砕骨折、肺の裂傷による止まらない喀血、最低消費電力の境界を割り込みかけているオラクルの微光。強酸の排ガスと重傷の苦痛によって、生身の肉体は完全にショック状態と崩壊の淵に瀕している。
今しかない。 この怪物を物理的に抹殺できるウィンドウは、生涯において今この瞬間をおいて他にないのだ!
灰血体質の代謝が回復を始める前に、修復ポッドへ入られる前に、息の根を止めねばならない。
ハーマンの眼窩の奥底から冷気と恐怖が急速に消え去り、老練な商人の抜け目なさと亡命徒の残忍さが、完璧な偽装となって張り付いた。男は口元を歪め、年長者特有の温情と慈愛に満ちた笑みを浮かべてみせた。
「無論だ。お前が命がけで持ち帰ったブツだ、誰もお前より先に手をつける奴はいねえよ」
ハーマンは歩み寄り、タコだらけの右手を伸ばすと、極めて慎重に、壊れ物を扱うかのような手つきで、一戸の無傷な右肩を優しく叩いた。 「だが傷が深すぎる。胸の骨が折れてるんだ、これ以上放置すれば内臓から大出血を起こすぞ。まずは奥の洗面所へ行って顔を洗ってこい。オキシドールで泥と酸を洗い流すんだ。お前が戻ってきたら……二人でこの箱を開けて、どんな途方もねえ秘密が眠っているのか、拝もうじゃないか」
一戸は答えなかった。 失血と激痛によって神経感覚は麻痺し、視界は青いノイズと漆黒の間を激しく明滅していた。ハーマンの顔を見ることもなく、激しく引き攣る左胸を右手で押さえながら、壁を支えにして極めて重々しく身を起こした。
重いコンバットブーツが金属の床を踏みしめ、一本の暗赤色の血の轍を引いていく。一戸は俯いたまま、一歩、また一歩と、部屋の隅にある狭く薄暗い洗面所へと歩みを進めた。
わずか二メートル四方ほどの狭隘な小部屋。四方は継ぎ目のない鋳鉄の鋼板で覆われ、窓も通気ダクトもなく、唯一の出入口は薄く窪んだ鉄板の扉だけだ。
セーフハウスにおいて、最も完璧な逃げ場のない袋小路。
ハーマンはその場に佇み、顔に張り付けた温情の笑みを、一戸の背中が洗面所へと消えていく一歩ごとに、風化した壁土のように剥ぎ落としていった。
薄い鉄扉が、青年の背後で「ギギィ」と重い音を立てて完全に閉じかけた、その刹那——
ハーマンの表情は、鳥肌の立つような死灰の冷酷さへと完全に凝固した。
呼吸音すら極限まで殺し、背後に控えていた二名の腹心へ向けて、右手をスッと水平に滑らせる——極めて明快な「首切り」のハンドサイン。
二名の腹心の瞳に冷徹な殺気が宿る。腰のホルスターから、大型消音器を装着した磁力徹甲ピストルを音もなく抜き放つと、猫のように軽やかな足取りで左右へと散開した。
三名による、完璧な半円形の三角クロスファイア陣形。 鉄扉から残り三メートルに満たない、絶対的なキルゾーンを完璧にロックする。
黒々とした銃口が一斉に持ち上げられ、闇の中から、薄い扉の隙間へと無音で照準を合わせた。
「カチャリ」 「カチャリ」 「カチャリ」
同一のコンマ一秒の間に重なり合った、三連のセーフティ解除音。 静まり返ったセーフハウスの中に、その冷たい金属音だけが鮮明に響き渡った。
中央に立つハーマンは両手でグリップを握り締め、人間性を完全に削ぎ落とした冷酷な瞳で、閉ざされた扉へ向けて最後の宣告を囁いた。
「お前の価値は、ここまでだ」