一戸は今、その後者の闇の中を歩んでいた。
一歩を踏み出すたび、骨折してズレた左手首と陥没した胸骨から、骨髄を抉るような激痛が神経を苛む。色褪せた深灰色のトレンチコートは冷水、汚血、そして酸性のヘドロをたっぷりと吸い込み、ズシリと重く傷だらけの肉体にへばりついていた。右手で抱え込んだ鉛色のデータボックスを強く胸元に引き寄せ、途切れ途切れの荒い息を吐き出しながら、赤錆びたレールに沿って機械的に足を前へと運ぶ。
目指す場所はただ一つ。己のセーフハウスへ辿り着き、傷を塞ぎ、そしてすべての運命を握るあの箱をこじ開けること。
足を止めることはない。麻痺した重い両脚を踏み出し、湿りきった赤錆びたレールの上を黙々と進み続けた。 一歩進むたびに、喉の奥から濃密な血の味がこみ上げてくる。
この無様さと瀕死の衰弱は、記憶の底に封じ込めていた古い残像を、否応なしに呼び覚ましていた。 それは遥か昔、地下都市の底辺少年たちと結成していたロックバンドが、火の海と銃声に呑み込まれたあの日の記憶。ステージの照明は乱射された弾雨によって粉々に砕かれ、ドラマーは血の海に倒れ伏し、ギタリストの張り詰めた弦は跳ね飛んで己の咽喉を裂いた。あの夜を境に、彼はすべての行き場を失った。
再び、ただ一人の人間へと戻ったのだ。研究所と火災の地獄から二度にわたって逃げ延びた、名もなき幽霊。当時の彼は、最底辺の薄汚れた酒場に入り浸り、粗悪なアルコールで神経を麻痺させ、報酬を受け取る気すら起きない無意味な流血の汚れ仕事を請け負っていた。生死も明日もどうでもよかった。怒りも憎しみすらも失い、ただ呼吸を繰り返すだけの、あの生ける屍の抜け殻だった時代こそが、生涯で最も無様な日々だった。
だが、今は違う。 全身を傷に苛まれ、手首の骨が折れようとも、胸の奥底には、かつてないほど冷徹で、骨まで凍りつくような烈火が静かに燃え盛っていた。
一戸は広い本線を避け、さらに狭隘な旧工業用の排気シャフトの裂け目へと身を滑り込ませた。金属の酸化臭と古いカビの酸鼻を極める悪臭が立ち込める中、体重の半分を冷たい鋳鉄の管壁に預け、一歩、また一歩と、自らが「巣」と呼ぶ隠れ家へ向けて歩を進めた。
二十分後。 一戸は、老朽化した換気ルーバーに偽装された、分厚い防爆鉄扉の前で足を止めた。 右手を上げ、ヒンジの金属部へ向けて、三長二短の不規則なリズムで五回叩く。
「カチャリ、カチャリ」
内部の重厚な機械リンケージが噛み合いを解き、扉が内側へと音もなく数センチ滑り開いた。 一戸は身を滑り込ませ、背後で三本の物理ロックボルトを固く締め落とした。
扉の向こう——そこが、彼にとって唯一の「巣」だった。 配管街の最深部に埋もれた、打ち捨てられたケーブル保守室。十平方メートル足らずの空間には窓一つなく、天井から剥き出しでぶら下がる旧式のタングステン電球が、薄暗がりの中に黄色い暖光を投げかけている。空気中には、乾燥したロジンフラックス、機械油、そしてスクラップのマザーボードの乾いた匂いが漂っていた。
無数の刃傷とオイルの染みが刻まれた作業台、溶接された金属の折りたたみ椅子、防潮毛布が敷かれた軍用簡易ベッド、そして壁際の鉄ラックに整然と並べられた工具と弾薬パーツ。それがこの部屋のすべてだった。 家庭の温もりなど微塵もない。シェルターであり、隠密工房としての純粋な機能性だけがそこにあった。
一戸は鉄の作業台へと歩み寄り、抱えていた鉛色のデータボックスを卓上へドスンと重々しく叩きつけた。鈍い金属の重低音が狭い部屋に響き渡る。 そのまま力を失ったように鋼板の壁に背を預けて崩れ落ち、頭を仰ぎ、静かに目を閉じた。
死のような静寂の中、己の荒く重い呼吸音だけが反響していた。 脳裏の深奥で、死んでいった者たちの顔が鋭利な破片となって神経の継ぎ目を削り苛んでいく——実験タワーの中で響いたクロカワの喉を裂く絶叫、薄暗い灯火の下で寸分の狂いもなく動いていた老井の無骨な指、そして命の最後の瞬間に、手の甲にこぼれた熱いスープを拭おうと伸ばされた清子の干からびた手のひら……。
続いて、もうひとつの飄々とした人影が、前触れもなく意識へと割り込んできた。 鈍い金色のジャケットを羽織り、鮮烈な金髪をなびかせた若きハッカー兼
周沢が初めてLorne-Xを自分の脊椎へ組み込み、チューニングを施してくれたあの深夜の情景が蘇る。金色の光条を放つ特製義手『
一戸は不自然な角度で外側へねじれ曲がった己の左手首を見下ろし、瞳を冷たく凍りつかせた。 周沢を頼るわけにはいかない。 今の自分は歩く災厄そのものだ。老井と清子が流した血はまだ乾いてすらいない。今の一戸に近づく者は、例外なくあの二人と同じ結末を迎えることになる。
一戸は膝に手をついて立ち上がり、部屋の隅から埃を被った金属の救急箱を引き摺り出した。 奥歯をギリリと噛み締め、スクラップの山から厚手で平らな金属プレートを二枚選び出すと、左の手首の骨の両脇へ密着させ、高弾性バンデージを手繰り寄せた。一重、また一重と、容赦のない強引な張力でギリギリと締め上げていく!
「バキッ!」
外力によって骨が強引に整復・圧着され、真っ赤に焼けた鉄のヤスリを脳髄へ突き立てられたかのような激痛が走った。前髪が冷汗でびっしょりと濡れそぼる。だが一戸は眉一つ動かさず、ただ唇の隙間から血混じりの荒い呼気を一つ吐き出しただけだった。
続いて、血糊で固着したトレンチコートを引き裂くように開き、医療ゲルを胸元の陥没した肋骨の傷口へ向けて噴射した。冷たい化学フォームが急速に硬化して強固な膜を形成し、胸膜の内出血を力ずくで遮断していく。
すべての応急処置を終えると、一戸は作業台の椅子を引き、腰を下ろした。 すぐにボックスを端末へ接続することはしない。 伏し目がちに目を細め、義眼・オラクルの微小スキャンを極めて低い走査周波数で起動させ、鉛色の手提げケースの全身を余すところなく覆い尽くしていった。 外部の気密パッキンからボルトの継ぎ目、物理インターフェースから外殻の金属組成に至るまで、丸二分間を費やして徹底的なスクリーニングを敢行する。老井の命を奪うことになったあの血の教訓を噛み締めた今、二度と同じ轍を踏む気は毛頭なかった。
【走査完了:無給電ダイポールアンテナ:検知なし】 【物理周波数ホッピングビーコン:未検知 / ハードウェア:完全オフライン状態】
万全の安全を確認した後、一戸は卓上の自作端末から、暗号化深層エディタを立ち上げた。 右手を伸ばし、無骨なメカニカルキーボードの上で、老井が命と引き換えに奪い取ってくれたあの暗号キー文字列を、一文字、また一文字と叩き込んでいく。
【VX-AX19:7C4F1D9E2A-B730-11F9-AF22-90B72E8C0019】
カチリ、とデータケーブルを金属データボックスの中枢バスポートへと差し込んだ。
「ガチリ」
端末モニターの縁に、妖しい幽緑の光が滑らかに立ち上がった。
【深層暗号キーの照合に成功……】 【メタデータ復号進捗:100%】 【ローカル物理セクタ・マッピング完了】 【『リスト・プロジェクト』全域オフラインデータベースへのアクセスを確立】
完全に物理遮断され、強固に封印されていた膨大なオフラインデータストリームが、決壊した濁流のごとくモニター画面へと雪崩れ込んできた。 一戸は数万行に及ぶ人員名簿には目もくれず、リストの最頂部に固定されていた、太字で暗号化された一つのドキュメントへと視線をロックした——【『リスト・プロジェクト』総綱】。
指先を伸ばし、ファイルを開く。 画面に展開されたのは、極めて客観的で、冷徹極まりない産業管理学のトーンで綴られた文書だった。だがその行間からは、背筋の凍るような非人道的な打算が滴り落ちていた。
【趣旨:予見不能な未来的脅威に対応し、人類という種をより高次の階梯へと導くため、レッドウルフ戦略局は『リスト・プロジェクト』を正式に始動する。本計画は地球規模において、特殊な戦術価値を有する生体資産を選別、評価、および統括管理することを目的とする……】
【目的:指向性誘導介入、極限の実戦環境ストレステスト、および制御された資産内部の競争を通じ、生体資産の神経耐性閾値と義体適合性能を継続的に最適化する。不安定個体を淘汰し、最終的にレッドウルフ取締役会の未来戦略に奉仕する『次世代特殊作戦シークエンス』を構築する……】
一戸は一語一語を噛み締めるように読み進めた。 選別、評価、資産、最適化、淘汰……。
脳裏をよぎるのは、実験タワーで肉片と化して散った仲間たち、スラムの泥水の中で軍靴に踏み砕かれた清子の亡骸、老井の胸に穿たれた焦げた銃創、そしてRD-89が死に際に叫んだあの狂乱の「ランキング」。 あらゆる疑念が、今この瞬間、レッドウルフ自身の最高機密印によって残酷なまでに裏付けられた。 これは反抗組織の秘匿情報でもなければ、技術革新の結晶などでもない。巨大メガコーポが編纂した、この街のすべての生きた命を露骨な損得勘定で値踏みするための、屠殺場の管理マニュアルそのものだったのだ。
一戸の眼差しは冷え切り、総綱を閉じた。 義眼・オラクルを超高速で駆動させ、膨大なオフラインデータの基底へ自らの生体特徴コードと神経トポロジーを入力する。
「ピピッ」
網膜の最前線で、最高警戒の深紅のフレームに縁取られたファイルが、リストの最上位へと瞬時にポップアップした。
【コードネーム:
一戸は画面に映る己の顔写真、シリアルナンバー、そしてあの刺すような【ランキング:12】の文字を食い入るように見つめた。
十八年。 九歳のあの日、レッドウルフの研究所が血肉のミンチ機と化し、鎖の隙間から這い出して以来、自分はこの地下都市の泥濘の中で丸十八年もの間、生ける屍のように息を潜めてきたのだ。 地下闘技場において、血に塗れた生身の両手で百を超える対戦相手の喉笛を食い破り、己の人生を買い戻したつもりでいた。だが、雲の上のスカイシティで街を見下ろす支配者たちの目から見れば、自分は最初から最後まで、檻から逃げ出し、「第12号」の値札を首から下げた極上の獲物にすぎなかったのだ。
一戸は深く息を吸い込み、指先をさらに下方へとスクロールさせた。 画面上を、地下都市のみならず上層都市でもその名を轟かせる錚々たる怪異たちの名が駆け抜けていく。ある者には【回収完了】、ある者には【性能劣化・抹殺完了】のスタンプが押されていた。
突如として、タッチパッドを滑らせていた一戸の指先が、前触れもなくピタリと凍りついた。
リストのやや後方に位置する、ある観察シークエンスの中。 極めて見慣れた名が、視界の中へと飛び込んできたのだ——
【コードネーム:『魔術師』】 【氏名:
部屋の中に、死のような静寂が落ちた。 天井の裸電球が、チリチリと微弱なスパーク音を立てている。
作業台の縁を掴む一戸の右手の甲に青筋が浮き上がり、皮膚の下の灰色の静脈が激しく脈打った。
その瞬間に走ったのは、驚愕だけではなかった。頭頂部から脊髄を貫くような、骨の髄まで凍りつく悪寒。 自分は先ほどまで己に言い聞かせていたはずだ——周沢に会いに行ってはならない、唯一の友人をこの血生臭い暴風に巻き込んではならない、と。老井の無残な死相は焼き付いて離れず、泥水の中で踏み砕かれた清子の亡骸は、一戸に近づく者が辿る末路を冷酷に警告していたはずだった。
だが、このオフラインリストは、彼が抱いていた甘い欺瞞を最も残酷な形で粉々に打ち砕いた。 周沢は、何一つ蚊帳の外の人間などではなかったのだ。
シバリス区のカジノに入り浸り、己の卓越した医療技術とハッキング手腕があれば上層都市の泥水でも軽やかに泳ぎ渡れると自惚れていた、あの傲慢な少年。かつてLorne-Xの収められた鉄箱を叩き、「俺はずっと前からレッドウルフのクソどもをひっくり返してやりたかった」と歯を剥き出しにして笑っていた、あの少年……彼もまた最初から、支配者たちの資産元帳の第87行目に、冷徹にその名を刻まれていたのだ。
レッドウルフがこれまで手を出さなかったのは、彼の存在に気づいていなかったからでも、隠れ方が巧妙だったからでもない。ただ単に、彼のステータスがまだ「観察適合群」に置かれていたからにすぎない。 連中は、果実が熟すのを待っているのだ。彼の技術が限界まで絞り尽くされるのを待ち、やがて収穫の季節が訪れた時、その脳髄と両手を骨の髄まで丸ごと摘み取るために。
一戸は奥歯を噛み締め、歯の隙間から鉄錆のような血の味が滲み出た。 脳髄の深部で、無数の思考が狂ったように衝突し、引き裂かれ合っていく。
逃がすか? 周沢にすべてを捨てさせ、上層都市から今すぐ脱出させるか?
一戸は胸中で即座にその荒唐無稽な選択肢を切り捨てた。レッドウルフは高さ三百メートルの防爆壁と高圧電網で都市の全域を封鎖している。外側に広がるのは、変異コケすら生息できないとされる放射能汚染地帯と極限の暴風雪だ。上層の無菌空気に慣れきった
ならば、己が今すぐ上層へ潜入し、周沢を力ずくで連れ戻すか?
一戸は高弾性バンデージで粗雑に固められた左手首を見下ろし、息を吸うたびに血が滲む陥没した左胸へと意識を向けた。 現在の生体機能は氷点下まで落ち込んでいる。中層ではRD-89一機に自爆同然の肉弾戦へ追い込まれ、地底ではハーマンの三丁の磁力徹甲ピストルに洗面所で危うく肉塊にされかけた。上層都市シバリス区の防衛は鉄壁であり、検問ゲートには三重の生体プローブと遺伝子スキャンが敷かれている。満身創痍のこの残躯では、街区の防壁に近づくことすら叶わず、哨戒ドローンの弾幕に蜂の巣にされるのがオチだ。 乗り込むことは救出ではない。周沢の額へ、己の手で死神の引導を直接貼り付けにいくようなものだ。
ならば、これまで通り一匹狼として生きるのか? 過去十八年がそうであったように、廃配管の影に蹲る負け犬のごとく身を潜め、見合わない殺しの汚れ仕事を拾いながら、暗がりの中でレッドウルフへ復讐する機会を孤独に窺い続けるのか?
『老井も清子も、何も抵抗しなかった。だがレッドウルフは、俺を回収するためだけに、あの二人を紙屑のように踏み砕いていった……』
死の直前、弾丸に胸を撃ち抜かれた老井の姿が、鮮明に脳裏をフラッシュバックする。 老井と清子は、二つの命を散らすことで最も残酷な真実を己に叩き込んだのだ。この人を喰らう支配体制の下では、従順も死、隠忍も死、善良であることすらも死なのだと。そして実験タワーで全滅した突撃部隊の血は、生身の肉体一つでは、レッドウルフという巨大で冷酷な戦争機械の前で、ただ容易にすり潰される虫ケラにすぎないことを警告していた。
一人きりでは、このテーブルをひっくり返すことなど到底できない。 覆せないばかりか、レッドウルフの回収シークエンスが進み、リストの針が第87行目を指したその時、自分はこの薄暗く湿りきった地下室の中で、周沢が次の実験標本として解体台へ引きずり込まれるのを、ただ指をくわえて見届けることしかできなくなる。
周沢を守り抜くため。 老井と清子の血の清算を果たすため。 そして己の首に嵌められた奴隷の首輪を完全に粉砕するためには——受動的に待つことなど、断じて許されない。
打って出るのだ。 レッドウルフの直属戦術部隊が容易に踏み込めないこの
だが、企業という巨獣に真っ向から立ち向かう重槌は、烏合の衆のチンピラであってはならず、ましてやハーマンのような損得勘定だけのブローカーであってはならない。 必要不可欠なのは、本物の怪物——自らと同じくリストに名を刻まれ、壊滅的な戦力を誇り、そして同じようにレッドウルフによって断崖絶壁へと追い詰められた「同類」たちだ。
一戸は深く息を吸い込んだ。瞳の奥底から最後の動揺と躊躇が剥ぎ取られ、外科メスのように極限まで研ぎ澄まされた冷徹さだけが残された。
右手でタッチパッドを操作し、全域オフラインデータベースにフィルタリング条件を入力していく。
【エリア指定:
海のようなデータストリームが、義眼・オラクルの高速演算によって層ごとに削ぎ落とされていく。数秒の後、カーソルはある一つのファイルの前で静止した。
システムが、深紅の警戒コードに縁取られた暗号化プロファイルをポップアップさせる。
【コードネーム:『
一戸は画面に映る、鉄塔のように無骨で硬質な男の面構えを見据えた。その視線は、「
エリック・ジョンソン。
断崖の淵へと追い詰められ、圧倒的な破壊力を持ち、そして体制から間もなく遺棄されようとしている猛獣。 これ以上の突破口は他にない。
この血も涙もない街において、利益は裏切りを生み、金で忠誠を買うことはできない。だが、等しく首に絞首台の縄を掛けられた絶望と憎悪だけは、互いの背骨を死ぬまで固く溶接することができるのだ。
一戸は右手を伸ばし、端末とデータボックスを繋ぐインターフェースケーブルを静かに引き抜いた。
「パチン」
モニターがブラックアウトし、狭い隠れ家は再び、古びたタングステン電球の黄色い薄暗がりへと沈んだ。
一戸は立ち上がった。老井と清子の暗赤色の血痕が染みついた、あの色褪せた深灰色のトレンチコートを手に取り、再び身に纏う。ジッパーを首元まで一気に引き上げ、粗末な自作の副木と胸元で硬化した医療ゲルを、その厚い布地の下へと完全に覆い隠した。 重厚なデータボックスは持ち出さない。コアチップの内部を読み取り専用イメージとして暗号化し、足元の赤錆びたフロア鉄板を跳ね上げると、秘密デッド・ドロップの暗渠深部へと固く封印した。
ルーバーに偽装された重厚な鉄扉を押し開けた瞬間、地下配管網特有の酸鼻を極める悪臭と、刺すような冷気を含んだ夜風が吹き込んできた。 一戸はフードを目深に引き下げ、漆黒の陰影の中へと足を踏み入れた。
彼の最初の目的地——それは、かつて自らの命を削って規定数を戦い抜き、二度と足を踏み入れないと誓った、あの地獄。
第五十六章 闘技場
一ヶ月後。
地下ケーブル保守室の天井から剥き出しでぶら下がる旧式のタングステン電球は、今なお薄暗がりの中に黄色い暖光を投げかけていた。 一戸は、無数の傷が刻まれた合金の作業台の前に腰を下ろしていた。卓上に散乱していた銃器パーツや弾薬はとうに片付けられ、代わりに端末が投射する半透明のオフラインデータマトリクスが幾重にも空間を埋め尽くしている。
傷はあらかた癒えていた。 折れてズレていた左手首の骨は、金属プレートの副木による強引な固定と
この丸一ヶ月間、一戸はこの防爆鉄扉の外へ一歩たりとも足を踏み出さなかった。 彼が費やした時間のほとんどは、膨大な情報の深層スクリーニングと、多重暗号化されたデータのクロスチェックに充てられていた。
データボックスに眠る冷徹な公式プロファイルだけでは、第15号資産エリック・ジョンソンの生体パラメータしか読み取れない——特装プロトタイプ義体『アレス』を搭載、近接破壊力レーティング:極大、そして高頻度の戦闘に伴って悪化の一途を辿る「五十倍の感覚過負荷」。 だが、人を喰らうこの
一戸は、安易な公開ネットワーク検索で答えが見つかるなどとは端から思っていなかった。 端末の周波数ホッピングアンテナを駆使し、まずはクインビー・ストリートにある大手闇診療所二箇所の裏帳簿へと不正侵入した。半年間に及ぶ医療物資の消費動向を洗い出した結果、彼はある奇妙な矛盾を突き止める。 『アレス』の宿主であるはずのエリックは、直近の三ヶ月間、高価な高純度神経冷却剤をただの一本も購入していなかった。人間を狂気へと叩き落とすほどの神経負荷を、生身の肉体一つでただ耐え忍んでいたのだ。 対照的に、エリックの個人換金口座に振り込まれる、脳漿と骨屑にまみれたファイトマネーの数々は、着金からわずか数秒のうちに、闘技場の裏ボスであるマルク名義の
そして口座に残されたわずかな端金は、旧工業区三号街の奥深くに隠されたスラムへと送金され、極めて希少な乳児用の無菌バイオミルクと肺胞浄化吸入エアロゾルへと換えられていた。
続いて一戸は芋づる式に、闘技場内部で多重暗号化されていた選手契約の原本ログをサルベージした。 無数の文脈の罠が仕掛けられたその電子契約書の中で、マルクは天文学的な「ハイエンド義体メンテナンス減価償却費」と雪だるま式に膨らむ複利の利息によって、エリックを永遠に完済できない借金の絞首台へと縛り付けていたのだ。 四十二連勝という不敗の神話を築き上げながらも、一家で中層都市へ移住するための通行証を手に入れるどころか、債務の赤字は二百四十万データクレジットにまで膨れ上がっていた。
これらすべての情報解析は、端末の冷たいホログラム画面の上で、血と涙に濡れた極めて明快な閉じた輪郭を描き出していた—— エリックは規格外の強者であると同時に、すでに崩壊の断崖絶壁へと追い詰められている。 首輪によって鮮血を滴らせながらも、妻と子のために奥歯を噛み砕き、対戦相手の喉笛を食い破り続けるしかない檻の中の猛獣。
彼こそが、この
一戸は右手を伸ばし、タッチパッドを軽やかに撫でた。
「フッ……」
ホロディスプレイが収束し、ブラックアウトする。 彼は足元の赤錆びたフロア鉄板を跳ね上げ、データチップを秘密デッド・ドロップの暗渠深部へと再び押し込むと、物理ラッチを固く噛み合わせた。
一戸は立ち上がり、壁の隅に掛けていた打刀を手に取ると、背中の最も抜きやすい角度へと斜めに背負った。 次いで、椅子の背に掛けてあったあの深灰色のトレンチコートを手に取る。 コートはもはや、かつての薄汚れて引き裂かれたボロ布ではなかった。激闘によって引き裂かれていた広範な破損部は、闇市の仕立て屋へ持ち込まれ、内側から高靭性の防刃ポリマー織物を幾重にも縫い込んで強固に圧着させていた。手にとると、ズシリと冷たく重い。襟元と袖口には、清子が生前に縫い繕ってくれたあの粗い糸の針目が色濃く残されており、外布には数条の暗灰色のパッチの圧痕が刻まれていた。
一戸はトレンチコートを羽織り、ジッパーを鎖骨まで引き上げた。 フードを目深に被り、重厚な偽装鉄扉を押し開けると、地下都市特有の湿った冷気の中へと足を踏み出した。
……
中央広場の、時に白く冷たい光をかすかに零す断裂した巨大ドームの下から南西へとひたすら進む。最初は粗末な掘っ立て小屋や廃品回収の露店が密集していたが、歩みを進めるにつれ、頭上に残されていた最後のわずかな天光すらも、重苦しく圧迫感のあるコンクリートの天井に呑み込まれて消え去った。 周囲は瞬く間に、一寸先も見えない絶対の静寂と漆黒へと沈んでいく。視界に映るのは、ねじれ折れた巨大な鉱車高架レール、崩壊した支柱、そして大人が数人がかりで抱え込むような巨大工業タンクの輪郭ばかり。それらはまるで、先史時代の巨獣の風化した骸骨のように、暗がりの中で物言わず屹立していた。
だが、崩落したトンネルの最後の死角を抜けた瞬間、闇の奥底から狂乱の光と音の津波が突如として吹き荒れてきた。
鉛色の濃霧の向こうで、毒々しいネオングリーンと深紅のネオン管が中空で狂ったように明滅し、工業廃ガスを落ち着かない毒光の色へと染め上げている。大型発電機の粗暴な轟音が重低音となって地響きを立て、足元のレール基部を通じて絶え間ない振動を伝えてくる。鼓膜を引き裂くようなインダストリアル・エレクトロの重低音が大気を震わせ、まるで地底深淵の心臓が激しく脈打っているかのようだった。
この闘技場は、単なる廃墟の上に孤立して建っているわけではない。 本体は、旧時代の採石場と重工業基盤を地底へ向けて狂暴に開削して作られた、巨大なすり鉢状の大穴だ。そしてその深淵を取り囲むように、高さ数十メートルに及ぶ数基の廃棄タンクが完全にくり抜かれ、改装されていた。 何百もの闇市ブローカー、非合法の
主要な吊り橋のジャンクションには、各大手ギャングの武装検問所と闘技場の私兵部隊がサブマシンガンを構えて立ちはだかり、この灰色の無法地帯における脆弱な秩序を維持していた。 淀んだ大気の中には、安物の粗悪アルコール、焦げた合成肉の脂、酸性の機械油、そして揮発した高濃度興奮剤の甘ったるい血生臭さが年中充満している。
湿りきった狭隘な空中回廊の上では、人々が肩を擦り合わせながら蠢いていた。 充血した両眼をぎらつかせるギャンブラー、違法鎮痛剤を売り歩く行商人、機械油の臭いを染みつかせた工場労働者、そして陰鬱な面構えの無法者たちが、軋む鉄格子の歩道へと雪崩れ込み、罵声と怒号が重低音のビートに揉み消されていく。
一戸はトレンチコートの襟を引き上げ、人混みに紛れながら、微かに揺れる金属格子の床を踏みしめて前進した。 灰色の前髪の奥で、義眼・オラクルの冷徹な青い光条が無音で駆動する。広帯域の電波受信モジュールが静かに展開され、宙を交錯する膨大なデータストリームと、至近距離の囁き声を的確に解体していった。
前方、「必勝オッズ」と銘打たれたホログラム看板を掲げる賭け場の前で、七、八人の焦燥しきったギャンブラーたちが群がっていた。ホログラムスクリーンに映し出されたオッズ曲線は、常軌を逸した急激な暴落を記録している。
「どういうことだッ?! なぜ今夜の『
カウンターの奥の店員は冷笑を浮かべ、男の指を乱暴に払いのけると、端末でスクロールするバックエンドのオッズを指先で小突いた。 「不満なら賭け金を引っ込めな! 教えてやるがね、マルク様が今夜の死闘の檻から引っ張り出してきたのは、生身の人間なんかじゃねえ。削岩ドリルを積んだ重装採掘機甲《マイニング・メック》だ! あの頑固オヤジの黒い腕がどれほど硬かろうと、油圧パイルバンカーの破砕圧力に耐えられるわけがねえだろ。三分生き延びられたら奇跡ってもんさ!」
ほぼ同じ瞬間、一戸の義眼の音響フィルターが、頭上二階の金属製キャットウォークの下から、簡易暗号化された短波通信を寸分の狂いもなく捕捉した。 闘技場の金色のフックの紋章を身につけた二名の巡回構成員が、声を潜めて密談を交わしていた。
『……マルク様からのお達しだ。今夜エリックがどれほど死に物狂いで暴れようと、ファイトマネーは問答無用で七割を利息として天引きしろとな』 『もし、あいつがミンチにされたら?』 『死んだらそのままスクラップ炉行きさ。あのナノアームを引っ剥がして上層の買い手に売り飛ばせば、焦げ付いた不良債権なんざ釣りがくる。旧工業区で蹲ってるあいつの嫁と小僧は……フン、エリックの後ろ盾を失えば、明日には下水道に放り込まれてドブネズミの餌になるのがオチだ』
断片的な密談、異常なオッズの変動——そのすべてが、一戸がかつて隠れ家の端末で幾度となく計算した財務と生理機能の予測モデルと、寸分の狂いもなく噛み合っていた。
エリックはすでに、完全なる詰みの局面の中心へと引きずり込まれている。 今夜の試合は、防衛戦などでは断じてない。この手負いの猛獣から最後の一滴の価値を絞り取るために、マルクが冷酷に仕掛けた絞首台そのものだった。
一戸は感情を交えずに視線を戻し、喧騒に塗れた群衆をすり抜けた。 「極秘の内部情報」を吹聴して群がるダフ屋には目もくれず、路地裏の油に汚れた自動発券端末へと歩み寄ると、数枚のデータクレジットを投入した。
「ガチャン」
排出口から、バリの残る金属製の入場タグが吐き出された。指定された席は、最上層の暗がりの縁。
薄暗く狭隘なセキュリティゲートをくぐり抜けた瞬間、血生臭さと暴虐、そして狂乱が入り混じった灼熱の歓声が、轟音となって真正面から叩きつけてきた。
眼前に広がっていたのは、規格外の広さを誇る、深く掘り下げられた円形闘技場だった。
直径百メートルを超える中央の砂地には、幾星霜にわたって堆積し、黒ずんだ血痕が染みつき、土壌には肉眼で確認できるほどの機械パーツの破片やへし折れたギアが散乱していた。すり鉢状の環状観客席には、数万の狂乱した観客が所狭しとひしめき合っている。重金属の電子ビートと、大口径サーチライトの青白い光条が宙で狂乱の交差を繰り広げ、頭上に吊り下げられた数面の巨大ホログラムスクリーンには、毎試合のオッズが猛烈な勢いでスクロールしていた。
数年ぶりの帰還。一戸は再び、この場所に立っていた。 かつて彼自身もまた、血の匂い漂うこの泥濘の中で、生身の両手で対戦相手の喉笛を食い破り、ようやくこの檻から抜け出す資格を買い戻したのだ。
だが今、彼は最上階の漆黒の陰影の中に佇み、トレンチコートのポケットに両手を突っ込んだまま、冷徹に眼下の深淵を見下ろしていた。
前座の三試合は退屈極まりないものだった。過度な違法改造を施されたギャングの鉄砲玉と凶悪犯による機械の解体ショーにすぎず、千切れ飛ぶ四肢と高圧作動油の飛沫を撒き散らしながら、観客のブーイングと怒号の中で速やかに幕を閉じた。
三十分後。 耳を劈く空襲警報のサイレンが重低音のビートを強引に圧殺し、闘技場内のすべてのフラッドライトが一斉に消灯した。 残されたのは、雪のように白い四条のスポットライトのみ。それらは選手用通路にそびえる、高さ五メートルの重厚な防爆ゲートへと垂直に照射された。
観客席の熱狂が、沸点へと達する!
「レディース! ジェントルメン! そしてドブ底のクソ野郎どもッ!!」
宙吊りになった実況ブースから、顔の半分をクロームメッキの機械式発声器に改造した男が身を乗り出し、マイクを握りしめて歪んだ甲高い絶叫を張り上げた。
「懐のケチな端金なんぞ仕舞い込みな! 今夜の真のメインディッシュが開幕するぜ! 最大級の下品な口笛と怒号で迎えろ、このコロシアムにおける唯一の不敗の神話——!!」
「『
「ゴォォォンッ————!!」
重厚な鉄チェーンが巻き上げられ、防爆ゲートが両脇へと轟然と引き開かれる。刺すような高熱の機械白煙が濛々と噴き出した。
重厚で、揺らぎのない歩調。 暗黒の坑道の中から、鉄塔のごとき魁偉な巨躯が、一歩、また一歩と姿を現した。
身長は優に二メートル近く。鉛を流し込んだ耐力壁のように分厚い肉体には、激しい摩耗と油染み、そして血痕に塗れた重装防護服が纏われていた。風霜に刻まれたその無骨な顔面には、数条の獰猛な戦闘傷が走り、表情は風化した岩石のように冷淡で麻痺しきっている。数万の観衆が己の凶名を叫び狂おうとも、その瞳の奥には微塵の波紋すら生じていなかった。
だが、その一見して鈍重な肉体の右側——そこにぶら下がっていたのは、あらゆる従来の工業的工学を嘲笑うかのような、異形の冷徹な造物だった。
彼の、右腕。 剥き出しのトランスミッションギアはなく、暴虐な油圧ピストンもなく、配管の継ぎ目すら存在しない。 光の反射を完全に呑み込み、艶を消した絶対の漆黒を湛える特装インプラント——『アレス』。
砂地の縁に落ちる薄暗い光の下で、その腕の表面はまるで生命を宿した磁性流体のように、ミクロン単位の純黒のナノ粒子が皮膚の下で極めて緩慢に、極めて規則正しい波を打っていた。息が詰まるほどの圧倒的な威圧感が、そこから立ち込めている。
エリックはリングの中央で足を止めた。 観客席へ手を振ることもなく、ただ平然と右腕を持ち上げると、虚空に向けて五指を極めてゆっくりと握り込み、拳を作った。
「ウォン……」
粒子の間隙から微弱な共振の唸りが拡散し、足元の黒い砂が、指関節の収縮とともに微かに震動した。
観客席の最上段、暗がりの縁。 一戸は背中の刀の柄に片手を添え、青い光条を湛えた義眼・オラクルを無音で駆動させていた。 網膜の最前線に、瞬時に多層の解析データフレームが駆け抜けていく。
【標的捕捉:エリック・ジョンソン】 【右腕中枢特性:ナノ流体多態戦闘システム・『アレス』プロトタイプ】 【神経負荷値:微小電位の激しい震盪 / 組織境界面が高感度拒絶臨界域】 【状態評価:極限まで抑圧された生理的苦痛】
一戸は冷徹に目を細めた。 機密アーカイブに記録されていた「五十倍の感覚過負荷」は、誇張などでは断じてなかった。 あの岩石のように硬質な仮面の下で、この男は今この瞬間も、神経系を激しい高圧電流で絶え間なく焼き焦がされるような、人知を超えた拷問に耐え続けているのだ。
その時、闘技場の正反対にあるもう一つの重厚なゲートが、耳障りなギアの軋み音とともに跳ね上がった。 坑道の深奥から、重厚な無限軌道が砂利を踏み砕く暴虐な咆哮が轟いてくる。
エリックの今夜の対戦相手。 それは通常の生体サイボーグなどではなかった。地下の重装掘削採掘機を、極めて粗暴に改造して組み上げられた全密閉型の殺戮機甲《マイニング・メック》。
全身を数十ミリの増加装甲で覆い尽くし、車体には高馬力ディーゼルエンジンを搭載、排気管からは黒煙が濛々と吐き出されている。車体の先端には二メートル近い重合金の衝角《ラム》が溶接され、右側の大型マニピュレーターには、超高速で回転する鋸歯状の超硬合金カッターホイールが唸りを上げていた!
「オロロロロァッ——!!」
装甲内部のパイロットが拡声器越しに狂乱の雄叫びを上げ、ディーゼルエンジンが鼓膜を震わせる轟音を爆発させると、排気管から暗赤色の火焔が噴き出した! 牽制も探り合いもない。数トンの鋼鉄の怪物は砂煙を巻き上げ、地を這う脱線列車のごとき暴虐的な勢いで、広場の中央に立つエリックへ向けて真正面から突進を開始した!
大地が激しく揺れ、巻き起こる突風が数十メートル離れた観客席の縁にまで叩きつけてくる。 いかなる血肉の肉体をもミンチへとすり潰す狂暴な突進を前にしても、エリックはその場に立ち尽くしていた。
半歩たりとも後退しない。 両膝をわずかに沈め、重心を山のごとく据えると、漆黒の右腕を静かに水平へと持ち上げた。
次のマイクロ秒—— 『アレス』のマットブラックのナノ外殻が、前触れもなく音もなく沸騰した!
無数の純黒のナノ粒子が磁性流体のごとく超高速で解体され、激しく震動する。腕の表面はコンマ一秒のうちに平穏な人間の輪郭を引き裂き、猛烈に波打ち、再構築される黒い流体の暴風雨へと変貌を遂げた!
闘技場の上空に吊るされた実況席で、クロームメッキの男が強烈な興奮剤を一気に吸い込み、充血した眼球を見開いて、マイクが割れんばかりの狂気の哄笑を爆発させた。
「始まったぞッ!! 『アレス』が変形を開始したァァァッ!!」 「張れッ! ポケットの中のコインを全部テーブルに叩きつけろォォッ!!」
狂暴な鋼鉄の巨獣が咆哮を上げて迫り、エリックの分厚い肉体までの距離は、すでに残り五メートルを切っていた!
陰影の観客席で、一戸は目を伏せ、砂地の上で爆発しようとしている激突の瞬間を、冷徹に見据えていた。