ランナー   作:Zizzi

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第五十八章 枷鎖

裏路地から抜け出た時、地下都市(アンダーシティ)の夜風は工業廃ガスを巻き込み、通気縦坑の奥底から激しい唸りを上げて吹き抜けていた。

エリックは一人、薄暗く泥濘む路地の縁を歩んでいた。

特装インプラント『アレス』の表層を覆う純黒のナノ流体は完全に凪ぎ、骨格と皮層の表面に隙間なく密着して、死んだようなマットブラックの質感を呈していた。だが、死闘の最中に分泌されていたアドレナリンが徐々に引き潮となるにつれ、神経中枢に五十倍に増幅された感覚過負荷の反動が、容赦なく全身を侵食し始めていた。

双子の暗殺者に切り裂かれた側肋の創口が火がついたようにズキズキと疼き、肺胞が呼吸を繰り返すたび、断裂し歪んだ軟部組織が焼き鏝を押し当てられたかのような激痛を脳へと送り込んでくる。採掘機甲の衝突による震盪を受けた胸腔は重苦しく圧迫され、喉の奥底から鉄錆の味が絶え間なくこみ上げていた。 一歩を踏み出すごとに、右腕の接続ポートから走る灼熱痛が、赤錆びた粗いヤスリのごとく脊髄の最も敏感な神経叢を前後に削り苛む。

この半月あまりの間に積み上げた三十九連勝。その代償として得たものは、常勝無敗の余裕などでは断じてなく、極限の高圧下で破壊され尽くしたボロボロの肉体そのものだった。

エリックの面持ちは麻痺しきっており、歩調を緩めることはなかった。 高架鉱車レールが跨ぐ二本の薄暗いガード下をくぐり抜け、旧工業区三番街の入り口へと差し掛かる。

街角の、緑色のネオン管がチリチリと点滅する粗末な補給所。シャッターは半分だけ開け放たれていた。カウンターの奥には半身不随の干からびた老人が腰掛け、眼窩に嵌め込まれた粗悪なバイオニックレンズ越しに、安葉巻の火を見つめながら算盤を弾いていた。

エリックはカウンターの前で足を止めた。防護服の内ポケットから、先刻闘技場の精算窓口で受け取ったばかりの硬質データカードを取り出した。

「配給チケット二枚で、低ラクトースの乳児用バイオミルクを一缶。それと、ミクロン単位の肺胞浄化スプレーを一本だ」

エリックの声は掠れ、一語一語に声帯が裂けるような乾きが滲んでいた。

老人は重い瞼を持ち上げ、彼を一瞥した。開いた襟元の隙間から覗く、めくれ上がった肉の生々しい裂傷と、冷徹な死の気配を放つ黒い右腕。老人の頬の筋肉がピクリと引き攣ったが、余計な詮索はせず、カードを受け取ると旧式のカードリーダーへ通した。

「ピピッ——」

モニターに赤い引き落としの警告が表示される。老人は背を向け、頑丈な鉄棚の最下段からパッケージのない金属缶と、人差し指ほどのプラスチック製スプレーを引っ張り出すと、カウンターの上へと無造作に押し出した。

「マルク様の胴元が今夜も派手にピンハネしていきやがってね、仕入れ値がまた三割上がったよ」老人は濁った煙を吐き出し、濁った義眼でエリックの蒼白で硬質な顔面を見据えた。「この二つを引いたら、カードに残ったのは十二コインだけだ。この粉ミルクも、生まれたての赤ん坊なら三日分が関の山だぜ。三日後に新しいチケットを持ってこられなきゃ、ガキに泥水を飲ませる羽目になる」

エリックは答えなかった。 生身の左手を伸ばし、金属缶とスプレーを防護服の内ポケットへ丁寧にしまい込むと、お釣りの擦り切れた十二枚のデータ硬貨を鷲掴みにしてポケットへ突っ込んだ。

「チャリン、チャリン」

硬貨が触れ合う微かな金属音が、死んだように静まり返った通りに寂しく響いた。

丸々半月あまり、三十九試合に及ぶ九死に一生の血みどろの死闘。今夜に至っては三連戦を戦い抜き、重機甲と刃を正面から生身で受け止め、泥濘のリングの上で家畜のように命を削り合って勝ち取った余剰価値のすべて——それが、ポケットの中の温かいスープ一杯すら買えない十二枚の硬貨と、懐にあるわずか三日分の命を繋ぐ糧だった。

エリックは背を向け、防護服の襟を引き締めると、砕石の路面を踏みしめて街区のさらに深奥へと歩みを進めた。

……

旧工業区三番街は、旧時代の重機械工場に勤める労働者の居住区だった場所だ。 崩落しかけた数基の巨大な冷却タワーが黒い巨山のごとく頭上を塞ぎ、残されたわずかな光すら完全に遮断している。周囲には波形トタン板、プレハブ板、そして廃材を継ぎ接ぎした掘っ立て小屋が密集し、大気中には酸性雨に腐食したコンクリートと浄化槽から漏れ出す強烈な悪臭が充満していた。

エリックは赤錆びた鉄板の扉の前で足を止めた。 ヒンジの油が切れているため、極めて緩慢な動作でわずかな隙間を開き、身を滑り込ませると、音を立てずに扉を閉めて閂を落とした。

室内にメインの照明は灯っていない。 部屋の隅、外殻のひび割れた電気ストーブが鈍いオレンジ色の熱を微かに放ち、配線の劣化特有の唸りを低く響かせているだけだ。広さは十二平米足らず。息の詰まるような狭隘な空間には、黄ばんだ毛布が敷かれたベッド、廃棄された油圧プレスの台座を流用したローテーブル、そしてビニールシートで覆われた濾過水タンクの他には、まともな家具すら見当たらない。

だが、そのローテーブルの傍らには、柔らかな綿布で幾重にも包まれた古いパーツボックスが置かれていた。 箱の中、清潔なハギレのおくるみに包まれた小さな命が静かに息づいている。胸郭が規則正しく上下し、かすかで無垢な寝息を立てていた。

ベッドの縁から、色褪せた古いワンピースを纏った若い女がハッと顔を上げた。 アイラだ。 連日の睡眠不足による青黒い隈が浮き、その身体は痛々しいほど痩せ細っていたが、部屋へ足を踏み入れた魁偉な巨躯を認めた瞬間、その瞳に安堵の微光が走った。

「エリック……」

アイラは声を潜め、駆け寄った。だが、エリックの防護服に刻まれた無数の生々しい裂け目と、ズボンの裾から滴り続ける暗赤色の血痕を視界に捉えた刹那、胸が締め付けられるように凍りついた。

「また、こんな酷い傷を……今夜は通常試合が一本だけだって言っていたじゃない」

「急遽二戦追加された。オッズが跳ね上がったんでね」

エリックの表情は凪いでおり、無骨な顔面には微塵の動揺も浮かんでいなかった。右腕を支えようとするアイラの手をあらかじめ避け、ぎこちない足取りでローテーブルへと歩み寄ると、懐からあの冷え切ったミルク缶とスプレーを静かに卓上へと置いた。

「手に入った。数日分のミルクだ。明日の朝、子どもにスプレーを使ってやりなさい。下水から上がってくる酸性のガスが酷い、喉を痛めないようにな」

アイラは卓上の鉄缶を見つめ、その瞳に涙の膜が張った。だが奥歯を噛み締め、涙を零すまいと耐えた。 この地下都市で長年暮らしてきた彼女は、闘士の身体に刻まれる傷の深さが何を意味しているのかを痛いほど知っていた。余計な問いただしはせず、部屋の隅から温い水の入った洗面器を運び、清潔な粗布を手にしてエリックの傍らに屈み込んだ。

エリックは防護服のバックルを外した。 血糊で固着していたインナーを腰回りの傷口から力ずくで引き剥がすと、肉が引き攣る耳障りな音が狭い部屋に響いた。アイラの指先が小刻みに震え、零れ落ちた涙が血の混じる水面へと波紋を作った。 彼女は湿らせた布で傷口の周りの汚れを極めて優しく拭いながら、抑えきれない嗚咽を漏らした。

「マルクの連中……今夜はいくら引いていったの?」

エリックの身体が、微かに強張った。 彼は視線を落とした。ローテーブルの片隅、液晶画面の割れた旧式端末へと。

画面が微弱な緑光を放っている。闘技場の財務システムから自動で同期されたばかりの、今月の債務明細書——

【契約者:エリック・ジョンソン(コードネーム:『屠殺者(ブッチャー)』)】 【今月出場数:39試合(全勝)】 【ファイトマネー総額:225,000 データクレジット】 【自動控除:『アレス』プロトタイプ粒子損耗減価償却費(70%):157,500 データクレジット】 【自動控除:総合複利加算:67,488 データクレジット】 【差引支給額:12 データクレジット / 配給チケット2枚】 【未決済債務残高:2,418,650 データクレジット】

二百四十一万。

丸々半月あまり、三十九試合全勝。毎日砂地の上で数枚の皮を剥がされ、何本もの骨をへし折られてきた。二十二万を超えるファイトマネーは、この地下都市において一家が何年も不自由なく暮らせる額だ。だが、冷血極まりないシステムの計算式を前にして、七割に及ぶ義体減価償却費によって十五万が瞬時に蒸発し、雪だるま式に膨らむ複利の利息が上乗せされ…… 手元に残されたのは、わずか十二枚の硬貨だけだった。

その天文学的な数字の最下段には、極小の灰色のフォントで記された底層プロトコルが刻まれていた。

【注:三ヶ月連続で利息が未決済の場合、保証人は契約条項に基づき、契約者家族に対する強制収容および強制労働による債務充当を執行する】

冷たい文字列が、破損したディスプレイの上で無音の明滅を繰り返している。

アイラの拭う手が、止まった。 彼女の視線もまたその刺すような数字へと吸い寄せられ、指先は過度の緊張に白く強張っていた。

二百万以上。 この地下都市において、通常の労働者が三十年間骨身を削って働いたとしても、五千枚の硬貨すら貯めることはできない。義体改造費という名目で首に掛けられたその負債は、計算され尽くした底知れぬ深淵のように、エリックがどれほど敵を屠ろうとも、どれほど血を流そうとも埋まることはなく、複利の悪質な計算によって肥大化し続けていた。

「エリック……」

アイラはエリックの生身の左手のひらへ顔を埋め、肩を激しく震わせながら、胸を引き裂くような絶望を絞り出した。

「私たち……本当にここを出られるの?」

「中層都市(ミドルシティ)には酸性雨の降らない平原があって、綺麗な水があって、空の見える家があるって……でも、利息すら返せない。収容の期限が来たら、私たちはどうなるの? この子は……?」

エリックは首を垂れ、掌のタコを妻の涙で濡らすがままにしていた。 答える言葉を持たなかった。 過去数年の間、彼は常に同じ嘘で彼女を宥め続けてきたからだ——「あと十勝すれば」「チャンピオンシップの賞金が出れば」「この借金を完済すれば」。

だが今夜、己を麻痺させるために紡いできた欺瞞の数々は、あの路地裏の幽青のホロディスプレイの前で、生々しく引き裂かれていた。

『マルクへの借金は、お前が署名すらしていない二重帳簿だ』 『お前が砂地の上で五十倍の感覚過負荷に耐え続けているのは、レッドウルフに『アレス』のデータモデルを最適化させてやっているにすぎない』 『首輪を嵌められ、このリストに名を刻まれている限り……お前も、妻も、息子も、用が済めば焼却炉へ放り込まれる『生体資産』でしかないんだ』

一戸の低く平穏な声が、死神の宣告のごとく脳裏の深奥で轟いていた。

借金などではない。 最初から家族全員の寸法を測られ、屠殺場の中に囲い込まれていた死地なのだ。マルクが自分を解放する気など最初から毛頭なく、レッドウルフもまた、拒絶反応のピークを越えて自分を生かしておくつもりなど微塵もない。 命を搾り取られ、『アレス』のテストデータがすべて回収されたその日、自分は溶鉱炉へと放り込まれ、アイラと息子はその瞬間に「強制収容所」へと送られて、この陽の光の差さない地底で肉塊へとすり潰される。

「……怖がらなくていい」

長い沈黙の後、エリックはゆっくりと手を持ち上げ、アイラの乱れた髪を慈しむように撫でた。 その声音は、檻を食い破らんとする凶獣の唸りを無理やりに押し殺したかのように低く沈んでいた。

「傷を塞いでくれ。夜が明ける、お前は少し眠りなさい」

アイラは涙を拭い、細胞再生パウダーと包帯を手にとって、脇腹の刀傷をきつく縛り上げた。彼女は夫の身体の奥底に張り詰める緊張を感じ取っていたが、耐え忍ぶことに慣れきった女はそれ以上何も追及せず、洗面器を片付けるとベッドへと横たわった。

室内は再び静寂へと沈み込んだ。 電気ストーブの電熱線が鈍い赤光を放ち、大気には血生臭さと汗、そして安価な粉ミルクの乾いた匂いが漂っている。

エリックは一人、ローテーブルの前に座していた。 首を垂れ、寝台の上の幼子をじっと見つめ続ける。 赤ん坊は目を閉じ、小さな手を布の外へ縮こまらせ、微風のような寝息を立てていた。己の生まれたこの世界がいかに汚濁に塗れ、いかに残酷であるかも知らず、父親が地下都市で恐れられる『屠殺者(ブッチャー)』であることも知らず、そして己の幼い首筋に、雲の上の巨頭たちによってすでに値札のついた絞首台の縄が掛けられていることすらも知らずに。

エリックは生身の左手をゆっくりと持ち上げた。荒々しいタコと無数の傷痕が刻まれた指先で、息子の柔らかな頬へ、極めて優しく触れた。

次いで、その視線は右側へと向かった。 漆黒のマットブラックを湛え、完璧な輪郭を描くナノ機械義肢——『アレス』。 微弱な赤い光の下、腕の表面は鉄のように死に絶えていた。

この異形の造物こそが、あらゆる敵を粉砕する狂暴な破壊力を授けてくれた。だが同時に、重く冷たい鎖となって神経の深部から骨髄を貫き、自分をマルクの足元へと死に損ないの野犬のごとく縛り付けている。

この腕は兵器ではない。 骨の髄に焼き付けられた、奴隷の枷なのだ。

『息子に本物の明日を迎えさせたいなら……血肉で贖うかりそめの幻影ではなく』

一戸のあの冷徹な青い双眸が、再び目の前の陰影の中に浮かび上がる。

『明日の夜、クインビー・ストリートの改造列車バーだ。銘柄『破裂氷』を一本、グラスを二つ頼んでおけ』

エリックはゆっくりと手を引っ込め、魁偉な背中を冷たく湿った鋳鉄の壁へと重々しく預けた。 身じろぎもせず、暗がりの中で重い瞼を閉じる。

胸腔の深部で、へし折れた肋骨が荒い呼吸のたびに軋み、右腕の神経叢から伝わる灼熱痛は、今なお脳髄を休むことなく苛み続けていた。 電熱線が闇の中でチリチリと微弱なスパーク音を立て、卓上に転がる十二枚の擦り切れたデータ硬貨が、暗赤色の余光を浴びて冷たい光を放っている。

あの灰色の髪の青年の掠れた声が、死んだように静まり返ったあばら屋の中に、形を持たぬ波となって木霊し続けていた。

エリックは深く息を吸い込み、胸の奥底で渦巻くすべての感情を喉の奥へと強引に押し込めた。 この光の届かぬ泥濘において、生き延びることそれ自体が、終わりのない窒息性の拷問に等しい。

彼は首を垂れ、漆黒の闇が己の巨大な影を完全に呑み込むのを、ただ黙然と受け入れていた。

夜は、まだ長い。

 

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