ランナー   作:Zizzi

59 / 59
第五十九章 動揺

翌日、闘技場(アリーナ)――。

大気には狂暴な重低音のエレクトロビート、揮発した粗悪な興奮剤の甘ったるい刺激臭、そして数万の観衆がスタンドを踏み鳴らす地響きのような震動が充満していた。 すり鉢状の環状観客席は超満員に膨れ上がっている。大口径のフラッドライトが中空で幾重にも交錯し、中央の数十メートルに及ぶ砂地のリングを白く刺すような光で照らし出していた。頭上に掲げられた巨大なホログラムスクリーンには、雪だるま式に膨れ上がる天文学的な賭け金の数字が猛烈な勢いでスクロールし続けている。

四十連勝以上を重ねた不敗の鬼神、『屠殺者(ブッチャー)』エリック。 今夜、この闘技場における唯一の絶対君主――『鉄拳』マルクに対し、無制限の死闘を挑む。

だが、リングの深底に位置する待機個室の奥で、エリックは冷たい合金の長ベンチにただ一人、腰を下ろしていた。 周囲にはツンと鼻を突く重曹消毒液と、酸化して黒ずんだ血生臭さが澱んでいる。彼は首を垂れ、両手を膝の上に無造作に置き、足元に広がる油膜の浮いた結露の水たまりを凝視していた。

昨夜、双子の暗殺者に切り裂かれた脇腹の創口が火がついたようにズキズキと疼き、金属副木で固定された左手首の骨は、高湿度の空気の中で重苦しい膨張痛を放ち続けている。だが、そんな肉体の破損などよりも、昨夜の路地裏で突きつけられたあの幽青のホロディスプレイ、レッドウルフ戦略局の最高機密である【紅印】が刻まれたプロファイル、そして自宅の端末に残されていた二百四十万データクレジットを超える累積債務の明細書のほうが、遥かに残酷な絞首台の縄となって、己の喉笛を窒息するほどに締め上げていた。

【コードネーム:『屠殺者(ブッチャー)』】 【ランキング:15】 【最終限界の観察を推奨……】

冷酷な文字列が、脳髄の奥底で幾度となく反響する。 過去数年、この砂地の上で命を削り、歯を食いしばって『アレス』の五十倍の感覚過負荷という拷問に耐え続けてきたのは、すべて血肉を対価にして妻と子を中層都市(ミドルシティ)へ送り出すためだと信じ切っていた。 だが昨夜、その薄汚れた欺瞞の布は、あの灰色の髪の若造によって、外科メスのように無慈悲に引き裂かれたのだ。

己は闘士でもなければ、挑戦者ですらなかった。 フェンスで囲い込まれた檻の中で、最新型プロトタイプの極限耐性をテストするためだけに飼い慣らされていた、一頭の実験動物にすぎなかったのだ。

「ゴォォォンッ————!!」

重厚な防爆ゲートが轟然と持ち上がり、重苦しい排気音が死寂を切り裂いた。 スタンドからの怒号が山崩れの津波となって雪崩れ込み、中空の実況ブースから、ボイスチェンジャーで歪められた甲高い絶叫が響き渡る。

「迎えろォッ! このコロシアムにおける不敗の殺戮マシン――『屠殺者(ブッチャー)』エリック・ジョンソンッ!!」

エリックは麻痺した表情のまま、ゆっくりと立ち上がった。 右腕の表面を覆うマットブラックのナノ流体が音もなく波打ち、皮層の表面に微細な波紋を走らせる。彼は機械のように重々しい足取りを踏み出し、白熱する光の海の中へと足を踏み入れた。

狂乱の怒号、宙を舞うデータ紙幣、欲望に歪む数万の顔面が視界の縁で激しく明滅する。エリックは観客席に視線一つ向けることなく、舞い上がる砂塵を真っ直ぐに見据え、リングの正反対の影へと視線を縫い止めた。

そこに、一人の男が立っていた。 闘技場の絶対の支配者――『鉄拳』マルク。

マルクは引き締まった均整の取れた体躯を持ち、高めの頬骨と青白い肌をした、典型的な東アジア系の顔立ちをしていた。地下都市に蔓延る鈍重な筋骨隆々の巨漢たちとは明らかに一線を画している。精悍な上半身を露わにしており、冷ややかな照明が、皮膚の下に網の目のように埋め込まれた多重複合防弾繊維の微小な隆起を陰影深く浮かび上がらせていた。 両足をわずかに開き、重心を低く沈め、両手を正中線の両脇に脱力させて垂らす――無駄を極限まで削ぎ落とし、一切の隙を排した古流の近接格闘の構え。

だが、その引き締まった肉体の両脇にぶら下がっていたのは、異様なまでに凶悪で誇張された、純黒の金属重拳だった。 極限までカスタマイズされた重装油圧式インプラント。腕の表面には装甲カバーすら施されておらず、太い高圧作動油ホースと微小動能ピストンが剥き出しのまま精密に噛み合い、冷間圧延鋼で鋳造された無骨な拳骨が、微光の下で凍てつくような機械の質感を放っている。

マルクの深紅の高級電子義眼が鋭く収縮した。 数十メートルの距離を隔て、ガラスケースの中に陳列された己の私有物を値踏みするかのような冷徹な視線が、エリックへと注がれる。 防御の姿勢を構えることすらせず、ただ挑発するように、人差し指をクイと内側へ曲げてみせた。

「ゴォォォンッ————!!」

鼓膜を引き裂く開戦のドラが、轟然と炸裂した!

エリックの胸郭が激しく波打ち、喉の奥底から押し殺した獣の咆哮が漏れ出た。 脳裏で渦巻く絶望を力ずくで遮断し、全身の体幹トルクを同一のコンマ一秒で爆発させる! 右腕『アレス』の漆黒のナノ流体が激しく沸騰・増殖し、コンマ一秒のうちに獰猛な重装動力ウォーハンマーへと再構築された。足元のコンクリートブロックを粉砕しながら大地を蹴り、その巨躯は地を這う破城槌と化して砂塵を切り裂き、マルクの正中線へ向けてウォーハンマーを真正面から叩き込んだ!

ハンマーがマルクの顔面を粉砕しようとした、その最後の刹那―― エリックの瞳が鋭く沈み、右腕のナノ流体が前触れもなく二次分裂を起こした! ハンマーの頭部から数十本に及ぶ鋭利な純黒のスパイクが扇状に一斉射出され、マルクのあらゆる退路と左右への回避スペースを完全にロックする!

マルクの神出鬼没のステップを封殺するために、丸半年間をかけて練り上げてきた奇襲戦術。

だが、迫り来るスパイクの弾幕と巨大な鉄槌を前にしても、マルクは眉一つ動かさなかった。 その身のこなしは、風に舞う木の葉のように極めて滑らかだった。極めて狭隘な隙間を縫い、地を這うような沈み込みのダッキング・スライドを敢行する。無駄な風圧すら一切生じさせず、暴射されたスパイクの切先をミリ単位の紙一重ですり抜けた。

ウォーハンマーが、空を裂いた。

「ドォォォンッ!!」

硬質な砂地が粉砕され、直径数メートルに及ぶ大穴が穿たれ、岩の破片が弾幕となって四方へ飛散する。 エリックの大振りな打撃が空振りに終わり、運動エネルギーの反動で次の挙動へ移行できないコンマ数マイクロ秒の間隙――マルクの影が、すでにハンマーの柄を舐めるようにして内懐へと滑り込んでいた!

巨大で重厚な油圧右拳は、無防備なエリックの頭部を狙いはしなかった。 外科メスを思わせる絶対の精度を伴い、下から上へと放たれた短く陰湿な寸勁が、『アレス』の手首の形態変形コアジョイントへと、寸分の狂いもなく水平に撃ち込まれた!

「ガキィンッ!!」

鈍い金属の衝突音が響き渡る。 強烈な電磁阻害パルスが接合部の隙間からエリックの右腕の神経中枢へと瞬時に逆流した! 激しい麻痺感が神経を侵食し、『アレス』の表層のナノ流体はその精密な衝撃によって一瞬にして調和を喪失、ウォーハンマーの形状は不安定な黒い霧となって霧散し、強制的に人間の腕の輪郭へと逆戻りさせられた!

エリックの瞳孔が激しく収縮した。

手首のジョイントにある給電ノードは極めて秘匿性が高く、彼自身が百を超える死闘を潜り抜け、変形エラーを幾度も経験して初めて偶然突き止めた構造的欠陥だった。 なぜ、マルクがそれを知り尽くしているのか――?!

『『アレス』のテストデータは、すべてレッドウルフのデータベースにある』 昨夜の一戸の冷徹な声が、真っ赤に焼けた鉄針のように脳髄を貫いた。

マルクは、レッドウルフがこの地下都市に敷いた暗線そのものなのだ。 このインプラントが自らの骨に強引に溶接されたあの日から、この兵器のあらゆるパラメータ、あらゆる弱点、あらゆる限界値は、すべてレポートとしてプリントアウトされ、眼前の男のデスクの上に並べられていたのだ。

この男の前において、自分には何一つとして秘密など存在し得ない。

「オロロロァッ——!!」

エリックの眼球が血走って充血し、神経の奥底の痺れを力ずくでねじ伏せた。 精密な制御を要する形態変化をすべて放棄し、『アレス』の腕を分厚く硬質な一枚の盾へと固定すると、左手で地面に転がっていた折れた太い鉄パイプを拾い上げ、狂乱の巨獣のごとく、闘技場の周囲を囲む重装甲の金属壁へと真正面から体当たりを敢行した!

「ドォン! ドォン! ドォォンッ!!」

連続する狂暴な打撃が、装甲板と防護壁を激しく打ち据えた! 闘技場全体が激震し、頭上から大量のコンクリート片、工業粉塵、そして金属スクラップの雨が土砂降りのように降り注ぎ、リングの中央に視界を遮断する濃密な粉塵の幕を巻き上げた。

視界は、完全にゼロとなった。 エリックは戦場を完全な視界ゼロの乱戦へと引きずり込もうとしたのだ――肉眼で視認できない煙塵の底で、戦闘本能と圧倒的な体重差を武器に、泥沼の肉弾戦で相手をすり潰すために!

荒れ狂う粉塵の向こうで、マルクがフッと歩調を止めた。 その深紅の電子義眼が微弱に明滅し、体内に埋め込まれた神経系が低周波の唸りを上げた。

【25%】

時間拡張が、音もなく展開される。 狂乱の煙塵が、マルクの視界の中では凝固した灰色の霧となって静止した。その遅延した世界の中で、魁偉な巨躯が塵を切り裂き、左手で重い鉄パイプを振り上げ、右腕の黒い盾を構え、必死の殺気を纏って突進してくる!

マルクはその場から動かなかった。 エリックの左手の鉄パイプが振り下ろされるコンマ一秒前、マルクが動いた。

後退はしない。鋼鉄の右拳が最小の角度で外側へとわずかに払われ、パイプの内側の力点を正確に叩いた。強烈な衝撃の反動が鉄パイプをエリックの手から一瞬で弾き飛ばす! 間髪を容れず、マルクの五指が鋼の鉤爪のごとく開き、エリックの左手首を万力のようにロックした!

螺旋の寸勁が、腰と腹から爆発する!

「ボキィッ!」

骨がへし折れる乾いた破砕音が突風の中に響き渡った。エリックの左手首は極限まで逆方向にねじり上げられ、左腕全体の力が完全に無力化された。 激痛にエリックの視界が暗転しかけたが、退きはしなかった。右腕『アレス』のナノ流体を一瞬にして漆黒の短刃へと収束させ、密着した超至近距離から、マルクの脇腹へ向けて狂ったように突き刺した!

相討ちを狙った狂乱の一撃! だが、マルクの深紅の義眼に浮かんでいたのは、冷酷極まりない嘲笑だけだった。

視線を下げることすらせず、エリックの手首を掴む巨拳を強引に押し下げながら、右足を軸にして軽やかに身を翻す。流れるような体さばきによって、エリックの前進慣性をそっくりそのまま側翼へと受け流したのだ。 短刃がマルクの胸元の防弾繊維を擦過し、火花を散らす。 この重心の乱れに乗じ、マルクは半歩踏み込むと、巨大な油圧左拳を一切の死角のない力矩で、エリックの右肩と『アレス』が接続するメインフレームの関節へと正確無比に食い込ませた!

沈み込み、腰を捻り、背負い投げ!

二百キロ近いエリックの巨躯が中空で放物線を描き、マルクの怪力によって地面へと無慈悲に叩きつけられた!

「ドォォォォンッ————!!」

分厚い肉体が砂地を貫通し、背骨が地下の鉄骨ベースへと激突した。 大量の鮮血が内臓の破片とともにエリックの口から激しく噴き出し、胸元の脆弱になっていた肋骨がへし折れて肺を圧迫し、破れフイゴのような悲鳴を上げさせた。 『アレス』は神経接続の制御を失い、ドロドロに溶けた泥のように、力なくその傍らへと崩れ落ちた。

粉塵が、静かに凪いだ。 スタンドの数万の観衆から、耳を劈く狂乱の絶叫と、配当金を勝ち取ったギャンブラーたちの狂騒が爆発した。

マルクはゆっくりと手を収め、手首の油圧バルブを調整して「プシューッ」と微かな減圧音を吐き出させた。 そして歩み寄り、複合装甲で覆われたコンバットブーツを持ち上げると、泥と血にまみれたエリックの顔面の上へ、重々しく踏み下ろした。

靴底の溝が皮膚と肉へ深く食い込み、エリックの顔面を冷たく粗い地面へと力づくで擦りつける。 マルクは身を屈めた。 深紅の電子義眼が、エリックの血走った瞳から十センチにも満たない距離へと迫る。頭上のあらゆるマイクの死角を突くように声を極限まで押し殺し、毒蛇の吐息のごとき冷酷な言葉を一語一語、耳元へと注ぎ込んだ。

「よく覚えておけ、エリック」

踏み下ろすブーツのトルクがミリ単位で加重され、頭蓋骨が悲鳴を上げて軋む。

「お前も、その身体に張り付いた高価なオモチャも、旧工業区で飼っているあの女と生まれたばかりのガキも……」 マルクの口元が、残虐極まりない冷笑を刻んだ。 「すべては、俺の所有物だ」

「俺が生かしてやってるからこそ、お前は息ができるんだ。俺が死ねと言えば、お前はこの砂の上で腐り果てるしかねえんだよ」

ブーツの底が容赦のない力で横へ蹴り飛ばされ、エリックの頭部が跳ね上げられた。 マルクは身を起こし、足元の敗者を二度と顧みることなく、両手をポケットに突っ込み、眩いスポットライトと大歓声の中を、選手用通路へと冷然と歩み去っていった。

エリックは泥血の中に倒れ伏していた。 その言葉が、赤錆びた鈍刀のごとく心臓を抉り、執拗に掻き回し続けていた。 最後の尊厳、四十二戦にわたって守り抜いてきた誇り、そして「家族のために戦う」という自己欺瞞――そのすべてが、冷たい破片となって砕け散っていた。

敗北したのだ。 配給を手に入れるための賞金だけでなく、この世界で生きていくためのすべての支柱を、完全に喪失したのだ。

……

深夜、旧工業区三番街。

工業の酸性霧が立ち込める泥濘んだ小道を抜け、エリックはボロボロに破壊された肉体を引きずりながら、赤錆びたトタンの扉を押し開けた。

室内に灯りはついていなかった。 部屋の隅、劣化した電気ストーブの電熱線だけが、闇の中で鈍いオレンジ色の光を放っている。 空気中には、安価な粉ミルクの乾いた香りと機械油の匂いが漂っていた。 ベッドの上では、アイラが粗布の包布を抱き寄せるようにして横たわり、静かな寝息を立てていた。その傍らのパーツボックスの中では、生後一ヶ月を迎えたばかりの息子が小さな手を胸元に縮こまらせ、胸郭をかすかに上下させていた。

普段なら、この扉を開き、この二つの命を目にするだけで、全身に五十倍に増幅されていた激痛を無理やりに押さえ込むことができたはずだった。 だが今夜、影の中に佇んでその幼い寝顔を見つめる彼の胸を貫いたのは、骨の髄まで凍りつくような悪寒と、底知れぬ無力感だけだった。

『お前の女も、お前のガキも……すべては俺の所有物だ』 マルクの陰湿な声が、脳裏で休むことなく木霊し続ける。

自分がこの闘技場に留まり続ける限り、レッドウルフの首輪を嵌められている限り、このあばら屋の「我が家」とやらも、企業が自分に命がけの芸当を演じさせるために設営した小さな舞台装置にすぎないのだ。最後の一滴まで血を流し尽くしたところで、妻と子を焼却炉へと一歩ずつ近づけるだけにすぎない。

エリックは暗闇の中に、長い間立ち尽くしていた。 やがて、彼は極めて緩慢に、音もなく歩み寄り、パーツボックスの傍らに片膝をついた。 息子の柔らかな頬に触れることはせず、ただ身を屈め、ひび割れて血の滲む唇を、おくるみの端へと、かすかに触れさせた。

そして、ゆっくりと立ち上がった。 未練も、躊躇いもなかった。彼は背を向け、錆びついた鉄扉を押し開けた。 深夜の刺すような工業の寒風が隙間から吹き込み、ボロボロに引き裂かれた防護服の裾をはためかせた。エリックは背後で扉を静かに閉ざすと、山のように魁偉な背骨を固く伸ばし、振り返ることもなく、果てしない漆黒の闇の中へと歩み去っていった。

……

クインビー・ストリート――。

退役した磁気浮上列車の車両を強引に改装して作られた地下バーは、酸性雨の降りしきる深夜の闇の中で、刺すような冷たい光を放っていた。 だが、その店はもはや、エリックの記憶にある姿とは完全に様変わりしていた。

一ヶ月前、ここは情報屋ハーマンが裏で牛耳る秘密の根城だった。当時のバーは重苦しく死寂に満ち、空気には酸敗した煙草、高濃度のロジンフラックス、そしてセーフティを解除した無法者たちの火薬の匂いが張り詰めていた。カウンターの奥にはハーマンの腹心が控え、コイン一枚を放り込めば、あらゆる電波を遮断する低周波ノイズバリアが静かに降ろされたものだった。 だが、一ヶ月前にハーマンがこの地下都市から煙のように消え去って以来、クインビー・ストリートのハイエナどもは電光石火の勢いでこの縄張りを貪り尽くした。新しく店を買い取ったオーナーは、地下のコントロールルームへと通じる昇降機をコンクリートで完全に埋め戻し、細長い車両全体を、より軽薄で、より下品で、商業的なギミックに満ちたファストな歓楽バーへと暴力的に改装してしまったのだ。

車両の扉が、黒ずんだ巨大な手によって乱暴に押し開かれた。 耳を劈く重低音のエレクトロ・ビートが、鼓膜を容赦なく襲う。

天井の工業配管は大半が取り払われ、安っぽいピンクとネオングリーンのLEDテープがチリチリと点滅し、薄暗い車内を落ち着かない色合いで切り刻んでいた。かつてダークウェブの裏依頼を表示していたモニターは、巨大なホログラムプロジェクターへと置き換えられ、露出度の高い銀色のラメを纏ったサイバーダンサーが重低音に合わせて狂ったように腰をくねらせている。電圧が不安定なせいか、時折激しいノイズとともに粗いドットの残像へと崩れていた。 両脇のボックス席はピカピカのビニールレザーシートへと変えられ、ネオングリーンの髪をした若いチンピラどもが、目元に安価な発光チップを埋め込んだ女たちを抱き寄せ、安酒をあおっては下品な怒号を張り上げていた。

厳格なフラックスや銃油の匂いは微塵もなく、代わりに鼻を突く安香水、合成果汁カクテルの強烈な甘み、そして電子タバコの毒々しい煙が充満している。 カウンターの奥にいた老バーテンダーの姿はとうに消え、代わりに立っていたのは、頭の片側を刈り上げた若い男だった。耳の後ろには赤く点滅する神経ライトが埋め込まれ、首筋には派手な蛍光タトゥーが覗いている。

エリックが車内へと踏み入った。 身長二メートル近いその魁偉な巨躯は、硝煙に煤けた動く山岳のようだった。防護服の引き裂かれた破れ目からは暗赤色の血の塊が覗き、右肩の皮膚はリングでの激しい激突によって青黒く陥没し、死んだように凪いだ漆黒の『アレス』が歩調に合わせて垂れ下がり、生身の人間を寄せ付けない濃密な殺気を放っていた。

砂地の泥血と、重傷の苦痛、そして抑圧された死の気配を纏ったその巨躯は、車内の薄っぺらで軽薄な歓楽の空気と真正面から衝突し、異様極まりない違和感を放っていた。 さっきまで騒ぎ立てていたチンピラどもがエリックの陰鬱な眼差しと衝突した瞬間、その笑い声が喉元でピタリと凍りつき、本能的に首を縮めてシートの奥へと身を潜めた。

エリックは感情を殺した顔のまま、甘ったるい悪臭の漂う狭い通路を横切り、スポットライトの光すら届かない車内最奥のボックス席へと真っ直ぐに向かった。 腰を下ろすと、その巨大な肉体がシートを隙間なく埋め尽くした。 テーブルの上には前の客がこぼした甘いシロップ酒が、ピンク色の微光を浴びてベタついた反射を浮かべている。

首筋にタトゥーを入れた若いボーイが、全身から漂う恐怖の威圧感に気圧されながらも、グラスを拭くクロスを肩に掛け、恐る恐るテーブルの脇へと歩み寄ってきた。ぎこちない営業スマイルを顔に貼り付ける。

「お、お客さん……いらっしゃい。何にしましょう? 今夜は新作の『パープル・ナイト』がお勧めでして、最初の二杯は半額に……」

エリックはゆっくりと顔を上げた。 数条の獰猛な傷痕が走るその顔面は陰影の奥に沈み、窪んだ眼窩には赤黒い血走りが張り巡らされていた。 その声は、二枚の粗い砥石を力任せに擦り合わせたかのように、低く、乾ききっていた。

「『破裂氷』を一本」

ボーイは目を白黒させ、呆然と立ち尽くした。 現在の酒棚に並んでいるのは、派手に発光するスパークリングカクテルや合成リキュールばかりだ。ハーマンの時代、死闘へ赴く傭兵たちが恐怖をねじ伏せるためにあおっていたあの無名の強い合成蒸留酒など、とうの昔に最下段の冷凍庫の隅で埃を被っているはずだった。

ボーイが尋ね返そうと口を開きかけた、その刹那―― 絶望と完全な破壊を潜り抜けてきたエリックの瞳の奥底に、かつてないほど冷徹で、強固な決意の光が静かに灯った。

コンマ数秒の沈黙の後、男は奥歯の隙間から、最後の一言を低く絞り出した。

「グラスを、二つだ」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。