ランナー   作:Zizzi

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第六十章 盟約

一戸は手を伸ばし、分厚いゴムで覆われた重厚な車両の扉を押し開けた。

ヒンジが軋む鈍い音とともに、湿りきった冷たい工業風が、耳を劈く重低音のノイズを巻き込んで真正面から吹きつけてきた。 丸一ヶ月ぶりに足を踏み入れたこの廃車両の内装は、かつての面影を完全に失っていた。

一ヶ月前、ここは情報屋ハーマンが最も重宝していた情報の拠点であり、マネーロンダリングの巣窟だった。当時の空気には、常にロジンフラックス、冷たい銃油、そして低周波ノイズバリア特有のオゾン臭が張り詰めていた。だが、ハーマンが地下三階のセーフハウスで一戸の手によって射殺されて以来、クインビー・ストリートのハイエナどもは死肉を漁るハゲタカのごとくこの縄張りを貪り尽くし、あの隠密な拠点を、安っぽく浮ついたファストな歓楽バーへと暴力的に作り替えてしまっていたのだ。

天井にはチリチリと点滅するピンクと紫のLEDテープが無造作に張り巡らされ、バーカウンターの上空では接触不良のノイズに塗れたホログラムダンサーが、狂ったように腰をくねらせている。 空気の中に厳格な銃油の匂いは微塵もなく、鼻を突く安香水のスプレー、過剰な糖分を含んだ合成スパークリング酒、そして電子タバコの毒々しく甘ったるい煙だけが漂っていた。

一戸は深灰色のトレンチコートの襟元を引き下げ、歩調を緩めることなく進んだ。 灰色の前髪の奥で、義眼・オラクルの冷徹な青い光条が薄暗がりの中で静かに駆動する。フロアで乱痴気騒ぎを繰り広げる酔客や用心棒の影をミリ秒単位で視界から削ぎ落とし、メインのスポットライトから外れた、車内最奥のボックス席へと視線を真っ直ぐにロックした。

エリックが、そこに座っていた。

二メートル近い、山のように魁偉な巨躯が、狭いボックス席を隙間なく埋め尽くしている。 防護服の裾には闘技場の湿った泥と黒ずんだ血糊がこびりつき、左の頬にはコンバットブーツによって力任せに踏みつけられた暗紫色の鬱血痕が痛々しく走り、右肩の肉は激しい激突によって陥没していた。そして、全身をマットブラックで覆われた特装インプラント『アレス』は、死んだ鉄のように無音で垂れ下がり、そのナノ流体は絶対の沈黙へと沈んでいた。

ベタつく油汚れの残るテーブルの上には、擦り切れてラベルの剥がれかけた旧式の強い合成蒸留酒『破裂氷』のボトルが一本、そして無数の傷がついた二つの厚底ロックグラスが置かれていた。

リングの砂地の上で尊厳も誇りも無残に踏み砕かれ、極度の凶暴性と張り詰めた警戒心に支配された、一頭の手負いの猛獣。

一戸は通路を音もなく横切り、乱反射する光条の死角を縫いながら、エリックの対面のシートへと静かに腰を下ろした。 腰を下ろした刹那、灰色の前髪がわずかに揺れ、眼窩の奥深くに埋め込まれた幽青の義眼・オラクルが陰影の中で鋭く収縮し、極細の冷徹な光を放った。

ボックス席を取り囲んでいた浮躁なエレクトロビートが、その瞬間、形なき重圧によって強引に押し戻されたかのようだった。

エリックは一戸を凝視していた。 血走った濁った瞳が、目の前の青年の蒼白で冷峻な顔立ちと、幽青の微光を湛える義眼の間を、丸二秒間にわたって釘付けにしていた。

闘技場の風霜に二十年もの間晒され続けてきた男の表情の奥底で、野獣の警戒心が、底知れぬ動揺の波紋へと激しく塗り替えられていく。

「一戸」という名を最初に耳にしたのは、地下都市の最底辺を蠢く傭兵たちの噂話の中だった。 当時、路地裏ではまことしやかな噂が飛び交っていた。裏通りに、危険極まりない汚れ仕事ばかりを引き受け、レッドウルフの輸送ラインばかりを執拗に狙う、灰色の髪をした一匹狼が現れたと。その手口は戦慄するほど苛烈で老獪でありながら、なぜかレッドウルフ公式の指名手配リストにはその名が一度たりとも載ったことがない。酒場の命知らずどもが吹聴するところによれば、その独狼はあらゆる弾道軌跡を見通す幽青の義眼を持っているのだという。エリックは当時から、その男の輪郭が、かつて闘技場を駆け抜けたあの影と重なるのではないかと直感していた。

そして今、万年の氷のごとく冷徹な義眼・オラクルが暗がりの中で静かに輝き、二つの伝説の輪郭は、寸分の狂いもなく完全に噛み合っていた。

紛れもなく、あの男だ。

血漿と絶叫に塗れた地下闘技場という地獄において、暴力と殺戮は最も効率的な興奮剤だ。何千何万という闘士が砂地に足を踏み入れ、一度でも勝利の美酒を味わえば、山鳴りのような大歓声、天文学的な賭け金の配当、主催者から差し出される正式契約、そして上層から滴り落ちる豪奢な快楽に骨の髄まで腐敗させられていく。ほぼすべての者がその狂暴な快感に溺れ、自ら骨の中に奴隷の首輪を溶接し、鉄籠の中で死ぬまで踊らされ続けるのだ。

だが、眼前のこの男だけは、完全なる例外だった。

当時、彼は重火器めいた過剰なサイボーグ改造すら施されていない、華奢な生身の肉体一つで、その冷たい青い義眼だけを頼りに死線のリングを戦い抜いた。丸二ヶ月、百戦全勝。 そして百連勝を達成し、自らの人生を買い戻すだけの巨額のチップを積み上げたその瞬間——この狂人はマルクから差し出された破格の契約書を一顧だにせず、狂乱を呼び起こす大金にも特権にも目もくれず、常人を狂気に叩き落とすあの全能感に一秒たりとも未練を残さなかった。 リング脇で買い戻し契約にサインを交わすと、身体にこびりついた血糊を拭うことすらせず、その場で刀を放り捨て、地下都市の薄汚れた冷たい雨の中へと振り返ることもなく消え去ったのだ。まるで、最初から存在しなかった亡霊のように。

地下格闘界で数年間にわたって囁かれ続けてきたあの亡霊が、今、正真正銘、己の真正面に腰を下ろしている。

エリックのテーブルの下の生身の左手が猛烈に握り締められ、指関節が微かな破砕音を立てた。全身の筋肉が極限まで引き絞られた弓弦のように軋む。

「数年前に闘技場で百戦全勝を叩き出し、金を積んで即座に契約を切って消え失せた青い目の狂人……その後に傭兵どもの間で噂になり、レッドウルフばかりを狙い撃ちにしていた独狼。噂通り、同一人物だったわけだ」

エリックが口を開いた。二枚の赤錆びた鉄板を力任せに擦り合わせたかのような嗄れた重低音。その一語一語に、骨の髄から滲み出る冷気が宿っていた。

「だが、昔話に付き合う気はないぞ」

エリックは上体をわずかに前傾させた。魁偉な巨躯が濃密な影を落とし、対面の青年を覆い尽くす。その瞳の奥底で、手負いの猛獣特有の暴虐と品定めが渦巻いていた。

「昨夜、路地裏で死神のように現れ、紙切れを突きつけて消え去った。そして今日、砂地の上でマルクに死に損ないの野良犬のように痛めつけられ、顔面をブーツで踏み躙られた。あいつは俺を所有物だと抜かし、レッドウルフは俺を第15号資産と呼んだ……なら、てめえは何だ?」

エリックの呼気が荒くなり、血混じりの鉄錆の匂いが漏れ出す。

「一戸・ベニントン。てめえも地下都市じゃ名の知れた凶刃だが、この一ヶ月、クインビー・ストリートから煙のように消え失せていたはずだ。ハーマンは死に、シマの主は変わり、だというのにてめえは何の傷もなく五体満足で生き延びている。念入りに俺の裏帳簿を洗い、俺の妻子を調べ上げ、このボロ車両へ俺を呼び出した……てめえは、一体どこの大物の飼い犬だ?」

エリックの指先がテーブルへと強くめり込み、天板が悲鳴を上げて軋んだ。

「俺にてめえのために命を張らせる気か? 俺を鉄砲玉にして、マルクを噛ませるのか、それともレッドウルフにけしかける気か? あいにく、家畜の真似事はもう生涯分やり尽くしたんでね。もしそんな算盤を弾いてるってんなら……今すぐその背中の刀を抜きな」

一戸の面持ちは凪いでおり、相手の剥き出しの殺気を宿した眼差しを避けることはしなかった。 彼は蒼白でしなやかな右手を伸ばすと、テーブルの中央に置かれた重厚な『破裂氷』のボトルを手に取った。

「カチャリ」

指先が金属キャップを軽やかに捻り開ける。 たちまち、ツンと鼻を突く工業電解液のように辛辣で強烈なアルコールの芳香が立ち込め、周囲に漂っていた虚飾の甘い香料の匂いを鋭く切り裂いた。

一戸はボトルを傾け、手首を寸分の狂いもなく水平に保ちながら、二つの厚底ロックグラスの半分まで琥珀色の液体を注ぎ入れた。 粗いガラスの壁面に叩きつけられた強い酒が、細やかな泡を弾けさせる。 続いて、彼はそのうちの一杯を、エリックの眼前へと静かに押し出した。

そして自らのグラスを手に取り、唇へと運び、喉を焼くような灼熱の蒸留酒を極めてゆっくりと一口あおった。 強いアルコールが灼熱の濁流となって食道を滑り落ち、胃袋へと落ちると、胸の奥底にくすぶっていた骨折の微熱を力ずくで押さえ込んでいく。

「もし俺がレッドウルフやマルクの飼い犬なら」

一戸はグラスを卓上に静かに置いた。伏せていた瞼をわずかに持ち上げる。その声音は平穏で掠れていたが、骨の髄を凍りつかせる絶対の冷気を孕んでいた。

「昨夜の路地裏でお前の背後に立っていたのは、俺一人じゃない。重装磁力徹甲兵器を構えた突撃小隊だ。奴らはお前の四肢を即座に切断し、『アレス』のコアを抉り出し、ついでに三番街へ部隊を走らせて、生後一ヶ月の息子を極低温収容ポッドへ放り込んでいただろうよ」

エリックの瞳孔が針の穴ほどに急収縮し、呼吸がピタリと停止した。

一戸は相手に動揺を整える隙すら与えなかった。深灰色のトレンチコートの内ポケットから、手のひら大の、マットな鉛色をした物理周波数ホッピング端末を静かに取り出すと、ペタつくテーブルの中央へと音もなく置いた。

「昨夜のプロファイルが、お前とマルクを仲違いさせるために俺がでっち上げた甘言の餌だと疑っているんだろう」

一戸は冷ややかに告げ、端末の天蓋にある物理起動スイッチを、人差し指でカチリと押し込んだ。

「なら、これを見ろ」

「ウォン……」

内部のマイクロジャイロが高速で自律回転を始め、卓上数センチの空間に、幽青のホロディスプレイが音もなく展開された。 その中央に浮かび上がったのは、血のように赤い【紅印】の機密認証が刻印された、レッドウルフ戦略局の内部暗号化ドキュメント。

最初に表示されたのは、数年前にすでに定稿・アーカイブされていたハードウェア工学ログだった——

【プロジェクトコード:『アレス』全黒ナノ流体多態特装システム(プロトタイプ)】 【資産コード:GL-15(テストキャリア:エリック・ジョンソン)】 【接続仕様:感覚フィードバックの安全ダンパーを完全撤廃、感覚過負荷を50倍に設定……(注:極限環境下におけるミクロン単位の応力ベクトルの高感度検知のため)】 【システムトポロジー固有欠陥:ウォーハンマー形態再構築時、手首の導能ノードがアルゴリズムの制限により、絶対的物理遅延(0.04秒の給電真空域)を発生させる……】 【戦略局戦術注記:本欠陥はハードウェア基底設計の固有バグであり、キャリアへの開示を厳禁とする。特種制圧および強制突破パラメータとして、管理責任者(コードネーム:【鉄拳】)へ下達済み】

数年前にすでに白紙の上に黒々と印字されていたその注記を目にした瞬間、エリックの顔色から、一瞬にしてすべての血の気が引き抜かれた。

丸五年。

闘技場のリングの上で、彼は百を超える九死に一生の血みどろの死闘を潜り抜けてきた。幾度となく変形エラーに直面し、死線の淵でもがき続けた果てに、己の生身の直感だけを頼りに、ようやく手首のあのコンマ零四秒の致命的な真空期を突き止めたつもりでいたのだ。 彼はその欠陥を己の最大の秘密として隠し通し、技を繰り出すたびに死に物狂いでそのノードを庇い続けてきた。

だが、現実という名の鉄槌が、彼の顔面を無慈悲に粉砕した。

不測の事故などでは断じてなかった。 その欠陥は、マルクが自らの骨に『アレス』を溶接したその最初の日から、取扱説明書の第十二ページにくっきりと記されていたのだ!

そして自分を監視・飼育していたマルクは、最初からこの義体のすべての手札と遠隔キーを握り締めていた。 今日の昼、砂地の上でウォーハンマーを寸分の狂いもなく粉砕してみせたあのアッパーカットは、何一つ神業などではなく、数年前のテストマニュアルに従って、ただ実行キーを押しただけにすぎなかったのだ!

続いて、一戸の指先がホログラム画面を滑った。 第二のドキュメントが開かれる。 それは数年前のプロジェクト立ち上げ時、マルク名義のペーパーカンパニーがレッドウルフ戦略局と交わした、長期調達契約書だった——

【立案仕様書:地下都市第15号資産・長期極圧ストレステスト方案】 【管理責任者:マルク(闘技場実質支配人)】 【テストメカニズム:『アレス』ナノ粒子損耗減価償却費(ファイトマネーの70%強制天引き)および高利複利を用い、資産を恒常的な破産寸前および家庭崩壊の極限状態に置くことで、生存本能を極限まで励起させ、近接格闘データを継続採取する……】 【廃棄および処分プロトコル:資産の生体耐性がピークを超過し、不可逆的な拒絶崩壊を起こした時点で、管理責任者が物理的淘汰を執行し、コアを回収する。旧契約者の家族(アイラ・ジョンソン、男児一名)は、中層都市(ミドルシティ)・下層の強制労働収容所へ自動編入され、残余債務へ充当されるものとする】

強制労働収容所。 残余債務へ充当。

安っぽいピンクと紫のネオンの照り返しの中で、冷酷な灰色の文字列が、真っ赤に焼けた鉄の鉤爪となってエリックの眼球から脳髄の奥底へと突き刺さった。 過去数年間にわたる彼のすべての耐忍、誇り、血の滲むような執念、そして「家族を守る」という自己欺瞞のすべてを、無残に、粉々に引き裂いていく!

エリックのテーブルの上の生身の左手が、激しく痙攣した。 黒ずんだ皮膚の下で青筋が毒蛇のように狂ったように脈打ち、右側の死に絶えていたはずの『アレス』の腕すらも、感情の過負荷によって不安定な高周波の共振音を微かに漏らし始めた。

丸々半月あまり、三十九試合の死闘。 二十二万データクレジットを超えるファイトマネーは、マルクの計算式によってわずか十二枚の硬貨と二枚の配給チケットにまで絞り尽くされ、その一方でマルクは、レッドウルフから支払われる研究開発費とデータインセンティブによって、毎期何十万もの利益を掠め取っていたのだ! 彼らは、自分がいつ完全に廃人となり、いつ溶鉱炉へ放り込まれ、そして容赦なく妻と子を暗黒の強制労働工場へと送り込んで最後の一滴まで骨髄を絞り尽くすかまで、数年前のこの紙の上で、寸分の狂いもなく計算し終えていたのだ!

「借金などではない、エリック」

一戸は冷ややかに男を見据えていた。嘲笑はなく、ただ傷口を切り裂いた後の血生臭い真実だけを突きつける。

「これはお前が闘技場へ足を踏み入れたその最初の日から、すでに捺印されていた家畜の飼育台帳だ」

「命がけで戦うことが、息子に明日を買ってやることだと信じ込んでいたのか? この檻の中に留まり続ける限り、お前が砂地で血を流すたび、それは息子の首にレッドウルフの首輪をより固く溶接しているだけにすぎないんだ」

エリックは両手で自らの頭蓋骨を抱え込み、魁偉な身体を座席の中で激しく揺らした。喉の奥底から、破れフイゴのような、絶望と狂暴の入り混じった喘鳴が漏れ出す。

「クソッ……クソッタレなレッドウルフが……クソッタレなマルクがァァッ!!」

男は咆哮した。声を極限まで押し殺しながらも、そこには毛骨の凍るような血の殺気が渦巻いていた。

「もうたくさんだ……今夜のうちに三番街へ戻り、アイラと子どもを連れてこの地底から這い出してやる! 中層都市は広い、あるいは国境を越えて外の荒野へ逃げてやる! 拾い食いの野良犬になろうが、連中に息子の指一本触れさせてたまるかァッ!!」

「逃げるだと?」

一戸の低く冷ややかな冷笑が、男の妄執を容赦なく切り裂いた。

「荒野へ行くと? 外壁の外側に広がるのは、年中陽の光の差さない放射能汚染地帯と、マイナス四十度の猛吹雪だ。真水もなく、抗放射線薬もない。生まれて一ヶ月にも満たない息子の肺胞が、あの毒雪の中で三日と持つと思うか?」

一戸は身を乗り出し、義眼・オラクルの冷徹な青い光条で、エリックの血走った双眸を真っ向から射貫いた。

「ならば中層都市へ逃げるか? メガウォールの基部には、三重の生体プローブと遺伝子スキャンのゲートが敷かれている。マルクの監視網が節穴だとでも思っているのか? 妻子を連れて昇降シャフトに足を踏み入れれば、五分と経たずに全域指名手配がお前の首に懸かる。お前一人で、腕の中の赤ん坊を抱えながら、ハウンド部隊の十字砲火から守り抜けるとでも思っているのか?!」

エリックの巨躯が凍りついたように硬直した。瞳の中の狂暴な怒りが、残酷な現実の前に生々しく凍結させられていく。

一戸は視線を戻し、グラスを手に取ると、その声音をかつてないほどの重厚さと冷徹さへと沈めた。

「一ヶ月前、中層都市南区のスラム街で、元反抗組織の医者だった老夫婦が俺を匿ってくれた」

一戸の声は極めて静かだったが、何千万トンもの鋼鉄の質量を孕んでいた。

「爺さんの名は老井、婆さんの名は清子。二人はこの暗黒の瓦礫の底で長年息を潜め、規律正しく、実直に、毎朝夜が明ける前から近所の壊れた水道管を繋ぎ、パンクしたコンデンサを溶接して暮らしていた。粗末な合成粥をすすり、二箱の鎮痛剤を買うのすら算盤を弾きながらな。雨漏りのする錆びたトタン屋根の下で、ただ慎ましく生き延びることだけを願っていたんだ。老井は楽しそうに語っていたよ、この雨季が明けたら闇市でペンキを二缶調達して、三年間雨漏りしていた屋根を塗り直そうとな。清子は湿気が苦手でね、俺に温かい野菜スープを煮てくれて、手の甲の血糊を粗い布で拭ってくれた」

一戸は手の中のグラスを強く握り締めた。指関節が死人のように白く強張る。

「だが、レッドウルフのハウンド部隊が現れた」

「銃弾はコンマ数秒で家をミンチにした。清子は俺の目の前で胸を撃ち抜かれ、老井は両腕を広げて立ち塞がり、蜂の巣にされた。奴らの重装コンバットブーツは清子の亡骸を踏み躙り、その骨と肉を瓦礫と泥水の中へと無造作にすり潰していった。足元を一瞥することすらしなかったよ。通信チャンネルに残された報告は、たった一行の冷徹な言葉だけだ——『無価値な環境夾雑物を排除完了』」

ボックス席の中で、遠くの重低音ノイズが、まるで彼方の異世界の出来事のように遠のいていった。

エリックは呆然と、対面の青年を見つめていた。 その若者の瞳の奥底に見えたのは、政治屋の計算でもなければ、殺し屋の狂気でもない。 自分と全く同じ——業火と絶望の深淵の中で焼き尽くされ、血の復讐と絶対の冷気だけを残した、あの死者の静寂だった。

「従順も死、隠遁も死、善良であることすら死だ」

一戸は顔を上げた。幽青の義眼が、暗闇の中で凍てつくような光を放っている。

「人を喰らうこの体制下において、首にレッドウルフの首輪を嵌められ、あのリストに名を刻まれている限り……天涯孤独に逃げ回ったところで、一つの豚小屋から別の屠殺場へと移るだけにすぎない」

「一匹狼では誰も救えない。俺はお前を部下にしたいわけでも、お前をどこかの滑稽な革命の英雄に仕立て上げたいわけでもない」

一戸は一語一語を、エリックの鼓膜へと鉄釘のごとく打ち込んだ。

「俺はお前と手を組み、この薄汚れた泥濘の中で、奴らが俺たちの首に嵌めた絞首台の縄をこの手で引きちぎり、奴ら自身の喉笛を絞め殺してやるんだ」

長い沈黙が流れた。

エリックの胸郭が激しく波打ち、歯の隙間から掠れた問いが絞り出された。

「どうやって引きちぎる? マルクの手元には何百人もの重武装の私兵がいて、レッドウルフは指先一つで機甲中隊を丸ごと動かせる。俺たち二人だけで、一体何を武器にして奴らとやり合うってんだ? どうやってアイラと息子の命を守る?!」

一戸は即答しなかった。 手を伸ばして卓上のデータ端末の電源を落とすと、その鉛色のチップをトレンチコートの内ポケットへと滑り込ませ、指先でベタつくテーブルの縁を二度、静かに叩いた。

灰色の前髪の下で、義眼・オラクルの青い光斑が微かに揺らぎ、数メートル先のカウンターで談笑する若いボーイ、フロアで狂ったように踊る客たち、そして斜め頭上で不規則に首を振る安価な監視カメラの走査を、無音のうちに捉えた。

「ここは耳目が多すぎる」

一戸の声は極限まで低く押し殺され、重低音の唸りの中に完璧に溶け込んでいた。

「ハーマンは死んだが、この車両の剥き出しのケーブル、神経インターフェースを埋め込んだ客のすべてが、新しいオーナーやマルクの監視網に繋がっている可能性がある。具体的にどう動き、どうやってお前と家族をこの盤上から完全に消し去るか……こんな安酒の臭いが立ち込める場所で語るべき詳細じゃない」

一戸はエリックの疑念に満ちた視線を受け止め、身をわずかに乗り出すと、最も核心となる三つの約束を突きつけた。

「俺が今、お前に保証できるのは三つだけだ。第一に、俺は外界から完全に隔絶され、レッドウルフのあらゆる公式マップから抹消された旧時代の隠れ家を知っている。アイラと息子をそこに匿い、機械油と酸性ガスの悪臭を吸わずに生かしてやることができる。第二に、この街において『屠殺者(ブッチャー)』を完全に死んだことにし、マルクに追跡の手がかりすら掴ませない手段がある。そして、第三に……」

一戸のテーブルに置かれた指先が微かに引き締まり、その眼差しは冷徹な氷刃と化した。

「この刃は、お前の首輪を断ち切るだけでなく、マルクの首ごと叩き落とす」

「具体的な手順は、ここを出た後で直接見せてやる」 「もしこの賭けに乗る度胸があるなら……その酒を飲み干せ」

エリックは、完全に沈黙した。

車両の天井から降り注ぐピンクと紫の点滅光が、傷だらけのその無骨な顔面の上で明滅を繰り返している。 彼は目の前にある、冷たい光を宿した琥珀色の蒸留酒を見つめた。 あばら屋で眠る息子の、あの微弱で無垢な呼吸を思い出し、薄暗い灯火の下で絶望に震えていたアイラの涙を思い出し、そして砂地の上で数千日にもわたって耐え忍んできた激痛と屈辱を思い返していた。

眼前の青年は、口先だけのブローカーどものように大言壮語を吐き散らしたりはしなかった。 死地にあってもなお絶対の隠密性と戦術規律を保ち続けるその冷徹さこそが、かえって、首輪を真に断ち切るための一筋の光に見えていた。

エリックはゆっくりと顔を上げた。 かつて絶望と苦痛によってへし折られかけていたその双眸の奥底から、迷いと躊躇が潮が引くように剥ぎ取られ、かつてないほど強固で、冷酷な凶悪の血火が再び点火されていた。

彼は首を垂れ、己のマットブラックの右腕『アレス』を見つめた。 数え切れない苦痛をもたらし、奴隷の焼き印として呪ってきたその異形の兵器が、今、彼の意志の昂揚とともに、ミクロン単位の微小粒子となって静かな波紋を広げていた。

エリックは右手を伸ばした。 殺戮と破壊を司る漆黒のナノ義手が、驚くほど静かに、そして極限まで自制された手つきで、眼前にある重厚なロックグラスをしっかりと掴み取った。

「新秩序なんぞいらん。大義とやらも知ったことか」

エリックの声は地鳴りのように低く、騒々しいエレクトロミュージックの喧騒を貫く確固たる質量を持っていた。

「俺は生涯人を殺し続けてきた。この両手はとうに腐り果て、地獄へ堕ちるのも時間の問題だ。だが、俺はアイラに誓ったんだ。息子に約束した……鉄錆の匂いのしない世界で、胸を張って生かしてやると」

エリックは一戸を凝視し、グラスを持ち上げた。

「もしお前の計画が、本当に俺の家族を守り抜けるなら……この命、好きに使いな。砂地で砕けなかった骨は、俺が代わりに叩き潰してやる。レッドウルフの機甲だろうと、俺が素手で引き裂いてやる」

男の声が一段低く沈み、一語一語にずっしりとした重みが宿る。

「だが、俺はてめえの手下じゃない。誰かの奴隷になる気も毛頭ねえ。もしこれが別のペテンだったり、妻子を囮に使うような真似をしやがったら……世界の果てまで追い詰めて、必ずてめえの首をへし折る」

一戸はエリックが掲げたグラスを見つめ、蒼白な唇の端をわずかに持ち上げ、極めて微かな弧を描いた。 自らのグラスを手に取ると、迎え撃つように前へと突き出す。

「従順な奴隷など求めていない」

一戸の声は掠れ、平穏だった。双眸の奥底の冷青の光斑が、深く凝縮される。

「この道において、背中を預け合えるのは……同類だけだ」

「カチンッ————!!」

二つの重厚で無骨な厚底グラスが、薄暗く粘りつくネオンの影の下で、激しく激突した!

乾いた破砕音が、周囲の浮躁な電子ビートを一瞬にして切り裂いた。 飛沫を上げた強い酒が、一戸のトレンチコートの袖口を濡らし、エリックの漆黒のナノ粒子の手背へと滴り落ちる。

二人は顎を引き、グラスの中の灼熱の『破裂氷』を一息に喉へと流し込んだ!

刺すように辛辣なアルコールが食道を焼き、胃袋へと轟然と雪崩れ込む。それはまるで、満身創痍で冷え切った二つの肉体の深部において、復讐の弾頭が同時に炸裂したかのようだった。

一戸は空になったグラスを、テーブルの上へと重々しく叩きつけた。 彼はゆっくりと視線を上げ、車両の狭い窓の隙間を透過して、外に広がる地下都市の果てしない漆黒の闇を見据えた。

「レッドウルフは高みにふんぞり返り、この街全体を闘技場と見なし、俺たちをいつでも廃棄できる資産として値踏みしている」

一戸の声は極めて静かだったが、地層を根底からひっくり返すだけの決意を孕んでいた。

「今日から、俺たちが影の深淵より奴らを見張る番だ」

「奴らのあらゆる拠点を、リストに刻まれたすべての同類を、そして赤木《アカギ》の心臓を刺し貫く刃を……俺たちの夜明けが訪れるその瞬間まで、見張り続ける」

一戸は首を巡らせ、対面のエリックを見据えた。

「『守望(ウォッチ)』だ」

エリックはゆっくりとグラスを置き、口元に残った烈酒を手の甲で拭った。その無骨な顔面は、影の中で揺るぎない黒鉄の仁王のごとく佇んでいた。 火照った酒気を含んだ太い息を一つ吐き出すと、奥歯の隙間から重々しく応じた。

「『守望(ウォッチ)』だ」

薄暗く爛れた列車バーの深奥。 享楽と欺瞞のノイズに守られた影の底で、血の海と死体の山から這い上がってきた二人の亡命者は、ここに、自らの血色に染まった盟約を結んだ。

火種は、すでに点火された。

 

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