作戦決行までの四十八時間、一戸は冷徹な亡霊と化し、地下都市の複雑怪奇に入り組んだ影の底を音もなく縫い続けていた。
彼はまず丸一日を費やし、この壮大な葬礼の「火葬炉」を組み上げた。 最初の目的地は、地下配管網中層に位置する旧連合樹脂街。かつて旧時代の重機械や高圧配管の圧延工場用送風シャフトだったその区画には、年中高圧エアハンマーの鈍い打撃音と過熱蒸気の甲高い悲鳴が木霊し、大気には焼けた機械油と切削油の熱い悪臭が充満していた。
一戸は『工業用解体資材』と記された、ひび割れたネオン看板を掲げる地下の作業所を押し開けた。 作業台の奥には魁偉な大男が腰掛けていた。両腕は無骨な四連リンクの重機マニピュレーターへと改造され、右腕の先端には高周波切削爪が溶接され、左腕からは蒼白い高熱の酸素アセチレン炎が噴き出し、スクラップの装甲鋼板を乱暴に焼き切っていた。
「何が欲しい」
大男は顔も上げず、低く嗄れた声で応じた。
「高密度可塑性爆薬、五十キロ。超高熱テルミット切断バー、二十キロ」
一戸の面持ちは凪いでおり、トレンチコートの内側から黒い無記名ハードデータカードを取り出すと、油まみれの作業台の縁へ静かに滑らせた。
「四千データクレジット。現物代と特急の裏ルート運賃込みだ」
大男の手元のバーナーの炎が、ピタリと止まった。 額の焦げ跡だらけの保護ゴーグルを跳ね上げ、高温蒸気と機械油で煤けた黄色く粗野な顔を露わにする。機械の義眼が微光の中でピントを合わせ、データカードと、深灰色のトレンチコートのフードに隠れた一戸の冷徹な顔立ちを交互に走査した。喉の奥から、金属ノイズ混じりの短く乾いたせせら笑いが漏れ出る。
「誰かと思えば……一戸の小僧か。死体の山から這い出してきたテメエの血生臭さは、隔壁を三つ隔てたって鼻につくぜ」
大男はバーナーを無造作にスタンドへ戻し、太い機械の指先で金属の天板をコツコツと叩いた。
「少し前、クインビー・ストリートでハーマンの野郎が頭を撃ち抜かれちまってよ、裏通りじゃテメエも上でくたばったって噂で持ちきりだったぜ。しぶとく生き延びて、顔を出すなりド派手に買い込みに来やがったな。テメエが下で汚れ仕事を請け負ってた頃は、弾丸一発ケチってボロ刀一本で人を斬り刻む一匹狼だったはずだが? 爆破魔の趣味でもできたかよ。五十キロのC4に二十キロのテルミット……そんだけの量がありゃ、空中回廊の半分を岩壁ごと引っこ抜いて下水本管へ叩き落とせるぞ。どこの命知らずの組がテメエの逆鱗に触れたんだ? それとも、大企業のビルでも爆破して心中する気か?」
大男は嘲りを収め、赤く光る機械眼をわずかに細めた。その声が一段低く沈む。
「前もって釘を刺しとくがね、この鉄扉の外へブツを出したが最後、巡回隊だろうがレッドウルフのハウンドだろうが嗅ぎつけてきても、俺は何も知らねえからな」
「ブツが指定座標に届けば、金はお前のものだ。掟は知っているはずだ」一戸の声は平穏だった。
大男は太い金属指を伸ばし、データカードを旧式リーダーへ通した。
「ピピッ——」
四千データクレジットの引き落とし通知が一瞬で点滅し、残高はゼロへと跳ね上がる。大男の眼底から詮索の色が消え失せ、裏社会の老練な職人特有の淡白さが戻った。
「話が早くて助かるぜ。受け渡しの座標を寄越しな」
一戸は端末に一連の座標コードを打ち込んだ。旧工業区三番街、エリックの自宅の真裏に位置する地点。
「三番街の旧配管なら、低圧の貨物カプセルがまだ通る」大男は操作パネルで数行のコマンドを手早く叩き、作業台の主電源を落とした。「二時間後、十二号排気縦坑の底にある密閉沈降トラフへ直接コンテナを滑り込ませてやる。二つの箱には鉛封の自爆ロックが掛けてある、解除コードはゼロが六つだ。制限時間を過ぎて近所の浮浪者にこじ開けられたところで、こっちは責任を持たねえぞ」
「二時間後に現物を確認する」
一戸は端末を収めると身を翻し、冷え切った蒸気配管シャフトの深奥へと消え去った。
……
二時間後。 旧工業区三番街、エリックの自宅の背後にそびえる、打ち捨てられた廃アパートの最下層。
この六階建てのプレハブパネル工法のアパートは、二十年も前に地盤沈下によって遺棄され、壁面には無数の亀裂が走り、周囲には酸性霧と湿気が淀んでいた。 一戸は地下沈降トラフの油垢にまみれた防塵カバーを跳ね上げた。マットグレーの冷間圧延鉛封コンテナが二つ、貨物スロットの窪みに静かに鎮座していた。
パスコードを入力すると、鉛封ラッチが「プシューッ」と微かな減圧音を吐き出した。五十キロの高密度可塑性爆薬と二十キロの超高熱テルミット切断バーが、耐震緩衝材の中に隙間なく整然と収められていた。申し分のない分量。
一戸は触覚フィードバックグローブを装着し、灰色の前髪の奥で、幽青の義眼・オラクルを静かに駆動させた。 網膜の最前線に、三次元の立体応力ワイヤーフレームが一瞬にして展開される。
【構造応力解析:ラーメン構造・耐力壁】 【コンクリート疲労度:78%】 【前傾破砕剪断ノード特定:14箇所】 【指向性崩落目標:前方のバラック座標】
彼は爆薬を無秩序に積み上げるような真似はしなかった。外科医がメスを振るうがごとく、丸四時間を費やしてテルミットと可塑性爆薬を、この六階建ての危機の塊の前方に位置する主支持柱、後方の梁の継ぎ目、そして基礎のアンカーボルトへとミリ単位の精度で埋め込んでいった。そして耐ノイズ遅延パルス信管によって、ミリ秒単位の起爆時差を正確にセットした。
彼が意図したのは、後方から前方へと正確に叩きつけられる指向性崩落。 数千トンに及ぶ建築物の残骸が爆破の瞬間に前方へと折れ曲がり、三千度のテルミットの超高温の火焔を纏った鋼鉄の鉄槌と化して、前方に佇むエリックの脆いトタンのバラックを、完璧に押し潰し、粉砕し、貫通する。狂暴な衝撃力と高温で溶融する火の海の中で、小屋とその内部のすべて——家具、日用品、そして身わりに配置された3体の遺体——は、数千トンの瓦礫によって一瞬にして粉砕・炭化し、識別不可能な焦土の残滓へと成り果てるのだ。
この物理的次元における完全な消滅と「死体なき灰塵」を現出させて初めて、マルクに検死を行わせず、『アレス』の義肢の真偽を確認する余地すら与えずに済む。
舞台を整え終えた一戸は、夜の闇を踏みしめて次なる目的地——廃棄死体投棄区へと向かった。 そこは、地下都市の闇診療所や臓器密売組織が暗黙の了解で医療廃棄物や不要な肉体を投棄する吹き溜まりだった。狭隘な袋小路の両脇には錆びついて黒ずんだドラム缶が山積みとなり、大気には高濃度のホルマリンや漂白剤ですら抑え込めない、濃密な血生臭さと腐敗臭が充満していた。
一戸は路地の突き当たりにある薄い鉄扉を押し開けた。 室内では、ずんぐりとした中年男が俯き、鋸歯状のメスを用いて解体台の上の切断された骨から肉を削ぎ落としていた。男の顔面には無骨な金属マスクが嵌め込まれ、眼窩には赤い光斑を明滅させる中古の暗視レンズが幾重にも埋め込まれている。
「何が欲しい?」男の手は止まらない。その声は声帯に湿った泥が詰まったかのように嗄れていた。
「3体だ」一戸は扉の脇の陰影に佇み、氷のように冷徹な声を落とした。「男が1人、女が1人、それと生後1ヶ月の赤ん坊が1人だ」
男の刃先が、骨の上でピタリと硬直した。 緩慢に背筋を伸ばすと、金属マスクの下の発声器からノイズ混じりの電子音が漏れ出た。
「新鮮なやつか、それとも冷凍か? 体格の誤差はどれくらい許容する? 生きた人間の売買はお断りだ。死体なら……値札が跳ね上がるぜ」
「可能な限り新鮮なものを。体格と骨格のサイズは厳密に合致させろ」
一戸は端末を操作し、血痕のこびりついた作業台の上に三本の半透明な人体ワイヤーフレームを投影した。そこにはエリック一家三人の極めて精確な骨格データと体重パラメータが記されていた。 次いで、ずっしりと重い三袋のデータクレジットが卓上へと落とされた。
男は視線を落としてチップを値踏みし、赤いレンズを収縮させると、発声器特有の短い嗤いを漏らした。
「身元の洗浄か……合点がいった。安心しな、上層の排気シャフトから流れてくる身元不明のホトケなんざ山ほど転がってる。似たような寸法の三体を見繕うくらい造作もねえ。だが忠告しておくがね、最近は闘技場も闇市も血眼で人間を探してやがる。後始末は完璧にしろよ、俺の解体槽にまで火の粉を飛ばすんじゃねえぞ」
「お前の仕事だけを完遂しろ」
一戸は余計な言葉を一切挟まなかった。
夜明け前、高密度シールドバッグに密閉された三体の冷凍遺体が、エリックの自宅の背後数十メートルにある廃換気シャフトの深奥へと送り届けられた。そこの低温と乾燥した気流ならば、腐敗の進行を完全に凍結させることができる。
その後、一戸は速やかに身を引き、耳目の張り巡らされた旧工業街区から離脱した。 廃棄された点検キャットウォークを伝い、三番街から丸二キロメートル離れた大型高空クレーンの点検シャフトへと退避した。 そこはかつて上層の廃鉱道へと接続されていた空中プラットフォームであり、下層街区の大半を眼下に見下ろす絶対高度に位置していた。周囲には打ち捨てられた生鉄の支柱と赤錆びた配管網が広がるのみで、巡回部隊もギャングの耳目も寄りつくことはない。ここに潜伏すれば、マルクの監視網による全周波電磁スキャンを回避できるだけでなく、全体を俯瞰する高みから作戦の推移を完全に掌握できるのだ。
一戸はフードを引き下げ、絶縁タクティカルグローブを装着すると、七重の仮想プロキシプロトコルと、あらかじめ掌握していた複数のオフライン中継ノードを経由し、『ハイエナ組』——闘技場の外郭で高利貸しを営み、エリックと積年の怨嗟を抱える凶暴なギャング——へ向けて、暗号化された匿名のシグナルを放った。
【情報譲渡:『
送信を終えた瞬間、一戸は物理的に接続を遮断した。 彼は冷たく硬質なH形鋼の梁に背を預け、静かに両目を閉じた。そして脳裏の深部で、これから訪れる一ミリ秒ごとの推移を幾度となく反芻し始めた——二キロメートルに及ぶ立体突入ルート、配管を踏み抜いて加速するトルクの伝達、ドアを蹴破る微細なタイムラグ、そして母子をすり替えるミリ秒単位の身のこなし……作戦の全行程が、己の神経反射の奥底へと寸分の狂いもなく焼き付けられるまで。
……
夜の帳が下りた。 旧工業区の上空にそびえる数基の排気タワーが低周波運転へと移行し、薄暗く淀んだ黄色の照明が泥濘んだ水たまりを重苦しく照らし出していた。
三番街の奥深く、エリックの粗末なあばら屋の内部では、電気ストーブの電熱線が暗闇の中で微弱なオレンジ色の温もりを放っていた。 エリックはローテーブルの前に腰を下ろし、無事な左腕で生後一ヶ月の息子カレブを慎重に抱きかかえていた。ハギレのおくるみに包まれた赤ん坊は熟睡しており、微かな息遣いだけを立てている。
アイラが奥から温めたばかりの乾燥野菜粥の器を運んできた。テーブルの前に微動だにせず座り込む夫の姿を見つめ、静かに声をかける。
「エリック、どうして休まないの? 体の傷から、まだ血が滲んでいるのに……」
「眠れんのだ」
エリックは低く応じた。嗄れた重低音。 それ以上は何も言わず、ただ首を垂れ、荒々しく傷だらけの指関節で、息子の柔らかな頬へ極めて優しく触れた。赤ん坊は父親の指先の温もりを感じ取ったのか、おくるみの中で無意識に小さく口をもぐもぐさせ、再び深い眠りへと落ちていく。
アイラは粥の器をテーブルの端に置き、疲弊に染まり、左頬にマルクのブーツの踏みつけ痕を残した夫の硬質な横顔を見つめた。彼女はただ、夫が敗北の陰鬱とあの二百四十万データクレジットという天文学的な負債の絶望に苛まれているのだと思い込み、胸を締め付けられるような切なさを覚えた。 彼女は問い詰めることはせず、ただ歩み寄ると、痩せ細った両手でエリックの冷え切った魁偉な背中をそっと抱きしめ、温かい額をその傷だらけの肩へと預けた。
「冷めないうちに飲んで……。何でもかんでも、一人で背負い込まないで。マルクたちがどれほど追い詰めてこようと、私たち家族が一緒にいさえすれば、きっと乗り越えられるわ」
妻の柔らかな言葉を耳にした瞬間、エリックの心臓は形なき巨大な手によって力任せに鷲掴みにされたかのようだった。 彼は知っていた。数分後には、機械油と酸性ガスの悪臭に満ちたこの隙間風の吹く鉄皮の小屋が、跡形もなく消滅することを。そしてこれから踏み出そうとしている道が、全家族の命を刃の先端に預ける生死の博打であることを。
彼は言葉を返さず、ただ左手を伸ばすと、己の肩に添えられた妻の手の甲を、力込めて強く握り締めた。粗野な掌が、微かに震えていた。
「アイラ……一度だけ、俺を信じてくれ」
エリックの声は胸郭の奥底で重く反響した。
「必ず、お前たちを……陽の光の見える場所で、胸を張って生きさせてやる」
アイラは微かに目を見張り、言葉を返そうとした——その瞬間。
「ドォンッ!!」
薄く歪んでいたトタンの扉が、外側からの狂暴な蹴りによって粉々に吹き飛ばされた!
吹き荒れる凍てつく突風と機械油の異臭が室内に雪崩れ込み、全身に粗悪な改造義肢を纏った七、八人の巨漢たちが、ナタやサブマシンガンを構えて狭隘な小屋の中へと殺到した! 先頭に立つ男の顔の半分には焼け爛れた傷跡が引き攣るように走り、右手にはバチバチと高周波の電火花を散らすチェーンソーアックスが握られていた。その瞳には、腐肉を嗅ぎつけたハイエナ特有の貪欲な凶光がぎらついている。
「『
傷跡の男は獰猛に嗤い、チェーンソーアックスを宙で一閃させた。回転する鋸歯が耳障りな摩擦音を立てる。
「ウチの兄弟たちの命のツケと借金の利息……今夜、耳を揃えて払ってもらおうかァッ!!」
エリックの顔色が激変した。電光石火の速度で息子を傍らの耐震パーツボックスの中へと押し込むと、山のような巨躯を半歩前へと滑り込ませ、肉の防壁となって妻子を背後に庇い立てした。 彼は背中を丸め、故意に足元をふらつかせ、右腕を脱力させたまま垂らし、血の混じった唾を吐き捨てて、極度の衰弱を演じてみせた。
「失せろ……闘技場の帳簿なら、マルクに……」
「マルクだと? マルク様だってな、テメエみてえな生ゴミを俺たちがミンチにするのを待ち望んでんだよ!」
傷跡の男の顔面の肉が狂暴に歪み、背後へ手を振り下ろして咆哮した。
「無駄口を叩くな! 撃てッ! 後ろのガキごとミンチにしてバラしちまえェッ!!」
「ダダダダダダッ——!!」
サブマシンガンの銃口から、狂乱の火線が一斉に噴き出した! アイラは悲鳴を上げ、母親としての本能だけで、一切を顧みずに背後のパーツボックスへと身を投げ出した。我が子を守るために身を投げ出したアイラの身体を、己の生身の肉体で護り抜くために!
その瞬間——我が子へ覆いかぶさろうとする妻の華奢な背中を目にした刹那、エリックの脳裏にあったあらゆる戦術的偽装と隠忍は、コンマ数秒のうちに轟然と決壊した!
「オロロロァッ————!!」
人間離れした怒りの咆哮が、男の胸腔から炸裂した! 麻痺して垂れ下がっていたはずの黒い右腕が、生死の境においてリミッターを完全に解除したのだ! 派手な光のエフェクトはない。腕の表層を覆う漆黒のナノ粒子が万分の一秒のうちに音もなく沸騰し、解体される! 磁性流体が狂暴なトルクを伴って虚空に展開・硬化し、胸前に1メートル近くに及ぶ純黒の湾曲重盾を強引に形成した!
だが……遅すぎた! アイラがボックスへ飛び込む動線と、重盾が完全にナノ配列を完了させるまでの間には、コンマ二秒という絶望的な空白が存在していたのだ! 数発の高速徹甲弾が空気を切り裂き、耳を劈く衝撃波を纏って、無防備なアイラの背中へと肉薄する!
エリックの眼球が真っ赤に充血し、骨の髄まで凍りつくような絶望が瞳を支配した——
まさに、生と死が交錯するその最後のマイクロ秒。
二キロメートル離れた大型高空クレーンの縁、吹き荒れる突風の陰影の中に、一戸は片膝をついていた。 灰色の前髪の奥で、義眼・オラクルの幽青の光輪が極限まで収縮・展開される。超望遠の光学ズームと高感度熱源センサーが、二キロに及ぶ濃密な酸性雨の帳と錯綜する工業配管網を一瞬にして透過し、狭い小屋の中で暴徒が引き金を絞る指、アイラが身を投げ出す重心の軌跡、そして銃口から放たれた弾頭の初速ベクトルを、寸分の狂いもなく網膜の中央へと投影していた!
一戸の眼差しは氷刃のごとく冴え渡り、インカムへ向けて冷徹に四文字を吐き出した。
「作戦、開始」
【65%】
「ゴォォォッ!!」
脊髄の深奥から、魂を引き裂くような甲高い超高周波の唸りが轟然と爆発した! 狂暴極まりない神経パルスが、溶岩の濁流となって脊髄を伝い、全身の組織を貫流していく!
世界から、一瞬にしてすべての色彩が強引に剥ぎ取られた。 高コントラストの、凍てつくように死に絶えた絶対の灰白の次元へと収縮する。 狂乱していた工業廃ガスの排気音も風の唸りも、地底の底から響く鈍い超低周波の地鳴りへと暴力的に圧縮された。大気はコンマ一秒でゼリーのような深海へと凝固し、筋肉のあらゆる収縮に千万トンの水圧のごとき戦慄すべき抵抗が圧し掛かる。
二キロメートルの距離。常人の知覚においては、物理的に越えられない絶対の天塹。 だが、65%の時間拡張領域において、廃墟、高空配管、そして断裂したキャットウォークを跨ぐその複雑なルートは、義眼・オラクルの絶対演算によって、ただ一本の極限の直線スプリントへと強引に平坦化されていた!
視界の縁で、真紅のアラートが狂ったように点滅する。灰血体質の代謝限界が崩壊の淵へと叩き落とされ、全身の毛細血管が次々と破裂し、一戸の口元から大量の黒ずんだ血がとめどなく溢れ出す!
だが、躊躇など微塵もなかった。 重力に従い、一戸は大型高空クレーンから虚空へと身を投げ出した。その身のこなしは、静止した大気を切り裂く深灰色の電光と化す! 靴底が凝固した空気の層を踏み砕き、中空で断裂した鉄骨と高圧送油パイプを連続して蹴り抜けていく。数千倍に遅延した時空の中で、虚空に静止する無数の雨粒を弾き飛ばしながら、二キロの距離をただの一瞬で跳び越え、砕け散ったバラックの窓枠を突き破って、静止した修羅場の中へと音もなく滑り込んだ!
時間は、ほぼ絶対の静止状態にあった。
銃口から噴き出した火焔は、中空で静止した刺すような光の結晶と化している。撃ち出された徹甲弾頭は衝撃波の円錐を纏い、肉眼で視認できるほどの緩慢さで、ミリ単位で前へと進んでいた。傷跡の男の顔面に張り付いた獰猛な狂笑は皮膚の表面で凝固し、エリックの充血した瞳から零れかけた絶望の涙は瞼の縁で静止している。そして、我が子を守るために身を投げ出したアイラの身体は、弾道の直前わずか数センチの空間に浮遊していた。
一戸の影が、質量の存在しない幽霊のように背後へと滑り込んだ。 その両手は風のようにしなやかだった。万分の一秒のうちに、中空に浮かぶアイラと襁褓の中の赤ん坊を同時に抱え上げると、沈み込みのトルクを利用して後方へと軽やかに引き寄せ、布地をかすめて飛翔する致命的な弾頭の軌道から寸分の狂いもなく退避させた!
同時に、身に帯びていた高密度シールドバッグが、クロックアップした視界の中で滑らかに展開される—— あらかじめ用意されていた、体格も衣服も極限まで合致する女と赤ん坊の冷え切った遺体が、解剖学的に寸分の狂いもない自然な姿勢で、アイラ母子が先ほどまでいた空間、そしてパーツボックスの中へと正確に投げ込まれた!
置換完了。一戸は身を翻し、母子を胸元に抱き締めると、鋳鉄の壁板を蹴破るようにして大地を踏み抜いた! あらかじめ外してあった背面の排気ルーバーを突き破り、数十メートル後方のあの冷たく湿った廃換気シャフトへ向けて脱兎のごとく疾走する!
シャフトの退避ポイントへと滑り込んだ刹那、一戸は神経接続を断ち切った。
時間の流速が、決壊したダムのごとく現実へと叩き落とされる!
「カハッ……!!」
一戸は湿った地面に両膝を叩きつけ、胸郭を激しく上下させながら、大量の濃密な暗赤色の血塊を吐き出した。生鉄のバッフル板に赤黒い血飛沫が飛び散る。 腕の中のアイラは、ただ視界の光と影が一瞬揺らぎ、刺すような銃声と喧騒が突如として暗く冷え切ったシャフトの静寂へと変貌したことしか知覚できなかった。彼女は恐怖に目を見開き、目の前で目、鼻、口から血を流し、紙のように蒼白な顔をした灰色の髪の青年を見つめ、声にならない震えを絞り出した。
「あ……貴方は誰?! エリックは?!」
一戸は口を開かなかった。口元の血を拭う力すら完全に奪い去られていた。 彼は襁褓の中のカレブをアイラの腕の中へと押し戻し、包布の端を丁寧に整えてやると、震える膝に手を突いて無表情のまま立ち上がり、足をもつれさせながら再び暗い路地へと飛び出していった。
一瞬の躊躇もない。
【45%】
神経系が再び高圧によって点火される! 一戸は油に汚れた配管を踏み越えて超高速で反転し、バラックの斜め向かい数十メートルにあるプレハブの高所へと駆け上がった。 この遅延した次元において、室内の弾幕がようやく置換された二体の遺体を血肉の塊へと粉砕し、エリックの構えた『アレス』の黒盾が、傷跡の男の振り下ろしたチェーンソーアックスとまさに激突しようとしていた!
時機は、至った。
一戸は膝をつき、両手で特製の破砕榴弾発射器を構えると、義眼・オラクルのクロスヘアがエリックの胸元の縁を瞬時にロックした!
現実が降臨する。 極限の連続超頻度稼働と長距離疾走の反動が津波のように押し寄せ、強烈な眩暈と激しい筋肉の痙攣が一戸の視界に猛烈な砂嵐を走らせた。両手が抑えきれずに微かに震える。 だが、骨髄に刻まれた筋肉の記憶のみを頼りに、彼は引き金を強引に引き絞った!
「ドンッ!!」
高圧ガスに押し出された特製の非致死性衝撃波榴弾が銃口を飛び出し、狂暴な爆風を纏って割れた窓を突き破り、エリックの構える『アレス』の重盾の側翼ジョイントへと正確無比に直撃した!
「ドォォォォンッ!!」
凄まじい衝撃波が狭隘な室内で炸裂した! エリックは低く呻き、その魁偉な巨躯は狂暴な推進力を受けて後方へと吹き飛ばされ、あらかじめ一戸によって鉄筋を切断されていた背面の耐力壁を突き破り、高熱爆薬を満載した背後の廃アパートの瓦礫の深奥へと転がり落ちた!
次のコンマ一秒、一戸の血に塗れた指先が、無線起爆中継器を力任せに押し込んだ!
「ドォォォォォォォンッ————!!!!」
破滅的な轟音が、旧工業区三番街の夜空を粉々に引き裂いた! 実に五十キロの高密度可塑性爆薬と二十キロの特製テルミットが、十四箇所の剪断ノードにおいて寸分の狂いもなく連鎖爆砕したのだ!
白昼のような眩い光条が天幕を一瞬にして焼き尽くす。六階建ての廃アパートが鉄筋の引き千切られる悲鳴を上げ、後方の基礎を粉砕された巨大な建造物は、一戸が計算した傾角に沿って溶岩の巨山のごとく前傾し、滾る白煙を巻き上げながら前方へと轟然と圧し折れた!
数千トンの高熱コンクリート梁と三千度のテルミットの溶鉄が、破竹の勢いでエリックの薄いバラックの屋根へと叩きつけられた! ペラペラのトタン板は接触した瞬間に鉄粉へと消滅し、小屋は内部のすべてを巻き込んで一瞬にして押し潰され、平坦化され、融解した! 吹き荒れる熱波と中空へ舞い上がる火の粉が、街区の廃墟の半分を赤々と照らし出す!
だが——ビルが指向性崩落を起こしたその最後のミリ秒、一戸の義眼・オラクルは立ち込める濃煙を透過し、致命的な着弾の偏差を網膜に捉えていた!
先刻引き金を引いた瞬間、肉体の痙攣によって榴弾の着弾点がわずか三センチ外側へとズレていたのだ! 壁を突き破って転がり落ちたエリックの身体は、地下暗渠の緩衝シェルターへ完全には滑り込めず、倒壊するビルの側翼の死角の狭間に挟まっていた! その真上から、数トンに及ぶ三つの巨大なコンクリートプレハブ梁が、折れた鉄骨に沿って雷霆の勢いでエリックの頭上へと落下しようとしていた!
激しい衝撃波を浴びたエリックは重度の脳震盪を起こしており、回避する猶予など微塵もない! 数トンのコンクリートに叩き潰されれば、三千度の溶融する火の海の中で、彼は生きたままミンチにされ、気化してしまう!
「クソッ……!」
一戸は歯の隙間から呪詛を絞り出した。
【システム警告:神経回路に広範な熱損傷を検知! これ以上の過負荷を厳禁とする!】
耳障りな機械音声が脳髄の奥底で金切り声を上げる。 一戸の眼差しに躊躇の欠片もなかった。宿るものは、手負いの獣特有の獰猛さと狂気のみ。
彼は戦術ポーチへ手を突っ込むと、澄んだ淡青の液体を満載した五本の強力な神経刺激剤を鷲掴みに引き抜いた。ニードルキャップを外す暇すら惜しみ、歯で乱暴に噛み砕いて外すと、その五本の劇薬を、迷うことなく己の左大腿の筋肉深部へと力任せに突き刺した!
「ブスリッ!」
「ガァァァァァッ————!!」
狂暴な化学エネルギーが真っ赤に焼けた鉄の楔となって、彼の血肉と中枢神経を暴力的に貫通した! 一戸の両眼は血の赤に染まり上がり、目、鼻、耳、口から灼熱の黒血が同時に滲み出る。彼は高台から身を投げ、発狂した一匹狼のごとく、三千度の火の海と降り注ぐ瓦礫の雨の中へと真正面から突入した!
「ズズズゥゥンッ!!」
コンクリート梁が圧倒的な質量を伴って叩きつけられる! 間一髪の刹那、一戸は灼熱の爆風を浴びながら狭間へとスライディングで滑り込み、右手を稲妻のごとく伸ばすと、エリックの防護服の背面のタクティカルストラップを死に物狂いで掴み取り、残された全身の力を絞り尽くして後方へと引き抜いた!
「ドォンッ!!」
巨大なコンクリートスラブが二人の鼻先をかすめて地面へと激突し、飛び散った破片が一戸の額を骨に達する深さまで切り裂いた。 濃煙と焦げた悪臭が視界を完全に遮断する。 一戸は奥歯を砕けんばかりに噛み締め、昏睡した重厚なエリックを己の華奢な肩へと担ぎ上げると、この二百キロ近い巨躯を引きずりながら、あらかじめ確保していた地下排気暗渠に沿って、業火が退路を完全に呑み込む直前、転がり込むようにして深井戸の底へと滑落した。
……
「ゲホッ……カハッ!」
深井戸の出口。冷たい汚水が一戸の神経を刺した。 エリックを崩落の余波の届かない安全圏へと完全に引きずり出した瞬間、薬物によって強引に励起されていた狂暴な機能は、潮が引くように一瞬にして霧散した。 あらゆる代償作用が、まさにその一瞬で完全に崩壊したのだ。
一戸の両膝から力が抜け、泥と小石の地面へと重々しく崩れ折れた。大量の黒血が千切れた内臓の血塊とともに唇の隙間から噴き出す。 義眼・オラクルの冷徹な青い光条は激しい明滅の末に完全に消灯し、その双眸は底知れぬ濃密な暗黒へと呑み込まれた。指先を持ち上げる力すら残されていない。呼吸は途切れ途切れの糸のように微弱となり、そのまま力なく前へと倒れ込み、深いショック状態へと沈んでいった。
「ドスッ」
鈍い物音が、昏睡していたエリックの意識を覚醒させた。 激しい震盪の余韻が徐々に引き、生存本能が歴戦の闘士の目をカッと見開かせた。
目に飛び込んできたのは、遠く三番街から立ち上る天を焦がす炎と、建物の崩落を告げる地響き。 そして眼前の冷たい泥濘の中には、全身血まみれとなり、目、耳、鼻、口のあらゆる穴から血を吹き出し、自分を死人の山から引きずり出すために完全に意識を手放した青年の姿があった。 深灰色のトレンチコートは大半が火に焼かれ、剥き出しになった背中の皮膚には瓦礫に削り取られた生々しい血の跡が無数に刻まれていた。
エリックは呆然とその光景を見つめていた。
その瞬間、脳裏にあったすべての打算、疑念、そして品定めは、自らの命を盾にして一家全員の死の災厄を引き受けて倒れ伏すこの無防備な肉体を前にして、完全に粉々に砕け散っていた。
山のごとき巨漢に、迷いは微塵もなかった。 彼は太い剛腕を伸ばすと、昏睡した一戸を慈しむように横抱きに抱え上げ、己の広い肩へとしっかりと担ぎ上げた。そして黒鉄のごとき背骨を伸ばすと、暗道の深奥を踏みしめ、セーフハウスへ向けて大股で疾走を開始した。
……
そして、完全に更地と化した火の海の廃墟の外。
爆発の余波を辛うじて生き延びた数名の『ハイエナ組』の構成員が、瓦礫の山から這い出してきた。全身煤だらけで、その顔面は恐怖に引き攣っている。 先頭にいた傷跡の男は地面にへたり込み、目の前に広がる数十メートルに及ぶ大穴を呆然と見つめていた。ビル全体が前方へ倒壊して小屋を押し潰し、三千度のテルミットによって赤黒い溶鉄の池へと完全に溶融させられたその地獄を前に、手にしたチェーンソーアックスが泥水の中へとカランと落ちた。
「し……死んだのか?!」
手下の一人が這い寄ってきた。その声は激しく震えていた。 「頭《カシラ》……全部ペッチャンコに潰れて吹き飛んじまいました! ビルごと倒れて小屋を圧殺して……骨の欠片すら灰になっちまいましたよ! どうすんですか?! 死体がなけりゃ、賞金をどうやって受け取るんですか?!」
傷跡の男の顔面は、黒から白へと急速に色を失っていった。背骨を丸ごと引っこ抜かれたかのように脱力する。
「賞金なんぞ貰えるわけねえだろォッ!!」
別のチンピラが泣き叫ぶように悲鳴を上げた。涙と鼻水が顔面をぐちゃぐちゃに汚している。 「頭《カシラ》! 正気の回路が焼き切れたんですか?! 『
『鉄拳』マルクという四文字は、マイナス四十度の氷水となって、傷跡の男の胸中にあった狂喜を一瞬にして凍りつかせた。 恐慌が、野火のようにその眼底を焼き尽くしていく。
そうだ……自分たちが殺したのはただの流民ではない。地下闘技場を支配する絶対君主の私有物だったのだ!
「退くぞ……ずらかるんだッ!!」
傷跡の男は裏返った声で悲鳴を上げ、顔の血を拭うことすらせず、転がるようにして立ち上がった。 「今夜のことは誰にも喋るんじゃねえぞ! 銃を捨てろ、暗渠から逃げるんだ! 早くしろッ!!」
生き残ったチンピラどもは死神に追われる野良犬のごとく蜘蛛の子を散らすように四散し、瞬きの間に暗い路地の深奥へと消え去っていった。
そして彼らの背後では、エリックの半生を縛り続けてきたあのあばら屋が、覆い被さった廃アパートの残骸とともに、天を衝く炎と煮えたぎる溶鉄の底で、静かに燃え続けていた。
この盛大で残酷な葬礼は、誰一人として真相を知らぬ闇の中、静かに幕を下ろした。
……
三時間後。 地下都市第三号主支持柱、秘密機械室。
黄色く乾燥した空気の中に、淡いロジンフラックスと冷却オイルの乾いた匂いが漂っていた。 一戸は部屋の隅の狭い簡易ベッドの上に静かに横たわっていた。やつれた顔立ちは透き通るほど蒼白で、顔に残っていた血痕は綺麗に拭き取られていた。深い昏睡の中にあっても、その青白い指先は、清子の縫い目が残る深灰色のトレンチコートの裾を固く握り締め、眉根を寄せていた。まるで中枢神経の深淵で、形なき悪夢と今なお斬り結んでいるかのように。
部屋の反対側では、アイラが折りたたみ椅子に腰掛け、熟睡する幼子カレブを胸元に固く抱きしめていた。 先刻の悪夢のような激震を経て、この若い女の瞳には未だ動揺と戦慄が残されていたが、前方に立つ山のように魁偉な背中を見つめるうちに、強張っていた胸の鼓動は徐々に安らぎを取り戻していた。
エリックは一人、あの巨大な防爆観察窓の前に佇んでいた。 分厚い防弾クリスタルに、彼の冷徹で静謐な横顔が映り込んでいる。
窓越しに見下ろす数キロメートル先、旧工業区三番街の方角には、天を焦がす赤黒い炎の光が果てしない暗黒の深淵の中で今なお頑なに燃え続けていた。地底世界の骨髄に焼き付けられた、一本の暗赤色の傷痕のように。
それは彼が半生を過ごし、半生を殺戮に捧げてきた檻の残骸。 そして『
エリックはゆっくりと視線を戻し、身を翻した。 昏睡する一戸の姿を越え、その視線は部屋の隅で赤子を抱くアイラへと注がれた。 暖色の光が母子の身を柔らかく包み込み、地下都市の泥濘において、脆くも完璧な生気の輪郭を描き出している。
エリックは首を垂れ、己のマットブラックの右腕『アレス』を見つめた。 漆黒のナノ流体は皮膚の下で穏やかな波を打ち、もはやリングの上で放っていた血に飢えた殺気はなく、岩石のような重厚さを湛えていた。
これより先、地下都市の砂地の上に、マルクに骨髄を絞り尽くされるがままの、あの『
生き残ったのは、家族のために未来を切り拓く、ただ一人の父親。
エリック・ジョンソンだ。