彼女は、月を見たことがないという。星も、夜空も、見たことがない、と。
彼女の目が開くときは決まって、太陽が昇った後だった。太陽が落ちる時には決まって眠くなり、意識が落ちている。彼女からはそう聞かされていた。
そうして、彼女は月を見るのが夢だと語った。
まるで生きるために生きていると言わんばかりの、死んだような生活を送っていた彼女は、夢を見つけた。イルーガは、彼女が人として当たり前の幸せを享受しているように見えて、安堵していた。これできっと、彼女は死ぬことがない。
そう思っていたのは大きな間違いだったと、今頃になって気がついた。鮮血の生臭さは、脳を抉るように痛み付ける。
「みんな、すきだ」
ギメイラはそう呟き、瞼を閉じたその時に、ようやくイルーガは彼女に何が起こったのかを理解したのだった。
ギメイラは、イルーガを振り払い、思い切り突き飛ばした。そうしてイルーガを庇い、ワイルドハントに心臓を貫かれた。
人の急所は、心臓と頭だ。
その急所のひとつを撃ち抜かれたギメイラは、間違いなく……。
自分の呼吸がうるさく感じた。心臓が抉られているのが、はっきりと見えてしまう。
ギメイラは、死んだのだ。
ワイルドハントは、ギメイラを投げ捨てた。血を吸ったワンピースが、ふわりと広がり地面へと広がっていく。その懐から、ナイフが落ちた。
ギメイラは、武器を持っていたのだ。それなのに渡さなかったのは、イルーガに逃げて欲しかったからだろう。武器のない状態では、戦うことはできない。イルーガを逃すために、嘘をついたのだ。
イルーガは呼吸を荒げたまま、ナイフを手に取った。鈍い光り方で、毒が塗ってあるのは見てとれた。
「お前に……」
構える。ワイルドハントは、イルーガに襲い掛かろうと赤々と体の炎を燃やした。
「お前に相応しいのは、死だけだ」
死に、報いなければならない。
仲間の死を背負い、仇を討たなくては。自分だけ生き残ること以上に、苦しいものがあるものか。
イルーガは、ワイルドハントに切り掛かった。ノコギリのような形のナイフが傷口を抉り取り、毒を付着させる。
ワイルドハントは、苦しみもがき始めた。
慣れない武器のせいで、一体倒すだけで体力を削り取られるも、ワイルドハントの背後に、さらにもう一体。いや、一体なんかではない。
完全に陽が落ちて、暗くなった視界に何体ものワイルドハントを捉えた。
そんな時、だった。
目の前でもがいていたワイルドハントが、真っ二つに切り裂かれ、倒れた。
倒れてから遅れて、風がイルーガの髪を揺らす。新たな敵か? それとも援軍か?
イルーガが身を固くさせたとき、気がつけば一匹の魔物がイルーガを庇うように立っていた。
「ヒル、チャール?」
ああ、これがたくさんの人を殺めた、イルーガたちが追っていたヒルチャールだ、とすぐに分かった。ギメイラがヤフォダから聞いていた特徴と、完全に一致していたからだ。
黒い手足。仮面。異様に背が高い。150か、その少し下か。小柄な少女のような背丈。
この背丈を、イルーガは見たことがある気がしていた。どこだ、どこで見た……。頭を回すが、寸前のところで答えは浮かばない。
そのヒルチャールは、ナイフを構えていた。逆手に持ち、盗賊のような構え。よく見れば、その胸元からはアビスの力が漏れ出ている。心臓を、怪我しているのか。
心臓を、怪我?
イルーガの脳裏にとんでもない結論が浮かぶ。
イルーガは、ギメイラがワイルドハントに投げ飛ばされた場所を、確認する。
いなかった。血の跡しか残さず、ギメイラは前兆もなく消えていた。
となれば、もはや一つしか結論はない。
「メイラ、なんですか?」
声をかけるも、ヒルチャールはイルーガを一瞥もしなかった。
ヒルチャールはナイフを再度構え、襲いかかるワイルドハントを、次々に打ち倒していった。ヒルチャールは、強かった。本気で襲いかかってこればイルーガでは勝てないだろう。
ワイルドハントを見て、震えて怯えるメイラの姿とはひどく結びつかない。だが、よく観察すれば、ヒルチャールの動きはメイラの動きに似ているものがあった。
やがて、ヒルチャールは全てのワイルドハントを倒した。ちょうど、月がよく見えるようになった時間だった。
倒れるように、ヒルチャールは地面に膝をついた。
「大丈夫ですか!?」
つい、心配をして駆け寄る。自分を庇ったヒルチャールが、完全悪であるようには、どうしても見えなかった。
ヒルチャールは、ようやくイルーガの方を見た。
イルーガが話をできるか試そうと、口を開きかけたその時、肌を痛めつけるような敵意が脳の警報を打ち鳴らす。
イルーガは咄嗟にナイフでヒルチャールの攻撃を受け止めた。衝撃で、ビリビリと手に衝撃が走る。
「どうして……」
ヒルチャールは、イルーガに敵意を向けていた。
イルーガを殺すつもりだ。
ギメイラは、本能のまま動いているのではないか。イルーガはそんな仮説を立ててみた。そう思いたかった。ギメイラがイルーガの敵であるなど、そんな酷いこと、あるわけがない。
ヒルチャールはイルーガと距離を取り、また攻撃を仕掛けてくる。イルーガは、なんとか受け止めた。また距離を取られる。攻撃される——。
それを何度か繰り返して、違和感を抱く。
弱い。弱すぎるのだ。ワイルドハントを倒していた時と比べて、あまりにも弱かった。
確かに腕が痺れるほどの強さではあるが、ワイルドハントをナイフで両断した時の力とは、比べ物にならない。スピードとて、目ではっきりと捉えられるくらいの速さだ。
殺したく、ないのだ。本当は、イルーガのことを。
しばらく、打ち合っていた。イルーガの体力が先に尽きるかと思ったが、朝になるにつれて、ヒルチャールの力は分かりやすく弱まっていった。やがてイルーガに殺意を向けることがなくなり、ヒルチャールはその場に座り込む。
陽が山の隙間から覗いて、空を金色に照らした。それと共に、ヒルチャールの黒い手足は肌色へとスポイトで吸収されるように変わり、奇妙な服は心臓についていた血が消えた、もとの白いワンピースへと、変化する。そして仮面が消え、白い肌と金色の髪と、幼い雰囲気の顔が現れる。
イルーガが息を殺してその様子を見守っていれば、金色のまつ毛がふるりと揺れた。
瞼が持ち上がり、青い瞳が姿を現した。何度か瞬きをすると、ふふふ、と幼い子供のような、彼女にしては珍しい笑い方をした。
「イルーガ、泣いてるのか」
寝転がったまま、イルーガの頬に触れて、涙を拭ってくる。指摘されて、初めて自分が泣いているのだと気づいた。
——生きている。ギメイラが、心臓を貫かれたのに、確かに呼吸をしている。
——殺していた。人殺しを嫌うギメイラが、人を殺していた。本人はそれを知らずにヒルチャールを恨んでいる。
嬉しく、苦しい。息がし難い。
「メイラは、どこまで覚えてますか」
「えーっとな……一緒に屋台に行って、ワイルドハントに、殺されて。あれ? ここ、地獄か?」
イルーガの顔に無遠慮にペタペタと触れた。今度はギメイラが、泣きそうな顔をしている。
「イルーガも、死んだのか? どうして?」
「死んでませんよ。君は、生きてます」
「そうなのか?」
安心した顔で、ギメイラはイルーガの顔から手を離して驚いた顔で瞬きをした。
真実を、打ち明けるべきか。
イルーガは暫し考える。
もし、ギメイラが事実を知ったとして、どういう行動に出るのだろう。この街から逃げようとするのか、死のうとするのか。ここに居ることは、ないだろう。
そして、ライトキーパーに報告すれば、間違いなくギメイラは処罰される。ただのヒルチャールとして討伐されるかもしれない。
死んでほしくない。生きていて欲しい。もう、すでに彼女の死を見てしまった。その時の感情を、二度と思い出したくない。
ギメイラは、ヒルチャールにさえならなければ、ただの人間だ。
僕は、ライトキーパーだ。敵は討たなければならない。
イルーガはこうも思う。だが、その決意を自分の中の記憶が、簡単に壊してしまう。昼の彼女は、味方だ。でも、夜の間は無意識に敵になる。
ギメイラは、敵に分類されるのか? それとも味方なのか?
もう、何も考えられない。
「何、も見ていない」
正しくない、と思う。
正しくない。でも、イルーガの中では、これが正解だ。イルーガは何も見ていない。
奇妙なヒルチャールに命を助けられ、朝になるとヒルチャールは逃げていった。そのあと、ギメイラは不思議と命を吹き返した。
そう、報告しよう。何も、見ていないのだから。